菅ちゃんの呟き
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100「女性専用車両の扱いについて」( 5月15日)**************************************
 去る5月11日掲載分の『日記とお知らせ』にも書いたが、関東地方の私鉄では5月9日
から女性専用車両を導入した。既にJR東日本の埼京線と私鉄の京王線では導入してい
たが、大手私鉄が一斉に足並みを揃えたのは今月になってからである。車内での痴漢行
為や盗撮行為が相次いでいる現状では導入もやむを得まい。ただ、その取り扱いに関し
てはいくつか問題点がある。
 第1に、車両やホームに貼付されている案内表示が終日にわたってなされていることだ。
ある車両を女性専用車両として扱うのは平日の限られた時間帯の列車だけである。それ
なのに、車両の窓ガラスには終日「女性専用車両」と掲示されている。女性専用車両の乗
車位置を示す案内もホーム床面に貼付されているが、これも終日そのままである。したが
って、該当時間帯以外の平日はもちろん、一日中男性が乗れるはずの土曜日・休日にさ
えも「女性専用車両」と掲示された列車が走り、ホームの乗車位置案内もその貼付されて
いるのである。しかし、これは非常に抵抗がある。いくら該当時間帯の列車ではないとは
いえ、遠くから見てもすぐにそれとわかるような車両に乗っているのはあまり気分の良い
ものではない。ホームでもそうだ。「女性専用車両」と掲示された乗車位置で列車を待って
いるのも抵抗感がある。だから、女性専用車両として使用する以外の時間帯や列車では
そのような掲示を撤去すべきである。窓ガラスに貼付すると簡単に剥がせないから、もっ
と容易に着脱できる方法で掲示すれば良い。とにかく、女性専用車両として使わない時間
帯にも「女性専用車両」と大書された車両を走らせるのはやめていただきたい。もしそれが
できないというのであれば、お年寄りや体の不自由な方のために設置された優先席のよう
に、年中、終日、全列車を対象にすべきである。
 第2に、女性専用車両だけでは片手落ちだということだ。痴漢行為をしてもいないのに女
性に騒がれたために犯人としての扱いを受ける、いわゆる冤罪の例もあるからだ。悪質な
例だと、一人が被害者役・残り二人が目撃者役を演じて三人で組になり、標的にした男性
を痴漢の犯罪者にでっちあげ、示談金という名目でお金を巻き上げている。被害に遭った
男性は、無実であることを自ら立証せざるを得ない。しかし、これは非常に困難である。電
鉄会社も警察も当然のことながら女性の訴えを重んじるし、現場の目撃証人まで現れれば
「限りなく容疑は濃厚」とみなすからである。したがって所轄の警察署に48時間勾留される
のは必定である。その間に勤務先の会社を解雇されるなど、社会的地位も名誉も収入も
喪失させられている。特に不況が長引く昨今では、あらゆる方法でカネ目当ての犯罪を画
策するだろうから、今後もこの手の事件は減らないであろう。だから、こうした冤罪を防ぐた
めにも女性が乗れない車両も設置し、男性にも安心して乗れる場を提供すべきである。
 最後に、今後、冷房を使用する季節になったとき、女性専用車両を弱冷房車両にするか
否かという問題が残る。確かに、冷え性の人や冷房に弱い体質の人は男性よりも女性に
多い。だから、女性専用車両を弱冷房車両にしても良さそうだが、そうすると冷房に弱い男
性が不利益を被る。そうならないように、弱冷房車両も編成中2両は必要ということになる。
電鉄会社も次から次へと出される乗客の要求に応じなければならず、頭の痛いところであ
ろう。
 それにしても、女性専用車両の設置理由が痴漢行為や盗撮行為を防止するためとはあ
まりにも情けない話である。倫理観や理性のない男性が増えたことも憂うべきだが、同時
に痴漢や盗撮を助長するような環境がそうさせたとも言えなくもない。特に、盗撮は明らか
に昨今の電子技術で生まれた商品により急増してきた。そういう意味でカメラつき携帯電
話や赤外線で撮影できるカメラなどは取締りの対象にすべきだし、製造を禁じる法律を制
定してもらいたい。

    (塾長コメント:平成17年5月15日付朝日新聞の「声」欄にこの話題に対する投稿があった。
             女性専用車両は対処療法的で、混雑緩和こそが抜本的解決法だと論じている
             が、私自身まさにその通りだと思う。時々電車を利用するとき朝夕の混雑時に
             近くに女性がいると、とても気を遣ってしまう。車内全体がゆったり余裕がある
             ときは全く感じないが...。)

099「有事に無事という言葉を使うな」( 5月 8日)*************************************
 よく事故や災害による被害者の安否を報道する際、「○○さんは無事であることが確認
されました。」という表現がなされることがある。しかし、本当に「無事」かというと決してそう
ではない。病院で治療を受けるほどではないにしても何らかの怪我をしたかもしれない。あ
るいは、かすり傷ひとつ負わなかったが多大な精神的ストレスを受けたかもしれない。「無
事」の意味は「取り立てて言うほどの変わった事がないこと。危険・不幸・大過などが発生
しない平穏な状態」である。つまり、負傷の有無にかかわらず事故や災害に遭ったこと自
体がもう「有事」であり、決して「無事」ではないのである。したがって、被害者に対して「無
事」という言葉を使うことは誤りである。正しくは「○○さんは生存が確認されました。」と表
現すべきであろう。
 先月発生したJR宝塚線の列車脱線事故を例に挙げれば、事故を起こした快速電車の
乗客・乗務員と、事故当時に激突されたマンションの中で過ごした人々は全員「有事」であ
る。問題の列車の1本前の列車に乗っていたために尼崎に着くことができたのなら、「無
事」と表現してかまわない。あるいは問題の列車には乗っていたが伊丹までの停車駅で
下車したのなら、これも確かに「無事」である。しかし、あの快速電車に事故現場まで乗っ
ていたのなら、もう「無事」ではないのだ。現場から救出されて病院に搬送されたものの、
本人は意識不明の重態であるかもしれないのに、それを「息さえあれば無事」と思い込ん
でいる報道関係者が多いのには呆れるばかりである。

098「JR宝塚線脱線事故について」( 5月 1日)***************************************
 4月25日の朝、JR宝塚線の塚口〜尼崎で宝塚発同志社前行きの快速列車が走行中
に脱線し、100人を超す死者と450人以上の負傷者を出してしまった。現場は私の育っ
た関西圏、それも兵庫県尼崎市内であるため、今でも私は大阪へ帰った際に何度も通
過している。それほど身近な場所だけに、事故の報に私もショックであった。死傷者を出
した関西圏の鉄道事故としては、1991年5月14日に起きた信楽高原鉄道事故以来の
大惨事である。
 事故の原因は制限速度の超過であるとの見方が濃厚である。カーブした線路で規定の
速度より38km/hも超過していたのだから、これは否定しようがない。問題はそこまで超
過して運転していた事情は何かということであろう。
 まず今回の事故に関して明らかになった事実として次の7点を確認しておきたい。
1・事故を起こした快速列車は伊丹駅で所定の停車位置を40mオーバーランしていた。
 このため同駅を定刻より1分30秒遅れて発車していた。
2・この列車の乗務員であった松下正俊車掌は高見隆二郎運転士からオーバーランの事
 実を過少申告するよう言われた。そのため同車掌は運転指令所にオーバーランの距離
 を「8m」と偽って報告をした。
3・事故現場は半径300mの右カーブのため70km/hの速度制限があった。しかし、乗
 客からは異常に早かったという証言が相次いだ。事故後の検証で車両に搭載してある
 モニターを解析したところ、現場を108km/hでさしかかっていたことが判明した。
4・高見隆二郎運転士は、昨年6月にも京都府内にあるJR学研都市線下狛駅で100m
 のオーバーランをしていた。このため訓告処分を受け、13日間の再教育を受けていた。
5・JR宝塚線の各列車は尼崎で神戸線・東西線のいずれかに必ず乗り入れており、乗り
 入れない一方の線区を走る列車に対しても待ち時間なく乗り換えられるように接続する
 ダイヤを組んでいる。したがってこのダイヤには、1本の列車の遅れが後続の列車ばか
 りか他線の各列車にも影響を及ぼしてしまうことは避けられないという欠点があった。
6・乗務員は列車をダイヤどおりに運転することを会社から強く求められていた。また、定
 時運転を守れない者は勤務成績を下げられていた。
7・宝塚線はいわゆる関西圏の都市近郊路線で、私鉄の阪急宝塚線と競合している。JR
 西日本になってからは運転本数の増加とスピードアップを図り、阪急から客を奪ってい
 た。
 上記1の時点で、1分30秒遅れのまま運転していけば事故にはならなかったはずであ
る。では、なぜそうしなかったのか?1分30秒ぐらい大した遅れではないではないか。こ
れが大方の読者の感想であろう。なぜ制限速度を超過してでも、定時運転を取り戻そう
としたのか?それは列車の乗務員には上記5の事情があったこと、さらに高見隆二郎運
転士個人には上記3の事情もあったからである。では、なぜそこまでしてJR西日本は定
時運転を求め続けたのか?なぜ定時運転を守れない乗務員に厳しい制裁をしていたの
か?この問いを解くには関西人全体の気質に触れなければなるまい。
 私を含めて関西人は他の地方の人に比べて総じて「いらち」である。標準語に訳すと、
「せっかち」といわれるが、とにかく「のんびりと待っていられない」気質なのだ。電車にし
てもバスにしても、整列乗車もせずにドア口に殺到し、降りる人がいてもかまわず我先に
乗り込もうとする。エスカレーターに乗っても立ち止まりはしない。「機械の動力」+「自分
の脚力」で、より速く移動しようとする。青になるまでの待ち時間を表示する機能がついた
歩行者用信号機を設置したところ、残り10秒と表示された途端にみんな横断歩道を渡り
始めたという話は有名である。これらの事実が示すように、とにかく待てないのだ。だから、
鉄道を利用する場合でも「いらち」である。所要時間がかかること、待ち時間が長いことを
非常に嫌う。少しでも速く移動できる手段があると、すぐそちらを選んでしまう。ましてや定
刻より遅れたために通常なら接続できる電車に乗れないという事態にでもなろうものなら
大変だ。乗客は非常にいらいらするし、抗議や苦情も殺到する。そのすさまじさは関東・
東海地方など他の地区のそれとは比べものにならないほどである。JR西日本はそういう
関西人の特質を知悉していた。だから、定時運転に神経質にならざるを得なかったので
ある。
 大阪は昔から商売の街、お客様に対して良質で安価なものを提供してきた。鉄道もそ
うである。かつて大阪は私鉄王国といわれていた。国鉄には東海道本線をはじめ大阪
近郊を走る線区がいくつかあったが、在阪の私鉄にはサービス・運賃・速さのどれをとっ
ても勝てなかった。それは今回の宝塚線についても言える。国鉄時代は宝塚以北が非
電化であった。電化されていた宝塚以南でも遠く山陰本線の米子・出雲市からディーゼ
ル機関車に牽引された客車列車がのんびりと大阪まで走っていた。だから、大阪〜宝塚
間の利用者はほぼ全員が阪急を選択し、国鉄に乗る人は皆無に近かった。それを国鉄
の分割民営化後に全線を電化するとともに複線区間の延伸と高速化を施し、阪急から
客を奪ってきた。しかし、阪急もこのまま黙って引き下がりはしない。だから、JRとしては
より良質なサービスを提供しつづけていかなければ再び客が阪急に逃げてしまう。そこ
で神戸線、それと新規に開業した東西線を経て学研都市線(昔の片町線)に乗り入れる
ようになった。こうして乗り換えなしで大阪・高槻・京都方面と京橋・四条畷・木津方面に
行けるようになったのである。そして、乗り入れない路線に対しては必ず相互の列車が
ホームの両側に並んで発着し、双方の列車の乗客が待ち時間なしで乗り換えられるよう
にした。
 事故後の新聞報道を見ると、「乗客の安全より定刻運転を優先した」ことへの批判が目
立ち、とんでもない会社であるかのように書かれている。しかし、こういう事情を斟酌する
と、JR西日本がこれまで取り組んできたことは決して悪いことではなかった。むしろ、「い
らち」な関西人の気質やお客様本位である大阪の商いの精神に応えるべく、乗客にとっ
て良かれと思ってやってきたことであった。そして現に、事故が起きる日までは非常に利
便性の高い列車ダイヤが世間から高く評価され、乗客もその恩恵にあずかってきたので
ある。私はJR西日本を弁護するつもりはない。事故の全責任は言うまでもなくJR西日本
にある。しかし視点を変えると、今回の列車脱線事故は関西の文化が招いた悲劇とも言
えなくもない。もし沿線住民が「いらち」な気質ではなかったら、もし殿様商売が成り立つ
地域なら、この事故は起きなかったと思う。そういう意味で、乗客の要望に必死で応えよ
うと努力を積み重ねてきたJR西日本も被害者であると言えよう。

    (塾長コメント:「いらち」という言葉、初めて聞きました。関西を車で移動することはよくあるの
             ですが、今までせっつかれたことはないですね。むしろ、交差点、進入路では
             親切でした。関西人は運転が乱暴という先入観があったので意外でした。今
             回の事故は痛ましい限りです。それにしても最近本当にうっかりミスが多いで
             すね!)

097「国語教育の問題点(4)」( 4月24日)********************************************
 最終回は漢文の指導に関する問題点を取り上げる。高等学校における漢文の領域は、
散文として物語・随筆、韻文として漢詩がある。漢文に関する問題点は次の3点である。
 まず、何といっても配当時間あまりにも少ないことである。高校1年生の必修科目である
「国語総合」でみると、全体が標準で4単位しかない。これを現代文に2単位・古文に1単
位強を割り当てるのが普通だから、漢文はせいぜい0.8単位程度しかないことになる。
つまり週1時間分の授業時数すら確保できていないということだ。この限られた時間内に
「漢文とは何か」という基礎知識から始めて、返り点のルール・再読文字・基本句型を一
つひとつ指導していくのはなかなか困難である。
 次に、入試に漢文を出題しない大学が非常に増えてきたことも問題である。文学部の国
文学科ですら漢文を出題対象から外している大学・短大も珍しくなくなった。ましてや他の
学部ではなおさらである。だから、必然的に「入試に出ない漢文をやるより古文や論作文
の指導に時間を割いてほしい」という生徒の本音が出てくる。学校側も生徒の進学実績を
少しでも向上させなければならないから、1年では漢文に時間を割いても、2年・3年と学
年が上がるにつれて漢文の授業を少なくしていく傾向が見られる。これでは「矛盾」「朝三
暮四」といった故事成語に触れる機会もなくなるし、孔子や孟子の名言も知らずに高校を
卒業していくことになる。
 最後に、1学年において漢文の指導を古文よりも先にすることについて言及したい。こ
れは高校の国語教育を生徒の学力上ほとんど差がない分野からスタートできるという利
点がある。しかし、指導上いささか無理があることは否めない。漢文を解釈する際、まず
訓読文を書き下し文にし、そこから現代語訳をするという作業になる。つまり、書き下し
文にした時点で中国の文章は我が国の古文になるわけである。それを現代語訳するの
であるから、当然、ある程度の古文の解釈力が要求される。また、書き下し文にする際
に日本語で付属語に該当する漢字は平仮名で表記することになっている。したがって、
どの単語が付属語なのかを予め指導しておかないと、どの漢字を平仮名書きにするの
かもわからないことになる。要するに、古典文法の知識がないと訓読文を書き下し文に
することもできないのである。以上の理由で、漢文に入る前に古文、特に古典文法に関
しては歴史的仮名遣い・10品詞の判別はもちろんのこと、用言・助動詞の活用まで一通
り指導するのが適切である。そうした古典文法の指導と併せて『竹取物語』『徒然草』の
比較的平易な章段を講読し、生徒が古文の文体や歴史的仮名遣いに慣れてから、漢文
の指導に入るようにすべきであろう。

096「国語教育の問題点(3)」( 4月17日)********************************************
 今回は現代文の指導に関する問題点を取り上げる。高等学校における現代文の領域
は、評論・随筆・小説・詩・短歌・俳句の6つである。前3者が散文・後3者が韻文である。
 現代文の指導における最大の問題点は、特定の解釈の強要であろう。答案返却後に
出る「俺はこう思ったからそう答えたのに、先生はそれを○にしてくれない。」という生徒
の不満の多くは、これが原因だ。つまり、何通りもの解釈があっても不思議ではないもの
に対して授業で特定の解釈を指導し、しかも定期試験にそれを出題し、採点の際に教師
の指導した解釈と異なるものを不正解としているためである。これに関しては、扱う作品
のジャンルによってその発生頻度が異なる。評論文は理詰めに書かれていることが多い
から、そういう問題は起こらないが、いわゆる文学作品の鑑賞という性質が高くなる小説
や韻文ではありがちだ。だから、授業で作品を鑑賞してさまざまな解釈の存在を取り上げ
ても、試験では解釈に触れる出題を避けるべきであろう。
 作品に対する解釈が固着する一因として、「同一学年の同一科目においては同一の教
材を扱い、定期試験問題も全クラス共通の問題を出題する。」という教務内規で教科指
導が行なわれている学校があることも指摘したい。これは「授業担当者が誰であっても本
校では同一の教育を受けることができます。」という点で、教師間格差の生じにくいシステ
ムであると言われる。数学科のように正解が1つしか存在しない学問ならともかく、国語科
にこれを適用するのは好ましいことではないと思う。たとえば10クラスをA・B・Cの3人で
担当しても、定期試験を全クラス同一の問題にするとなると、3人が作品の解釈を統一し
た上で授業に臨まなければならなくなる。そうしないと採点基準に不公平が生じ、後で説
明責任を果たせなくなる恐れがあるからだ。したがって解釈が複数成立し得る事柄に対し
ては、「ここは××氏の説にしたがって指導しましょう。」「この一節は指導書の解釈どおり
に進めましょう。」という具合に事前に担当教員間で協議しながら進めていくことになる。こ
うして予め打ち合わせしておいた解釈を教室で生徒に伝えるわけだが、本来読む側に解
釈の幅が認められる韻文に対してまでも、そういう指導をすることに果たしてどれだけ意
義があるのか、私は非常に疑問である。
 国語教育の特徴の一つに、ものの考え方はいろいろあること、そしてそのどれもが共存
し得ること、という2点を指導することにある。それが自分とは異なる見解・意見をも受け
入れていくこと、つまり、心の広い人間形成にも貢献するのである。そういう観点からも、
特定の解釈を指導してそれだけを正解として押し付けている印象を生徒に与えかねない
ような授業だけはすべきではないと思う。

095「国語教育の問題点(2)」( 4月10日)********************************************
 今回は古文の指導に関する問題点を取り上げる。中学校や高校で扱う古文とは、江戸
時代以前に成立した我が国の文学作品をさす。文学ジャンルとしては物語・随筆・和歌・
俳諧の4つに分けられる。いずれも解釈にあたっては古語の語彙力と古典文法の理解が
不可欠である。だが、それに関わる指導に3つの問題があると私は思う。まず、現代語訳
をする際の問題点だ。さっそく次の例文で検討してみよう。

 秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝所に行くとて、三つ四つ、
二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、
いとをかし。


 改めて紹介するまでもないが、この文章は清少納言の作である随筆『枕草子』で、「春は
あけぼの。」で始まる第1段の一節である。たいていの教科書には収録されているから、習
った記憶のある方も多いであろう。さて、上の文章がどう現代語訳されているか。ある教科
書の指導書から抜粋したのが下記である。

 秋は夕暮れ。夕日がさして山の端にたいそう近くなっている時に、烏が寝ぐらに行くといっ
て、三羽四羽、二羽三羽などと飛び急いでいるのまでがしみじみと感じられる。まして雁な
どの列をなしているのが、たいそう小さく見えるのは、たいそう趣がある。


 大学で平安時代の国語学や『枕草子』を専攻して教壇に立っている方なら別だが、そうで
ない方、とりわけ教壇の経験が浅い方の多くは、この指導書の現代語訳をそのまま授業で
紹介されるのではなかろうか。しかし、この文章をよく見ていただきたい。「現代語訳」と言う
からには「現代語」で「訳」されていること、つまり、生徒を含めた我々が日常生活で見聞き
する言葉でなければならないはずだ。だがこの文章はどうだろう?生徒はおろか、我々大
人でさえ使っていない言葉がかなり含まれている。
 まず目につくのは、原文に3箇所ある副詞「いと」がすべて「たいそう」と訳されていること
である。ある事象について程度の激しい様子を表現するとき、現代の中学生や高校生が日
常会話で「たいそう」と言うだろうか?大人でも「道路がたいそう渋滞していた。」「この紐は
たいそう長い。」などと話しているだろうか?他にも、「をかし」が「趣がある」と訳されている。
この言葉は古語辞典にもそのように語義が紹介されていることが多いが、
これも我々が日常会話で使う言葉とは思えない。このように、現代の人が使わない言葉で
現代語訳をしているのが問題なのである。これでは現代語訳を丸暗記させることはできて
も、場面の情況を生徒に伝えることは不可能だろう。したがって生徒に作品を理解させる
ことができないのも当然である。最大の問題は「あはれなり」と「をかし」の訳だ。ともに事
象に対する感動を表す言葉ではあるが、その概念は対照的である。だからこそ清少納言
は「烏」に関しては「あはれなり」、「雁」に関しては「をかし」と両者を使い分けたのであろう。
だが、この現代語訳は前者が「しみじみと感じられる」、後者が「趣がある」としか書かれて
いない。これをそのまま授業で紹介したのでは、両者のもつ概念の相違を生徒に理解させ
ることはできないだろう。つまり、指導書・古語辞典・さらには各種の注釈書を参照しても、
それで生徒に場面の情況が伝わる現代語訳になるとは限らないのである。これは生徒が
手にする教科書・古語辞典・学習参考書の出版社に改善していただきたいことだが、指導
する側も生徒の「日常語彙」で訳す工夫が必要である。これが第1の問題点だ。

 第2に、古典文法の指導に関する問題点である。古典文法を指導するのは高校に入って
からである。しかし、一部の進学校は別として、高校における3年間の国語教育で大学受験
に課される古文を自力で解釈できる学力を培うのは、非常に困難と言わざるを得ない。情
けない話だが、高校生の多くは大学受験予備校の授業で鍛えられてようやく解釈できるよ
うになるのが現状だ。では、なぜそうなるのか?それは古文の指導に充てる授業数が足り
ないことも一因だが、最大の原因は中学校で扱うはずの現代語文法をきちっと指導してい
ないことである。古典文法を指導する際に現代語文法と対照して進めると非常に効率が良
い。例えば「現代語の下一段活用動詞は古語ではすべて下二段に活用する。」と教えるこ
とができる。しかし、現代の高校生は古典文法以前に現代語文法がわかっていないから、
「活用」「文節」といった文法用語の概念までをも高校教育で一から指導していかなければ
ならない。だから、多くの高校では用言の活用を指導した時点で1年が終わってしまい、付
属語や敬語の用法まで手をつけることができずに3年が経ってしまう。文法項目の指導は
中学生にとって難解すぎて時期尚早だというのではない。現に、英語は「受動態」「比較級」
「不定詞」「関係代名詞」などと、多くの文法項目を中学校で扱っているのだ。外国語の文
法を扱う以前に、本来なら母国語である日本語こそきちっと指導すべきである。それがで
きていないのは非常に残念だ。中学校における国語の教育内容を見直し、もっと日本語の
文法教育を充実させるよう改善していただきたい。
 最後に、同一学年で古文を継続的に指導している学校が少ないことだ。これは高校での
国語教育に関する問題である。特に「国語総合」や「国語U」をみると、ある時期には現代
の作品を講読し、それが終わると古文になり、また現代の作品に戻り、今度は漢文をやる
という進め方が多い。これでは古文の解釈に必要な古典文法や古語の指導が断続的に
なってしまう。だから、ある時期に古典文法を教えても生徒がいつの間にか忘れてしまって
いる。「国語総合」は標準で4単位あるのだから、2単位ずつ「現国」「古典」に分けて、それ
ぞれを1年間継続的に指導していくのが望ましいのだが、そういう指導をしている学校は数
少ない。私が高校生であった当時の出身高校では「国語T」「国語U」とも「現国」「古典」
に分割し、授業担当者も定期試験も各学期の成績評定もすべて別々であった。(調査書や
指導要録に記載する学年の5段階評価だけが両者を合わせたものになっていた。)したが
って1年間継続して古典の授業を受けることができた。科目数を増やすと授業時間割の組
成が煩雑になることは確かだが、それでもぜひ実現させてほしい。そうしないと古文解釈に
必要な文法や古語の力を効率良く向上させることができなくなるからである。

094「国語教育の問題点(1)」( 4月 3日)********************************************
 今月は国語教育の問題点について述べたいと思う。私が国語科の教員になりたいと思
ったのは高校1年生の夏であった。その当時から私は国語に関心を持っていた。しかし、
授業ついては特に何の疑問も抱かなかった。授業で扱った作品も先生の指導方法も、私
は気に入っていたからである。大学を卒業して教壇に立ち、教わる側から教える側に転じ
たわけだが、それでも最初の2,3年間はこれまでの先生方が築き上げた指導方法を最
高のものと信じていた。それに、日々の教材研究に追われて自分も夢中になって授業に
臨んでいたから、疑問や問題点を感じる余裕がなかった。しかし5年,10年と年月がが経
つと、国語教育のあり方について感じるものが増えてきた。年度が改まって4月を迎えた
この機会に、私なりに現在の国語教育に対する所感を述べようと思う。第1回目の今回は
「国語表現」の指導についてである。
 国語の指導領域は4つある。「読む」「書く」「聞く」「話す」だ。このうち「国語表現」は主に
「書く」「話す」の2領域に密接に関わるのだが、昔から国語教育は「読む」領域に偏向して
いたため、他の3領域、とりわけ「書く」指導に関してはじつにお粗末であると言わざるを得
ない。それは、どのような作文指導がなされてきたかを振り返ればすぐにわかる。義務教
育における作文指導は原稿用紙の使い方と誤字脱字の添削が主で、あとはテーマに即し
た内容が書かれているか否かを見るという程度である。評価にしてもそうだ。原稿用紙を
正しく使えて誤字脱字がなくテーマに即した内容なら花丸をもらえる。高校になると大学受
験や就職試験に備えて論作文の指導が加わる。与えられたテーマに対して受験生が私見
を論述する「作文」だ。それでも、建設的な自論が展開できているかを見ることが加わるだ
けで、その他の指導内容は義務教育におけるそれと何ら変わらない。つまり、小学校から
高校までの間、作文技術に関する指導がほとんどなされていないのである。これが第1の
問題点だ。
 たとえば読点ひとつ例にとってもそうである。読点はどこに打つべきなのか?現代の国語
の授業ではこれを理論的に教えていない。高校生になれば「文節と文節の間に打つ」という
程度は知っている。だが、それ以上のことは知らない者がほとんどだ。生徒だけではない。
大人も大部分の人がわかっていない。さまざまな著書やホームページの掲示板に投稿され
た文を読むと、いかに読点の使い方がいい加減かがよくわかる。文字がある一定以上連
続すると読みにくくなるからという理由だけで、そこそこの長さになったと感じた箇所で、つ
まり各自の主観で適当に打っているだけだと言っても過言ではない。助詞の使い方にして
もそうだ。「私はやりました。」と「私がやりました。」との違いを理路整然と説明できる生徒
はいない。「は」と「が」とでは助詞の種類からして異なるのだが、高校生でもほとんどの生
徒は知らない。修飾語句にしてもそうである。だから、「私は彼のようにゲームは趣味では
ない。」といった意味不明の文を書いて平然と提出してくる。これでは「彼はゲームは趣味
である」とも「彼はゲームは趣味ではない」とも受け取れる。だから意味不明の文になって
しまっているのだが、それすらわかっていない。このような結果になるのは、要するに個々
の文を書く技術を指導してこなかったことが原因であろう。今回このホームページに『さく
ぶん上手』というコーナーを新設するにあたって、私は中学・高校の国語教材をつぶさに
見た。しかし、やはり上述の事柄に関する詳細な記述はどの教材にも見当たらなかった。
 だが、「文章」を書く以前に「文」を正しく書けるように指導することこそ先である。あるテ
ーマで原稿用紙を1枚書き上げるためには当然いくつかの文を連ねるわけだが、そのた
めにはまず一つひとつの文をきちっと書けなければ何もならない。どう書けば読む側にわ
かりやすく伝えることができる文になるのか?これを指導すべきなのだ。だから原稿用紙
の使い方を取り上げた後は
 1・個々の文を正しくわかりやすく書く方法
 2・文と文とをスムーズにつなぐ方法
 3・段落のもつ働きと全体の構成
 4・主題に沿った建設的な自論を展開する方法(論作文の場合)
という順序で指導しなければならない。現実は1と2が欠けている。そのため、高校卒業ま
での12年間を教室で学んでいるにもかかわらず、わかりやすい文を書く技術をほとんど身
につけないまま社会へ巣立ってしまう。国際化社会が到来し、日本語を学ぶ外国人も少な
くない現代にあって、日本語を母国語とする我々日本人がこの有様ではあまりにも情けな
い。
 第2の問題点は、義務教育で課される「作文」のテーマが「感想文」と「日記」に偏ってい
ることである。学期中なら社会見学や遠足の感想文、夏休みなら読書感想文か日記と、ど
この学校でも「作文」で課されるテーマは相場が決まっている。しかし、それだけが「表現」
ではないはずだ。物語を創作するのも俳句や和歌を詠むのも交通事故防止の標語を作る
のも、立派な「表現」である。もっといえば4コマ漫画を描くのも「表現」である。(絵の巧拙
はもちろん国語の指導領域外ではあるが。)私の同級生の中には、ひまさえあれば小説を
書いている人がいた。休み時間はもちろんのこと、授業中にも漫画を描いている人がいた。
しかしそれが先生の目にとまったとき、叱られることはあっても、表現活動の素晴らしさを
褒められて国語の授業で取り上げられたことは一度もなかった。残念なことだが、作文嫌
いになる児童・生徒は少なからずいる。その理由は多々あるだろうが、「作文」というとまず
何かの感想文や日記しか書かせていないことも一因だと思う。感想文や日記も結構だが、
自由な発想でのびのびと創作する機会をもっと与えるべきである。そうすれば「表現」の楽
しさを味わう児童・生徒は増えるはずだ。

093「NHKは要らない」( 3月27日)*************************************************
 今月15日の衆院総務委員会で、NHKの中山壮介理事は受信料の支払い拒否・保留
が70万件にものぼる恐れがあると述べた。このため受信料収入がさらに40億円減少し、
総額6438億円に落ち込むという。昨年から今年にかけて、不正を隠蔽しようとする体質
・岡山放送局元部長の横領・取材費の水増し・職員のカラ出張・番組制作費の詐取など
不祥事が相次いで発覚し、海老沢会長が引責辞任した。これら一連の不祥事で今年に
入ってから受信料の支払い拒否・保留が急増しているという。特に、元チーフプロデュー
サー磯野克巳被告による番組制作費の詐取は総額1億円以上にも及んだ。国民から徴
収した受信料を一職員が私利私欲のために流用したのだから、今まで支払っていた人が
憤慨して不払いに転じたのも当然の帰結であろう。
 現状ではNHKという放送局自体、私は必要ないと思う。理由はNHKでしか見ることので
きない番組がないからだ。ニュースや天気予報なら民放でも見ることができる。衆議院総
選挙や統一地方選挙が行われた夜の選挙速報番組もそうだ。どうしてもNHKの放送を見
なければ入手できない情報ではない。ドラマや歌謡番組ならNHKよりもむしろ民放各局が
数多く制作している。「紅白歌合戦」や全国高校野球・大相撲はNHKでしか放送していな
いが、それなりの視聴率があるから、民放に任せてもスポンサーはつくだろう。つまり、ど
うしてもNHKでなければ制作できない番組ではない。現在のNHKの番組で地上波の民
放が放送していないもの・今後も放送する可能性のないものは、教育テレビの『ハングル
語講座』『ろう難聴』といった類だけである。これらはごく一部の人しか視聴しないから、ス
ポンサー収入の得られない民放では商売にならないだろう。しかし、だからといってNHK
でなければ放送できないものでもない。有線放送や衛星放送にして、契約した人だけが視
聴できるようにすれば済むことである。
 また、NHKだと湯水のごとくお金を使う体質が一向に改まらない。その証拠に、国民の
将来とは本質的に関係のない娯楽番組に対しても桁違いのお金を投じて制作している。
『宮本武蔵』『毛利元就』などの大河ドラマがその典型だろう。また、イラクの暴動など何ら
かの事件が発生したときに現場につぎ込むお金も民放以上である。国民から徴収した受
信料が財源だからそうなるのであろう。つまり、いくらお金を引き出しても自分の懐が痛む
わけではないからかまわないという意識だ。だから番組制作費を詐取しても何とも思わな
かったのだろう。それにNHKは個人企業ではない。たとえ受信料の不払い者が増えて大
赤字になったとしても、絶対に倒産するはずはないという安心感がある。つまり社員の立
場から言えば、会社が潰れて自分が路頭に迷う心配はないということだ。これではかつて
の国鉄と同じで、職員の綱紀粛清が徹底しないのも必然であろう。旧態依然の体質は今
後も改まらないだろうし、同種の不祥事も恐らく後を絶たないと思う。
 以上の理由で私は現状のNHKに対する必要性を認めない立場である。しかし、公共の
放送局は必要だという考え方に対しては反対しない。但し、それには次の2つの条件を満
たしていなければならないと思う。
 一つは、受信料の徴収方式についてである。そもそも全視聴者に一律の受信料を取る
という発想そのものが理不尽である。このことは久しい以前に本コーナーの010「NHK
受信料の徴収について」で述べた。電気・ガスと同様に視聴メーターというべき機械を各
家庭や事業所に設置して、視聴した時間分だけ課金する方式に改めるべきである。ある
いは、CS放送や有線放送のように契約した番組・チャンネルごとに課金する方式にすべ
きであろう。それを視聴の有無にかかわらず「支払うのが当然」といった態度で受信料を
集金する神経は理解に苦しむ。第一、払う側にしても「見ていない放送」の対価まで徴収
されるのでは納得できまい。また、現状の受信料については不払いに対する罰則規定が
全くないのも問題である。不払いを理由にNHKから告訴された人もいないし、懲役刑や
禁錮刑に服した人もいない。これでは真面目に支払っている人がバカを見るだけで、不
公平感を拭えない。受信料を取る以上は全ての視聴者から確実に徴収し、支払わなけ
れば番組の視聴を物理的に不可能にするシステムにすべきである。
 もう一つは、放送する番組についてである。公共の放送局でしか制作できないものに限
定すべきである。民放でも制作できる番組、すなわちスポンサーがつくような人気番組は
いっさい不要である。したがってドラマや歌謡曲・スポーツの実況生中継は要らない。そう
いう人気番組は民放各局に任せれば良い。ましてや、金に糸目をつけずに大河ドラマを
制作してゴールデンタイムの視聴率を稼ぐなど論外である。そもそも公共の放送局が民
放各局と視聴率を争うこと自体、不毛である。『ハングル語講座』『ろう難聴』といったごく
一部の人しか見ないような、しかし、そのごく一部の人にとっては不可欠な番組だけを放
送すべきである。民放各局が手を出せない領域をカバーすることこそ「公共の放送局」に
課せられた使命だと思う。

092「金融機関が始めたスキミング対策」( 3月20日)***********************************
 誰にも暗証番号を口外していないし、預金通帳も印鑑もカードも盗まれていない。それな
のに本人の知らぬ間に偽造カードが作られ、預貯金が勝手に引き出される。こんな被害が
深刻になっている。これは「スキミング」と言われる新手の犯罪だ。
 以前『言わせて頂戴』の063「本人確認は指紋で」というタイトルで、私はスキミング対策
を述べた。諸悪の根源は、本人確認の手段を暗証番号に頼っているという一点に尽きる。
そのため、たとえカードが偽造されたものであっても、暗証番号さえ正しければ本人でなく
とも自由に預貯金を引き出せてしまう。そこで私はタイトルにあるとおり指紋による本人確
認制度を提案した。どうせATMの操作には手指を使うのだから、口座開設の際に本人の
指紋をあらかじめ登録しておいて、それとは異なる指紋で操作したら取引停止になるよう
にせよと述べた。こうすれば偽造カードが何枚作られても、預貯金が勝手に引き出される
ことは阻止できる。
 さすがに私の提案どおりのシステムに改めた金融機関は今のところないのだが、幸い私
の取引銀行は今月から「ATMご利用限度額設定」という新たなセキュリティーシステムを
始めた。これはATMによる「お引き出し」「お振込み」の金額の上限を預金者各自が設定
することで、たとえスキミングされても預貯金を不正に引き出されないようにすることを目的
としたシステムである。給与口座振込みとか家賃の口座引落しなどはATMを操作して行う
わけではないので、設定した限度額にかかわらず今までどおりに取引できる。預金者は、
ATMご利用限度額を1万円単位で任意の金額に設定できる。一度設定したご利用限度額
を変更する場合は窓口へ行って本人確認を要する。したがって、スキミングの犯人が偽造
カードを使ってご利用限度額を再設定することはできない。
 このシステムは預金者本人もある程度の不便や制約を受ける。確かに下限ぎりぎりに設
定しておけば、一度に大金を引き出される心配はなくなる。だが、たとえば冠婚葬祭などで
一度にまとまったお金が急に必要になったときは、たとえ本人であっても金融機関の窓口
へ行かなければならない。窓口が開いているのは平日の午前9時から午後3時までのわず
か6時間しかないから、窓口業務外の時間帯ではどうすることもできなくなってしまう。だか
ら決して最善の策とは言えないのだが、それでも預金者の資産を守るために金融機関側
が対策を講じたという点に関しては高く評価できる。さっそく私は「お引き出し」「お振込み」
とも1万円に設定した。本当は半分の5千円でもよかったのだが、設定額の下限が1万円
だから致し方ない。今後は毎日通帳記入をして、もし心当たりのない不正な引き出しが行
われたことがわかったら、その時点で金融機関に申告して口座の使用停止措置を取れば
良いとのことだ。

091「たばこの規制に向けて」( 3月13日)********************************************
 京都議定書に続いて、「たばこ規制枠組み条約」も先月27日に発効された。たばこは本
人の健康を害するばかりか、副流煙を吸わされる周囲の人の健康まで害する。だから、少
しでも喫煙人口を減らして消費を少なくしていこうという趣旨である。現在、喫煙に関連した
死者が世界中で年間500万人にも達している。このまま規制を強化しなければ、今後ます
ます死者が増えると懸念されている。そこでWHO(世界保健機関)が主導し、たばこ規制
枠組み条約が総会で採択された。これを受けてEU(欧州連合)各国や我が国など60カ国
がこれに批准したのである。
 私は以前、本コーナーの031「タバコは直ちに取り締まれ!」で、国民の健康を増進べ
き立場の国家がたばこを製造・販売して歳入源としている現状を批判した。また、たばこが
なければ本来行う必要もない胸部X線撮影を集団検診の項目に取り入れていること、国・
病院・製薬会社・検診業者だけが儲けて、国民に医療費や健康保険料を余計に負担させ
ている愚を指摘した。それから2年以上が経過したが、たばこを取り巻く状況はほとんど変
化していない。JT(日本たばこ産業)が解散されたわけでもなく、自動販売機が撤収された
わけでもない。変わったことを敢えて挙げれば、乗り物の禁煙化や職場での分煙化が進ん
だこと、深夜11時〜翌朝5時までは自動販売機でたばこの購入ができなくなったことぐらい
である。未成年者でもたばこを購入できる状況は相変わらずであるし、タバコの単価も据え
置かれたままだ。
 たばこ規制枠組み条約が発効されたので、今後はたばこの宣伝広告が全面的に禁止さ
れる。また、健康への害を知らせる警告が箱に大きく印刷されることになる。だが、その程
度ではWHOの期待する効果が現れるとは思えない。喫煙人口を減らす特効薬は、とても
買えないほどたばこの価格を高くすることだ。我が国のたばこの単価は国際的に低い水準
である。20本入りで一箱250円程度で購入できるが、これは英米の1/3以下である。そ
のため、タバコの消費量も世界第3位になっている。一箱ではなく、一本250円にすればど
うだろう。家計にも大きく影響するから、そうそう手が出なくなるのではなかろうか。それで
も、どうしても吸わなければ我慢できない人は買うはずだ。また、金銭的にゆとりのある人
も買うだろう。価格をあげたために愛煙家20人中19人までが禁煙に踏み切ったとしても、
残りの1人が吸い続ければJTの売上高は変わらないという計算になる。さらに、この案の
長所は若者の禁煙が促進されることだ。現在、喫煙が法律で禁じられている中学生・高校
生の喫煙率が上がっていて、高校3年生男子のそれは37%にも及んでいる。学校の健康
教育で、肺がんや心筋梗塞などたばこがもたらす病気の危険性を説いても、「あれはオッ
サンの年齢になってからかかる病気で、今のオレには関係ない」という意識だろう。タバコ
の値段が上がれば、収入の乏しい若年層は諦めざるを得ないから、未成年者の喫煙率も
一気に低下するはずである。
 ただ、タバコだけ槍玉に挙げて規制するのでは片手落ちである。それでは愛煙家の反発
を食らうからだ。「アルコールだって社会に迷惑をかけているのに、なぜタバコだけ取り締ま
るのか?」という批判が出るだろう。だから、この際アルコールも思いっきり値段をつり上げ
れば良い。居酒屋やバーなども料理の値段は据え置き、酒類を高くする。どこかのぼった
くりバーのように、ビール一本とおつまみだけで客から1万円くらい取っても良いのではない
か。そうすれば、酔っ払った勢いで喧嘩して相手を殴り殺すといった犯罪もなくすことができ
る。酒気帯び運転もなくなるから、交通事故防止にも貢献する。妻子に暴力をふるう酒乱の
夫もいなくなるし、DV(ドメスティック・バイオレンス)から逃れてシェルターに駆け込む女性
も減るはずである。たばこの規制を契機に、アルコールや過激なゲームソフトなど、社会や
他人に悪影響を及ぼす恐れのある物を容易に購入できないようにしてしまうのも一法であ
る。

090「京都議定書は発効されたが・・・」( 3月 6日)************************************
 先月の16日、地球温暖化防止に向けて京都議定書がようやく発効された。これは1997
年12月に京都で開かれた気候変動枠組み条約第3回締結国会議で、先進国に対して
2008年〜2012年に温室効果ガスの削減を義務づけたものである。具体的には「1990
年の数値から何%減らしなさい。」と、削減目標が各国ごとに課せられている。アメリカが批
准しなかったため、この条約は長い間発効には至らなかった。しかし、ロシアの批准によっ
てアメリカの意思にかかわらず発効されることになった。ちなみに、この議定書で我が国は
1990年比で6%の削減が義務づけられている。
 地球温暖化防止に向けて取り組むべきことは、できる限りエネルギーや資源の無駄使い
をしないようにすることである。具体的には次の4点であろう。
 (1)資源の再利用やリサイクルを心がける。
 (2)節電をする。
 (3)外出時のクルマ利用や物流輸送を公共交通機関にする。
 (4)物を大切に使い、不要なものを買わないようにする。
このうち、(1)についてはゴミの分別収集や紙・ペットボトルのリサイクルなど、個人・企業
ともかなり関心を持って取り組むようになった。地方公共団体が資源の再利用について啓
蒙活動をしてきた成果が出てきたといえる。(4)も長引く不況で個人消費が低迷している
ことが幸いしている。問題は(2)(3)であろう。
 各家庭では電気代が自腹になるから節電して支出を減らそうという意識があるが、サー
ビス業では過剰なほどエネルギーを無駄にしている。その典型が冷暖房だ。冬に百貨店
やスーパー・ファーストフードなどに入ると暖房が効きすぎていることが多い。寒い戸外か
ら入った瞬間は心地よいのだが、しばらく店内にいると購買意欲がなくなるくらいの暑さを
感じる。ところが店員を見ると、みんな涼しそうな格好をして接客している。店舗によっては
真冬でも半袖シャツ1枚で接客しているところすらある。客はオーバーやコート・ジャンバー
など、保温するための衣服を着たまま店内に入っているから、暖房もそれほど強くする必
要はないはずだ。しかし店内の暖房は客に合わせた気温ではなく、店員に合わせて設定
されている。だから、客にとっては暑すぎるのだ。これが夏になると、今度は逆に店員が長
袖シャツを着て接客していたりする。だから客にとっては冷房が効きすぎているように感じ
られる。だが、客の服装に合わせて冷暖房の温度設定をすれば済むことで、これではエネ
ルギーの無駄ではなかろうか。
 (3)については、まず、どこへ行くにもマイカーが下駄代わりに使われていることが問題
だ。確かにマイカーは便利な乗り物である。しかし、路線バスなら1台に70人、電車なら1
両で140人程度の定員である。朝夕のラッシュ時には定員以上に乗っているから、実際
にはもっと収容能力がある。だが、クルマでは一台に5人しか乗れない。しかも、5人乗っ
ていることはほとんどない。大部分が1人か2人だ。つまり、バス一台で済むところ、マイカ
ーになると50台前後に膨れ上がる。それだけ交通渋滞を招くことになり、排気ガスも増え
るわけだ。マイカーの普及につれて多くの都市では公共交通機関の利用が伸び悩んでい
る。そのため、「客が少なくなったから」という理由で本数を削減している路線も多い。そう
なるとますます不便になり、マイカー利用を促してしまう。まずは公共交通機関の値段を安
くすることだろう。都市部で鉄道を利用する場合、初乗り運賃は130円前後だが、思い切
って90%割引いて13円にしても良いと思う。その一方で、化石燃料の値段を大幅に上げ
る。ガソリン1リットルの単価を10倍程度に引き上げても良いだろう。こうして「クルマなん
かバカバカしくて乗っていられない」と言わせる状況を作り出す。クルマが減れば、道路建
設に税金を投入する必要もなくなる。そのお金を鉄道やバス会社に補助金としてどんどん
出せばよい。
 物流輸送も同じである。夜間に高速道路を見ると、なぜこんなに走らせなければならな
いのかと思うほど、トラックばかりが目につく。東京−大阪などを往復する定期便もかなり
多い。しかし、数百kmもの長距離をトラックで走るのは、エネルギーの無駄である。長距
離輸送は鉄道のコンテナに転化させれば良い。かつて「走る列車ホテル」と評されたブル
ートレインもダイヤ改正のたびに廃止され、今では深夜に旅客列車がほとんど走っていな
いのだから、貨物列車を走らせる余裕はいくらでもあるはずだ。集荷したら最寄の貨物取
扱い駅までをトラックで輸送する。あとはJR貨物に運んでもらうようにする。そうすれば、
それだけディーゼルエンジンの排気ガスを減らすことができるのである。物流輸送を鉄道
に転化させるためには、高速道路通行料金を法外につり上げて、鉄道の貨物輸送料金を
大幅に下げれば良い。そうすれば、トラック運転手の人件費も減らせるわけで、事業所も
鉄道輸送を選ぶようになるはずだ。

089「やはり学校は安全ではない2」( 2月27日)***************************************
 先週にに引き続き、今月14日の午後、大阪府寝屋川市立中央小学校で発生した教師
殺傷事件の原因・背景となる社会事情を探り、その対策を述べていきたい。今回は政府・
社会に対して要求したい事柄を4点取り上げる。
 第一に、過激なゲームソフトが依然として販売され続けている現状を指摘したい。報道
によると、今回逮捕された犯人も小学生時代からテレビゲームに熱中し、徹夜でゲームを
したために授業中に居眠りをすることさえあったとのことだ。私は以前、本コーナーで029
「キレない子どもを育てるには」・048「凶悪な少年犯罪を防ぐには」・069「低年齢化する
凶行への対策」と3度にわたって、過激なゲームソフトが子どもの人格形成にいかに悪影
響を及ぼしているかを指摘した。しかし、依然として政府はこれらのゲームソフトを取り締
まっていない。この間、SONY製「プレイステーション」の国内出荷台数が1000万台を突
破した。それだけゲーム人口が増えているのである。最近、刃傷沙汰を起こして逮捕され
た容疑者が「誰でもいいから刺すつもりだった」とか「一度人を刺してみたかった」という動
機を供述する例が増えているが、これは過激なゲームソフトと決して無縁ではない。いわ
ゆる「ゲーム世代」と言える人々が殺人バトルゲームなどに興じる限り、彼らが現実と仮
想との区別がつかなくなって凶行に及ぶ恐れは充分にあるからだ。学校で「生命に対する
畏敬の念」を教育することも大切だが、政府がこれらのゲームソフトの規制に乗り出すこと
こそ先である。
 第二に、庖丁やナイフが一般の商品と同様に販売され、誰でも購入できる点を指摘した
い。今回の事件も犯人が事件当日、それも犯行の1時間ほど前に寝屋川市内のホーム
センターで2本の庖丁を購入したことがわかった。この事実はつまり、お金さえ支払えば
17歳の少年でも店舗で庖丁を購入できるということである。庖丁はもちろん調理器具で
あるが、同時に、人を刺殺できる凶器でもあるのだ。それだけ危険な物品なのだから、庖
丁やナイフは各都道府県警の警察署でしか購入できないようにし、誰がどの型番の庖丁
を購入したのかまで警察に登録するようなシステムにすべきであろう。そして、代金を支
払ってもその場で手渡さずに後日宅配したり、主婦ではない者が購入する場合は面倒な
手続きを課すぐらいのことはすべきである。これだけ庖丁やナイフが凶器として使われて
いる以上、少なくとも量販店に陳列して販売するような物品ではないと思う。未成年者に
酒やタバコを販売することは法律で禁じられているが、それ以上に庖丁やナイフの販売
方法こそ見直すべきではないのか。タバコや酒で人を殺害することはできないが、庖丁や
ナイフを購入すればすぐにでも人を刺し殺すことができるのである。この事実をもっと重く
受け止めるべきであろう。
 第三に、少年法の問題がある。たぶん今回の犯人も死刑にはならないだろう。しかし、
本当にそれで良いのか?「少年なら人を殺しても死刑にはならない」ということを凶行予
備軍とも言える少年が学習したら、この先どういうことになるのか?法務省はこのことを
真剣に考えてもらいたい。犯罪予防効果を上げるためにも、「成年だろうが少年だろうが、
人を殺害したら理由を問わず一律に死刑!」という程度の厳しさが必要であるはずだ。
ましてや、「少年だから」「責任能力がないから」「精神鑑定で××という鑑定結果が出た
から」という理由で、刑の執行を猶予したり減免するのは言語道断である。今回の犯人が
「自分は17歳だから逮捕されても死刑にはならない」ということを計算して犯行に及んだ
のか否かはわからないが、今後同種の事件を防止するためにも、直ちに少年法の撤廃
を求めたい。
 最後に、防犯カメラの活用方法に触れたい。今では駅のコンコースからコンビニエンス
ストアにいたるまで、街のあらゆる場所に防犯カメラが設置されているが、これらのカメラ
が撮影した映像を常時監視しているかは非常に疑問である。今回の事件の舞台となった
中央小学校でも、校門に防犯カメラを設置してあったが、撮影内容を職員が常時モニター
で見ていたわけではあるまい。しかし防犯カメラというものは、ただ単に設置して撮影して
いるだけでは効果も半減する。撮影した映像を常にチェックする人がいて、初めて不審者
に対して迅速な対応が取れるものなのである。例えば、スーパーマーケットで万引きした
者を捕まえる場合を考えてみよう。犯人が万引きしている瞬間を撮影しても、それをモニ
ターで見ていなければ、警備員や店員が駆けつけてその場で取り押さえに行くこともでき
まい。事件が起きて犯人に逃走されてしまってから「撮影した映像を再生したら怪しい人
物が写っていた」というのでは、カメラを設置する経費が無駄になるだけである。そういう
意味で、不審者を直ちに見極める目を持ったプロの警備員がモニターを常時監視する体
制をとるべきである。そうしない限り、犯罪のない安全な社会を回復することはできないと
思う。

088「やはり学校は安全ではない」( 2月20日)****************************************
 今月14日の午後、大阪府寝屋川市立中央小学校に同校の卒業生が侵入し、持ってい
た刃物で教職員3人を殺傷する事件が起きた。去る2001年6月8日に、大阪教育大学附
属池田小学校で不審者が侵入し、児童・職員あわせて21名が殺傷された惨事以後、各学
校では防犯への取り組みを始めたが、今回はその教訓が生かされなかったといえる。しか
し、私に言わせれば、今回の惨事も起こるべくして起きた事件であると言いたい。その理由
は5つあるが、今週はそのうち学校の設置者と現場に対して問われる事柄を取り上げたい。
 それは校地に不審者を入れさせない対策がおざなりのものでしかなかったという一点に
尽きる。池田小学校での事件後、私は本コーナーの042「学校は果たして安全か」で、校
地に不審者を絶対に入れさせない方法として次の4点を提案した。
 1・地面と垂直に高さ10mのフェンスで校地を囲むこと。
 2・校門には警備員を複数名常駐させること。
 3・職員・児童・生徒・学校に出入りする業者には全てIDカードを発行し、それがなければ
  校長ですら校内には入れないようにすること。
 4・校門に危険物探知機を設置し、刃物や拳銃などが持ち込まれた場合は直ちにブザー
  が鳴動するようにすること。
 池田小学校の惨事を契機に各学校で防犯への取り組みを始めたことは事実だが、実際
には職員や児童に防犯ブザーを配布したことと、校門や玄関に防犯カメラを設置した程度
である。まあ、これだけでも相当な費用がかかっているから、それ以上のことは予算が許さ
なかったのかもしれない。しかし、侵入しようと思えばどこからでも侵入できる構造は相変わ
らず改まっていないし、警備員の配置もしていない。もちろん危険物を発見するための探知
機も設置されていないので、凶器を所持した不審者に校地へ侵入されても何も感知できな
い。つまり、私が提案した4点はどれ一つとして実行されていなかったのである。これでは学
校が安全な場所になったとは到底言えない。
 イタリアの小学校では始業5分前しか校門が開かないという。始業後は受付にインターフ
ォンで来校目的を告げることになっている。しかも、特別の許可がない限り、保護者ですら
校内に入ることはできない体制をとっている。下校時刻も全学年一斉で、教師の誘導で各
クラスごとに正面玄関まで出て、迎えに来た保護者に直接引き渡している。我が国もこれ
だけ治安が悪化した以上は、最低でもその程度のことをしなければ子どもを不審者から守
ることは不可能であろう。そういう意味で、現状では不審者を絶対に入れさせない体制は
依然として不十分なままであり、各地方公共団体も池田小学校事件の再発防止に真剣に
取り組んで来なかったと言われても仕方がないと思う。
 このことは今回、事件の舞台となった中央小学校についても言える。事件の起きた中央
小学校では15日夜に緊急の保護者会が開かれた。その席で学校側が事件の概要と事件
当時の警備体制を説明したが、集まった500名の保護者からは学校の管理責任を問う声
が相次いだという。3箇所ある校門のうち防犯カメラが設置されているのは正門の1箇所だ
けで、校舎から最も遠い場所にある南門(犯人はここから侵入した)は下校時刻であること
を理由に開いていたというのだから、これでは保護者から管理責任を問われても弁解でき
まい。3年前に同じ大阪府内の池田小学校で8名もの児童が犠牲になった事件があったの
だから、対岸の火事にせず、もっともっと神経質になるべきではなかったのか。また市教委
や学校側からは、校門の施錠徹底・児童の心のケア・臨時の家庭訪問などの善後策が説
明されたが、保護者からは「ありきたりのものばかり」という批判が出たという。子どもが無
差別に殺害される事件が相次いで発生している昨今であるから、なおさら抜本的な善後策
を講じなければ保護者も納得できまい。
 ただ、管理責任といっても現場の教職員にその全てを問うのは酷である。教師はあくまで
も教育のプロであって、警備のプロではないからだ。防犯カメラの映像を常時モニターで見
て不審者をチェックすることも無理だろう。広い校地を隈なくパトロールして、不審者を発見
することも不可能である。職員室に刺股を常備している学校もあると聞くが、それを持って
不審者に立ち向かったところで、相手が拳銃でも所持していたら逆にこちらが射殺されてし
まうに違いない。第一、狂乱状態になった相手に大暴れされたら、刺股では対処のしようも
ない。それに、不審者は必ず一人で侵入するとは限らない。大勢で校舎内に踏み込まれた
ら到底立ち向かえるものではない。まずは校地に不審者を絶対に入れさせないこと、そし
て、凶器を校内に持ち込ませないシステムを築くことである。そのためにどんなに経費がか
かろうとも、人命には代えられない。「安全な学校」の回復に向けて、今度こそ実行してもら
いたい。

087「クルマの窓ガラスについて一言」( 2月13日)*************************************
 自家用車とは全く縁のない私だが、車にも流行があることは何となくわかる。最近は角ば
ったデザインの車が目立って増えている。降雨時に使うワイパーが普段はフロントガラスの
下側に隠れている車も多くなった。カーナビも標準装備になったのだろう、今ではほとんど
の車に取りつけられている。そんななかで、迷惑な流行が一つだけある。それはフロント以
外の窓ガラスが全て黒くなったことだ。これは交通事故防止上、非常に危険なことだと思う。
 たとえば、次の場合を想定してみよう。片側1車線ずつの道路の左側を自分が自転車で
通行していたとする。そして交差点に差し掛かった。自分はそこを直進するつもりでいる。
そのとき、自分と同一方向から車が走って来た。しかも、自分とほぼ同時に交差点に差し
掛かってきた。見ると、その車は左折しようとしてウインカーを出している。この場合、交通
法規上は直進が優先だ。しかし、現実はその車の運転手次第である。直進しようとする自
転車が走っていても、おかまいなく自分から先に左折しようとする運転手もいるからだ。し
たがって、自転車に乗った人間の側から言わせると、その車の運転手の様子を確認する
しかない。このとき、車のサイドの窓ガラスを見るわけだが、これが真っ黒だから中に乗っ
ている運転手の様子が全くわからないのである。もちろん、車内にいる人間からは車外が
見えている。だから、車の運転手からはこちらの様子がわかるはずだ。しかし、こちらから
は運転手の様子がわからない。直進しようとしている自分に対して道を譲ろうとしているの
か、それとも強引に左折しようとしているのか。ひょっとしたら携帯電話で通話していて、自
転車の存在すら気づいていないのかもしれない。そんな状況で私は直進にもかかわらず
一時停止するのだが、向こうも一時停車してしまい、どうしたらよいかわからずに困った場
面をずいぶん体験した。
 窓ガラスが黒いために危険な目に遭うことは他にもまだある。よく駅前や繁華街周辺で
は送迎目的に一時駐車する車が多い。私は自転車で走るから、路肩に止まっている車を
追い越すこともあるのだが、そのとき急に車のドアが開いて中から人が降りてくることもあ
る。さすがに運転手はサイドミラーで安全を確認してからドアを開ける人が多いが、助手
席や後部席の同乗者は安全確認もせずに降りようとする。特に子どもがそうだ。これもリ
アやサイドのガラスが無色透明なら、中に人が乗っているか否か、車内から人が降りよう
としているのか否かが外から容易にわかるのだが、ガラスが真っ黒だから、こちらから確
認することができない。もし、ドアを開けた瞬間にこちらの自転車とぶつかって、車の運転
手から傷つけられたなどと言われたらたまったものではない。
 窓ガラスの黒い車といえば、昔はその道の車と相場が決まっていた。普通の車はサイ
ドだろうがリアだろうが、どこも無色透明のガラスであった。ところが、最近の車は無色透
明なのはフロントガラスだけで、他は全て黒くなっている。私の推測だが、こうなった理由
は外から車内を覗き込まれたくないからなのだろう。車の中も自宅と同じくプライベートな
空間だから、外から見えるのはプライバシーの侵害になるといったユーザーのクレーム
にメーカーが対処した結果ではなかろうか。しかし、これは根本的に間違っている。公道
に出た以上、プライバシーはないのだ。したがって「車の中も自宅と同じくプライベートな空
間」と認識する方が間違っている。そもそも、外から車内を覗かれて困るようなことがなけ
れば、窓ガラスをわざわざ黒くする必要はないはずだ。そんなことよりも交通安全上支障
をきたすことの方こそ問題だ。ただでさえ交通事故が多いのだから、少しでも事故の原因
となり得るものは摘発すべきであるし、メーカーにも製造させないような指導・監督をすべ
きではなかろうか。そういう意味で、クルマの所有者には黒い窓ガラスを無色透明なもの
に交換させるよう、当局にお願いしたい。

    (塾長コメント:菅ちゃんがご指摘の通り、違法改造車は、車を運転している側にとっても脅威
            です。後ろから前の車の運転手や同乗者の動きが読めないので、ちょっと危ない
            感じがします。
             平成15年4月1日に道路交通法が改正になり、窓ガラスに着色フィルムを張り
            付けた違法改造車の取り締まりが強化され、フロントガラスと運転席、助手席の
            側面ガラスの可視光線の透過率が70%以上であることが義務づけられました。
            ただ、菅ちゃんが危険性を指摘している後部座席については、法的規制はなく、
            とても残念です。罰則規定が厳しく規定されたので、だんだんその数は減ってい
            くものと期待されますが...。
             最近、「当たり屋」と称するグループが関東方面に遠征してきているという情報
            が入っています。
            「山口」・「大阪」・「なにわ」・「水戸」・「和泉」・「神戸」・「姫路」ナンバーの車に
            は要注意です。何でも後ろから急接近するとか、前方でサイドブレーキを引いて
            急停車するそうです。この場合「ストップランプ」が点灯しないので、非常に危険
            です。)

086「花粉症対策は根本的な解決を」( 2月 6日)***********************************
 今年もまた、花粉の飛ぶ時期が来た。報道によると、今年は例年より数倍も多く飛散す
ると言われている。そのため、今まで発症しなかった人も花粉症になる恐れが大きいこと、
また、既に花粉症を患っている人は重症化しやすいことが懸念されている。花粉症の新規
患者数は年々増え続けている。今では国民病といってもよい。実に、6人に1人の割合で
患者がいるからだ。花粉症の患者さんにとって、正月明けから5月上旬までの約4ヶ月間
は、さぞかし苦痛であろう。しかし、「お気の毒です」という一言で済まされる問題ではない。
 花粉症はアレルギー性疾患なので、発作は抗体抗原反応によって起こる。発作の原因
となる物質(これを抗原という。)が生体に侵入すると、これに抵抗するために抗体ができ
るが、ここへさらに抗原が侵入すると生体は抗体抗原反応を起こし、鼻水や目のかゆみ
などの自覚症状となって現れるのである。したがって、根本的な解決方法は原因となる物
質を避けるしかない。卵アレルギーや魚アレルギーなら、それらを食べなければよい。あ
る種の薬剤アレルギーなら、当該薬品を服用しないことで回避できる。だが、花粉の場合
はそうはいかない。呼吸している以上は花粉の吸入を余儀なくさせられるからだ。つまり、
本人がいくら日頃から健康管理を徹底しても不可避なのである。そうである以上は、国家
が早急に対処すべきであろう。
 そもそも、花粉症患者がこれほどまでに増えた最大の理由は戦後の国土政策にあるの
だ。空襲で焼け野原と化した国土に少しでも早く緑をということで、すぐに成育する植物とし
てスギが選ばれ、これをどんどん植樹したのが諸悪の根源である。つまり、花粉症患者を
生み出した責任は国家にあることになる。終戦直後はそれが最善の選択だったのだろう
から百歩譲るとしても、今ではもうスギ以外の緑も充分に生育している。原因となる花粉を
減らさない限り、根本的な解決にはならないのであるから、スギはもう伐採すべきである。
それを放置したまま患者に医療費の負担をかけてまで苦痛を強いるのでは、国民の健康
を増進すべき立場にある国家の責務を放棄しているとしか思えない。もっと言えば、憲法
で保障されている「健康で文化的な生活を営む権利」の侵害である。花粉症に効果的な治
療法を研究したり薬剤の開発をするのも急務だが、それで良しとするのではダメだ。花粉
の飛散を阻止して患者をなくす努力をしなければ、医師会や製薬会社から利益供与でも
受けているかのように勘ぐられても仕方あるまい。
 ご多分に漏れず、花粉症も地球温暖化現象と密接にかかわっている。理由は、その年
の夏の気温が翌年に飛散する花粉の量を決めるからである。つまり、猛暑の翌年はそれ
だけ多く飛散するわけだ。地球温暖化に歯止めがかけられない現状では、今後も夏の猛
暑が続くであろうから、このままでは新たな患者もどんどん増え続けることになる。しまい
には「一億総花粉症患者」という日が到来するかもしれない。現に、一家全員が患ってい
る家族も珍しくないのである。政府はこんな状況を放置せず、直ちにスギの伐採政策に乗
り出すべきであろう。何も、日本中のスギを一本たりとも残さずに伐れと言っているのでは
ない。生体には個人差があり、抗原に反応しやすい人とそうでない人がいるのだから、何
百人に何人かの割合で患者が生じるのは仕方がない。それはどの病気でも同じことであ
る。しかし、現状のように6人に1人では多すぎる。悪くても患者数は国民の5%以内にお
さまるように伐採してほしい。

    (塾長コメント:今まで発症していなくても花粉症になる恐れがあるとは、由々しき事態ですね!
             知り合いにもたくさん花粉症患者がいて、この時期ほんとうに大変な状態らしい
             です。しかも、手強いのは、花粉症の原因がスギ花粉以外にもたくさんあるとい
             うことです。やはり、東京医科歯科大学の藤田先生のように、体内に「サナダ虫」
             を飼うしかないのでしょうか?
              何年か前に病院で検査する機会があって調べてもらったことがあるのですが、
             「あなたには、あらゆる種類のアレルギー反応はない!」というお墨付きをもらっ
             てしまいました。こんな私でもかかるってことかな?因みに、私には生まれつき
             盲腸がないようです。病院の検査技師の方からは、「進化した人間」と揶揄され
             てしまいました。「どこかに隠れていて単に見えなかったのでは〜?」 )

085「二の腕とは言うけれど・・・」( 1月30日)*****************************************
 身体の部位で「腕」といえば、肩から手首までの部位を指す。その腕の中でも肩から肘
までの部分を「二の腕」と言うのだが、では、肘から手首までの部分は何と呼べばよいの
だろうか。足の場合は、膝を境に上部が「腿」、下部が「脛」と、それぞれ名称があるのに、
腕の場合、肘から手首までの部分をさす言葉がない。また、「二の腕」という単語がある以
上は、「一の腕」という単語があって然るべきだが、そう言わないのも不思議だ。

    (塾長コメント:いま普通に使われている「二の腕」というのは、昔は「一の腕」と言われ、前腕
             が「二の腕」だったとか...?)

084「占いは当るのか?」( 1月23日)***********************************************
 今回は占いについてである。歴史的にも古代から占いは世界の各地で盛んに行われ、
現代でも星占い・血液型占い・姓名占いなど、女性を中心に絶大な人気があり、テレビ番
組でも有名な占い師がよく出演している。しかし、占いは果たして当るものなのだろうか?
私は非常に懐疑的だ。
 たとえば、今日の魚座の金銭運に、「散財しがちなので、衝動買いに注意しましょう。」と
あったとしよう。この場合、「散財しがち」という現象は、その日の魚座の人全員に該当す
るのだろうか?日本の人口は1億2千万だから、12ある各星座に該当する人数が等しい
と仮定しても、単純に計算して魚座の日本人は1千万人いることになる。日本人だけでな
く、世界中の魚座の人を含めたら、その何倍もの人数になる。しかも、老若男女いるはず
だ。そのすべての人が、その日に「散財しがち」な傾向なのだろうか?そして、その占いの
文言を読まなかったために「散財しがち」なことを知らずに一日を過ごした魚座の人、ある
いは、文言を読んだものの「散財しがち」なことに注意せずに行動した魚座の人は、一人
残らずその日に衝動買いをして散財しているのだろうか?私にはそうは思えない。理由は、
魚座の人が「散財」できる人間だけとは限らないからだ。もっともこれは他の星座の人につ
いても同じことが言える。赤ちゃんもいれば、寝たきりのお年寄りもいる。何らかの理由で
手元に現金がなく、預貯金もない人すらいる。つまり、「散財し」たくても、物理的に買い物
ができない人、金銭を支払えない人もいるのだ。そんな人がどうやって「散財」するのだろ
うか?
 12種類もある星座でもこの通り。たった4種類しかない血液型に至っては、なおさら疑問
だ。日本人に最も多い血液型はA型だが、これは全体の40%を占める。人数に換算すれ
ば4800万人にもなるのだ。その全ての人が同一の運勢を辿るとは、どう考えても有り得
ない。姓名占いでもそうだろう。珍しい姓名ならともかく、ありふれた姓、ありふれた名だっ
ていくらでもある。読みも漢字も同一の人、たとえば「田中明美」という姓名は、日本中さが
せば何人もいることだろう。生まれも境遇も違う、その全ての「田中明美」が同一の運命と
いうのも、考えられない。
 そういう意味では私は「占いは原則として当らない」と結論づけたい。仮に当ったにしても、
その占ってもらった人に限って、そのとき偶然当っただけに過ぎない。つまり、「例外」の範
囲で片付く程度の確率なのだ。第一、最も肝心な「なぜそうなるのか」という確たる根拠は
明示できないと思う。しかし・・・。占いが原則として当らないものだとしたら、占いの本や見
たり占い師に占ってもらうのは無意味なはずだ。だから私はそういうものを相手にはして
いないのだが、世間ではなぜ、あんなに人気があるのか?それが私には理解できない。

    (塾長コメント:私も「占い」そのものは信用しない方ですが、その存在は否定しない立場で
             す。人間が生きていく上で、場面場面毎にその人の決断が必要です。普通
             は、「こうする。」と各自で判断すると思いますが、その判断を、第三者に後
             押ししてもらいたい場合があります。その一つの手段として、「占い」という
             ものが存在しているのだろうと思います。まあ〜、信じる、信じないは、二の
             次として...。)

083「罰が当るという発想はないのか?」( 1月16日)***********************************
 今年は偽札事件で幕が開けた感じがする。というのも、元日早々、全国でニセの旧1万
円札が相次いで発見されたからである。それも、スーパーマーケットやコンビニエンススト
アなど、日常生活の場で発見されたのではない。伊勢神宮・伏見稲荷など、大勢の初詣
客が訪れる寺社の境内で発見されたのである。偽札を使う側の心理は、もちろん、釣銭
をもらうことで本物のカネを労せずに稼ごうというものだろう。その犯行動機自体も言語道
断だが、それ以上に憂慮せざるを得ないのは、人々が身を清める場であるはずの寺社の
境内で、偽札が使われたということだ。
 もはや、日本人の心には、神も仏もなくなったのだろうか?何も、私は「日本人に敬虔な
キリスト教徒や仏教徒がいなくなった」と嘆いているわけではない。「罰が当る」「天罰が
下る」という意識が失われてしまったのかと言いたいのである。昔は「たとえ誰も見ていな
い場所でも、お天道様だけはちゃんと見ている。だから悪いことをすれば必ずばれる。」と、
幼少期に諭され、悪事を戒められたものだ。そして、学年が上がれば、「天網恢恢疎にし
て漏らさず」という老子の言葉も教わった。日常の生活でも、ずるいことや悪事を働けば
天罰が下るのだから、ましてや、寺社の境内で罪を犯すことなどできないはずではないの
か?そういう意味で、初詣で賑わう全国の神社仏閣で偽札が大量に使われたという報に、
日本人の良識がまたひとつ失われてしまったようなショックを受けた。

    (塾長コメント:「天網恢恢(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏(も)らさず」の補足です!
             天の張る網は、一見目があらいようだが、悪人を網の目から漏らさず捕らえる。
             天道は厳正で、悪事を行えば必ずその報いがあるということ。)

082「早生まれは遅生まれ」( 1月 9日)**********************************************
 「早生まれ」という言葉がある。今回はこの言葉について考えてみたい。言うまでもなく、
1月1日から4月1日の間に出生することを意味する言葉であるが、これはよく考えてみ
ると妙な感じがする。というのは、学校や会社などで同期の児童・生徒・社員を比較する
場合、実際には4月2日生まれの人が最も早く生まれている(つまり、最も長い日数を生
きている)わけで、逆に4月1日生まれの人が最も遅く生まれていることになるからである。
これは「1年」のとらえ方の違いに基づくものだろう。すなわち、普通に考えると、1年は1
月1日に始まり、12月31日に終わるのだが、社会生活上は異なる。4月1日に始まり、
3月31日に終わるからである。
 私は学校に勤務しているためか、「早生まれ」という語に非常に違和感を覚える。特に、
身体測定の場合だ。どこの学校でも年度の早い時期に身体測定・体力測定をするが、3
月生まれの人は、4月生まれ(4月1日生まれの人を除く)の人に比べて約1年分発達が
遅れているから、彼らの測定値が平均値より劣っていたとしても、それはむしろ当然とい
える。高校在学中に自動二輪車の免許を取得する生徒もいるが、その場合も同一学年
においては4月生まれの生徒が早々と取得し、3月生まれの生徒が最も遅く取得するこ
とになる。そういう現象を考えてみると、1月1日から4月1日までに生まれることを「早生
まれ」と表現するのは妙だ。むしろ「遅生まれ」と私は言いたい。

081「相変わらずの正月特番」(2005年 1月 2日)*************************************
 毎年のことだが、正月三が日はどこの放送局も番組を特別に編成する。内容で分類す
ると、新春の特別番組は大きく次の5パターンである。
 @視聴率の高いレギュラー番組のスペシャル版
 A長時間時代劇
 B隠し芸・仮装・ものまねといった、芸の披露
 C歌謡番組
 D新春恒例のスポーツ実況放送
@はドラマ・映画・バラエティー番組が多い。通常1時間枠の番組なら2時間に、2時間枠
の番組なら3時間に拡大される形で、いわゆる「スペシャル版」となる。これは、年末の特
別番組も同様だ。視聴率が高いということは人気がある証拠だろうが、だからといって、
それが良い番組とは限らない。けっこうくだらない番組も含まれている。
Aは正月しか放送されない時代劇だが、某テレビ局はバカの一つ覚えみたいに、10時
間前後、休まず放送している。全部見ていたら、テレビの前とトイレの間とを往復するだ
けの一日になる。おまけに、劇だから、中座すると物語の展開がわからなくなる。ストー
リーを把握するには最後まで見るしかないが、いくら時代劇が好きな人でも、一日中テレ
ビの前から動けないほど放送されたら、苦痛だろう。果たして、どれだけの人が最初から
最後まで視聴し続けているか疑問だ。
Bはマンネリ化しているだけでなく、くだらないものが多い。
Cも同様だ。紅白歌合戦やレコード大賞など、年末にもたっぷり歌謡番組が組んである
のに、正月までやることはないと思う。
まともなのはDくらいだ。
もっと国民のためになるような、品位や教養を高める番組を放送できないものだろうか?