菅ちゃんの呟き
 言わせて頂戴アーカイブ6                          戻る  

200「平成18年を振り返って」(12月31日)*******************************************
 おかげさまでこのコーナーも大晦日に200回を迎えることができた。今回は、今年最後の
『言わせて頂戴』になるので、例年通りこの一年を振り返ってみたいと思う。総じて今年もあ
まり良い年とはいえなかった。良かったことと言えば、一度に何百人・何千人もの死傷者が
出るような大規模な災害や事故がなかったことだろう。あとはフィギアスケートやバレーボー
ル男子などスポーツ界の話題を別にすると秋篠宮妃紀子さまが男児を出産されたことぐらい
であろう。それ以外はこれといった明るいニュースは特になかったように思う。
 政治は小泉政権から安倍政権に代わった。しかし発足後まもなくタウンミーティングにおけ
るやらせ発言問題が発覚した。広く国民からの意見を聞く場であるべきなのに、政府にとっ
て不都合な人物を参加させないよう抽選工作をしたり、特定の出席者に対して予め政府が
用意した発言を依頼し、その謝礼として法外な金額を血税から拠出していたことが判明した。
その後、首相は自らの報酬のうち100万円を国庫に返納することでこの問題を片付けてし
まった。「カネにはカネで責任を取る」――これが安倍首相の「美しき日本」像なのかと思わ
ずにはいられない。安倍政権の政権運営に追い討ちをかけた事件はまだある。人間性や
能力ではなく、総裁選で貢献度の高かった者を入閣させるという論功行賞一辺倒の組閣に
よる歪みが、早くも閣僚の辞任という形で現れたからだ。本間正明政府税調会長が官舎入
居問題で、続いて佐田玄一郎行政改革担当大臣が政治資金の不正処理により辞めている。
その一方で郵政民営化法案で造反したために党から除名処分を受けた議員を相次いで復
党させた。中央がこの有様だから地方も腐敗している。公共工事の入札をめぐる官製談合
を主導したという疑いで、佐藤栄佐久福島県知事、木村良樹和歌山県知事、安藤忠恕宮崎
県知事らが相次いで辞職した。例によって最初は威勢よく「私は潔白です」と豪語するも、疑
惑が深まりどうにもならない事態に至ってから「申し訳ありませんでした」と謝罪会見する往
生際の悪さも相変わらずで、見ていて辟易するばかりである。そして今年もまた社会保険庁
では国民年金保険料の不正免除問題が明るみに出た。いくら膿を出しても後から後から出
ており、旧態依然とした社会保険庁の体質は何ら改まっていない。
 安倍首相は就任当初の所信表明演説で「活力とチャンスと優しさに満ちあふれた国」を創
ることを明言していたが、「活力」も「チャンス」も好転する気配が全くない。その証拠に景気
は相変わらず低迷したままだ。政府は「いざなぎ景気を超える好景気だ」と豪語しているが、
われわれ一般国民には景気が回復した感じは一向にしない。なぜか。それは政府の「超え
た」という言葉の中身が単に期間の長短だけを比較しただけに過ぎず、実質を伴っていない
からである。その証拠に経済成長率は2%にも満たない。この数値はいざなぎ景気の1/5
でしかない。個人消費にいたっては0.9%でいざなぎ景気の1/6にもならない。しかし個人
消費が低迷しているのは当然のことなのだ。正規職員でも賞与や残業手当をカットされ基本
給の伸び率も抑えられている。そして派遣社員・契約社員・フリーターなど低賃金で雇用され
ている非正規職員が多いという状況が何年も続いている。「先立つもの」がないのだから消
費が活発になるはずがない。結局、景気回復の恩恵を受けているのは大企業だけで、その
従業員や下請けの企業には還元されていないのである。その企業にしても生産が好転して
儲かったのではない。勧奨退職者を募ってリストラを推進し、代わりにパートやアルバイトを
増やすなど、露骨に人件費を削った結果として利益を得たに過ぎない。だから、働いている
のに生活保護を受けるか否かといったレベルの年収のままという、いわゆる「ワーキングプ
ア」と称される人が爆発的に増えてしまった。そして一度「ワーキングプア」に転落してしまう
とそこから正社員になることは極めて稀というのが現実である。だから首相のいう「チャンス」
も現状では全く満ちあふれていない。それにもかかわらず、安倍政権では消費税の増税や
配偶者特別控除の廃止など国民、とりわけ低所得者層に対してこれまで以上の負担を強い
る厳しい政策を推進しようとしている。それのどこが「優しさに満ちあふれ」ているのだろうか。
 そんな苦境の世の中のせいで、今年も自殺が多かった。鉄道各社が発表した輸送障害件
数の合計は過去最高にのぼっている。その中には信号故障や車両故障によるものも含ま
れているが、人身事故が多発したのは事実である。自殺と言えば、今年は特にいじめられ
た子どもが命を絶つ事件が目立った。しかし、いじめそのものは今年に限って起きている現
象ではない。去年にしても一昨年にしても、もっといえば私が少年だった何十年か前でも学
校におけるいじめは存在した。つまり、いつの時代でもいじめはあったのである。しかし、そ
れでもいじめられた者が連鎖反応的に自殺するという結果にはならなかった。それがなぜ
今年に限って自殺が相次いだのか。それはマスコミに責があると思う。いじめによる自殺を
「事件」として取り上げ、ワイドショーなどでセンセーショナルに報道する姿勢を改めないから
だ。いじめている当事者やそれを指導監督すべき立場の者に責任があるのは言うまでもな
いが、マスコミ各社の派手な自殺報道が次の自殺者を生み出しているという自覚も持つべ
きである。そして何度も言っていることであるが、テレビという公器において暴力や暴言を是
認する番組制作のあり方や、現実と仮想との識別を喪失させる過激なゲームソフトの規制
も直ちにすべきである。
 企業の倫理が問われる事件も少なくなかった。筆頭に上げるべき事件はパロマ湯沸かし
器による事故で21人もの犠牲者を出したことであろう。証券大手の日興コーディアルグル
ープも組織的な不正決算が明るみに出た。例によってお詫びの会見をし社長ら経営陣の
刷新で責任を取ったことにしようとしている。ライブドアの堀江貴文社長が関連会社の企業
買収に伴う虚偽の発表で、村上ファンドの村上世彰代表もニッポン放送株のインサイダー
取引で証券取引法違反の罪に問われ、それぞれ逮捕された。耐震強度偽装事件で姉歯
秀次元1級建築士も逮捕された。その姉歯被告には懲役5年の判決が下ったが、その程
度の刑罰にしかならないのだから世の中は甘いものである。また、これは「企業」ではない
が大学受験への成果を上げるために受験に関係のない必修科目を履修させなかった事件
も明るみに出た。この問題に対しても政府は70コマを上限とする補習という善後策で片付
けてしまった。
 このように暗い話題ばかりが多かった一年であった。来年はいよいよ安倍政権の真価が
問われる年になるだろう。果たして公約どおりの「活力とチャンスと優しさに満ちあふれた美
しき日本」に変貌を遂げるのだろうか。懐疑的なのは私だけではあるまい。

199「テストを行う負担は国語科が最大4」(12月24日)*********************************
 最後に採点だ。これも国語科の場合は非常に時間と集中力を要する作業である。大学入
試センター試験のように全問を記号選択にしている場合はあっという間に終わるが、定期
試験だとそうはいかない。
 まず最も神経を遣って臨まなければならないのが漢字の書き取りである。当然のことだが
一字一字「トメ」「ハネ」「ハライ」といった書道上の点も見なければならない。また「末」と「未」
のように2本ある横の棒のうちどちらを長く書いたかも見る。微妙な文字については拡大鏡
を用いて鑑別する。「補」「裕」のように「ころもヘン」にしなければならない文字を「しめすヘ
ン」で書く生徒も少なからずいるから、そういう点にも注意が必要だ。これが他教科ならそん
なことまでは見ない。たとえば日本史の問題で正解が「後鳥羽上皇」だとして、「皇」の字の
上の部分すなわち「白」が「自」と書いてあったとしても、設問の意図は「後鳥羽上皇」という
固有名詞を知っているか否かであり、「皇」の字の横棒の本数を問うているわけではないの
で多分黙認するのだろう。
 漢字の読みなら問題はないかというとそうでもない。携帯電話やパソコンの普及に伴い最
近の生徒は文字を書く機会が乏しくなったから、漢字のみならず平仮名や片仮名も著しく下
手になっている。「や」を「か」と書いたり「シ」を「ツ」と書いたり、「ゃ」と「や」の区別をつけら
れなかったり、答案用紙を見ていると高校生にもかかわらずそういう例は枚挙にいとまがな
いほどである。しかもこの手のものは、生徒本人はそのつもりで書いているからなおさら始
末が悪い。たとえば「躍如」の読みを「かくじよ」と書いてあるから×にすると、「これは俺の
字では『や』やねん。」とか「これは『ょ』のつもりで書いたんや。」などと文句を言って採点の
訂正を迫ってくる。古文や漢文の歴史的仮名遣いでは特に注意が必要だ。当時は「ゃ」「ゅ」
「ょ」「っ」という文字が存在しないからである。だから「女房」の「女」は「によう」と表記するの
が正しいのだが、現代と同じく「にょう」と書く生徒も少なくない。
 語句の意味を自由に記述させる出題形式にすると採点の際に大変なことになるという事
実は既に詳述したが、同様の現象は、たとえば「傍線1とはどういうことか。本文の言葉を用
いて説明しなさい。」といった出題形式にした場合にも生じる。抜き出す場合は自ずと解答が
限定されるが、作文させるとこれまたいろいろな解答が出てくるからだ。「本文の言葉を用い
て」とはキーワードを押さえた解答ができているかを問うわけだが、複数あるキーワードの一
部しか使われていなかったり、全て出てはいるが使い方が不適切であったり、解答を読んだ
場合に日本語の文として不自然な、つまり文法上正しくない文だったりすることが少なくない。
後者に関しては自分で文章を書く機会が著しく減ってしまったことに起因している。だから生
徒の解答を見ると年を追うごとに作文が下手になっているのだ。解答を文章として書かせる
ことは地歴科・理科・英語などの他教科でも行なっているが、国語科の場合は書かれた文章
が日本語として正しいか否かも判定しなければならないから採点に時間を要する。だから古
文や漢文において、ある部分の現代語訳を記述させると、答案を見るだけでも大変な労力で
ある。しかし、だからといって全く出題しないわけにもいかない。現代語訳は原文の解釈力の
有無を問う根本的な問題だからである。
 本文から抜き出して解答する場合でも、採点では非常に神経をすり減らすことが多い。理
由は、たとえ抜き出した箇所が正しくても正確に抜き出してあるとは限らないからだ。ある語
句の漢字が平仮名に勝手に換えられていたり、句読点やカギカッコが欠けていたりする、い
わゆる抜き出しミスは日常茶飯事である。また指定した字数は満たしていても過不足なく語
句を抜き出してあるとは限らない。余計な言葉があったり必要な語句が欠如していれば、適
宜減点しなければならない。この場合もどこまでを△として認めるか、その線引きに悩まされ
ることが多い。
 このように時間のかかる作業が山のようにあるのが、国語科の答案採点の特徴だ。私が
計測したところ1クラス(40人)の採点が終わり成績伝票の記入(学校によってはコンピュー
タにテストの素点を入力する)が終わるまでに概ね6時間はかかっている。生徒1人分の答
案に9分要していることになるが、数学の答案の採点現場を見ていると1人に2分程度しか
要していない。だから4クラス160人分を採点しても6時間以内、つまり私が1クラス分を終
わるまでに片付いてしまう計算になる。数学が速く採点業務を済ませることができる理由は、
もともと問題数が非常に少ないことと、正解は常に1つしか存在しないから正誤の区別が判
然としていることであろう。ところが国語はそうはいかない。特に正答・中間点・誤答と3段階
以上ある解答の場合は、各段階の境界線を明確に設定しなければならない。曖昧な基準を
設定しようものなら答案返却後に生徒からの苦情が殺到することになるからだ。だから、設
定した基準を忘れないためにも一旦その設問の採点に手をつけたら一気にやり遂げなけれ
ばならない。ある程度採点して「今日は疲れたから続きは明日にしよう」と安易に中断したら、
当初決めた採点基準が無意識のうちに変わったりする恐れがあるからだ。だから、採点業
務はまとまった時間が取れるときにしか行うことができない。幸い試験期間中は午後が放
課になる。だから国語の試験が当該期間中の初日や2日目あたりに実施されれば比較的
ゆとりをもって採点作業に臨むことができる。しかしそういう国語科の事情を理解して必ず国
語科だけを試験日程の早い日時に実施するよう配慮してくれているわけではないので、実
施が試験期間の最終日だったりすることもある。そうなると答案返却・成績伝票の提出まで
の日数がわずかしか取れない。通勤が遠距離の職員は学校近辺のホテルへの泊まりこみ
をも覚悟して採点業務に臨まなければならないのである。

    (塾長コメント: 数学の問題は正解は1つでも、それに至る道筋はたくさんあります。模範解答
             と異なる解答があると、考え方が合っているか、じっくり見ることになります。でも、
             そういう場合は未知の世界に足を踏み入れるようで、楽しみでもありますね。私の
             経験から、1人あたり2分というのは信じられないですね?本当ですか??)

198「テストを行う負担は国語科が最大3」(12月17日)*********************************
 こうして推敲を重ねてようやく問題が完成しても、それで終わるわけではない。今度は解
答用紙の作成に取り掛からなければならないからだ。数学科はもともと問題用紙と解答用
紙とが分離されていないのだから、解答用紙の作成作業そのものを免れる。また、問題文
中の空欄を語群選択する設問が大半を占める地歴科や理科の場合は、同じ広さの解答
欄を機械的に設けるだけだから、解答用紙の作成は比較的容易であろう。しかし、国語科
はそうはいかない。さまざまな出題形式に応じて解答欄がめまぐるしく変わるからである。
ある設問は漢字2字分のスペースで良いかと思うと、次の設問では2行分もの広さが必要
になったりする。さらに次の設問では原稿用紙と同様のマス目を40字分作ったりしなけれ
ばならない。
 因みに、試験が始まってから解答用紙にミスが見つかることが最も多いのは他のどの教
科よりも国語科であると言われる。ミスの大部分は「この問の解答欄がない」とか「解答欄
の字数が問題文に指示された字数に足りない」といったものだが、それは、とりもなおさず
設問ごとに解答欄の様式がすべて異なることに起因する。それだけ国語の解答用紙は作
成に神経を遣わなければならないということだ。だから私は解答用紙ができあがってもすぐ
には印刷せず、一度全問を自分で解いている。当日生徒が試験に臨むときと同様に実際
に解答欄に一字一句記入して、果たしてすべての問題に対して解答欄の有無と妥当な分
量の解答欄が設けられているかを検証してみるのである。それが済まないととても印刷な
どできない。 ところが他教科の同僚の仕事を見ると、当日の試験が済んでからおもむろ
に模範解答例の作成に取り掛かっていることが多い。ひどいのになると最も成績が優れて
いる生徒の答案を丸写ししている。だから数分もあれば模範解答例ができあがるのだが、
国語の場合はまったく考えられないことである。
 以上の理由で国語の試験問題の作成にはかなりの時間を要するのである。私のこれま
での経験に照らしてみると、問題用紙の作成に4時間、解答用紙の作成は設問を解いて
検証する時間(当日受験する生徒と同じ時間を費やして行う)も含めて1時間30分、合計
で5時間30分は要している。だから平日の授業の合間や放課後の2時間程度では到底
片付かず、学校が休みとなる土曜・日曜日に出勤して作っているのが常だ。当HPの塾長
は『日記とお知らせ』の1202週連続で週末がつぶれる時期」の私の記事に対する塾長
コメントとして自ら「構想に1年、作問に1時間といつも答えることにしています。」と書いて
いる。もしそれが事実なら問題の作成には私の1/5の時間しか要していないわけで、こ
れだけでも雲泥の差があることがわかる。もっとも「構想に1年」の中身がどの程度の苦し
みかは、数学科ではない私には想像がつかない。しかし四六時中数学の問題ばかり考え
て悩んでいるわけではあるまい。そう私は思うのだが、この件に関しては塾長から直々に
コメントを頂きたいものである。

    (塾長コメント: 数学科に限らないと思いますが、どのように生徒の理解を深めていくのか、と
             いうことを常に意識して授業していると思います。その理解度の測定が試験なわ
             けです。生徒自身の学習能力は毎年変化するので、その実態把握を日々行い、
             生徒の習得したであろう知識・技能・数学的な見方・考え方を適切に測定するに
             はどんな問題が妥当かと、授業中自問自答しながら思案するわけです。ですか
             ら作問時には、このような問題を出題するということがほぼ決まってしまいます。
             このことを端的に表したものが「構想に1年、作問に1時間」という文言です。ま
             た、国語科では生徒が解答に要する時間と同じ時間で検証されるとのことです
             が、多分数学科では、それはあり得ないことです!50分の試験時間で出題者
             が10分程度で出来る問題でないと試験としては不適切だと思います。生徒の
             計算能力、思考時間を考慮した結果です。やはり、数学科と他教科では試験に
             対する考え方がだいぶ違うようですね?)

197「テストを行う負担は国語科が最大2」(12月10日)*********************************
 次に個々の設問の作成について考察してみよう。現代文の場合、まず漢字の読み書き
に始まり、語句の意味・本文の空所補充問題、古文や漢文の場合は歴史的仮名遣いによ
るふりがなの記入・語句の意味・用言や助動詞の活用形の判別などで始まるわけだが、そ
の程度の問題では1問に高い得点を与えるわけにはいかない。漢字などは覚えている生
徒なら5秒もあれば解答用紙に書けるから配点は1点にするしかない。語句の意味にして
も空所補充にしても同様である。問題そのものの難易度が低い場合や、記述量が短い場
合はやはり1点にせざるを得ない。作者名や作者の活躍した時代、その作者の著した代
表的な作品、作者がどの文学流派に所属していたかといった、文学史関連の設問にして
もそうである。覚えていればすぐに解答できるからやはり配点もあまり高くはできない。だ
から、問題の分量はどうしても増やす方向に作らざるを得ない。満点である100点に達す
るようにするには、たとえば1点の問題を30問用意した場合、2点の問題を26問、3点の
問題を6問といった配分になる。この場合、問題数は62にも達する。しかも易しい問題も
難しい問題も織り交ぜてバランス良く配置しなければならない。そうしないと平均点が60
点前後にならないからだ。ところで、数学で設問数が62もある定期試験問題など見たこと
がない。私が試験監督して問題用紙を拝見した限り、1枚の問題用紙に両面印刷したもの
であっても問題量は多くても20問程度しかなかった。だから量だけでいうと国語の1/3も
ないということになる。用意する問題を少なくすることができるだけでも、問題作成の負担は
相当に軽減されているのではないだろうか。
 量以外にも作成上の苦労は尽きない。たとえば指示語の問題がそうだ。「傍線1『それ』
の指す内容を答えなさい。」といった曖昧な出題方法にすると何通りもの解答が出てきてし
まい、採点の際に正答と誤答との境界線を引くのに苦しむことになる。正解を1つに限定す
るには必ず本文から抜き出す形にし、しかも抜き出す字数を指定しなければならない。そ
の場合は解答欄にも指示した字数分のマス目を用意しなければならず結構神経を遣う。し
かも字数が指定される分、抜き出す場所が探しやすくなるため、問題の難易度は必然的に
下がってしまう。それはすなわち高い配点を与えることができず、問題量を増やす方向に作
用するということである。それでも採点の労力を減らすためにはやむを得まい。しかし指示
語のさす内容によっては、正解を1つに限定できないことも少なからずある。その場合、正
解に近いものを△として認めて適宜中間点を設けなければならない。例えば正解したら3点
の問題なら中間点は2点の場合と1点の場合とが生じるが、どこまでを2点にしどこまでを1
点にするのかという採点基準を設定するのは、なかなか大変だ。
 国語科の試験である以上、言葉の意味を問うのは漢字の読み書きとともに定番の設問だ。
だが、答えを記述させる方式にすると後で採点が大変なことになったりする場合が往々にし
てある。たとえば次の和歌で考えてみよう。
  花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
これは小倉百人一首にも採録されている小野小町の作った代表的な歌だ。この歌の「なが
め」は「ふる」とともに掛詞(1つの言葉に2つの意味が掛けられている)になっている。「なが
め」の意味のひとつは「長雨」で、もうひとつは「眺め」である。前者は現代語とほぼ同義だか
ら問題はないが、後者は「物思いにふけり、ぼんやり時を過ごすこと」という意味で、古今異
義語として重要な古語の一つになっている。その「眺め」の意味を記述式で問うとどういうこ
とが起こるか。あらかじめ「『眺め』の意味を出題する」と予告し、授業で正解まで明示してお
いても、しっかり覚えていて正答できる生徒は少ないのが常で、採点する側を悩ませるよう
な微妙な解答が山のようにくる。たとえば次のような答案だ。
  「ぼんやりしたこと」
  「ぼんやりとふけること」
  「ぼんやりと思うこと」
  「物思いして悩むこと」
  「考えにふけること」
  「何かを思って時を過ごすこと」
 数学科のように心を鬼にして?どれも×にするのは簡単だ。しかし語句の意味は他にも
数題は出してあるから、すべてを厳しい基準で採点すると著しく平均点が下がる恐れがあ
る。だから現実問題としてはある程度は○にせざるを得ない。もし2点の配点なら○にする
解答は厳しく設定しても、ある程度それに近い解答は△にしなければならない。そうすると
どこまでを○にしどこまでを△にするかという線引きに悩むことになる。
 では選択式の出題形式にすれば何も問題は生じないかというと、これまたそうでもない。
「次の中から本文の内容と合うものを選びなさい」「筆者に主張と一致するものを次からす
べて選びなさい」「このときの主人公の心情として最も適切なものを選びなさい」といった記
号選択の問題の場合は採点基準の線引きに悩む必要はないが、それとは違うまた別の
悩みが生じる。それは不適切な選択肢をいかに巧妙に設けるかだ。五者択一にする場合、
正解以外の4つはダミーの選択肢になるわけだが、明らかに正解と異なるものばかりを揃
えるわけにはいかない。それでは問題の難易度が下がり全員が正解してしまうからだ。明
らかに異なるものは1つにし、正解の選択肢と迷うほど酷似した内容のものを1つは用意し、
他の2つは両者の中間のものにしなければならない。語句の使い方一つで難易度は一変し
てしまうから、ダミーとなる選択肢の作成には細心の注意を払って臨まなければならない。
これも数学科や理科の試験では遭遇することのない悩みであろう。

    (塾長コメント: 数学の立場から他の教科の試験問題をみて「エッ!」と思うのは、「随分記号
             で選ばせる問題が多いな〜」という点です。菅ちゃんの作問の事情を伺うと、そ
             れもしょうがないのか!と納得せざるをえないのですが、ちょっと寂しい限りです。
             数学の場合は基本的に全問記述問題で、生徒の思考過程をその答案から判断
             し採点します。問題数を抑えるのは、生徒に考えさせたり、答案をまとめる時間
             を確保するためです。たとえば、1題5点満点の問題があったとしても、採点は
             0点または5点ということはあまりなく、答案の完成度によって部分点をつけて
             います。どこで部分点をつけるかは、菅ちゃん同様悩みます。「心を鬼にして」
             ×にするということはないと思います。)

196「テストを行う負担は国語科が最大」(12月 3日)**********************************
 中学・高校では従来の3学期制の場合は年間5回、最近顕著に導入されている前期・後
期の2期制の場合なら年間4回の定期試験が実施され、生徒の成績評価における主たる
資料として活用されている。今回はその「定期試験を作成し採点する現場の苦労」に焦点
を当てて考察した。これは教科ごとにかなりの差異がある。「最も負担のかからない教科は
数学科だろう」とよく言われるが、その真偽については数学の教員ではない私には論断で
きない。しかし、作成にも採点にも労力を最も費やす教科は国語科である。これは99%間
違いないと断言できる。何がどう大変なのか。今回から4週連続で一つ一つ挙げて考えて
みたい。
 国語の場合、「どの問題を出題してみようか」という悩みの前に、まず「問題用紙の分量」
との葛藤に苦しまなければならない。これは他教科では決して有り得ない葛藤ともいえる。
あらかじめ問題用紙が冊子になっている業者の学力テストとは異なり、自校の印刷室で各
教科担当者が1枚1枚刷る定期試験の場合は、問題用紙の枚数を多くすると試験当日生
徒にそれを配布する試験監督の先生に多大な負担をかけてしまう。決して教務内規など
で配布する用紙の枚数に関して上限が定められているわけではないが、それでも常識的
な範囲としてB4版の用紙で4枚までという暗黙の了解事項がある。それ以上に及ぶ場合
は問題用紙を冊子にするなどして、試験監督に負担を強いることのないよう、あらかじめ
試験作成者の側で何らかの処置を講じなければならない。
 しかもその「上限」とされる4枚のうち、1枚は解答用紙にせざるを得ない。数学の場合だ
と問題用紙と解答用紙とを分離せず、設問の下ないし右横に解答欄を設けることが多いが、
そういうレイアウトができるのは試験の際に配る用紙がたったの1枚で済んでいるからだ。
4枚にもわたって印刷することが多い国語の場合はそうはいかない。問題と解答欄を一緒
にしてしまうと試験開始前に配布した4枚すべてを回収しなければならず、これまた試験監
督に余計な手間をかけることになるし、問題を作成した側も答案の管理や採点に要らざる
時間と労力を費やすことになる。だから、解答用紙は問題用紙とは別に用意しなければな
らない。つまり問題用紙は3枚が「上限」となる。その3枚の全てを両面印刷しても問題原
稿は6枚までということになる。
 「試験の時間は50分しかないのだから、両面印刷で3枚もあれば問題の量としては充分
だろう。」と他教科の同僚は言う。しかし、国語の場合は3枚でも足りないことが多い。理由
は個々の設問の前に問題文として当該作品の文章を掲載しなければならないからだ。すな
わち授業で講読した作品の本文を丸ごと印刷しなければならないのである。古文・漢文では
さほど長い作品はないから本文の全文を掲載してもたいした分量にはならないが、現代文、
とりわけ小説の場合は厳しい。中島敦の『山月記』や芥川龍之介の『羅生門』といった短編
の小説でも、全文を載せたらその時点で「上限」の3枚を超えてしまう。だから作品のある一
部分だけを載せるしかないのだが、作品のどこを削りどこを載せるかは相当に悩むもので
ある。しかも掲載する問題文の量と設問の数との関係は反比例するので、これまた葛藤の
種になる。問題文を短く載せれば設問に費やすスペースは広く取れるが、問うことのできる
事柄が限られてしまうからどうしても設問の分量が減ってしまう。最悪の場合はあらかじめ
定めた配点まで届かない恐れがある。だから、設問数を増やすためには問題文をある程
度の分量以上を載せるしかない。しかしそうすると今度は設問を印刷するスペースが減っ
てしまうのだ。特に記号を選択する形式の問題を出すことができなくなる。選択肢を印刷す
るにはどうしてもある程度のスペースが必要になり、記述式の問題よりも場所を取るからだ。

    (塾長コメント: 私の高校時代、「なぜ国語という教科のテストが存在するのか?」とても不思
             議でした。授業で与えられた解釈を丸暗記して試験に臨み、そこそこの点数をと
             るということに何の意味も見いだせませんでした。それとは違って数学のテスト
             では、授業で教わっていない数学の見方・考え方を要求され、テストを受けてい
             る最中は悪戦苦闘の中なんとか解答をでっちあげました。そのためかテスト後の
             爽快感・満足感は、他教科とは比べものにならないくらいでしたね!授業の一形
             態としてテストとはこうあるべきだと私は思います。通常行われている国語等の
             テストは暗記力試験になっていて意味がないと思います。菅ちゃんも、その呪縛
             から解き放たれて、生徒に生徒自身の言葉で考えさせるテストを実践してみては
             如何ですか?そうすれば、テスト問題用紙も数学並に1枚ぐらいで済むと思うの
             ですが?)

 菅ちゃんから、上記の「塾長コメント」に対する見解をいただきました。(12月5日付け)
 県下一斉テストや業者による模擬試験といったいわゆる実力テストと、学校で行う定期考
査とは試験の性格が本質的に異なります。コメントの文章中にある「授業で教わっていない
数学の見方・考え方を要求され」るべきテストとは、前者の実力テストで試されるべき事柄で
あって、後者の定期試験で試されるべきことではないと思います。ちなみに国語にしても英
語にしても「授業で教わっていない当該教科の見方・考え方」は実力テストにおいてきちんと
試されています。実力テストでは授業で扱っていない文章、つまり教科書には掲載されてい
ない文章を自力で解釈し設問に向かわなければならないからです。それはコメントの文中に
もある「生徒に生徒の言葉で考えさせるテスト」にもなっているかと思います。しかし、後者の
定期試験においては学校で指導した事項の定着度を測るべき性格を有します。したがって、
授業で講読した作品を出題するのは前提条件にならざるを得ません。社会・理科も含め数
学以外の教科ではややもすると「どれだけ教えたことを暗記したか」だけを試す試験内容に
偏向しがちですが、これは教科の特質上ある程度は不可避であり、いたしかたないことかと
思います。数学の場合は定期試験であっても、教科書は勿論のこと、授業で配布したプリン
トと同一の問題は1つとしてなく、すべて数値を変えて出題されてしまいますから、定期試験
でも「試験範囲が定められている」という一点を除けば実力試験と何ら性格は変わらないこ
とになります。したがって、国語では基本的に有り得ないことですが、数学の場合はいくら授
業を聞いていても、いくら教科書の設問が解けるようになっても定期試験になるとほとんど得
点が取れないという事態が生じ得ます。(現に私自身がそうでした。教科書の設問の答えは
途中の計算式も含めてすべて覚えたのですが、同一問題は1つも出してもらえませんでした。)
これでは授業で指導した事柄の定着度を測っているとも言いがたいばかりか、場合によって
は原級留置や卒業保留の要件にも抵触しうることですので、やはり全体の25%、すなわち
赤点にならない程度は授業で解いた問題と同一の出題をするのが教育上妥当ではないか
と思います。

    (塾長コメント: 私の塾長コメント、少し辛口過ぎましたかね?でも、このコーナーはある程度過
             激な意見をぶつけることが売りなので、ご容赦ください。テストをする意味は菅ちゃ
             んが書いているように「指導した事項の定着度を測る」ことが目的だし、また指導
             の効果を知るためのものであると思います。各教科では指導すべき事項があるは
             ずで、それをたまたまいろいろな作品を通して教えているだけです。私が言いたい
             のは授業で使った教材とは違うもので指導した事項の定着度がはかれないのか
             ということです。授業で教授したものをテストに出しても、その教科の指導すべき
             事項の定着度ははかれないと思います。生徒は試験が終わるときれいさっぱりと
             覚えたことを忘れてしまいます。試験が終わっても忘れない、確かな学力を私は
             追求したいと思います。数学でよく解答を丸暗記して試験に臨む人を見かけます
             が、これは無駄な努力と言わざるをえません。数学では解答の奥深くに鎮座する
             数学的な見方・考え方を身につけない限り、数学の問題を自由自在に解くことは
             難しいと思います。私の受けた高校での教育はある意味で特殊でした。理科と数
             学を主に学習する学科で1年次から数学が週8時間くらいありました。その中で、
             如何に数学の力をつけるか、ということで先生方は上記で述べたような出題方針
             をとったのでしょうね!当時は大変でしたが、今思うと感謝するばかりです。)

195「財政再建の尻拭いを強いられる夕張市民」(11月30日)****************************
 北海道夕張市は今月14日「財政再建の基本的枠組み案について」と題する今後の市政
方針を市のホームページに掲載した。夕張市は大型観光施設の建設などによる不適切な
財政運営により巨額の赤字を抱えてしまっており、解消しなければならない赤字額は現時
点で360億円にも達している。そのため9月29日の市議会において地方財政再建促進特
別措置法に基づき財政再建を行う申し出についての議決を可決し、来年3月に総務大臣の
了承を得るために財政再建計画の策定を進めることになった。その骨子は全国の市町村
区の中でも最低水準の行政サービスで運営していくことである。すなわち市民生活に必要
最小限の事業以外は全て中止し、新たな投資事業は一切行わず、経常的経費も全国最低
の水準に引き下げて経費を最小限に抑えることになった。
 この最低水準の行政サービスの結果、市民にどのような不利益が生じることになるのか。
具体的には、下記の通りだ。
 1・図書館・公民館・市の連絡所・体育施設などの公共諸施設の閉鎖
 2・小中学校の統廃合
 3・市民税をはじめとする各種の税と下水道使用料の引き上げ、及びゴミ有料化
 4・病院や診療所の規模縮小と数の削減
 5・除雪事業や道路・橋梁の管理運営の見直し
 6・高齢者の敬老バスやホームヘルパー派遣事業の廃止
 このうち2に関しては、現在7校ある小学校と5校ある中学校をいずれも1校ずつ残して他
はすべて廃校とし、徒歩や自転車による通学が困難な児童・生徒にはスクールバスによる
登下校をすることになった。しかし、その距離は半端なものではない。夕張市は、東西に24
km、南北に35kmもの距離があるため、学校から最も遠い児童・生徒は片道だけでも20
km以上もの距離を移動させられることになったのである。そんな長距離を毎日移動するの
だが、雪の降りしきる季節などは果たして通学ができるのかと首を傾げたくなる。また4に関
しても医療機関が削減・縮小すれば救急時の救命率を下げることになるし、一般の患者の
通院も現状以上に困難になることは間違いない。5もそうだ。これから北海道では積雪が本
格化する季節を迎えるが、道路の除雪をしてもらえないということは家から一歩も出られな
い状況になるわけで、場合によっては生活物資も手に入れることができずに餓死することを
も覚悟しなければなるまい。しかも、試算によるとこれほどの不自由を市民に強いる状況が
向こう20年間にわたって続くという。そんなサービスの悪い市に誰が住み続けたいと思うだ
ろうか。先祖から代々夕張に住み夕張を愛し続けてきた人でも、他の市町村へ移住するの
は目に見えている。現在の市の人口は14000人余りだが、今後はどんどん減り続け、今
に「廃村」ならぬ「廃市」になるのではあるまいか。
 それでも市民の責任でこのような財政再建を余儀なくされたというのなら因果応報だと言
えよう。しかし、このようになったのは決して市民の責ではない。炭鉱が廃止された時点で、
「今後は観光の街として夕張市を売り出そう」という方針の下に、採算の予測も立てずに大
型観光施設を次々と建設することに賛同した当時の市長・市会議員、そして市役所上層部
の職員の責任である。まあ我が国は議会制民主主義であるから、無駄な事業を推進する
ような市会議員を選挙で選んだ市民にも責任はあるだろうという理屈も成立するかもしれ
ない。しかし少なくとも選挙権のない子どもには何の責任もないはずだし、そのような市会
議員に投票しなかった有権者にも責任はないはずだ。それなのに財政再建の尻拭いをさ
せられるのは他でもない一人ひとりの市民である。それもこれから夕張市で暮らしていく若
い世代を中心とする市民である。その一方で、当時の市役所上層部の人は夕張市が斜陽
化する前に多額の退職金を手にして悠々自適の生活を送っている。これほど理不尽なもの
はあるまい。

194「防災訓練はできるだけリアルに」(11月26日)*************************************
 今月7日、北海道の佐呂間町の若佐地区で竜巻が発生し、プレハブの小屋数棟が全壊
し、付近の国道333号線の新佐呂間トンネル工事をするために現場に派遣されていた土
木作業員9人が亡くなるという痛ましい災害があった。それをテレビの映像で見てつくづく
思ったことは、人間は自然の前には無力だということである。日頃から防災訓練をいかに
入念にしていても、所詮はある事態を「想定」した訓練に過ぎないから、本物の災害時に生
じる事態とはどうしても乖離したものになってしまう。私は自身が阪神淡路大震災を体験し
たとき、このことを痛感した。P波もS波もなく一瞬のうちに自分がいた建物が崩壊し、2階
で寝ていた私の身体は地面と同じ高さに突き落とされたのである。あの震災は、午前5時
46分という早朝で発生時は私も床の中だったが、仮に起床していたしとても地震発生と同
時に机の中に入り頭を保護するという余裕などは到底なかったと思う。そう考えると毎年学
校で行う避難訓練がどれだけ非常時の教訓になるのかは甚だ疑問だと言わざるを得ない。
 非常時に生かされなければ訓練をする意味がないのだから、もっと本物の大災害に近い
状況を意図的に設定して行なったほうが良いと思う。とはいっても学校全体を地震と同じよ
うに揺らすことは不可能だから火災訓練にするしかないのだが、その際は廊下も教室も煙
で充満させて視界を遮り、その中を姿勢を少しでも低くして、できるだけ煙を吸い込まない
ようにタオルやハンカチで顔を覆いながら避難するといった練習ぐらいは必要だ。できれば
日の短い冬季の夜に行いたい。勿論、訓練だから校舎のどこかに火をつけて本物の煙を
発生させるわけにはいかない。ホンモノだと煙を吸い込んだときに一酸化炭素中毒で死亡
する恐れが出るからだ。だから訓練で使う「煙」はいくら吸い込んでも害のないものにし、そ
れでいて本物の煙と同じ臭気をつけて生徒には煙らしく思わせるようなものを使えば良い。
最初から上手に避難できる生徒ばかりはいないだろうから、恐らくパニックになる者もいる
だろうし避難の途中で何かにぶつかったりして怪我をする者も何人か出ることだろう。しか
し、その程度の「小さな」犠牲を払ってでも本物の火災らしくしないと、肝心のときの教訓に
はならない。
 本物の大災害に少しでも近いものにするのだから、生徒は勿論のこと職員も訓練がいつ
行われるのかが全くわからないように工夫すべきである。現状では年間行事予定表にあら
かじめ避難訓練を行う日時が明記されているが、これほどの不毛なものはない。校長が気
の向いたときに煙を発生させて火災報知機を突然鳴らすといった、偶発性の高いものにし
なければ意味がないのである。たとえいくら煙を充満させて本物の避難らしい内容を実現し
たとしても、訓練の日時がわかっているのでは生徒も職員も心の準備ができてしまっている
からだ。現状では、教師は訓練の開始前に授業内容が済むように計画して授業をするし生
徒は少しでも授業が長くつぶれるのを心待ちにしながら避難訓練の校内放送を待ち、避難
時は普段通行が禁止されている校舎の外壁に設置された非常階段を通れることを喜びな
がら校庭に下りている。これでは何のための訓練だかわからないし、いくら積み重ねても災
害時の教訓にはならない。

    (塾長コメント: 阪神淡路大震災経験者の菅ちゃんの提言、説得力ありますね!1995年1月
             17日は私の中でも衝撃的な日として記憶に残ります。崩れた高速道路、ぎりぎ
             りのところで助かったバス、あの美しい神戸の町並みが...と思うと胸が痛みま
             した。ちょうどその日は大学入試センター試験の自己採点の日で、別な意味で、
             日本全国がパニックでしたネ。私のこれまで経験した地震で覚えているのは、新
             潟地震と宮城県沖地震。何気ない普段の日常の中に突然きたので、非常にこわ
             い思いをしました。この経験から言えば、防災訓練は意味ないですね。まあ〜意
             味があるとすれば、「押すな、走るな、声出すな」のパニック防止3ヶ条と避難経
             路の確認ぐらいかな?)

193「同業者の入店を断るのはなぜ?」(11月23日)************************************
 私の利用する駅前にある紳士用洋服の専門店がある。そこは、ここ一軒だけではなく全
国各地に支店を構える著名な店舗だ。その店の前を通るたびにいつも思うのは、入口に
「同業者の入店はかたくお断りします」と掲示してあることだ。しかし、なぜそういう掲示を出
すのかがわからない。まっとうな商売をしているのなら、たとえ同業者に商品をじっくり見ら
れても何ら後ろめたいことはないはずだ。それをわざわざ入店拒否の掲示を出すというこ
とは、「素人なら騙せても同業者だと気づかれる恐れがあるような不正を何かやっているか
らではないか」と勘ぐられても仕方があるまい。たとえば商品の縫製がいい加減だったり、
ニセモノの生地を高級ブランド品と偽って販売しているといった不正だ。だから私はたとえ
色や柄の気に入った物があってもその店では決して買わない。きっと私と同じことを考えて
買わないようにしている人も少なからずいると思う。その掲示の影響かどうかは断言できな
いが、休日でも店内はがらがらで繁盛しているようには見えない。しかし、これでは営業施
策上不利なのではなかろうか。そもそも、来店する客の職業を一人ひとり調べてから入店
を許可することなど不可能だ。だから店員にしても客が同業者かどうかはわからない。した
がって掲示を出すこと自体、意味がないことになる。これと似たことだが、「店内の写真撮影
はお断りします」と大書してある店舗も散見する。これもなぜ撮影を拒否するのかわからな
い。

192「いじめはなくならない」(11月19日)*********************************************
 各地の小中学校でいじめの事件が報道され、いじめを苦にした自殺が連鎖的に発生して
いる。報道各社は異口同音に学校の管理体制、とりわけいじめがあった事実を否定しよう
とする学校の姿勢を非難する態度に終始している。全てはいじめを早期に発見しこれを未
然に防ぐ措置を講じなかった学校の責任だとでも言いたげな報道だ。しかし、学校の教職
員が目を光らせていれば100%いじめを根絶できるという、そんな単純な問題ではない。
極端な話だが学校のいたるところに監視カメラを設置したり、授業時間のみならず休み時
間や始業前・放課後にも一人ひとりの児童・生徒に警備員や教員が随行して子どもの言動
の一部始終を監視したとしても、いじめはなくならない。教師の監視がなくなる登下校の途
中でもいじめは起きるからだ。もっといえば登下校でなくても起こる。眼前にいじめる相手が
いなくても携帯電話を使って離れた場所にいる相手にメールや電話をかけていじめることも
できる。いじめは現代の子どもの生育環境、そしてその結果醸成された彼らの意識の問題
に他ならないのであって、これが改まらない限りはいじめをなくすことができないのである。
もちろん学校での教育内容や教師の指導のあり方にも不備はあるだろう。しかしそれ以上
に子どもの生育環境に悪影響を及ぼしているものとして特に次の4つを指摘したい。
 第1に、家庭内の不和である。モノが豊かになるにつれ、両親から愛されて育っていない
人が著しく増えた。その端的なものは昨今社会問題となっている幼児・児童虐待だろう。過
去に親に虐待された経験のある子ども、現に家庭内で虐待されている子どもは決して少な
くない。殺人や傷害事件に発展し加害者が逮捕されたものしか報道されないが、表沙汰に
ならないものはその何万倍あるか計り知れない。また虐待はされていないものの、家庭内
離婚や夫婦喧嘩などで情緒不安定になっている子どもはさらに多い。いずれにしろ子ども
の心身の発達に健全な環境ではないことは言うまでもない。そういう子どもは慢性的にスト
レスが蓄積されている。そのはけ口が自分よりも腕力のない同級生や立場が下になる後
輩などに矛先が向けられるのは必然のことだ。
 第2に、依然として日本がめだか型社会であることが挙げられる。すなわち何につけても
「こうであるのが普通だ」というモデルがあって、それに当てはまらない者が非難され排斥
される社会だということだ。だから体臭のある人に対して「くさい」と言い仲間はずれにする。
太っていると「デブ」、背が低いと「チビ」、簡単な問題が答えられないと「バカ」などといって
標準的でない者を除外しようとする。特に身体的特徴は本人の意思ではどうにもならない
から始末が悪い。その「こうであるべきだ」というモデルの多くがマスコミによって作られて
いる事実も看過できない。子どもたちはそれに外れないように努力しみんなと同じであるこ
とに努める。そしてそれができない者や適応ではないものがいじめの対象となる。学校で
「人間は一人ひとりがみんな違う。相手の個性を認め尊重しよう」などといくら言い聞かせ
ても「はじめにモデルありき」だからどうにもならない。
 第3に、以前から私が何度も指摘していることだが、過激なゲームソフトの氾濫が挙げら
れる。特に殺人や殴打することで得点を稼ぐゲームが増えた。以前にもこのコーナーで書
いたが、小学生を対象にしたアンケートで「人の命は死んでも生き返ることができる」と思っ
ている者が半数以上も及んだという。つまり「亡くなった命は二度と生き返ることはない」と
いう厳然たる生物学的事実でさえも今の小学生には認識されていないのである。これは明
らかに、リセットさえすれば何回でも遊ぶことができるゲームソフトの影響だ。こういう殺人
バトルゲームに毎日何時間も興じていれば、自分がいじめた相手がたとえ自殺したとして
も何とも思わなくなるのが当然だろう。こうしたゲームソフトの制作・販売を直ちに法律で禁
止し市場に出回ることがないようにすべきだが、現状は依然として青天井である。
 第4に、テレビ番組の制作姿勢に問題がある。トーク番組でよく見られる光景だが、特定
の出演者の言動を他の出演者全員で罵倒したり嘲笑したりする行為は問題である。ひど
いのになると棒やハリセンで殴ったり蹴りを入れたりしている。勿論、出演者はディレクタ
ーや構成者とあらかじめ打ち合わせをしており、罵倒したり嘲笑する側にしてもされる側に
してもすべては承知の上での行為である。しかし、視聴者の目にはどう映るだろう。特に子
どもの視聴者はそんな番組制作の事情は知らないから、袋叩きのように言葉の暴力を浴
びせる場面は効果的ないじめの方法を知る格好の教材になってしまっているのである。そ
ういう恐れがあることを何ら顧みようともせず、特定の出演者に言葉の暴力を浴びせ、それ
を一般から集めたスタジオ観覧者も交えたみんなで嘲笑することを良しとする番組を制作し
続けているテレビ局が問題だとは誰も思わないのだろうか。
 最後に通信手段の進化が挙げられる。今では小学生といえども個人が電話を持っている
から、いたずらメールやいたずら電話をしやすい状況になっている。だから「うざい」「死ね」
「2度と教室に来るな」といったメールも簡単に送ることができる。受け取った相手が傷つく
ような語彙を自動的に感知し送信不能にするようなシステムができるまでは、こうした状況
は続くに違いない。またインターネットの掲示板やチャットによる言葉の暴力についても同
様である。
 いじめをなくすためには、まず家庭からだろう。いじめる側にもいじめられる側にも、家庭
環境のあり方は大きく関与している。そして特定の価値観のみを良しとし一人ひとりの個性
を認めようとしない社会も是正すべきだ。ましてやマスコミが身体的特徴に関して理想像を
煽るなどはもってのほかである。そしていじめのモデルとなる媒体を子どもの目に触れない
ようにすることである。学校で週1度の全校集会で校長先生が命の大切さを説諭しても、そ
れよりもはるかに長い時間接するテレビやゲームソフトの及ぼす悪影響の方がずっと大き
いのである。そういう根本に目を向けずにスクールカウンセラーや道徳教育だけに頼ってい
るのでは問題解決にはならない。

    (塾長コメント: 最近のいじめは「いじめている」という自覚が希薄になってますよね!それだけ
             人間関係が希薄になっている証拠だと思います。携帯を使った言葉の暴力・いじ
             めはひどいの一語に尽きます。自分のやっていることに罪悪感を感じていないよ
             うです。単に、自分の感情を発散させているだけのような...。)

191「迷惑メールは撲滅できないのか」(11月14日)************************************
 一日の仕事を終えて帰宅し、入浴や夕食を済ませて落ち着いてからパソコンを起動させ、
受信トレイに入ったメールボックスをチェックしている読者の方もさぞ多いことだろう。私も
旅行や帰省で長期間家を空けない限りはいつもそうしている。学校からの帰宅が毎日午
後9時過ぎなのでパソコンを起動させるのは、だいたい午後11時過ぎになってしまうのだ
が、「受信トレイ」には知人・友人・職場の同僚は勿論のこと、現在私が授業などで指導し
ている生徒、及び卒業生、さらにはホームページをご覧になった方からのメールが届いて
いる。しかし、それらのメールよりもはるかに多いのは迷惑メールだ。日によって多少の差
はあるものの、一日に30通は超えている。
 受信トレイの「送信者」に表示される相手の名前は「田中智子」とか「鈴木奈美」といった、
いかにもよくあるような女の子の名前ばかりだ。そして、「件名」の欄も「ごめんなさい」とか
「よろしくお願いします」とか「ありがとうございました」といったもので、これまた知人や友人
と普通にメールをやりとりするときに使うようなありふれた単語が多い。これらを最初から
迷惑メールと決めつけて全て削除するのは簡単だが、そうもいかないことがある。「送信
者」に表示される名前が自分の知っている人の場合は、本当にその知人が何らかの用件
があって送信しているかもしれないからだ。だから「何だろう」と思って何気なく開けてしま
うのだが、99%は出会い系サイトか逆援助交際のメールで、残りの1%が競馬やパチン
コなどの賭博で大儲けできる方法を紹介といった内容のメールである。それらのメールの
100%はURLを表示しており、「このアドレスをクリックして今すぐ登録してください」などと
書かれている。ご丁寧なものは「なお今後このメールの受信を拒否する場合はここをクリ
ックしてください」と、登録用のものとは別のURLも記載されている。こうしたメールは資金
難に苦しむ暴力団が業者を装って送っていることが多いから、うっかりクリックしたらその
瞬間に高額な金銭を要求される仕組みになっているらしい。
 問題はこうした迷惑メールに対する取り組みがまだまだ遅れていることだ。その当該アド
レスからは受信トレイに入ることが2度とないように各自パソコンの側で設定することは可
能なのだが、現状では全く意味がない。それは相手はアドレスを何万種類も持っているら
しく、次から次へとアドレスだけを変えて送信してくるからだ。その証拠に文面は全く同じな
のにアドレスだけが異なるメールが来る。だからいくら「送信者を禁止する」に登録して2度
と受信トレイに入らないように設定しても際限がない。また、「CC」を利用して同一のメール
を複数の宛先に一斉に送信できるシステムになっていることも問題だ。開封したメールの
「宛先」を見ると私のとは異なるアドレスが記載されていることも少なくないからだ。同じメ
ールを一度に複数の人に送ることなど業者以外では滅多にないだろうから、「CC」の利用
などはできないようにすべきだろう。そして「宛先」にその人のアドレスとは異なるものが表
示されるようなメールは受信できないようにすべきである。また、迷惑メールの共通点とし
て必ずURLを表示してクリックできるようになっていることが挙げられる。だからURLを記
載したメールは送信しても相手に受信されないようなシステムにすることも不可欠だ。さら
には迷惑メールを出している業者のIPも突き止めて送信そのものを不可能にさせるシス
テムも必要だ。携帯電話で送信しているのなら、その携帯電話も即刻使用停止にする処
分も必要だろう。
 とにかく現状では迷惑メールは送りたい放題であるし、受信する側としては本当に自分
の知っている人からのメールか否かをいちいち確認しなければならない。現状ではURL
さえクリックしなければ実害はないが、今後は開封しただけで何らかの被害に遭うような
事態になるかもしれない。そうなる前に迷惑メールを撲滅できるよう手を打つべきである。

190「学校教育にかかる負担を軽減せよ」(11月 9日)**********************************
 今年も私学の募集に関する記事が新聞に発表された。関東地方の私立高校の場合、だ
いたい授業料が年間で35万〜45万、入学金その他を含めた初年度納入金は70万前後
というところが相場のようだ。私学は教員スタッフなどの人件費や校舎・備品などの諸施設
にかなりの経費がかかるから、それ相当な学費を納入しなければならないのは致し方なか
ろう。これに対して公立高校は入学金が5620円、年間の授業料が115200円(2006年
度、全日制の神奈川県立高校の納付金)だから私学よりはずっと安価である。だから単純
に計算すれば3年間でも35万を若干超える程度の金額で済むことになるのだが、現実は
そうはいかない。授業料と入学金だけが保護者の納付金ではないからだ。
 その最たるものが修学旅行費だろう。関東地方の高校の場合、昨今は羽田空港から往
復航空機利用で沖縄あるいは韓国・香港へ3泊4日という修学旅行が増えたが、各旅行業
者に打診すると見積額はだいたい10万前後である。一般旅行者向けに販売されているパ
ックツアーを見ても沖縄や韓国・台湾・香港なら4万が相場なのに、修学旅行はなぜここま
で高いのか首を傾げてしまう。本来なら対象が高校生の団体であることを考えれば、一般
旅行者向けのパックツアーよりも安く設定すべきだろう。だが、現実は2倍以上もの費用が
かかっており、そのために保護者は入学時から旅行費用を積み立てさせられている。しか
し長引く不況の影響で旅行代金の積み立てがままならない保護者も少なくない。
 部活動の費用も結構バカにはできない。例えばテニス部をみてみよう。ボールやネットは
消耗品だから部員すなわち保護者から徴収した部費で賄うしかない。部員個人の所有とな
るラケット・シューズ・公式戦で着用するユニフォームなどはすべて保護者の負担になる。活
動における費用もかかる。たとえば夏季など学校の授業が休みとなる時期には合宿がある。
学校で合宿すれば費用はほとんどかからないが、バスを貸し切って遠くの県まで足を伸ばす
こともしばしばだ。また公式戦に出場すればその大会の参加費用や交通費がかかるし、会
場が遠隔地ならさらに宿泊費も生じる。甲子園球場で行われる春・夏の全国高校野球選手
権大会などはその典型だ。出場できれば高校にとっては名誉なことだが、甲子園から遠い
代表校の保護者の負担はかなりのものになっている。このように、たかだか2年半(3年生
は大学受験のため秋口までには引退となる。)とはいえ、部活動にかかる費用は公立高校
の授業料をはるかに上回ることが多く、結構バカにできない金額である。しかもこれらは野
球部や陸上部といった体育系のものばかりではない。吹奏楽部などのような文科系の部
活動でもそれなりにかかる。部活動は加入も脱退も任意である。だから辞めてしまえば一
銭も支払わずに済む。しかし部活動に無所属となると3年間所属し活動実績を出した生徒
と比べて大学入試の調査書で不利に扱われる。第一、やりたくて加入した部活動が経済
的理由で辞めざるを得ないのでは本人が可哀想だ。
 そこで業者に言いたいことは、学校向けに販売するものは一般向けよりも安くせよという
ことだ。制服をはじめ、ジャージなど体育で使う衣類・体育館履きは勿論のこと、部活動で
使うユニフォーム代や各種消耗品にしても、できるだけ保護者の負担を強いることがない
ように業者は尽力すべきだ。また地区総体や国体など大会の主催者にも言いたい。大会
の運営費用がかかることは事実だが、やはり参加校(最終的には参加する部員の保護者
になる)への負担を強いることのないように工夫してほしい。最も言いたいのは修学旅行
費だ。行く先も旅行日数も同じなのに一般旅行者向けの商品より2倍以上もしているので
は、ぼったくりではないかと疑われても仕方がない。料金体系の見直しが必要であろう。

189「洋服を長持ちさせよう」(11月 6日)*********************************************
 すっかり秋めいてきて生徒の服装も先月の中旬から冬服になった。しかしまだ寒くはなっ
ていないので、今は上着のかわりにベストを着用している生徒が多い。私の勤務する高校
はベストまでは学校指定にはなっていない。華美なものでなければ問題ないということにな
っているので、生徒のそれは色とりどりだ。職員もベストを好む人が何人かいて、着ている
人は毎日着ている。ただ見ていると、職員にしても生徒にしても毎日同じものを着用してい
る人が多い。まあ、そのベストを気に入って買ったのだろうから毎日着ていたい気持ちも理
解できるのだが、すぐにダメになってしまうのが欠点だ。もし何シーズンにもわたって長く着
ていたいと思うのなら、毎日同じものばかり着るのは避けたほうが良い。
 そこで今回は私の着用方法を紹介しよう。私は教員になった当時から6色のベストとネク
タイを揃えた。(言うまでもなくかつては土曜日も授業があったから週6日の出勤であった。)
現在は日曜日も含めてベストは7色、ネクタイは5色持っている。ちなみにベストの色は次
の通りだ。
 月曜日→夜空の月をイメージして白
 火曜日→燃える火をイメージして赤
 水曜日→海の水面をイメージして青
 木曜日→若葉をイメージして黄緑
 金曜日→黄金色に輝く穂をイメージして黄
 土曜日→土をイメージして茶
 日曜日→夕日をイメージして橙
 こうすると毎朝「今日はどれを着ようかな」と迷うことはなくなる。そして特定のベストだけ
着る回数が増えて古くなるという現象もありえない。また、ベストが長持ちする。それぞれ
のベストは一週間に一度しか着ていないから、何シーズンにもわたって着ることができる。
さらに、自分が曜日をベストで認識することができる。ということで一石四鳥のメリットがあ
るわけだ。今は携帯電話で今日の曜日を知ることができるが、それがなかった当時は生
徒に「今日が何曜日がわからなんだら俺を見に職員室まで来ぃや」と言っておいた。また、
ベストを毎日取り替えているとおしゃれしているように見えるらしい。「先生はベストをいっ
ぱい持っているね」と感心されたことがあった。実際は7枚でプロ野球の先発投手陣のよ
うにローテーションしているだけだが、「着たきりすずめ」と思われずに済む一つの手とも
いえるだろう。

    (塾長コメント: 菅ちゃんの素晴らしいおしゃれ術ですね!)

188「履修漏れの救済策を悪しき前例にするな」(11月 5日)****************************
 前々回、186未履修問題は各高校だけの責か」で、私は学習指導要領に規定された
必修科目を履修させていなかった問題を取り上げた。これに対して政府がどのような結論
を下したのか。先月31日の閣議後の会見で伊吹文部科学大臣は次の措置を公表した。
  ア・公立・私立を問わず補習授業の上限を1コマ50分の授業で70コマ、すなわち2単
   位分までとする。
  イ・必修科目を履修せずに卒業した生徒に対する卒業資格の取り消しはしない。
上記のアに対して「大多数の高校が履修漏れは2単位以下なのに、70コマの補習授業を
受けさせるのは相当な負担を強いる」として与党から異議が出た。そこで、今月2日には
「政府・与党の合意事項」として、次の2項目が加わった。
  ウ・未履修科目の単位数が2単位を超える場合は、補習授業で70コマの履修をした上
   でリポート提出で補う。
  エ・未履修科目の単位数が2単位の生徒は、校長の裁量で補習授業を3分の2まで軽
   減することができる。
 今回はこの措置が妥当なものかどうかを考えてみたい。
 まず、4ヵ月後に卒業を控えた高校3年生にとっては、これでも相当な負担であることに
は変わりがない。仮に未履修が2単位だとして校長の裁量で70コマの3分の2、すなわち
47コマまで軽減したとしても、1日に50分授業を6コマ受ける日々が8日続くことになる。
未履修科目が3単位以上ある生徒の場合はなおさら事情は深刻だ。校長裁量の軽減措
置を受けることができないのだから、70コマの授業を受けなければならない。つまり1日
6時間の授業を12日受けなればならない。さらに不足分はリポート提出になる。補習授業
を生徒の大学入試が済んだ後から開始するとなるとどうしても3月に入ってからになるだろ
うから、卒業式の日程を繰り下げなれければ不可能だ。高校によっては10単位350コマ
も未履修のまま卒業させようとしていたところもある。そういう高校の生徒の場合は2単位
70コマだけ補習授業を受けさせて、あとの8単位をリポート提出させることになるわけだ
が、現実問題として考えてみると不可能だ。8単位分ものリポートともなれば膨大な量を書
いて提出しなければならなくなるし、それを読んで評価する教員の負担も大変である。真
面目にやろうとすればとても1〜2ヶ月で提出・採点できるものではない。
 結局、現実問題としては厳しいから今回の救済措置も形骸化するのは目に見えている。
つまり「内容はどうであれ、やったことにしておこう」となる恐れが高い。たとえば補習期間
中の欠席はどう扱うのか。47コマを1日に50分授業を6コマ、それを8日間で組んだとし
て、その期間中に病気で3日休んだら18コマの授業を受けていないことになる。普通なら
その時点で総授業時間数の3分の1の欠席という理由で単位認定ができなくなるのだが、
今回に関してはそんなこともとてもできまい。となれば、「補習授業は休んでも出席不足に
はならない」という屁理屈がまかり通ることにもなりかねない。問題はそれだけではない。
単に補習授業さえすればよいのではなく既に履修させた他の教科と同様に試験も成績評
価もしなければならない。調査書に記載するためには履修した全科目の成績も出さなけれ
ばならないからである。前期・後期の2期制の高校でも各学期に中間・期末と2回、年間4
回の試験をしているわけだから、47〜70コマ分の授業の試験範囲を1回の試験で済ませ
て成績評価をするのは無理がある。しかし現実には今から4回も試験の日程を組むことは
できないから、結局は1回になるのだろう。もっといえば試験もせずにリポート提出で済ま
せることにもなりかねない。リポートの内容で10段階の評価をしなければならないのだが、
年度末の多忙な時期にそんなことはできないだろう。結局リポートの中身も読まずに書い
た分量だけで評価することになりはしないか。
 次に、来年高校3年生に進級することになる生徒についても考えてみたい。彼らにもこの
問題は関わってくる。本来なら既に履修済みでなければならない科目を高校3年生に進級
してから新たに履修しなければならなくなるからである。「高校最後の学年なのだから、1・
2年生のとき以上に受験科目をがっちり指導してほしい」というのが生徒の本音だろうが、
その3年生になってから非受験科目の授業を何コマも受けなればならないのである。そし
て彼らには今回のような救済措置は講じられないだろうから、未履修科目が10単位あっ
たら受験とは無関係な科目を毎週10コマずつ受けなければならなくなる。そんな貴重な
時期に未履修科目の履修などさせたら生徒や保護者から苦情が殺到するだろうし、生徒
にしても真面目に取り組もうとはしないだろう。試験をして赤点の生徒が続出したとしても、
それだけを理由に卒業保留にはできまい。結局、これも形骸化して「やったことにしよう」
となるのが関の山ではないか。
 最後に、今後入学する生徒に対しては履修漏れのないようにすべきなのは言うまでもな
い。しかし、この問題に対して各高校が履修漏れのないよう学習指導要領に規定された通
りの教育課程を編成するとは限らない。「受験に無関係な科目は最後に70コマやれば良
いのだ。」という理屈で、大学受験が済むまでは意図的に未履修のままにしておこうという
確信犯が出る恐れもあるからだ。特に、私学は経営がかかっている。大学入試で一定の
結果を出さなければ学校に対する世間の評価が下がり、それはとりもなおさず学園存亡
の危機に直結しかねないからだ。だから今後も実績至上主義に走るだろう。そういう意味
では、今回の救済措置が悪しき前例となる恐れがある。受験が済むまでは受験科目を徹
底的に指導し、それ以外の科目は受験が終わってからという手が使えるのなら今後はそ
ういう道を選ぶだろう。だから今後履修漏れをした私学に対してはその時点で学校法人の
資格を取り消し、公立高校の場合は廃校にするといった断固たる処分も必要だ。(それま
で在籍した当該高校の生徒は転編入学ないし大検受験をして卒業資格を得させる)それ
くらい厳しく対応しなければ、真面目に規定どおりの教育課程を組んで履修させている大
多数の高校に対して、大学入試という土俵上で著しく公平性を欠くことになるからだ。

    (塾長コメント: 今回のルール破りに対する国の対処にはあきれましたね!結局は「赤信号、
             みんなで渡ればこわくない!」か。高校卒業資格を、受験偏重カリキュラムで
             何が悪い!という声に屈した文部科学省も情けないですね。学習指導要領な
             んて、その程度だったんだということが国民全体に伝わった点では良かったの
             かな?)

187「屋号と店舗の中身を一致せよ」(11月 2日)**************************************
 東京の秋葉原には「石丸電気」がある。1号店から4号店まで4棟の自社ビルを構えてお
り、昔から秋葉原を代表する家電量販店として知られている。これは屋号に「電気」と入っ
ているから電気製品を販売している店舗だと誰でもわかる。では「ヨドバシカメラ」「ビックカ
メラ」はどうだろう。大都市にお住まいの人なら一度は行ったことがあるだろう。また郊外に
お住まいの人でもテレビのCMでいつも流れているから知らない人はいないだろう。言うま
でもなくこれも大手の家電量販店で、本店のほかにいくつもの支店を全国各地に構えてい
る。しかし、この店のことを全く知らない人にこれらの屋号を言ったら、きっとカメラの専門
店だと思うのではなかろうか。否、そう思うのが当然なのだ。屋号が「カメラ」となっているの
だから。家電量販店なら「××電気」とすべきだろう。最後が「カメラ」となっているのに、販
売しているものが家電製品というのはおかしいと思う。「蕎麦」と銘打っているのにピザを販
売しているようなものだからである。
 上述の例は「ヨドバシカメラ」「ビックカメラ」だけではない。たとえばプロ野球の球団でも有
名な「Soft Bank」がそうだ。屋号に「Bank」とあるから銀行かと思うのが当然だが、そん
な名前の銀行は福岡県のどこにもない。じつは「Soft Bank」は金融業ではなく通信事業
を営む業者であるからだ。他にもある。「マツモトキヨシ」もそうだろう。音声だけを聞いたら
人の名前かと思うはずだ。しかしこれも全国にチェーン店を構える大手の薬局である。「マ
ツモトキヨシ」という屋号で異業種と誤解される恐れはないものの、やはり店舗名として考え
たとき不自然であることには変わりがない。前々から思っていたのでこの場で言わせてもら
うが、事業主は店舗の中身や事業内容にふさわしい屋号を命名するべきだと思う。

186「未履修問題は各高校だけの責か」(10月30日)***********************************
 世界史などの必修科目を生徒に履修させていなかった高校、あるいは履修させていても
学習指導要領に規定された所定の単位数を満たしていない高校が、今月に入って相次い
で発覚している。現時点での調査結果によると、該当する高校は41都道府県にまたがり
400校を越している。全国で延べ8万人にも及ぶ高校3年生がこのままでは来春には卒業
できないという事態になっている。必修科目を履修させていなかった行為は、「うっかりして
いた」という性質のものではなく、学校ぐるみによる組織的かつ意図的なものであった。該
当する高校は必修漏れを承知の上で生徒を卒業させようとしていたし、そればかりか問題
を隠蔽すべく教育委員会に虚偽の報告をしたり指導要録を改ざんしてきた。だから、普通
に考えれば「極めて悪質な犯罪であり、校長・教頭ら管理職の責任は重大である。」と断罪
するところなのだが、この問題に関してはそうは言い切れない。理由は文部科学省の政策
が招いた結果だからだ。
 問題となった学校の大部分は当該地域を代表するトップクラスの公立高校であった。つま
り難関大学への進学率が最も高い高校だったのである。私もそういう高校に勤務した経験
があるからわかるのだが、こうしたいわゆる「進学校」では常に結果が求められる。今春の
卒業生はどれだけの進学率をあげたかという実績が、その高校に対する地域住民の評価
に直結してしまう。地域の住民だけではない。当該地方公共団体の教育委員会も進学の
成果には高い成果を期待する。特に大都市と違って私立高校の少ない地方では地域住民
が公立志向になっているからなおさらである。これらの期待に応えるためには、当然のこと
ながら受験科目の授業時間数を1時間でも多く確保したいと考えるようになる。これは当該
高校の教職員だけではない。在籍している生徒やその保護者もそう願う。極論すれば保健
体育科も家庭科も芸術科も一切なしで良い。もし大学入試センター試験で課される5教科7
科目だけで教育課程を組めるのであれば、どれだけ現状よりも多くの事柄を教え充実した
授業ができるだろうか。それが教職員の本音だろう。
 しかし、昨今は以前よりも授業時間数の確保が厳しくなっている。それは学校5日制が導
入されたからだ。数年前から小学校・中学校を含む全国すべての公立学校で土曜日の授
業が全くなくなった。これはそれだけで1週あたり3ないし4時間の授業が失われたことを意
味する。つまり高校では卒業までの3年間で10単位前後が失われたことになる。さらには
これまた文部科学省の要請で各教科とは別に「総合的な学習の時間」を新設したため、学
校5日制とは別に週1時間分の授業がなくなった。これらの少なくなった授業時間数を何ら
かの形で補填したいのはやまやまだが、現実はそれが完全にはできていない。平日は夜
遅くまで授業をして生徒を拘束するわけにはいかないし、かといって、夏休みや冬休みの
日数を削減して授業をするわけにもいかないからだ。
 それに対して、私立の進学校ではいまだに土曜日の授業を継続している。「総合的な学
習の時間」も設定していないから、そういう高校では当然受験科目の授業時間数を以前と
同じように確保できている。それだけではない。学校によっては「補講」「特講」などと銘打
って公立高校の生徒が下校ないし部活動に励む放課後にも授業をしている。その学校の
生徒全員ではないにしても、成績の優秀な生徒だけを集めて「特進クラス」なるものを作り、
そのクラスだけを他の一般クラスとは別カリキュラムにしているところも多い。そういうクラス
では夏休みや冬休みも事実上ないに等しい。全館冷暖房完備だから真夏でも正月でも快
適に授業を受けることができるようにしているからだ。私立の進学校がこのように恵まれた
環境で授業ができているので、このままでは公立の進学校との格差が生じかねない。これ
は当該地域のトップクラスの公立高校にとっては切実な問題である。
 今回の未履修問題は、そんな状況下で起きたのである。地域住民や教委の期待に応え
るべく本来3単位履修させる非受験科目を2単位に削減したり、あるいは他の受験科目に
読み替えて履修させることで大学受験に直結する科目を1時間でも多く確保しようと走った
のは、いわば「起こるべくして起きた」結果なのである。それは元をただせば文科行政が招
いた悲劇と言えるだろう。もし学校5日制の導入を各高校の裁量に委ねていれば、進学校
ではこれまで通り土曜日も授業をする教育課程を組んだはずだから、こんな事件は起きな
かったであろう。さらに言えば難関大学における入試のあり方にも問題がある。そういう大
学では学習指導要領に定められた高校3年間の教育課程を履修しただけでは合格できな
い学力を求めているからだ。だから予備校や塾といった公教育以外の教育産業が繁盛す
るわけだが、それは裏を返せば健全な入試システムではないからそうなるのである。入試
を難しくするのではなく、入学後に学問をがっちりさせて容易には卒業できないシステムに
改めるべきである。そうしないと入試を要領よく突破することだけが勉強の全てと化してしま
い、真の学力は決して身につかないままになってしまう。
 最後に、この未履修問題で5ヶ月後に卒業を控えた該当生徒に対する学校の対応にも苦
言を呈したい。今から授業をして不足している単位数分を埋め合わせるなどもってのほかで
ある。これから大学入試なのだ。どの生徒も今から非受験科目の勉強をする時間的な余裕
など到底あるはずがない。入試後に補習を実施し卒業を3月下旬のぎりぎりまで延期するこ
とに決めた高校もあるが、それも問題である。大学に合格した生徒にとっては新生活の準
備などいろいろとやるべきことが山積しているからだ。たとえば自宅から大学へ通えないの
なら、居住地を移転しなければならない。それだけでも大変な労力である。第一、今春卒業
する生徒だけがこの問題の犠牲になったわけではない。もし、現在の高校3年生に対して
補習をしなければ卒業資格を与えることができないというのであれば、未履修のまま卒業し
た過年度の生徒はどうなるのか。彼らも高校の卒業要件を満たしていないのだから、今か
らまた出身高校に呼び戻して授業をしなければならなくなる。それが実現できるのなら現在
の高校3年生にも補習すべきだろうが、現実問題としてそれは不可能である。それを過年
度生を不問に付し今年の高校3年生に対して「補習をしなければ卒業を認定しない」という
のは筋が違う。そもそもこの未履修問題は100%学校の責任であり、生徒は完全に犠牲
者だ。生徒に責められるべき要因があって招いた結果なら生徒にも取るべき責任がある
だろうが、今回の事件は生徒には何ら非がないのである。そうである以上、形骸的な補填
授業のために生徒に貴重な時間を求めるべきではないことは自明である。

185「天気予報の『晴れ』の定義を改めよ」(10月23日)*********************************
 10月も下旬になり、全国的に行楽の秋真っ只中だ。ニュース番組の最後で報じられる
「明日は朝から穏やかに晴れるでしょう。」という天気予報を聞いて行楽地へ出かける方
も多いと思う。そのとき予報を信じて出かけたのに現地に着いたらずっと曇っていたとい
う経験をされたこともあるのではなかろうか。そんなときはせっかく行ったのにという失望
感と、天気予報に対する怒りも覚えるものである。
 しかし、われわれ一般の人が考える「晴れ」と天気予報で使われる、いわゆる気象用語
としての「晴れ」とは意味がまるで違うことを、みなさんはご存知だろうか。われわれは、ま
ず上空の大部分が青空であること、そして雲があってもそれで陽光が遮られる時間がほ
とんどない状態を「晴れ」と認識している。しかし、気象予報士の言うそれは異なる。上空
全体を見渡したとき、雲が占める割合が20%〜80%である状況を「晴れ」と定義してい
るのである。ちなみに20%未満の雲量なら「快晴」で、80%以上なら「曇り」である。また、
われわれ一般人は日照の有無で「晴天」と「曇天」とを区別するものだが、上述の定義に
従えばそれは全く関係ないことになる。上空全体の80%近くも雲が占めていればまず日
照は期待できない空模様だろうが、それでも気象用語では「晴れ」なので天気予報は外れ
なかったことになる。
 しかし、これは是正しないとおかしい。一般人がそうは考えないのだから、気象用語の定
義はやはり改めるべきだろう。われわれは上空全体の半分以上を雲が占めていればたと
え日照があっても「曇り」がちな天気とみなすし、まして日照がなければたとえ青空が見え
ていても「晴れ」とは考えないものである。天気予報はわれわれが日常生活をするうえで
毎日チェックするほど、数ある情報の中でも非常に身近なものだ。それにもかかわらず、
専門家と一般人とで「晴れ」に対する認識があまりにも乖離し過ぎているのは問題だと思
う。このことは日本気象学会で検討し、少なくともわれわれが見聞きする天気予報で用い
る言葉の定義ぐらいは一般の人の認識と近いものに改めるべきではなかろうか。

184「呆れ返る選挙演説」(10月22日)***********************************************
 私の住む神奈川県の県央部では2週間前の8日に、衆議院議員補欠選挙が告示され、
本日の投票日まで候補者の舌戦が繰り広げられてきた。私も毎朝最寄り駅のホームで電
車を待つたびに候補者の街頭演説を聞くともなしに聞いていた。候補者は自民・民社・共
産の3党から 1人ずつ。補欠選挙で定数は当然のことながら1名だ。野党の2氏は、小泉
前総理の構造改革がもたらした格差社会に対する批判とその是正を訴えている。「正規職
員と同じ時間を勤務しても年収はその4分の1もなく、賞与・社会保険はおろか勤務先まで
の交通費すら自腹、さらには有期の雇用契約が切れた後の職場も保障されていない、そ
んな実態を一刻も早く解消すべきではないでしょうか。」と切々と訴えている。これは当然の
主張だろう。しかし政権与党である自民党の候補者までもが、これと同じ演説をしたのには
呆れ返ってしまった。よくもまあヌケヌケとそんなことが言えるものだ。
 「国民には痛みに耐えてもらわなければならない」と言って、米百俵の精神を持ち出して
不良債権の処理をはじめとする構造改革を強行したのは自民・公明の両党である。そして
多くの会社がリストラをせざるを得なくなり、その結果恒常的に5%以上もの失業者を生み
出したのも自民・公明の両党である。正社員が減り、その代わりに派遣社員・契約社員と
いう、今まで存在したことのない社会的身分を生み出したのも自民・公明の両党である。そ
して彼らは800万以上もの年収を得る正社員に対して、その4分の1にも満たない年収で
正社員と同等の勤務をさせられ、結婚も育児も経済的に不可能にさせられている。こうして
ニート・フリーターも含めて現在の格差社会なるものを築き上げ、主として低所得者層から
1年間で3万人、小泉政権の5年半で17万人もの自殺者を出した真犯人は、自民・公明の
両党である。それを今になって野党と同じく格差社会の是正を恥じることなく訴えるとはどう
いうつもりだろうか。思わず候補者の顔に水でもぶっかけて怒鳴りたい衝動に駆られた。

183「卒業生名簿は百害あって一利なし」(10月19日)**********************************
 先週のことであった。私の教え子と名乗る者が事前に何の連絡もなく私の家を訪れた。そ
の日は日曜日であったが、私は学校で残務をしていたため、その教え子とは会えなかった。
だから家族の者が対応したのだが、私が帰ってから聞いた話によると、訪問したのは今か
ら13年も前に勤めた学校の卒業生で名前は「タナカレイコ」だという。私は生徒の顔はたと
え今年度教えている人ですらほとんど覚えていないが、名前だけは初めて教壇に立った年
度の生徒でもちゃんと覚えている。それだけは私の取り柄といっても良いだろう。その「タナ
カレイコ」と名乗った卒業生は私の家までクルマで訪れたらしい。「在籍中は授業その他で
いろいろとお世話になりました」と言ったそうだが、私には全く記憶がない。それで用件は何
だったのかというと、今月8日に告示された神奈川県の県央地域で行われている衆議院議
員補欠選挙における自民党の候補者への投票依頼であった。なんと失礼な訪問だろうと思
ったが、これは学校側にも責任があるのだ。じつはこの卒業生が在籍した高校は私の在職
中に創立10周年記念式典が行われ、その際に在校生・現旧職員は勿論のこと第1期生か
らの全卒業生の氏名と連絡先が印刷された記念誌が配布されていたからである。したがっ
てその名簿を使えば宗教の勧誘だろうが投票の依頼だろうが、何にでも悪用できるのであ
る。私もその記念誌をもっているので早速この「タナカレイコ」が何者なのかを調べてみた。
問題の人物は確かに偽名ではなく本名で存在したが、案の定私とは接点のない生徒であっ
た。それにしてもこれだけ情報通信が発達した今の時代は、卒業生や教職員の名簿など百
害あって一利なしだろう。過去のPTA会員名簿など見ると生徒の氏名・住所・電話番号はお
ろか、保護者の欄に両親の名前(父母の2人分)まで載っている。こんな危険なものをよく毎
年印刷して配布していたものだ。

182「飲酒運転は撲滅できないのか」(10月15日)**************************************
 夏休みが終わりに近づいた8月27日、福岡県福岡市で多目的レジャー車(RV車)が飲
酒運転の車に追突されて幼児3人が死亡するという理不尽極まりない事故があった。追突
した車を運転していたのは同市の職員である。この職員は事故の直前まで居酒屋やスナ
ックでビールや焼酎を飲み、事故現場は制限速度をはるかに越える80km/hで運転して
いた。それだけではない。事故後は逃走したり、同級生に多量の水を持って来させて身代
わりを依頼するなど飲酒運転の証拠隠滅を画策するなどの悪質な行為も発覚した。そんな
悪質な行為をする人間を公務員として採用した福岡市にもあきれ返るばかりだが、この事
故から2週間もしないうちに、今度は姫路市の職員が飲酒運転をして歩行中の夫婦をはね
ている。相次ぐ飲酒運転、それも公務員による人身事故を重く受け止めて、国も飲酒運転
に対する刑罰を厳しくする方向での法改正を検討しはじめた。佐賀県多久市では、飲酒運
転をした職員のみならず運転手に酒を勧めた者や同乗者をも懲戒免職処分とするという
新たな基準を定めて同市の全職員に通知している。また、クルマにもドライバーの呼気か
らアルコールを検知する機械を取り付け、アルコールを検知したらエンジンがかからないよ
うにするシステムを実用化しはじめた。しかし、私に言わせればこのようなことをいくらやっ
ても飲酒運転は撲滅できない。理由は次の5点である。
 第1に、バレるのは運が悪かったとしか思えないほど、飲酒運転が摘発される可能性は
極めて低いからである。クルマが通行している全ての公道上で1km間隔で検問所を設け
て通過する全ての車両を1台の例外もなく24時間絶え間なく検問しない限り、100%の摘
発率にはならないだろう。しかし飲酒運転の摘発を目的とした検問は滅多にしないから、現
状では事故さえ起こさなければ飲酒運転が摘発されることはない。だから、罰則を厳しくし
てたとえ死刑と定めたとしても犯罪予防の効果はない。
 第2に、わが国の警察は所謂「おとり捜査」をしないという点を指摘したい。バーや居酒屋
は勿論のこと、名店食堂街など酒類をメニューに掲げる各種飲食店に店員を装った警察
官を常時配置し、飲酒の行為を確認したうえで会計後に駐車場まで客を見送り、その客が
運転席に座ってエンジンを入れた瞬間に現行犯逮捕すればよいのだが、そのような摘発例
は聞いたことがない。しかし、本当はこのような方法を使ってでも撲滅するべきである。アメ
リカではおとり捜査を日常的にやっているではないか。
 第3に、たいていの飲食店には駐車場がある点も看過できない。つまり現代のわが国で
は「外食する客はクルマで来店する」ということが前提となっているのである。ファミリーレス
トランなどはまさしくそうで、鉄道の駅から遥かに離れた不便な立地にもかかわらず広大な
駐車場を設けて客を集めている。そんな店舗では来店者の99%がクルマである。だが、1
台のクルマで複数の客が来店しても、店員は誰がドライバーかまではいちいち調べていな
い。中には「当店ではお車を運転する方へのアルコール類はお断りします」などと書いた貼
り紙をしている店舗もあるが、そもそも誰がドライバーかを特定していないのだから断りよう
がない。結局は客から注文された飲食物を全て出すことになり、ドライバーも同乗者と同様
にいくらでも酒が飲める状況にしてしまっている。駐車場や店内に監視カメラを設置し、飲
んだ瞬間とハンドルを握った瞬間とを撮影して警察に通報していれば話は別だが、そんな
店舗も皆無である。しかも大部分の駐車場では無人化されている。だから監視員に摘発さ
れることもない。
 第4ににいくら飲食店での飲酒を厳しく取り締まっても、個人の家から個人の家に移動す
るクルマまでは摘発できない点も指摘したい。たとえば私が友人のAさんの家にクルマで
行きそこで酒を飲んで運転して帰宅したと仮定しよう。その場合、Aさんの家から自宅まで
の間で事故を起こしたり検問でもされない限り、摘発を免れるではないか。個人の家で誰
が酒を飲むかまで監視するほど警察官はヒマではあるまい。
 最後に、アルコールを検知する機械についても問題がある。窓をあけたらアルコールが
検知できないほど感度が弱いのでは意味がない。かといって感度が強すぎるのも問題だ。
ドライバー以外の呼気が検出されたら酒を飲んだ者を同乗させることができなくなってしま
うからである。カーナビのときもそうだったが、きちっと機能する機械の実用化はまだまだ
先だろう。また、たとえ実用化できたとしてもこれを法律で設置することを義務づけてドライ
バーに徹底させるのはさらに時間がかかる。飲酒運転を日常的にしている人は設置したが
らないだろうし、たとえ設置したとしても機能しないように不法改造を考えるだろう。
 結論から言えば、この世に酒とクルマの両方がある限り、飲酒運転を根絶させることは不
可能である。本当に根絶させたいのなら、麻薬や大麻と同様にアルコールの製造・販売・
摂取を法律で全面的に禁止し、密輸入でもしない限り日本では決して酒が手に入らないよ
うにするしかない。そうすればハンドルを握るときは必ず素面だから酒気帯び運転も飲酒
運転もなくなるだろう。昨今タバコの先端から出る副流煙の害悪がクローズアップされ、職
場をはじめバス停や駅など公共の場における禁煙が徹底してきたが、喫煙をそこまで厳し
く制限するのならば酒はなおさら厳しくすべきである。非喫煙者がある日どこかで副流煙を
吸わされたとしても、それで直ちに肺がんになって死ぬわけではない。しかし酔っ払った人
がハンドルを握れば、その瞬間にもう人身事故に直結するのである。そう考えれば、どちら
が社会に与える害悪が大きいかは自明であろう。
 ただし、それで飲酒運転はなくなってもクルマによる事故がなくなるわけではないことも指
摘しなければならない。飲酒による事故は全交通事故の10%程度が減るだけに過ぎない
からだ。過労や居眠り運転もあるし、携帯電話やカーナビに気を取られたため前方不注意
になるなど、クルマによる事故はまだまだ山のようにある。だから悲惨な交通事故を減らす
には酒を取り締まるよりもクルマそのものが存在しない社会にする方が先決だろう。だが、
それは「脳腫瘍撲滅のために全国民の脳を手術して取り去ろう」と言っているようなもので
ある。確かに脳がなければ脳腫瘍もできないが、そんなことをしたら人間生活そのものが
不可能になる。それと同じで今さらクルマのない社会など実現できるはずがない。恐らく酒
類も酒造業者の利害と対立するから麻薬のような取り締まり対象にはできないだろう。だか
ら結局、今後も飲酒運転を撲滅することはできず、悲惨な事故は後を絶たないと思う。だか
らこの国では事故に遭った被害者は「運が悪かった」で片付けられ、いつまでたっても浮か
ばれないままである。

181「敬語の新分類について」(10月 8日)*******************************************
 敬語の指針づくりに取り組む文化審議会国語分科会の敬語小委員会は、現在は一般に
尊敬・謙譲・丁寧の3つに分類されている敬語を、あらたに美化語と丁重語を設けて5つに
分類する案を出した。今後は一般からの意見を採用して修正すべき点を改めて2007年2
月に文部科学大臣に答申するという。
 まず、現在の敬語における3種類について確認しておこう。これについては私の『こてんこ
てん』蔵庫4には「敬語の種類」と題して記したとおりである。改めて掲載すると下記の通り
だ。
 尊敬・・・相手や登場人物の動作に敬意をもたせることで、その人を敬う心情を表す。
      (例・先生は午後8時にお帰りになりました。)
 謙譲・・・自分や登場人物の動作をへりくだって表現することで、その人から動作を受ける
      相手を敬う心情を表す。
      (例・お客様のお荷物は
私どもお預かりします。)
 丁寧・・・作者が読者に対し、または話してが聞き手に対して、
       礼儀正しく表現することで、読者や聞き手を敬う心情を表す。
      (例・この先に
お茶を売っている有名な店があります。)
 今月3日に新聞紙上で報じられた案によると、謙譲語と丁寧語を2種類ずつにするという
もの。新聞に掲載された解説文を原文のまま紹介しよう。
  指針案によると、謙譲語は、(1)「申し上げる」「お目にかかる」「差し上げる」や、立てる
 べき人物への「お手紙」「ご説明」のように自分がへりくだることで相手への敬意を表現す
 る「謙譲語T」と、(2)「参る」「申す」「いたす」や「小社」「拙著」のように、自分の動作など
 を丁重に表現する「謙譲語U」(丁重語)とに分けられる。丁寧語は、「です」「ございます」
 のように、相手に対して丁寧に述べる従来の「丁寧語」と、「お酒」「お料理」のように、物
 言いを丁寧で上品にする「美化語」に分けられる。美化語は狭い意味での敬語とは性質
 が異なるが、広い意味で敬語の一種と判断した。

そして、次の単語を例として挙げて分類一覧表が載っている。
 尊敬語・・・いらっしゃる/おっしゃる/なさる/召し上がる/くださる/始められる/読ま
       れる/ご利用になる/お使いになる/お忙しい/ご住所/ご立派/(相手から
       の)お手紙、ご説明
 謙譲語T・・・伺う/申し上げる/お目にかかる/差し上げる/お届けする/ご案内する
         /(相手に対する)お手紙、ご説明
 謙譲語U・・・参る/申す/いたす/おる/小社/拙著
 丁寧語・・・です/ます/ございます
 美化語・・・お酒/お料理

 この分類に従うと、冒頭で私が出した例文のうち、「お帰りになり」は尊敬語、「私ども」が
丁重語、「お預かりし」が謙譲語、「お茶」は美化語、「ます」が丁寧語となる。では、このよ
うに5種類に分類した理由はなぜか。新聞には次の説明が載っていた。
  この指針は、敬語の使い方を難しいと感じる人を主な対象にしている。敬語をより適切
 に使ってもらうためには5種類のほうが適当と判断した。

 しかし、私は敬語を学習する中学生や高校生に対して混乱を招くだけで、5種類に分類す
ることは有害無益としか思えない。その理由は謙譲語と丁重語との区別が判然としないか
らである。たとえば「申し上げる」が謙譲語で「申す」がなぜ丁重語なのか。「その件につき
ましては先日私が申したとおりです。」
と、「その件につきましては先日私が申し上げたとお
りです。」
とはどこが違うのか。また、「伺う」が謙譲語で「参る」がなぜ丁重語なのか。「明日
午前9時に伺います。」
と、「明日午前9時に参ります。」とはどこが違うのか。両者の違いを
初学者にわかりやすく伝える術はないのではなかろうか。
 学年によっては美化語を丁寧語から分けて敬語は4種類として指導している学校もあると
いう。しかしこれもあまり関心しない。新聞に載った一覧表には「お酒」「お料理」が美化語の
語例として紹介されているが、その表には謙譲語の欄にも尊敬語の欄にも「お」+名詞の例
として「お手紙」が、「ご」+名詞の例として「ご説明」が載っているからだ。そうなると、次の文
章はどうか。
  工場見学していただいた後の試飲会では来場されたお客様に醸造したてのお酒をお出
 ししましたが、後日お飲みになった方からは「これが
お酒とは思えません。」というお手紙
 をかなりいただきました。ですから、このお酒は他の酒類とは異なるという点について、
 客様
へのご説明がもっと必要かと思います。
 この文中で「お客様」「お手紙」を尊敬語、「ご説明」を謙譲語に分類するのはよしとしても、
この文中にある「お酒」はすべて美化語で良いのか?
 結局、分類して簡潔明瞭になるどころかかえってわかりにくくなっている。私の勤務する高
校でも先週は国語科の同僚とこの話題で議論したが、高く評価していた者は一人もいなか
った。誰もが「全く意味がない分類だ」と一蹴し、最後は「こんなことを誰が考えるのだろう」
と首をひねっていた。現場の教員からその程度の評価しかされないようなものを、よくも「こ
の指針は、敬語の使い方を難しいと感じる人を主な対象にしている」と、ぬけぬけと言えた
ものだ。