菅ちゃんの呟き
 言わせて頂戴アーカイブ1                          戻る  

050「電鉄会社の携帯電話対策」(9月14日)******************************************
 首都圏の私鉄各社とJR東日本は、それまで各社ばらばらだった車内での携帯電話使用に
ついての規則を9月15日から一本化した。その骨子は次の3点である。
  @ 優先席とその付近では電源を切る。
  A @以外の席では呼び出し音が出ないようマナーモードに設定し、車内での通話はしな
    い。
  B ただしAの場合、メールの作成や送受信・インターネットへの接続など、通話以外の
    使用は認める。
 まあ概ね妥当なところだろう。心臓ペースメーカーのことを最優先するなら厳しい罰則を設
けて車内での使用を全面的に禁止してしまえば良いのだろうが、それでは仕事で使う場合、
たとえば出先までの移動中などに重要な連絡ができなくなってしまう。そもそも携帯電話は固
定電話の使えない環境で利用できることに価値がある商品である。車内での使用を全面的
に禁止するというのでは、乗客の理解は得られまい。
 そこで通話を遠慮するという条件で使用を許可したのであるが、難点が2つある。
ひとつは、乗車中に電話がかかってきた場合の対応だ。確かにマナーモードにしていれば呼
び出し音は鳴らないから、他の乗客に不快感を与えずに済む。しかし、バイブレーションで電
話がかかってきたということは所有者にわかる。そのとき、呼び出しのバイブレーションを無
視する人がどれだけいるかは甚だ疑問だ。私の見る限り、ほとんどの人はかかってきた電話
に応答している。つまり車内で通話しているのである。もちろん「今、電車の中だから・・・」と
事情を話して声量を落として短めに通話する人が多いが、それでも車内で通話していること
には変わりがない。昨今では電鉄会社のマナー向上への努力が功を奏して、車内の携帯電
話からかけている人はめったに見かけなくなった。だが、かかってきた電話に出て通話を始
める人は大勢いるのである。
 もうひとつは呼び出し音をバイブレーションにしていることによって、満員の車内では近隣の
乗客に不快な振動を与える恐れがあることだ。特に乗客が薄着になる夏の場合、携帯電話
の置かれている場所によってはその振動が痴漢行為と誤解されることも考えられる。時間帯
と区間を定めて混雑するラッシュ時の使用を全面禁止とする手もあるが、これも乗客の理解
が得られるとは思えない。
 そこで、私は「分電化」提案をしたい。確かに車内での使用を不快に思う乗客が多いことも
事実だが、一方では乗車時間の長いお客さんも乗るわけであり、どうしても車内で通話でき
ないと困るという人もいるのである。冷房の弱いお客さんのために弱冷房車を設けたのと同
様に、編成中の何両かを携帯電話使用可能車両として、通話やメールをしたい人はその車
両に乗せれば良い。そうすれば他の車両を全面禁止にしても苦情は出ないし、心臓ペース
メーカーを所持するお客さんも安心して乗車できるはずだ。すべての乗客の理解を得るには
これしか妙手はないだろう。

049「無能な政治家より阪神タイガース」(7月27日)************************************
 私の住む神奈川県は小泉総理のお膝元でもある。そのせいかどうかはわからないが、神奈
川県内では住宅地などにある自民党の掲示板に、「元気を出そうかながわ」というコピーの広
告がやたらと目立つ。長引く平成不況、依然として減らない失業率、伸びない内需・・・。誰が
考えたコピーだか知らないが、「元気を出そうかながわ」なんて、よくまあヌケヌケと言えたもの
だ。長引く不況にしても減らない失業率にしても、すべてこれまでの無能な政策に帰するところ
が大きいのだ。そんな状況を政権与党自らが作っておいて、「元気を出そう」なんて呼びかけら
れても、庶民が元気を出せるわけがないではないか。自民党が県民に呼びかける広告なのだ
から、本来なら「不況が続いてごめん!」「苦しませてすまん!」というコピーにすべきだろう。
骨太の方針だか何だか知らないが、とにかく日本の景気は一向に良くなっていない。
 そこへ行くと阪神タイガースは何なのだろうか。失礼な言い方にはなるが、阪神タイガースは
たかだか一電鉄会社の所有するプロ野球球団に過ぎない。それが18年ぶりの優勝に向けて
1試合1試合勝ち進んでいるという、ただそれだけのことで、阪神電鉄の株価は急上昇し、甲
子園球場のチケットは無論のこと、アルコールだろうがうちわだろうが、阪神タイガースグッズ
ならどんなものでも飛ぶように売れて、空前の景気を盛り上げているではないか。日本を不況
から立ち直らせるのに、政治家や官僚が何もできなくて、プロ野球選手の活躍によって経済
が活気づいている現状に、政界や財界は情けないと思わないのだろうか?こんなことなら庶
民の血税で、のほほんと安住している無能な政治家や官僚を解任して、いっそのこと日本の
経済政策を阪神タイガースに任せたほうが良いのではないかと思いたくなる今日このごろだ。

048「凶悪な少年犯罪を防ぐには」(7月14日)*****************************************
 ここ1ヶ月以内に、沖縄に続いて今度は長崎で、またまた少年の凶行が起こった。中学1年
生が4歳の幼稚園児を連れ去り、衣服を脱がせて駐車場の屋上から突き落として殺害すると
いう、前代未聞の事件である。6年前の97年、神戸で中学3年生が小学生の頭部を切断して
埋めるという連続児童殺傷事件が起きて衝撃を受けたが、あの時の加害者も14歳の少年だ
った。今度は小学校を卒業して3ヶ月余りしかたっていない12歳の少年である。いずれにしろ
低年齢の者が大人顔負けの凶行に及んでいるわけだが、こうした事件の原因は2つあると私
は考えている。
 一つは以前にも論じたことだが、過激なゲームソフトの氾濫だろう。次々と画面に出てくる敵
を拳銃や刀で殺して得点を稼ぐような殺人ゲームソフトが大量に販売されている。今やゲーム
センターは勿論のこと、塾などに行く途中にでも携帯用のゲーム機で殺人ゲームに興じること
が、子どもの日常生活になってしまっている。これでは殺人への罪悪感が失われていくのも自
明である。恐らく彼らには、人間を殺すのも毛虫を殺すのと変らない程度の感覚しかなくなっ
ているのだろう。旧文部省では学習指導要領を改訂して、命の尊さを指導する内容を盛り込
んだが、このような凶行は殺人ゲームソフトがなくならない限り、糠に釘でしかない。政府は青
少年がテレビを視聴する時間帯にサラ金のCMを規制したり、夜間11時以後の自動販売機
ではタバコが買えないようにしたりと、健全な青少年の育成に向けていろいろと手を尽くし始め
たが、子どもの成育に悪影響を与えるゲームソフトを、なぜ規制しようとしないのか理解に苦し
む。
 もう一つは凶行に及ぶ子どもの大部分は、両親をはじめてする周囲の者から愛されずに育
ってきたという点である。幼児を虐待する母親に生育環境をたずねたところ、大部分の母親が
彼女らが幼少の時に暴力を受けてきたという調査結果がある。その当時に殴られた分を今、
目の前の子どもに復讐しているというわけでもないのだろうが、愛されずに情緒不安定なまま
に育つと、大きくなってから弱いものいじめをする危険性が非常に大きいことは事実である。
今度の事件の加害少年も、物質的には恵まれた環境で学校での成績も優秀だったようだが、
幼少の頃から本当に愛されて育ってきたとは思えない。以前にも学校で飼育しているウサギ
が相次いで殺される事件があったが、生き物を殺して平然としていられる神経になっていると
いうことは、愛されずに育てられてしまった証拠であり、将来殺人を犯す恐れも十分にあると
みなければならないだろう。
 何よりも親になった以上は、将来の日本を担う有為な人材を育てるという責任がある。溺愛
や放任に陥らず、本当の意味での愛情を持って育てることだ。そして常日頃子どもをしっかり
観察し、問題行動の前兆を早い段階で見つけ、何かあったら、しかるべき施設へ送り、親元
から離れた場所で矯正教育を施さない限り、このような凶行を未然に防ぐことは不可能であ
ろう。

047「パソコンについて思うこと」(6月22日)*******************************************
 「ものを大切にしよう」・・・・・・子供のころに親や学校の先生にそう言われた記憶のある方も
多いであろう。大切に使えば何年も使えるのに、実際には大して使わないうちに廃棄処分にし
ているものは多々あるように思う。車などはその好例だろう。新車なら大切に扱えば10年は
乗れるはずだが、現実には5〜7年で買い換えている。しかしこの場合は、個々のドライバー
が買い換えたい気持ちをぐっとこらえて、今までの愛車を今後も乗り続れば良いのかもしれな
い。問題は、消費者がいくら大切に使おうという気持ちを持っても、廃棄処分にせざるを得な
いような状況をメーカー側で作ってしまっている物品である。その典型がパソコンではないだろ
うか。
 私が最初にパソコンを購入したのは1997年末で、機種は、NECのPC9821シリーズ。ハ
ードディスクは2GBしかなかった。OSはWindows95である。しかし、その後、OSはWind-
ows98になり、メモリーも32M→64M、ハードディスクも10GB→20Gと増大する一方で、
その後に登場したアプリケーションの多くが、私の所有する機種には非対応になってしまった。
そこで2000年9月に新機種に買い換えた。2代目はSONYのVAIOで、PentiumV750M
Hz、メモリーは64M、ハードディスクは30GBとなった。OSはWindows98の2ndであるが、
もうそのOSも過去のものとなり、WindowsXPとなった今ではサポートの対象外になってしま
った。私はこの播種のメモリーを256Mまで増設し、LANボードも取り付けてインターネットを
ADSL化し、OSもWindowsXPにアップグレードして今なお使い続けているが、もうこれ以上
のグレードアップは限界といった状況である。
 さらに問題なのはプリンターで、これは最初の機種と同時に購入したものを今なお使い続け
ているので、5年半も前のモデルである。もちろんUSB接続にもなっていない。今後、新しい
パソコンを購入せざるを得なくなったときは、プリンターも買い換えなければなるまい。しかし、
まだまだきれいに印刷できるし、どこも故障していない。それなのに補充用のインクカートリッ
ジが製造中止になるなどして、メーカーの側から処分せざるを得ない状況に追い込まれてし
まったら、消費者としても抵抗して使い続ける術はないのである。
 しかし、ここまでで一体どのくらいのお金をかけたのだろう?ふと、そう思うときがある。最
初の機種が20万円にプリンター5万円、現機種が25万円、これだけで合計50万円は確実
に費やしている。そのほか、アップグレードしたOSや増設したメモリーなどもろもろ含めれば
60万円は下るまい。この間5年半だから年間約11万円、月9000円余りをパソコンのため
に消費している計算になるのだ。だいたい一台20万円も払って購入したのに長く使っても4
年〜5年だとしたら、これほど無駄なものはないような気がする。
 次から次へと新機種を発売して販売実績を伸ばしたい心情はわかるが、既に購入した製
品のサポートも末永く行うべきだし、故障したときの修理用部品や、インクカートリッジなどの
消耗品の製造期間も、もっともっと長期間にすべきである。そして、アプリケーションも発売
時のOS以外にも対応すべきであろう。そうしないと、まだまだ使えるものでも廃棄処分にせ
ざるを得ず、カネの無駄遣いになるばかりか、ゴミの増大に拍車をかける一方である。

046「プロ野球について一言」(6月 8日)*********************************************
 2回連続して医療関係の話題だったので、今回はプロ野球の話題にしようと思う。プロフィー
ルにある通り、私は阪神タイガースのファンであるが、その立場からみて、言いたいことが3点
ある。
 第1に、試合開始の時刻についてである。阪神タイガースの試合開始時刻は平日は原則とし
て午後6時から、広島市民球場と神宮球場では午後6時20分から、土曜日は午後2時〜4時、
休日と祝祭日は午後1時〜3時の間である。パ・リーグも含め他球団もだいたいこの時刻に試
合開始となっている。しかし、巨人だけは異なる。原則としてデーゲームはしないのである。東
京ドーム主催試合だけならかまわないが、甲子園や横浜、ナゴヤドームといったビジターゲー
ムでも絶対にデーゲームがない。ホーム・ビジターを問わず、巨人だけはつねに、試合開始時
刻が午後6時で一定しているのだ。これは選手にとっては毎日生活パターンを崩されることな
くシーズンを戦えるわけで、巨人だけが非常に有利になってしまう。なぜ巨人だけにそういうわ
がままが通るのか承服できない。プロ野球は巨人中心で運営されているのではないはずだ。
 第2に、実況生中継をする放送局の実態についてである。現在私は神奈川県に在住してい
るが、本県ではVHFとしてNHK総合・NHK教育・日本・TBS・フジ・テレビ朝日・テレビ東京が
ある。そして、UHFとしてテレビ神奈川(TVK)を視聴できる。問題なのは巨人戦だけはVHF
のいずれかの放送局で確実に視聴できるが、他チームどうしの試合は滅多に見られないとい
う点である。関東地方に本拠地を置く球団が巨人しかないのならそれでもよいだろう。しかし、
現実にはせ・リーグだけでもヤクルト(東京)・横浜(神奈川)が該当するし、パ・リーグでは日本
ハム(東京)・ロッテ(千葉)・西武(埼玉)と3球団が関東地方に本拠地を置いており、両リーグ
で合計6球団もあるのだ。したがって常識的に考えれば、これらの各球団の試合が放送され
て当然である。もちろん、放送局が限られているのだから、同一球団を毎試合放送することは
不可能だ。だから、ある日は巨人vs広島、次の日は西武vsロッテという具合になるわけだが、
現実には、巨人戦だけが全試合放映されている。「それだけ巨人ファンが多いのだから当たり
前だ」「巨人戦でなければ視聴率が上がらない」「他チームを見たければ有線やCS放送を契
約しろ」という理屈だろうが、これは少数意見を完全に無視している態度である。
 さらにひどいのはラジオ局である。関東地方ではNHKの他、TBS・文化・日本・ラジオ日本と
4局あるが、民放は4局中3局が野球中継でそれがすべて巨人戦の中継(つまり、3局が同一
の日に同一の試合を同時刻に放送する)となることが多い。3局でプロ野球を中継するなら別
々の3試合を放送できるはずだが、すべて巨人戦を流している。これほど不毛な話はあるまい。
 最後に阪神タイガースにだけ夏の長期遠征がある点だ。世間でよく言われる「死のロード」で
あるが、これは夏の全国高校野球選手権大会の会場を甲子園球場だけで開催していることが
最大の原因だ。これを持ちまわりにして、今年の高校野球は大阪ドームで、翌年は神宮で・・・
という具合にして、夏季に長期ロードに出るのは各球団とも12年に1度ずつとなるように均等
にできないのだろうか?

045「健康診断はストレスのもと?」(5月11日)****************************************
 私事で恐縮だが、先月、私の勤務する学校で職員の胸部X線撮影検査が行われた。これは
どこの事業所でも職員の定期健康診断の一項目として、ごく普通に行われている検査である。
私も今まで毎年受診し、いつも異常なしと判定されていたが、今月に入ってすぐ私は、教頭先
生から「検査結果に異常があるので、精密検査を受診するように」と言われてしまった。異常
の理由は左肺に腫瘍があるとのことだ。もちろん腫瘍の中には良性のものもあるが、たちの
悪いものもある。後者なら、それは肺ガンを意味する。他の病気ならまだしも、生まれてから
1本もタバコを吸った事もないのに肺ガンになるとは、到底納得できない。しかし、非喫煙者で
も肺ガン患者がいることは歴然とした事実なので、もしこれで肺ガンが確定したら自殺をしよ
うと決意して恐る恐る精密検査を受けた。しかし、結果は腫瘍でもなんでもなかった。問題の
箇所にあったものは血管影といって、肺内にある血管の断面が丸く写っていただけであった。
では、最初の検査でそれがなぜ腫瘍と判定されたのか?それは検査方法に問題があるから
である。
 職場で行われるX線検査とは、X線撮影装置を搭載した検診車が個々の職場へやって来る
のだが、このX線撮影装置が間接撮影という良くない検査方式なのである。間接撮影とは、あ
らかじめトイレットペーパーのロールのようなフィルムを装填しておいて、1本のフィルムで数
十人分の撮影をする方式である。したがって撮影した画像も実物よりもはるかに小さく、しか
も画質が悪いのである。これに対して病院などで行われる精密検査は直接撮影という方式で、
等身大のフィルムで撮影するため、細かいところもきちんと読影でき、腫瘍か否かの判断も
そのぶん正確にできるのだ。ではなぜ職場の健康診断を間接撮影で行うかというと、それは
安価にできるからである。しかし、先述したように画質が悪いため、何か怪しいものが写って
いたとしても、それが何であるかの判断ができない。そこで、受診者全体のうち10%程度の
人を異常ということにして、精密検査に回そうというわけである。そうすれば肺ガンも早期発見
できるだろうというわけである。たまたま今回私はその10%に入ったために精密検査になっ
たのだ。
 しかし、そんな事情で精密検査に回されては、受けさせられるこちらにとってはたまったもの
ではない。「精密検査を受けろ」と言われた側は、まずなぜ異常と判定されたのかを考える。
次に、精密検査で本当に何か見つかったらどうしようかという恐怖感に襲われる。今回の私
がそうだった。もちろん腫瘍というからには良性のものもあるわけだが、こういうときはすべて
を悪いほう悪いほうへと考えて、自分で自分をノイローゼ状態に陥れてしまうものなのだ。4月
から新しいクラスで授業がスタートして1ヶ月余り、ようやく生徒も私の授業に慣れ、私にもなじ
んでくれたばっかりの時に、教壇を去らなければならないのである。しかも本当に肺ガンの疑
いが濃厚なら、気管支へ挿入する内視鏡検査など苦痛を伴う検査がこれから数多くあるし、
手術や抗がん剤といった過酷な治療も待っている。もちろん私はそんな苦しい思いは真っ平
ごめんだから、ガンなら自殺するつもりでいるのだが、死ぬなら死ぬで、まず家族・親族に事
実経過を話して納得させなければならないし、今までお世話になった人々に挨拶もしなければ
ならないし、処分できる家財は処分するなど、やらなければならないことは山のようにある。
学校側も大変だろう。管理職はただちに私の後任を探すべく、事務手続きを始めなければな
らない。しかし、学期もスタートしてしまったし、突然のことなので、後任といってもすぐには見
つからないだろう。その間の授業はどうなるのか?いつまでも自習させるわけにもいかないだ
ろうから、私の分は同じ学校の当該教科の先生方で分担して負担するのだろうが、5月の半
ばを過ぎれば1学期中間試験も始まってしまう。こうして学校の職員にも生徒の皆さんにも多
大な迷惑をかけてしまうのである。そんなこんなを考えていると、自分が教材研究して次の授
業の準備をしようという気力もなくなってしまう。精密検査の結果が悪ければ、私の意志にかか
わらず、ただちに教壇を去らなければならないのだから、今から先の先まで準備を整えておい
ても無駄になるだけである。結局、「すべては精密検査の結果が出てから決めよう」ということ
で、この間、私は何もしなかった。というより気力が萎えてできなかった。
 たかだか胸部X線撮影の異常というだけでも、これだけ余計な心配事をして、不安な日々を
送らなければならないのである。こんなことなら最初から何も検査をしないで過ごして、自覚症
状が出てから手遅れの肺ガンが見つかる方がまだましのような気がする。本件に関して言う
ならば、諸悪の根源はX線の撮影方式にあったのだから、たとえ費用の一部を受診者に負担
させてでも、初めから全員を直接撮影で検査すべきである。画質の悪い検査方式で検査して、
病気でもないのに異常と判定して、健康な者をガンノイローゼに陥れたりするのは、もっての
ほかだ。さらに言うと、画質が悪いということは、本当に異常なものを異常なしと認定してしまう
誤診も生じうる。たとえば、今日受けたX線撮影が異常なしと判定されても、じつは発見されな
かったガンが既に存在していて、1年後にそれが手遅れの状態で発見されるということも充分
ありうるわけだ。そんな事態も想定すると、「異常なし」と判定されても安心できまい。むしろ、
「本当に大丈夫だろうか」と疑心暗鬼になる一方である。いずれにしろ、ストレスが溜まるだけ
で、何のための健康診断かわからなくなる。

044「SARS対策はなっていない」(4月27日)*****************************************
 新型肺炎である重症急性呼吸器症候群(SARS)が猛威をふるっている。4月25日時点で
のWHOの発表によると感染者は4649人、死者274人で死亡率5〜6%であるとのことだ。
1995年1月17日の阪神淡路大震災以来、政府の危機管理体制のあり方がさかんに議論
されるようになったが、SARSに対する我が国の危機管理もおよそ充分とは言えない。問題
点は次の4点に集約される。
 第1に、SARS特有の症状が何もないという点である。38℃以上の発熱・咳・筋肉痛といっ
たものはインフルエンザは勿論のこと、普通の風邪でも起こり得る症状である。一部の大病
院ではSARS患者を個室で隔離する体制をとったが、患者自身がSARSと断定して初めか
ら隔離施設の完備した医療機関へ受診することができないから万全とは言えない。
 第2に、感染病すべてに言えることだが、患者の年齢や健康状態、感染の度合いによって
は発表された症状よりも軽い場合がある点だ。現に今回のSARSにしても、あっという間に
重症化して死亡した患者もいる一方、症状が出たものの軽かったので放置したところ、1週
間程度で回復して自然治癒した患者も少なくないのである。いきなり40℃程度の高熱が出
たのならともかく、37℃台の発熱だったら速やかに医療機関に行く人はそう多くはあるまい。
とりあえず氷嚢でも頭にのせて、家で安静にして様子を見るという人が多いはずだ。それで
運良く熱だけでも下がってしまえば、まだ咳がとれなくても無理して出勤するであろう。そうな
ると駅や電車の車内など公衆のうごめく場で不特定多数の人に感染させてしまうことになる。
 第3に、患者に対する病院側の対応が不備であるという点である。どの伝染病の場合につ
いても言えることだが、流行しはじめた時の第1番目の患者の発見と認定は技術的にかなり
難しい。ただの風邪かインフルエンザだろうと見当をつけて、不適当な処置をしているうちに、
事態がどんどん悪化して、後でSARSとわかったという結果を招く恐れが大きい。患者にし
ても体調が悪くなったら、とりあえずは近所にあるかかりつけの医院に診てもらおうとするだ
ろう。最初から「SARSが発病した」と自己判断して隔離施設の完備した大病院へ行くはず
はないのだ。全国にある中小の医院にはSARS患者に対する隔離施設などないから、結局、
その医院内で他の患者や医療従事者に病原菌を撒き散らすことになる。
 最後に、治療に有効な手段が何も開発されていないという点である。発熱には熱さまし、激
しい咳には咳止めという具合に対症療法しかないのである。いずれは予防のワクチンや治
療薬が開発されるだろうが、まだまだ先の話であり現在直面している流行を止める妙手はな
い。
 流行地域への渡航を控えることは勿論、日頃の生活では外出後の手洗いとうがい、栄養
のある食事に充分な睡眠と、あれこれ予防法を訴えているが、結局は自分の体は自分で守
るしかないのである。

043「4月はつらい・・・」(4月13日)*************************************************
 今年もまた4月がやってきた。新しい生活に期待を膨らませている人も多いのだろうが、私
はこの時期が非常に苦手である。なぜかというと、やはり身の回りの環境が大きく変化する
からだろう。私はプロフィールにも紹介してあるとおり、高校で教壇に立っている。したがって
自分が異動しない限り、職場環境は大して変わらないはずなのだが、それでも堪えるのだ。
 4月になると新しい職員が入り、自分の周囲の職員の顔ぶれも変わる。学年・校務分掌・各
種の委員会など、自分が所属する部署のメンバーのうち何名かが代わる。生徒もそうだ。い
くら去年教えた生徒がいても、クラス替えによって教室の雰囲気はかなり変化する。そんな中
で、「この新しいクラスで1年間授業を成立していけるだろうか?」という不安が、心のどこかに
あるようだ。過去に授業が成立しないほどひどい目にあったことは一度としてなく、毎年この不
安は杞憂に終わり、翌年3月には多くの生徒から、「先生の授業はとてもよかった」と喜んでも
らえるのにもかかわらず、なぜか不安がこみ上げてくる。さらには、通勤で利用する交通機関
のダイヤも、この時期に改正されることが多く、そんな些細なこともストレスとなってはねかえっ
てくる。
 というわけで、4月の始業式からゴールデンウィークまでの約1ヶ月は非常につらい。1日出
勤しただけでどっと疲れが出てくる。なるべく学校に勤務する時間を短くして、睡眠時間も普段
の2倍は取るのだが、それでも疲れが取れない。そして教材研究その他もろもろの仕事も期
限が迫ってきてからようやく始めるという感じで、いつまでたってもやる気が起きない。普段は
学校に誰よりも早く出勤して12時間は苦もなく勤務し、休日でも誰も居ない職員室で仕事する
ほど元気があるのだ。教材研究や試験問題の作成なども誰よりも早く進めて、「本当にやるこ
とが早いねぇ。」と他の先生が舌を巻くほどなのに、そんな自分がまるで別人だったのではない
かと思うくらい、4月は落ち込んでしまう。
 こんなに極端に差が出る人間も珍しいだろう。つまりは環境への適応能力がないのだろう。
否、あることはあるのだが、適応するまでに非常に時間がかかるのだ。どうしたら改善できる
のだろうか?

042「学校は果たして安全か?」(3月 5日)******************************************
 2001年6月8日、大阪府池田市にある大阪教育大学附属池田小学校に、刃物を持った男
が侵入し、児童8名が殺害され、児童・職員あわせて21名が負傷という大惨事が起きた。そ
れ以来、安全であるはずの学校の危機管理体制が問われ、最近ではどこの学校も登下校時
刻を過ぎると校門を閉めたり、「関係者以外は立ち入り禁止」といった看板を校門前に立てた
り、来校者に対しては、まず事務室の受付で氏名や用件などを記入させて、許可してから校
舎内に入れるといった措置をとるようになった。中には校地をフェンスで囲んで正門からでし
か出入りできないようにした学校もある。しかし、これだけで本当に安全な学校になったと言え
るのだろうか?
 先日、県立高校の入試が行われたが、それに相前後して、私の勤務する学校に不審者の
侵入が3件起きた。このうち1件目は早朝だったが、2件目は、午前10時前後の授業時間中
で、体育のため生徒のいなくなった1階の教室から侵入している。3件目は、事務室で執務す
る事務員が退勤した午後6時過ぎで、酒に酔った男が校舎裏側の硝子を蹴破った直後を本
校教職員に発見されて、その後校舎内で、「校長に会わせろ」などとわめいていた。その場で
対応した教職員の中には、「不審者は刃物を持っていた」との証言もある。3件とも幸い生徒
には怪我はなかったが、いずれも簡単に校舎内に侵入されている点が問題である。私は、3
件目の時に現場検証に来られた警察の方から話を伺ったのだが、相手が酔っ払って暴れて
いる時には、正常な精神状態ではないので、とにかく言葉でなだめすかして落ち着かせて、
ひたすら酔いの醒めるのを待ってからでなければ、職務質問もできないとのことだ。警棒や
拳銃などを常に身に着けている警察官でさえそうなのだから、ましてや無防備な学校職員の
前で刃物を持って暴れられたら、どうにも対応の仕様があるまい。
 大勢の児童・生徒を保護者からお預かりしている以上、学校にとって最も大切なことは、ま
ず、児童・生徒の安全を確保することである。ところが、現状ではおよそ安全とは言えない。
フェンスといっても高さ2メートル程度のものでしかないから、校門以外の場所からでも容易
によじ登って侵入できる。全日制の高校の場合、機械警備が作動しているのは、毎日午後
7時30分から翌日の午前7時まで(この時間帯だけは校舎内に生徒はいないから安全と言
える)、教職員や事務員の正規の勤務時間は平日の午前8時30分から午後5時、それ以
外の時間と土曜・休日の午前7時から午後7時30分までは、事務室に2、3名の代行員と、
部活動などで時間外勤務をしているごく一部の教職員しかいない。それでも学校は機械警
備でない時間帯は、校門・玄関・生徒昇降口とも常時開いており、授業のない休日でも部活
動などで生徒は少なからず登校しているのである。これほど無防備なものはないだろう。こ
の状況は中学校でも同様である。定時制課程が併設されている高校では、機械警備で施錠
されるのが、平日では午後11時以後になるので、さらに危険性が高まる。
 つまり、絶対に不審者を侵入させない体制からはほど遠いのである。そこで提案だが、校
地を囲むフェンスは少なくともコンクリート製で、地面と垂直に高さ10メートルは必要だ。外
から見れば、まるで刑務所のようになってしまうが、梯子をかけても入れない高さにしなけれ
ば、安全とは言えない。正門では警備員を複数名常駐させ、職員や児童・生徒は勿論、学
校に出入りする業者などの関係者にはIDカードを発行し、それがなければ、たとえ校長とい
えども校地には入れさせないぐらいの厳重なチェックが必要である。その際、空港の手荷物
検査のように、刃物や拳銃など危険な物品を持ち込んだ際に、ブザーが鳴動するようにす
べきである。生徒間でもいじめが起きている現状では、いつ児童・生徒がキレて刃傷沙汰に
なるかわからないからである。教職員が所持品検査をしていないから発覚していないだけで、
日頃から刃物を所持している児童・生徒は決してゼロとは断言できまい。これらの措置を、
全国すべての学校に導入するには、莫大な予算がかかるだろう。しかし、将来ある児童・生
徒の尊い生命には代えられないことは言うまでもない。2度と大阪教育大学附属池田小学
校の惨事を繰り返したくないという意思が、政府や地方公共団体に本当にあるのなら、この
くらいの厳重な措置を早急に講じるべきである。

041「どちらが非常識?」(2月19日)************************************************
 最近の新聞の社会面を見ると、理解に苦しむ事件がずいぶん起きているように思われてな
らない。約1ヶ月ほど前になるが、神奈川県内で、ある事件が発生した。読者のみなさんにも
ぜひ考えていただきたい事件なので、まずその概要を記したい。

   2003年1月21日、川崎市川崎区内の書店で万引きが発覚し、店長が警察に通報し
  た。ところが、駆けつけた警察官から任意同行を求められた中学3年生の男子生徒が
  逃走した。警察官はただちに追跡したが、少年は京浜急行電鉄の線路内に入ったため、
  そのとき現場付近を走行していた電車に撥ねられて死亡した。この事件後、書店には、
  「人殺し」「配慮が足りない」といった抗議の電話が20本かかったほか、直接店舗を訪
  れて抗議した人も2人いたため、店長は、事件から5日後の1月26日から、「尊い命が
  失われたことを重く受け止めております」との貼り紙をして休業し、店舗を管理する東京
  都内の書店本部にも廃業の意向を伝えた。


 この事件を知ったとき、私は唖然とした。まさに現代の日本人の常識を疑わざるを得なかっ
たからである。万引きという行為に対して書店側が警察に通報するのは当然の行為である。
そして逃走しようとした少年に対して警察官が追走するのも、職務上当然の行為である。その
結果、被疑者が電車に撥ねられて死亡したとしても、それが、なぜ殺人行為として人々から非
難されなければならないのか?しかも、追走した警察官が非難されるのならまだしも、警察に
通報した書店がなぜ店舗を畳まなければならないのか?私には到底理解できなかった。
 書店に対し「人殺し」と非難した人々は、少年の万引き行為を是認したことと同然であると私
は思う。ということは、書籍はカネを出して購入するものではなく、好き勝手に書店の棚から盗
み出してよいものだということだ。そんなことが許されたら、欲しいものは何でも万引きしてもか
まわないということになってしまう。書店に抗議した人々は、みんなそんな考えの持ち主だった
のだろうか?だとすれば、これは非常に恐ろしい気がしてならない。
 程度の差はあるが、人間は誰でもあやまちを犯すものだ。しかし、あやまちを犯したら謙虚
に反省して罪を償うのが筋である。本件に関して言うと、警察に通報された少年が逃走を試
みた時点で、自らの行為に対する反省が全くないのだから、これは死刑に値する重罪である
と思う。万引きして通報されたが、警察官から逃走できれば儲けものとばかり逃げるのは、情
状酌量の余地がない、悪質極まりない行為だ。だから、電車に撥ねられて死んでも私は何と
も思わない。むしろ、そんな人は早く死んだほうが良いのだ。なまじ捕まって更正教育が施さ
れても、人格はそう一朝一夕には変わらないから、再び窃盗をするのは目に見えている。
そんな少年の味方になって、書店の店長を廃業に追い込むような抗議をするのが常識なの
か、万引きした少年を警察に通報するのが常識なのか、分別ある大人が改めて考えるまで
もないだろう。現代の日本人の常識はいったいどこまで麻痺しているのだろうか?

040「ゴルフを極めるには・Part2」(2月12日)****************************************
 先週に引き続き、高次元でゴルフを味わえるようになるためのゴルファーの態度を述べたい。
 第4に、マナーをきちっと守らなければならない。公園でも練習はできると先述したが、公園
は当然のことながら子供の遊び場である。だから、練習するのなら子供のいない時間にすべ
きだ。そして、言うまでもないが、「ゴルフ禁止」という立て看板のある芝生に入ってまで練習し
てはならない。また、通勤途中に満員のホームで、雨傘を使って素振りをするのも言語道断
である。ゴルフはあくまでも紳士のスポーツだ。マナーは他のどのスポーツよりも遵守しなけれ
ばならない。それはコースに出ている時だけでない。むしろ、普段の生活の時こそ大切だ。
 第5に、ラウンドについてである。日頃の練習の成果を試すためにも、最低でも月に一度は
コースへ出たほうがよい。しかし、都心から比較的近い場所だと、休日はどこでも結構混雑し
ているだろう。そこで、雨の日に行ったほうが良い。雨が降ったらやめるという人が多いが、ど
んな条件下でもハイスコアを出せなければ、本物の実力とはいえない。好条件がすべて揃っ
た日にスーパーショットが2つ3つできたとしても、そんなものは評価に値しないのである。そう
いう意味では、悪天候のもとでの練習こそ実践的だ。ゴルフの一打一打は一度とて同じ条件
でやれることはないのである。風の強い日、霧雨の日、そして快晴の日、気温・湿度、さらに
は、各ゴルフ場独特の性質、・・・・・・。あらゆる条件下で自分の技量を磨く姿勢がなければ
上達しない。当日は早めに行き、入念な準備運動は勿論のこと、打ちっぱなし・パッティング
練習をして、スタート前に感覚を体得しなければならない。そして、ラウンド中は一打一打を
丁寧に打ち、いくら午前のスコアが今までよりも良かったとしても、有頂天になって昼食時に
アルコールを嗜んではいけない。ラウンドとは、大学入試の受験生にとっては、言わば模擬
試験のようなものである。午前中の受験結果でかなりの手応えを感じても、午後の試験を疎
かにできないのと同様、ゴルファーは、昼飯時でも後半のラウンドを考えなければならない。
きれいな女性と一緒にコースを回り、昼食で酒を飲み談笑して、アルコールが入ったまま午
後のコースに出るのは論外だ。
 最後に、ラウンド後の態度についてである。今回そこそこのスコアで回ることができたとして
も、個々のスイングに関しては反省すべき点が出るはずだ。ラウンドの成績はしっかり記録し、
自分の弱点を反省して、次のラウンドまでの間に練習計画を立てて、ひたすら練習する。そう
して初めてシングルプレーヤーになれるのである。それまでの間は、大学受験生と何ら変わ
らないのである。毎月模擬試験を受け、返却された答案を検討し、弱点を補強する学習計画
を立てて勉強し、次の模擬試験に備える。この繰り返しが栄冠を勝ち取る唯一の道であるよ
うに、ゴルフもひたすら日々の研鑽と修練に努めなければならない。決して甘いスポーツでは
ないのである。 

039「ゴルフを極めるには・Part1」(2月 5日)****************************************
 野球・サッカー・テニスなど、我々素人が興じるスポーツは多々あるが、プレー人口の多さと
いう点でみると、ゴルフが他のどのスポーツよりも群を抜いているだろう。しかし、ゴルフという
スポーツは見かけよりもはるかに難しい。打つ前には的確な状況把握と判断力、そして打つ
瞬間には処理能力として高度な技術と精神力を要求されるものである。100を切れば上等だ
というレベルではなく、シングルプレーヤーを目指して、より高次元の域でゴルフを楽しめなけ
れば、高いカネを払う価値もないと思う。ラウンドした時、他の3人からお世辞ではなく、心底
から感心されるようなプレーができなければ、ゴルフの醍醐味を堪能することはできないはず
である。それにはどうしたらよいか?これが今週と次週のテーマである。
 第1に、カネさえかければ上達するものではないということを知るべきだ。下手な人ほどミス
ショットをクラブのせいにする傾向があるが、どんな高性能かつ高価なクラブを握ったところ
で、芯に当たらなければ結果は同じである。クラブならまだしも、中にはウエアーやバッグに
カネをかけている人もいる。全く本末転倒だ。このことはゴルフ練習場についても同じである。
贅沢な設備が整った都内の練習場では、1回の練習に1万円もするところがあるが、そんな
ところでいくら練習しても、普通の練習場でやった場合と比べてラウンドの成績には反映され
ないものである。早朝割引やプリペイドカードなどを利用し、一打あたりの単価を可能な限り
下げ、一打でも多く練習できるような場所を選ぶべきである。それには当然、待ち時間が少
ない練習場でなければ意味がない。サービス業に勤めている人で平日に非勤務日がある場
合は、待ち時間のない曜日や時刻を選んで行くべきだ。
 第2に、練習場へ初心者や女性を連れて行くべきではない。他の分野では、他人に教える
ことで自分も勉強になることが結構あるが、ことゴルフに限っては、いくら他人に懇切丁寧に
教えたところで、そのおかげで自分の技量が向上することは決してない。行くなら自分と同じ
レベル以上の人と行って切磋琢磨すべきである。
 第3に、練習は何もゴルフ練習場だけが練習の場ではない。第一、いくら安い練習場でも
毎日通えばお金もバカにならないだろう。広い公園に行けば芝生がある。小さな公園でもバ
ンカーショットの練習に適した砂場がある。アプローチの練習に好都合な場所は、捜せば身
近にいくらでもあるものだ。また、仕事の都合で忙しかったり、かぜなどの病気で公園にも
行けない日もあるだろう。そういう日でもイメージトレーニングを積んだり、テレビで録画した
プロのスイングを見るなりして、絶対にゴルフから離れる日がないようにしたい。

038「高齢者向けの生命保険は得か?」(1月29日)***********************************
 「80歳までの方ならどなたでも入れます。面倒な健康診断も一切必要ありません」と謳った
高齢者向けの生命保険がさかんに宣伝されている。普通に考えれば、80歳という、死が近
い年齢にもかかわらず、健康診断なしで入れるのだから、これほど得な保険はないような感
じがする。しかし、 本当に利用価値があるのだろうか?ここでは、2002年9月発行のアリコ
ジャパン保険の資料をもとに検討してみたい。
 第1に、この商品には月々支払う保険料と死亡時の保障金について4つのタイプがある。
このうち保障金額の最高はAプランといわれる商品で、これは病気死亡時に200万、災害
死亡時はその4倍の800万である。しかし普通に考えれば、高齢者になるほど災害死亡よ
りも病気死亡の方がはるかに高率になる。したがってこの商品は『死亡時に最高200万し
かもらえない保険』とみなして良いと思う。一般の生命保険のように何千万・何億も保障され
ないのである。
 第2に、月々の保険金は契約時の年齢によって、次のようになっている。( )内は支払い
金額が200万に達する契約後の年月である。つまり、その時までに死亡しないと月々の保
険料が保障金額を上回ってしまい、損する計算になるわけだ。
 50歳・・・男性→ 9362円(17年10ヶ月)  女性→ 6206円(26年11ヶ月)
 60歳・・・男性→12818円(13年)       女性→ 8580円(19年5ヶ月)
 70歳・・・男性→18366円(9年1ヶ月)    女性→12808円(13年)
 80歳・・・男性→31506円(5年4ヶ月)    女性→23034円(7年3ヶ月)
 第3に、病気死亡による保障では、契約から2年以内に死亡した場合は、既に支払った
保険料相当額しか保障されないという点である。健康診断なしで契約できるのだから、極
端な話「末期のガンで余命半年」と医師から告知された患者でも、契約しようと思えば可
能であろう。だが、最低2年間は生存しなければ200万は受け取れないのだから、余命が
宣告されているような死期の近い人には契約する価値がない。また、仮に2年1ヶ月目に
死亡したとしても、80歳男性の場合は、月31506円×25ヶ月(=2年1ヶ月)で、既に
787650円もの保険料を支払っているわけだから、死亡時に200万受け取っても、実質
的には121万余り得したことにしかならない。もちろん、それ以後に死亡した場合はさらに
下がるわけだ。しかも5年4ヶ月以内に死なないと利得が失われるわけだから、実際のとこ
ろ、タイミングよく死亡して保険の利用価値を最大限に引き出せる人は、総契約者のうちわ
ずかな人たちだけである。
 ところが、テレビの宣伝では上述の3点には一切触れていない。宣伝内容は
  @80歳までなら誰でもOK
  A健康診断不要
  B契約後の保険料値上げは一切なし
  C掛け捨てではない
以上4点である。
 確かに事実そうだし、決して誇大広告ではないから、宣伝内容に問題はない。しかし、世
の中うまい話はないのである。保険会社は慈善事業ではないのだ。当然、会社が儲かる
仕組みになっているのである。そこのところを念頭に置かないと、宣伝文句にのせられて、
契約して、最後は損することになる。このことは何も保険に限った話ではないが、消費者の
常識として心得ておくべきであろう。

037「キーボードの配列は整然とすべき」(1月22日)***********************************
 世の中にパソコンが登場して20余年、今や仕事にも娯楽にも必要不可欠の感さえするが、
これだけパソコンが普及した現代でも、「パソコンは嫌いだ」と言って、見向きもしない人も少
なくない。中には、携帯電話で頻繁にメールを交換する人でさえ、パソコンには触れようとし
ないというケースもある。その理由は人それぞれにあるのだろうが、私はキーボードの配列
もその一因なのではないかと思う。
 改めてお手持ちのパソコンのキーボードに目を移していただきたい。かな・アルファベッド
や各種の記号が入力できるキーを左上から見てみよう。かなは「ぬ」「ふ」「あ」「う」「お」・・・・
となっている。一方、アルファベッドの方は最上段は「!」「”」「#」といった記号なので、2段
目から「Q」「W」「E」「R」「T」・・・となっている。いつの時代でもどこのメーカーでもキーボー
ドは決まってこういう配列だが、なぜそうなのだろうか?日本語を入力する場合、ローマ字
入力をするのが一般的だが、こう配列がばらばらでは、まず、それぞれのアルファベッドの
位置を把握することから始めなければならない。キーボードに慣れた人なら何ということもな
いが、パソコン嫌いな人にとってはそれだけでも、ものすごい抵抗があるように思われてな
らないのである。
 一方、携帯電話はと言えば、「1」のキーが「あ」行のかなとアルファベッドのABC、「2」は
「か」行のかなとアルファベッドのDEF、「3」なら「さ」行のかなとアルファベッドのGH I ・・・
という順序で兼用になっていて、きわめて整然としている。したがって、メールなどで日本語
文を作成するときも五十音にしたがって打てば良いわけで、これなら誰でも苦もなくできる
のである。そういう視点で言わせてもらうと、日本人が使うパソコンは、日本人向けにキー
ボードの配列を改めるべきではないのだろうか?電卓だって左下から順に右上に向かって
数字が大きくなるよう配列されているから打ちやすいのであって、これがばらばらでは非常
に操作しづらいはずである。そういうことぐらい誰でも考えつきそうなものであるが、メーカー
のほうで一向に開発されないのが理解できない。
 五十音別に配列されたキーボードやアルファベッド順あるいは、子音・母音別に配列され
たキーボードが製品化されて店頭にあっても良いではないか。日本人の実情にあったパソ
コンを考えれば、パソコン嫌いの人を少しでも減らすことができるのではないかと思う。

036「成人式の是非」(2003年1月15日)********************************************
 1月のニュースの一つに、「成人式」がある。最近では「荒れる成人式」と題して、新成人の
非常識ぶりが放映される体たらくである。毎年全国各地の会場で、地方公共団体が行なっ
ている式だが、私はかねがね疑問に思っていた。
 まず、主人公たる当の新成人に、「自分も現代の日本社会を担う大人になった」という自覚
が全くといっていいほどない。だから、市町村区長の言葉や各来賓の式辞なども全く聴いて
いない。式である以上、もっと厳粛な雰囲気のもとで行われるべきであるが、彼らにとって、
「成人式」とは「同い年の友達と会える場」という意識しかないのだ。だから会場に集まると、
わいわいがやがやと、まるで猿が千匹集まったのかとでも思いたくなるような騒がしさである。
そして、式の最中でも私語は絶えないし、静かにしているかと思うと、会場のシートに体を沈
ませて昏々と眠っているか、携帯電話で姿の見えない相手とメール交換をして過ごしている。
とにかく、彼らは式場にいるだけで、式には参加していないのである。
 新成人にとって、成人式とは「同い年の友達と会える場」という意識しかないのなら、式とし
ての意義はまったくない。友達と会いたければ、自分たち仲間で勝手に集まって騒げば済む
はずである。わざわざ貴重な税金をつぎ込んで、そんな場を彼らに提供する意義がどこにあ
るのだろうか?しかも、主催者や来賓の方々が不愉快な思いをさせられているのである。こ
れほど理不尽な話はあるまい。また、地方公共団体も地方公共団体だ。不毛な成人式を毎
年続けていることに気づかないのも理解できない。昭和の末期から物が豊か過ぎる時代に
育った彼らは、道徳も公共心も他人への思いやりもなく、幼児性を丸出しにしたまま肉体だけ
が大人になったのである。たかだか50分の授業ですら耐えられずに授業妨害をしてきた世
代である。大人しく式に臨むはずがないのは明白である。少しでも関心を惹かせて式に参加
してもらおうと、各地では、あの手この手を考案している。そんな企画をしてまで彼らに迎合し
て式を成立させる必要性が本当にあるのだろうか?
 昔と違って有名無実化した昨今の成人式は、もうやめてもらいたい。やるのなら、戦時中の
徴兵制度と同様に、当該年齢の者を強制参加させるべきである。そして、会場には警察官を
総動員し、少しでも私語や携帯電話を使用して他人に迷惑をかけた場合はその場で現行犯
逮捕、投獄し、大人としての自覚が培われるまで刑務所内で更正教育を施す、というぐらいの
荒療治をすべきである。そのくらいの手段でも講じなければ、非常識な新成人を撲滅すること
はできまい。とにかく精神構造は幼児のままで、肉体だけが大人になり、それが結婚し、出産
して次の世代を育てていくのだから、このままではモラルのない大人が癌細胞のように無尽蔵
に増殖し、わが国の国民の質は悪化する一途である。考えてみれば末恐ろしいかぎりである。

035「平成14年を振り返って」(12月25日)********************************************
 今年最後の「言わせて頂戴」なので、今年を振り返った所感を述べたい。結論から先に言うと、
総じて今年も良い年とは言えなかった。良かったことといえば、W杯が無事終了できたことと、
北朝鮮に拉致された日本人がようやく帰国を果たしたことぐらいだろうか。あとは取り立てて評
価に値するようなことはなかった。
 バブル崩壊後の経済低迷は依然として続いており、特に失業率や新卒者の就職内定率は深
刻な情況になったままである。首相が就任時に行なった所信表明演説における公約どおり、不
良債権処理を推進した結果、企業倒産と失業率が増えて、「国民に痛みを伴う政治」が続いて
いるからだろう。そのせいで年間3万人を超す自殺者を出した。これで平成11年以来4年連続
で3万人を越える自殺者を出したことになる。もちろんその全てが失業による経済苦が原因で
はないが、「国民に痛みを伴う政治」の犠牲となった人数は決して看過できない。また、カネに
困った人による通り魔的犯罪や、現金自動支払機荒しも非常に多かった。金策に困った人に
とっては、自殺するか、犯罪をするかという二者択一しか残された道がないというのでは、芥川
龍之介の『羅生門』の世界と何ら変わらない。
 地球環境も好転しなかった。温室効果ガスは依然として減らなかったからである。南太平洋
にツバルという国がある。島々をあわせても伊豆半島の4分の1しかない小国だ。ここは地球
温暖化による海面上昇で世界最初に水没する国として知られているが、その国でいよいよ全
国民を移住させる準備が始まったのである。しかし、他国も無条件には受け入れてはくれない。
現状では一定の条件を満たす恵まれた者だけしか移住が認められないから、残りの国民は
地球の温暖化を招いた先進諸国の犠牲になる運命にある。昔は「難民」と言えば戦争難民と
決まっていたが、今年の新聞にはこのツバルの記事から「環境難民」という言葉も登場した。
ツバルだけではない。日本も確実に温暖化の影響を受けている。オーストラリアに生息するセ
アカゴケグモという毒グモが大阪府高石市で発見され、泉南市ではこのクモに噛まれた被害
者まで出た。我が国も年間平均気温が高くなったため、以前は南方でしか生息できなかった
生物が、日本でも越冬できるようになったのである。現に蚊の生息可能地域の北限がこの3
年間で100kmも伸びた。それだけデング熱やマラリアなどの媒介動物感染症の危険に晒さ
れることになるのである。その他、森林破壊や砂漠化の進行は既に報じられている通りであ
る。それにもかかわらず、地球温暖化をストップさせるための取り組みが一向にみられない。
 人々のモラルも確実に低下している。電車やバスなどの車内で携帯電話を使う人の数は相
変わらず減っていない。駅などの公共の場所でも高校生が制服姿のまま堂々と喫煙している。
前にもここで書いたが、あまりにも車内での痴漢行為が多いので、通勤電車に女性専用車両
まで設置される始末である。先日、私は学校行事で東京ディズニーシーへ生徒を引率したの
だが、平日なのに家族連れの小・中学生が多いのには驚いた。たまに取れた休暇だから家族
サービスのつもりで連れて来たのだろうが、学校を休ませて娯楽を優先することに対して、昨
今の親は何とも思っていないようである。その証拠に、欠席がちな生徒の家庭に担任教師が
電話したところ、「欠席ぐらいでいちいち電話しないで欲しい」と怒鳴られたという例すらあるの
だ。このように、親になる資格のない人が親になってが子どもを育てているのだから、成人式
の会場で市区町村長の話も聞かずにバカ騒ぎする新成人が増えるのは当然の帰結であろう。
一般市民だけではない。政治家や官僚のモラルも相変わらずである。外務省の裏金は最初
に公表された2億円の2.5倍にあたる4億5千万にも及んでいることが分かった。その中には
職員の私的流用も含まれている。「バレなければいくらやっても構わない。タクシー代や飲食
費などは好き勝手に使うのが当然」という意識が職員の間に依然として改まっていないので
ある。
 来年ははたしてどのような年になるのだろうか?また今ごろになって「総じて今年も良い年と
は言えなかった」という批評を書かざるを得ないのだろうか?そうはならないよう、少しでも改
善すべきは改善していかないと、我が国に明るい展望は開かれないだろう。

034「苦痛のない医療を」(12月18日)************************************************
 よく「科学技術は日進月歩だ」と言われるが、医療に関しては、さほど進歩していないように思
う。否、最先端の治療法や遺伝子レベルでの研究など、医療でも非常に進歩している部分は多
々あるのだが、患者にとっては切実で、かつ、医者にとってはどうでもいい部分では、全く進歩
していないのだ。具体的に例示して述べてみたい。
 たとえば胃の検査。X線撮影の場合、前夜から絶飲絶食となり、検査時に硫酸バリウムと発
泡剤を飲み、ゲップを我慢して撮影し、終了後は下剤を飲んでトイレでバリウムを排便するが、
この一連の検査手法はここ何十年も変わらない。バリウムや発泡剤を飲むのが非常に耐えが
たい苦痛というわけでもないから、取り立てて改善しようという動きもないのだろう。しかし、だか
らといって決して気持ちの良い検査ではない。胃部X線撮影は集団検診の項目にも入っていて
大勢の人が受診するのだから、胸部X線撮影のように撮影時に機械の前で大きく息を吸って1,
2秒息を止めていれば済むような、もっと簡単な検査に改善されないのだろうか?胃部X線だけ
ではない。内視鏡が登場してからは胃腸は勿論のこと、気管支や膣など殆どの内腔臓器は容
易に観察できるようになったが、やはり検査される側の負担は依然として緩和されていない。血
球検査で異常が出た場合に行なわれる骨髄穿刺検査も同様で非常な苦痛を伴う。
 検査だけではない。治療面でもそうである。医者はいかに患者の命を救うかというテーマには
懸命になるが、いかに苦痛を伴わない治療に改善するかというテーマには、さほど熱心に取り
組まない。今の医療界全体が苦痛の緩和を重視していないから、こうなるのだろう。つまり、少
しでも苦痛を伴わない治療法や検査手法を研究して、それを学会に発表しても、そんな論文は
相手にされないのだ。そのため初めから研究自体がなされず、個々の医者も「治すのだから苦
痛ぐらいは我慢しろ」という態度になるのである。だから、ある薬剤を投与した結果何らかの副
作用が出たとしても、最初から想定される副作用で、しかもそれが生命に影響を及ぼさない程
度のものであれば、医者は関知しないことが多い。しかし、患者にとっては、たとえ副作用が
38℃の発熱だけであっても苦痛なはずだし、そんな発熱はない方が楽に決まっている。しかし、
そういう面での改善は殆ど考えられていないのが実情だ。
 ハード面だけではない。ソフトの面でも苦痛はたくさんある。まず受付後の待ち時間だ。「3時
間待ちの3分診療」と揶揄されるように、病院の外来では患者の待ち時間が異常に長く、この
状況は十年一日のごとき一向に改善されていない。患者の中にはすぐにでも家に帰って安静
になりたいほど、病気のもたらす症状に苦しんでいる人もいるわけで、診療や薬局の会計のた
めに「待つ」だけでも苦痛なはずである。では、入院患者なら苦痛はないかといえば、そうでは
ない。医者も看護婦も病棟内に大勢の患者を抱えているから、一人当たりの回診はわずかな
時間でしかない。長期にわたって入院している患者、あるいは近日中に大手術を控えている
患者、さらにはもう治癒の見込みがなく刻々と死期が迫っている患者にとっては、漠然とした
不安を抱えて日々を過ごしているわけだし、病気の治療は勿論のこと、それ以外の面でも枕
もとで自分の相談相手になってくれる人を欲しているはずである。たが、そういう医療に伴う精
神的な苦痛に対しても病院は無頓着だ。
 医療は患者の利益を第一義に考えるべきものである。目の前の患者が肉体的・精神的苦痛
を抱えているのなら、医療に携わる者は誠実に自己の知見と技術の全てを傾けて、一刻も早
くそれを取り去ろうという努力をすべきである。そんなことをしても病院が儲からないからとか、
自らの業績に貢献しないからという理由で、熱心に取り組まずに患者の苦痛を放置するのは
言語道断である。

033「相撲の人気を回復させるには」(12月11日)**************************************
 大相撲が斜陽化している。満員御礼の垂れ幕が下がる日数も年々少なくなっている。2002
年の九州場所ではついに1日も垂れ幕が下がらなかった。人々の娯楽が多様化したため、サ
ッカーなど他のスポーツの観戦人口が増えたことも一因だろうが、原因のかなりの部分は大相
撲それ自体にあると思う。
 第1に、取り組みそのものがおもしろくなくなった。とにかく相手を押して前に出るだけで、相
撲の醍醐味を味わえる技が非常に乏しくなった。よく「大相撲の決まり手は48手」と言われる
が、一日に20番前後組まれる幕内取組の結果を見ると、「寄り切り」と「押し出し」で大部分を
占め、他は引き技と投げ技がわずかにある程度で、40手近い決まり手はお目にかかれない
のが現状だ。力士の体型も大型化する一途で、小技が利かなくなり、各部屋の親方衆も「前
に出る相撲」ばかりを指導するからこうなるのだろう。とにかく魅力ある技がほとんど見られな
くなった。相手を土俵の外に押し出すことだけが勝負になるという競技では、つまらなくなるの
も当然だろう。
 第2に、明らかな八百長相撲が見られることだ。特に千秋楽に勝ち越しがかかった力士と、
既に勝ち越しが決まった力士との取組では、必ずと言っていいほど、前者が勝っている。これ
は千秋楽に三賞(敢闘賞・技能賞・殊勲賞)がかかった場合や、先場所負け越して大関残留
がかかった場合でも同様である。週刊誌などに「力士の間で星の貸借や売買が行なわれて
いる」とまことしやかに語られているが、そういう噂が出ること自体が問題である。
 第3に、地方場所が少ないことだ。東京の両国国技館では年間3場所もあるのに、特に東
京以北は一つもないのは理解できない。東京にしても満員御礼の垂れ幕が下がる日はわず
かなのだから、東京も1場所にして、後の2場所は東北地方の最大都市仙台と北海道都であ
る札幌に分散すべきである。東北や北海道在住の相撲ファンの方が東京まで来ないと桟敷
で観戦できないというのは国技として問題である。プロ野球でも地方の球場で公式戦を行な
うのだから、大相撲でもそうすべきである。
 第4に入場料が高すぎることも指摘したい。2階はすべて椅子席だが、最も安い最後列でも
3500円、前列になると6000円は取られる。1階の大部分を占める桟敷席では最低でも4人
で3万円はするから、1人7500円の出費になる。バブル期はそれでも結構売れたが、これだ
け不況が長引けば売上減も当然だろう。
 以上述べた状況下で、さらに最近は怪我人が続出して、横綱や大関が休場する場所が多く
なった。これでは斜陽化するのも当然だろう。相撲協会も旧態依然とした体質から脱して、現
代社会のニーズに応えるようなスポーツに改善するのが急務である。そして力士は怪我をしな
い体づくりは勿論のこと、ファンを魅了するような相撲が取れるよう、日々の稽古に励んでもら
いたい。

032「アフターサービスのあり方」(12月 4日)******************************************
 パソコンが世の中に登場してから久しくなった。20年前、まだ Windoes 3.1も発売されてい
なかった時代は、パソコンなど一部のコンピューターオタクの扱う機械でしかなかったが、今や
どこのオフィスにもあるし、家庭でもかなり普及している。いずれは携帯電話と同様に、一人一
台ずつ所有するようになるのだろう。しかし、普及につれてユーザーにとって困った問題も多々
出てきた。
 まず、肝心のカスタマーセンターになかなかつながらないことだ。購入した製品に何か問題が
発生したときは勿論のこと、OSやアプリケーションのアップグレードなど、ユーザーとしてはカス
タマーセンターに相談したいことは山のようにある。しかし、いつ電話をかけても「ただいま電話
が込み合っております」とか「このまましばらくお待ちください」というアナウンスが聞こえるだけ
で、一度ですんなりオペレーターにつながることは殆どない。それだけ相談窓口が満杯なのだ。
メーカーも売るだけ売って知らん顔しているわけでは決してないのだろうが、いつかけても電話
回線が満線になっている以上、もっと増設してスムーズにつながるように努力すべきである。そ
んな努力をしても利潤に貢献しないといって、窓口の充実を怠るのでは早晩メーカーへの信用
が失われるであろう。
 それからカスタマーセンターによって回答が異なるのも問題だ。例えばメーカーはNEC、OS
はWindows、プリンターが EPSON だとしよう。ここでOSをアップグレードしようとして、NEC
に電話すると、「それはWindows ですから Microsoft へ聞いてください」と、たらい回しにさ
れる。それで Microsoft に相談すると、「今お使いのプリンターはアップグレード後に問題が
生じるかもしれません」と言われ、びっくりしてEPSONに訊ねると、「いや、そのままお使いい
ただけます。大丈夫なはずですよ」という回答だったりということは日常茶飯事だ。これではユ
ーザーはどこの回答を信用したらよいのかわからない。メーカーも自社製品についてしか知識
がないから、他社の発売した周辺機器やアプリケーションソフトには疎いようだ。しかし、消費
者の手に渡った個々のパソコンには当然さまざまなメーカーの周辺機器やソフトがインストー
ルされているわけで、そういう事情を考慮していないのでは困る。
 本当の意味でのアフターサービスとは、いつかけても電話がつながり、何を相談しても快刀
乱麻を断つがごとく明快な回答が示されるのでなければならない。今、さかんに宣伝している
ADSLも、契約していざ工事してみたら、さっぱりだという例もあるほどだ。メーカーも派手に宣
伝して販売することだけに躍起になるのではなく、販売後のケアこそ誠意を持って臨むべきで
ある。

031「煙草は直ちに取り締まれ!」(11月27日)*****************************************
 前々回、「国の無策がキレやすい子どもを増やした」と述べたが、国の無策が招いた悲劇は他
にもまだまだある。その中でも特に煙草に関しては国家の専売であるだけに、過激なゲーム機
を取り締まらないこと以上に悪質であろう。今回は煙草に関する政策について論じてみたい。
 人間ドックや職場の集団検診では必ず胸部X線撮影がある。これはかつて結核の早期発見の
ために行なわれた検査であったが、現在では肺癌の早期発見の目的で行なわれる検査である
といわれている。煙草と発癌の関係は既に国際的に証明されており、特に喫煙者の肺癌発生率
は非喫煙者のそれよりも数倍高いことが明らかになっている。また、たとえ非喫煙者でも周囲に
喫煙者がいる環境では副流煙を吸わされる、いわゆる受動喫煙となり、結果的には発癌率を上
げてしまっている。このように、今や煙草が「百害あって一利なし」であることは異論を挟む余地
がない。
 それなのに煙草は堂々と市場に出回っている。しかも我が国では国家の専売になっているの
だから呆れるばかりである。こうして国民の健康を害するものを販売しておいて、肺癌をはじめと
する癌の患者を増やしている。そのために医療保険組合の財政が悪化し、国民の健康保険料
や医療の本人負担率を上昇させている。しかし、その一方で「肺癌の患者を減らしましょう」とば
かり、集団検診項目に胸部のX線撮影を全員に受診させている。結果として、もともと世の中に
煙草がなければする必要のない検査や治療を行なって、国民の経済的・心理的負担を増やし
ている一方、国・病院・製薬会社・検診業者だけが儲けている、というのが現状だ。しかも、その
胸部X線撮影は肺癌の早期発見や死亡率減少には寄与しないことが、国際的に証明されてし
まったのである。だからアメリカでは集団検診の項目からも外されている。それなのに我が国で
はムダ金を使って有害無益な検査して、受診者の放射線被爆量をいたずらに増やしているの
だから、これほど矛盾した話もないだろう。
 本来、国民の健康を守るのは国家の責務のはずである。それならば麻薬や覚醒剤と同様に、
煙草を直ちに取り締まるべきである。それなのに国家自らが製造・販売し、歳入源とし続ける政
策は常軌を逸している。愛煙家には申し訳ないが、直ちに煙草をなくすべきであろう。

030「携帯電話の功罪」(11月20日)*************************************************
 携帯電話というものが世の中に登場してから久しくなった。公衆電話のない場所からや、ある
いは外出中の相手にも容易に連絡が取れるようになったことなど、携帯電話の「功」の面もそれ
なりにあったが、総じて考えてみると、やはり「罪」の面が上回ってしまったと思わざるを得ない。
それは次の6点の理由である。
 第1に、心臓ペースメーカーなどの医療用電子機器への影響がある。これは当該患者にとっ
ては非常に深刻な問題である。あるとき、東海道山陽新幹線の「のぞみ号」で、指定席特急券
を持っているにもかかわらず、デッキにずっと立っている乗客がいた。「のぞみ号」は全席指定
席である。本来なら一人の乗客も立つはずがないので、不審に思った車掌が声を掛けたところ、
その客は「隣席の人が携帯電話を持っていて、自分の体調が悪くなるから座れない」と答えた
というのだ。これだけ普及して殆どの人が常に電源を入れた状態で所持している現状では、医
療用器具の世話になっている方にとっては居場所もあるまい。
 第2に通話だけでなくメールの送受信ができるようになったことで、人々は文字を自分の筆で
書かなくなってしまった。これは日本人の国語力の観点から言うと極めて憂慮すべき事態であ
る。たとえば、好きな相手に何かを伝えるとき、昔は手紙や交換日記などに自分で書いたもの
だが、今はボタンを押すだけで、あとは機械が全てやってくれるのである。結局、辞書を引いて
正しい文字を書く作業などが不要になったわけで、それだけ文字文化から遠ざかってしまった
と言えよう。
 第3に、暴力団の資金源になってしまったことである。所謂「ワン切り」がその典型だ。不特定
多数の携帯電話に同時に大量発信して直ちに切り、故意に着信記録を残すことで、折り返し
発信した人から不当な金額を請求して暴利を貪る手口が急増した。NTTなどでは早速、悪質
なワン切り業者に対する回線使用の停止措置などの対策に乗り出したが、これも完璧なもの
ではなく、早晩イタチごっこになるのは明白であろう。
 第4に、教育現場で授業が成立しない状況を作ってしまった。特に、高等学校では、授業中
でも絶えず携帯電話が鳴って、通話を始める生徒がいる有様で、通話しない生徒でも携帯電
話の画面を凝視してメールを打っていたりで、およそ授業を受ける態勢ではないというのが実
態である。昨今、子どもの学力や学習時間が国際的に比較され、我が国のそれが他国よりひ
どい状況が新聞などで報じられている。今後、この現象はますます加速されていくであろう。
 第5に、総じて時間に対してルーズになってしまった。例えば人と待ち合わせをするときに、
昔は待ち合わせ場所にいる相手に連絡の取りようがなかったので、なるべく待たせないよう
にしようという気持ちが心のどこかにあったものである。それが今ではメールで簡単に連絡が
取れるから、「×分遅れるから待ってて」という一言で済んでしまう。結局「遅れたら連絡すれ
ば良い」という安直な発想で行動するから、時間を守ろうとする習慣も相手に対する誠意も失
われてしまった。
 第6に通信費用がかかるため、家計負担の増加に拍車をかけてしまった。女子高校生の携
帯電話利用料金が月1万円〜2万円というのはザラで、ひどい例では月10万円も支払ってい
る。それを捻出するために、夜遅くまでアルバイトをして稼いでいるのが実情で、高校生として
健全な情況とは言えまい。
 これだけ「罪」の面が多いと、携帯電話のなかった時代の方が良かったのではないかとすら
思ってしまう。世の中何もかも便利になるというのも考え物だという好例であろう。

029「キレない子どもを育てるには」(11月13日)****************************************
 最近「キレ」る子どもの問題が叫ばれている。「キレ」る子と「キレ」ない子の違いが科学的に解
明されつつある。さまざまな調査の結果、読書をせず画像ゲームばかりに熱中する子どもやス
ナック菓子を多食する子どもなどが、「キレ」やすいことが明らかになってきた。前者について少
し説明しよう。
 読書をすると脳の「前頭前野」という部分が活性化される。ここはコミュニケーション力や注意
力を担う部位で、鍛えれば鍛えるほど情緒が豊かになり、感情を統制することができるようにな
る。一方、画像ゲームばかりしていると、脳の活動状況を表す脳のβ波が「前頭前野」から殆ど
出されず、それだけ集中力や情操・感情のコントロールが失われ「キレ」やすくなる、というわけ
だ。ところが、現代の子どもは読書をしなくなってきた。新聞を全く読まない高校生や大学生も
珍しくない。子どもにもっと活字に触れさせようという動きもあるのだが、一向に奏効しないのは
子どもを読書から遠ざける刺激ばかりが激増しているからである。まず、任天堂などのゲーム
ソフト企業が次々と脳に悪影響を与える新商品を発売している。その結果、子どもは屋内外を
問わず終日ゲーム機を手に持って遊ぶようになってしまった。また、どこの町でも繁華街へ行け
ばゲームセンターがある。そこで興じることのできるゲームも、年々刺激の高い過激な内容の
ものへとエスカレートする一途である。
 こういう環境が子どもを活字から遠ざけて「キレ」やすくさせ、結果的には少年犯罪を増やして
しまっているのだ。それなのに、政府が発売を取り締まろうとはしない。とにかく「売れさえすれ
ば何でもかまわない」という資本主義的発想しかないのだ。国の無策でこうした情況を招いてお
きながら、いざ、「キレ」た少年が学校現場で何か問題行動を起こすと社会は教育現場のせい
にする。これこそ本末転倒であろう。昨今、学校では総合学習だとかいろいろな取り組みが行
なわれているが、教育課程をいかに改めても、「キレ」る子どもは絶対に減らないと断言できる。
それは子供が「キレ」るのは教育課程の不備が原因なのではなく、子どもをとりまく環境が原因
だからだ。
 「昔の子どもはよく本を読んだものだ」と言うが、それは本を読むことしか余暇の過ごし方がな
かった結果、そうなっただけのことである。もし当時もテレビゲームがあったら、昔の子どもも読
書もせずにゲームに興じたはずである。本当に「キレ」やすい子どもを減らしたいのなら、教育
課程を改めるのではなく「キレ」ない子どもが育つ環境づくりに政府が本腰を入れるべきであろ
う。

028「みんなが感動できる作品を」(11月 6日)*****************************************
 「芸術の秋」という言葉もあるので、今回は芸術の話をしようと思う。美術にしろ、音楽にしろ、
建築にしろ、古くからどこの国にも芸術はあった。しかし、中世→近世→近代→現代と時代が進
むにつれて、次第に技巧を凝らす作品ばかりが高く評価されるようになってしまい、その結果、
芸術に造詣のある特定の人にしか理解できないようになってしまった感が否めない。

 絵画で例をとると、ピカソに『ゲルニカ』という作品がある。これは戦争の悲惨さを訴えた絵画で
ピカソの代表作とも言えるものだそうだが、素人の私から言わせてもらうと、どう見ても幼稚園児
の落書きと大同小異にしか見えない代物だ。もし私が中学校の美術教師で、受け持ちの生徒が
このような絵を描いて持ってきたら、
「もっとまともな絵を描きなさい」と指導するであろう。
 しかし、そのような絵が価値のあるものとして高く評価されるのであるから、芸術の世界は不可
解だ。その方面に詳しい、見る人が見れば確かに素晴らしい作品なのであろう。しかし、そのよ
うなものでは芸術としての意味がないと思う。音楽にしても絵画にしても、人々の心に訴えて感
動させるものこそ本当の芸術なのではなかろうか。最近、モニュメントのある公園や駅が増えて、
よく待ち合わせ場所などにも利用されているが、個々の作品を見ると何をイメージしたのか皆目
わからないものが多い。これでは「何でこんなものを作ったのだろう。税金のムダ使いだ」という
負の感情しか残らない。それでは芸術しての意義はないはずだ。

027「年賀状は心をこめて書こう」(10月30日)*****************************************
 今年もあと2ヶ月余り、年賀状が発売される季節になった。最近はパソコンで作成する人が多
く、はがきもインクジェット紙の売れ行きが非常に良い。しかし、受け取る側の立場で言わせて
もらうと、はがきの表も裏もすべてプリンターで印字して作ったものは感心しない。いかにも機
械が作った年賀状という感じがして、いただいても嬉しい気持ちが湧いてこないのである。やは
り、肉筆の部分もほしいのだ。
 私は、自分の住所・氏名と、「謹んで初春のお喜びを申し上げます」という新年の挨拶だけを
パソコンで作成し、プリンターで印刷している。自分の住所や氏名は何百枚書いても同じであ
る。新年の挨拶も決まり文句であるから、これも同じになる。こういうものを手書きで書くのはあ
まり意味がないから、文明の利器に委ねても良いだろう。しかし、先方の住所・氏名は1度しか
書かないのだから、心をこめて丁寧に肉筆で書いている。そして、新年の挨拶のあとに書く言
葉は一人一人違うので、これも肉筆で書いている。つまり1枚1枚違う部分は肉筆にしているの
である。
 肉筆で書いたはがきなら、中身を読まなくても文字を見ただけで、「○○さんから来たはがき」
とわかる。たとえ文字が拙いものであっても、本人が書いたものには親しみを感じるのだ。とこ
ろが、すべてパソコンやワープロで作ったものは、文字を読まない限り、書いた相手がわからな
い。仕方がないので、活字になった文字を読むのだが、いかにも事業所から来た書類にでも目
を通しているような気分になるのである。
 最近は年賀状に限らず、暑中見舞いやいただいたお歳暮の返事などもメールで済ませる風
潮がある。しかし、何でもかんでもメールというのはいかがなものか。やはり心をこめて自分で
書くことも、時と場合によっては必要だと思う。そうしないと、「拝啓」も「敬具」も、さらには時候
の挨拶すら知らず、手紙一本碌に書けない人ばかりが増えてしまう。

026「墓は本当に必要か?」(10月23日)*********************************************
 今回は「人は死んだ後も心だけは存在し続ける」という前提で話を進めたい。人が亡くなった
場合、棺に入れて通夜→告別式→出棺→火葬の順に進み、遺骨を墓におさめるのが普通であ
る。その後は一周忌などの法要や年2回の彼岸に墓参りして、線香をつけて花を供えるのだが、
これは死者にとって本当に供養されたことになっているのだろうか?もし死んだ後も心があると
したら、墓に入れられて死者は決して喜んでいないと思う。もし私が死んだら、生前一緒に過ご
した家族の住んでいた家に骨壷を保管してほしいと思う。家族の住む家とは遠い墓に入れられ
て、暑い日も寒い日も雨の日も雪の日も放置されて、彼岸のときしか家族や親戚が墓参りに来
てくれないのではあまりにも寂しい。
 死んだ人を墓に埋葬するという風習はだいぶ古い時代からあるのだが、これは生者が「死者
は穢れたもので忌むべきもの」と見なして、日常生活から遠い場所に隔離しているような気がし
てならない。だから大規模な墓地や霊園が全国各地にあって、死んだ人は一箇所にまとまって
集められているのだが、それで墓の中の死者が満足しているとはとても思えないのだ。よく「夏
の夜中に墓地を歩くと幽霊が出る」とか言うが、もし出るとしたら「よくもこんな場所に葬りやがっ
て」という恨みが幽霊になって現れているのではないのかとさえ思う。墓に納骨された後、たとえ
年2回でも参る人がいるうちはまだマシだが、死亡してから歳月が経過するとその死者を知る
人もやがては死亡して、墓を訪れる人もいなくなるものだ。そうしてしまいにはどこの誰が眠って
いる墓なのか全く分からなくなってしまう。現に、都内のある霊園では無縁仏が80%を占め、始
末に困っているのが現状だ。これでは死者をゴミ同然に扱っているようで失礼だし、とても供養
にはなっていないと思う。
 本当の供養とは生前過ごした家に仏壇と骨壷を安置して、毎日毎日、遺族が線香をあげたり
好物を供えたり、その日に起きた出来事を語って聞かせたりすることではないのだろうか。そう
すればわざわざ墓を買う必要もない。そうでなくとも我が国は土地が高いのだ。マイホームだけ
でも大変なのに、墓地まで高いカネを払って確保することはないと思う。墓地がなければ忙しい
日常生活の合間をぬって墓参りに行く必要もないのだ。そういう意味からも墓は無用だと思う。
死んでしまっても生前は掛け替えのない家族であり肉親だったのだ。死んだからといって墓に
隔離しないでほしいと思うのは私だけなのだろうか?

025「目的地への道中も楽しもう」(10月16日)*****************************************
 秋は行楽のシーズンということで、旅行をする人も結構いる。特に、北海道は内地にはない大
自然があって、年間を通じてかなりの人気があるのだが、北海道までの往復に利用する交通機
関を調べてみると、92%が航空機というのが現状だ。東京の羽田から千歳まで1時間半、稚内
や女満別・釧路など道北・道東の空港でも2時間はかからない。しかし、あっという間に北国に
移動してしまっては旅の情緒がないような気がする。東北新幹線も開通していなかった1970年
代までは、上野から8時間ほど寝台特急に乗って、まず本州の北の果て「青森」に着いて、そこ
から青函連絡船に4時間も揺られて、ようやく函館に着いたものである。だから本当に「♪は〜
るばる〜来たで〜函館」という感じがした。函館といってもまだ北海道の入り口なので、旅人は
さらに鉄道やバスを利用して道内の各地へ向かった。だから、東京からだと移動だけで2日を
要することになる。出張など仕事で移動するのに2日もかかるのではたまったものではないが、
たまに出かける旅ぐらいは2日や3日かかっても良いではないか。
 目的地で過ごす時間だけが旅ではないと思う。目的地までの往復、つまり道中も旅なのだ。だ
から私は航空機や新幹線ではなく、できるだけ在来線、それも各駅停車で往復するようにしてい
る。時間を贅沢に使ってゆっくり移動すると、季節感やその土地の風情も堪能できる。桜の咲く
季節に東京を発てば、北に向かうにつれて次第に雪が増え、まだ冬が居座る北国の様子を味
わえる。峠が近づけば積雪量が増えたり、平野部に下りれば嘘のように雪がなくなったり、太平
洋側から日本海側に入ったとたんにがらりと気候が変化する。各駅停車に乗ると大きな駅ごと
に乗客が入れ替わり、それにしたがって地元の乗客の交わす言葉が少しずつ変っていく。同じ
東北弁でも、福島あたりと青森とではまるで違うのだ。東京から西へ行けば、駅そばのつゆの味
が少しずつ変化していくのがわかる。カツオだしで醤油を基本にした濃いつゆから、コブだし主
体の薄味のつゆに変わっていくのである。そういった道中の変化を味わうのも「旅」の楽しみの
一つだと思う。みなさんも目的地までの道中をのんびり味わう旅を試みてはどうだろう?

024「風俗に対する意識改革を」(10月 9日)******************************************
 JR東日本の路線に埼京線がある。埼玉県の川越から大宮・赤羽を経て東京の恵比寿まで走
っている路線だ。この線では夜11時以降の下り電車は最後尾の車両が女性専用車両に指定
され、男性は乗れないことになっている。昭和60年の開業時から、埼京線では車内での痴漢行
為が多いことで全国的に有名となり、さすがのJRも乗客の苦情に応えて女性専用車を導入した
のである。今では私鉄の京王電鉄でも同様の方法で設定した。痴漢行為が後を絶たない以上、
女性専用車両の設置は当然の帰結であろう。職場では上司のセクハラ行為が裁判になるなど、
昨今の女性の人権意識の向上はめざましいものがあるが、その一方で女性の態度には理解に
苦しむ一面もある。それは性の商品化に対する女性側の意識だ。
 現代ほど性が商品として扱われている時代はないと思う。東京では新宿の歌舞伎町、大阪で
はミナミに行けば、性風俗関係の店がたくさんある。そんなところへ行かなくても近所の書店で
週刊誌を買えば巻頭にヘアヌード写真が掲載されている。レンタルビデオは、どこの店舗でも少
なくとも商品の3割はアダルトビデオだ。アダルトものは未成年者は借りられないことになってい
るが、週刊誌のヘアヌードなら小中学生でもコンビニで立ち読みできる。インターネット上ではア
ダルト画像が無尽蔵にあっていくらでもダウンロードできる。今や、写真はデジタルカメラで撮れ
るようになったから、いちいち現像を写真屋に依頼する必要もない。だから、公序良俗に反する
写真も好き放題に撮影できるようになった。ネット経由の画像は今後ますます氾濫するであろう。
 こういう現状を女性は何とも思わないのだろうか?職場でのセクハラが裁判になるほど女性の
人権が強調されるご時世なのに、性が商品化されている実態に対して女性側から、何ら具体的
な行動が起きないのが不思議でならない。たとえば、普通の映画を借りようとレンタルビデオ店
に入ったとき、ずらりと並ぶアダルトものを見て、女性は不愉快に思わないのだろうか。書店に
入って週刊誌を手にとったとき、グラビアのヌード写真を目にして、陳列した店舗や出版社に告
訴や陳情をしようという気にはならないのだろうか。それどころか自身が身を売ることで稼いで
いる女性がいるのが理解できない。女子高生の援助交際などその最たるものだが、カネになる
のなら何をされても厭わないのだろか。売ればカネになるからといって自分が着古した下着や
制服をブルセラショップへ売ることに対して何とも思わないのだろうか。
 政府の対応も理解に苦しむ。女性議員や女性の閣僚もずいぶん増えたが、彼女らの側から
も氾濫する性風俗を取り締まろうとする動きはほとんどない。特にインターネット関連は青天井
だ。性の商品化に対しては政府も当の女性も意識がなさすぎる。表現の自由の美名のもとに、
アダルトビデオが陳列するようなことのないような社会にすべきではないのか。また性犯罪に対
する制裁も厳しくすべきだ。車内で痴漢行為をした場合は罰金5万円であるが、再発させないた
めにも刑務所に収監して強制的に睾丸摘出手術ぐらいはするべきである。そのくらいのことをし
ない限り、女性を変質者から守ることは不可能だ。一度でも変質者に襲われた経験のある女性
の中には深刻な男性恐怖症に陥っている人もいるのである。そういう被害者が公的機関が実際
に把握している数以上にいることを考えて、もっと真摯に取り組むべきだ。

023「拉致問題の解決に必要なことは」(10月 2日)*************************************
 小泉首相の訪朝以来、北朝鮮の日本人拉致問題が連日報道されている。もちろん、無辜の市
民に対して一方的に拉致し、それを今日まで否認し続けた北朝鮮の国家的犯罪は断じて許され
るべきものではあるまい。しかし、日本政府が北朝鮮に対して拉致問題だけを取り上げて強硬な
態度で臨んでいくのでは、日朝間の問題は何ら前進することなく平行線に終わるだけであろう。
拉致問題の解決と日本の対北朝鮮への経済支援、ひいては日朝間の国交回復を論じる上で大
切なことが一つある。それは半世紀前に、我が国が朝鮮に対して犯した過去である。
 日韓併合以来、現北朝鮮に対して行なった残虐な軍事的行為に対して、もし我が国が不問の
まま責任と誠意ある具体的行動を全くとらなければ、日朝間の好ましい進展は到底期待できま
い。1910年の日韓併合から1945年の日本敗戦までの35年間、朝鮮半島で行なった我が国
の軍事的行為について、政府が正式な調査をして、それについての公式的な態度を表明したこ
とは、これまでに一度もなかった。またマスコミも、これを真正面から取り上げて、それなりの質
と量を伴う報道を行なって国民に知らせる努力を怠ってきた。そして歴史の教科書でも、「日韓
併合」という抽象的な言葉でしか扱わず、その史実の中身を詳細に取り上げてこなかった。その
結果、戦時中に兵隊として朝鮮半島に行った者は別として、それ以外の日本人は日韓併合とは
具体的に何であったかも知らず、それゆえ、たとえば従軍慰安婦問題についても無理解なまま
であるという有様なのである。これでは当時の朝鮮に対してとった我が国の行為を何ら反省して
いないと見なされても弁解の余地はあるまい。拉致問題の解決を条件に、すべての交渉をスタ
ートするのではなく、まず自国の犯した残虐行為の謝罪から国交正常化への努力をすべきでは
ないのか。それも、戦後57年も経過した今からではなく、日本敗戦の直後から誠意かつ真摯に
取り組むべきではなかったのか。そうすれば日朝間の国交正常化ももっと早く実現したであろう
し、拉致事件そのものも起きなかったかもしれないのである。
 あと3年足らずで戦後60年にもなるが、北朝鮮とはいまだに国交が回復していない。これは極
めて異常な事態である。考えてみれば、中国との国交正常化も戦後25年以上が経過してからで
あった。その理由は多々あろうが、戦後の日本の各被侵略国家への対応が十分なものではなか
ったことも一因である。広島・長崎の原爆や東京大空襲、そして今回の拉致事件など、被害者と
しての立場での日本人による告発や記録が盛んに行なわれているが、それ以上に重要なのは、
中国・朝鮮をはじめとする侵略したアジア諸国に対する、加害者としての日本人の記録と反省で
はないのか。日本と同盟国であったナチス=ドイツが行なったホロコーストについての記録は、
我が国でもたくさん出版されているが、肝心の日本の記録が見当たらない。そして、この件に関
する中国との歴史認識は、あまりにも差がありすぎるままである。本コーナーの第2回で取り上
げた日の丸・君が代・靖国問題に対する政府の態度も、我が国の歴史教科書についても、アジ
ア諸国が遺憾の意を表明しているのが現状である。これでは今後の日朝間の進展も茨の道で
あろう。

022「癌治療の恐るべき実態(Part2)」(9月25日)*************************************
 先週は抗癌剤投与の実態を述べた。しかし、抗癌剤の場合はそれでもまだマシかもしれない。
というのは、わずかでも副作用が出た段階で、患者が治療を拒否すれば副作用で死なずに済む
し、いざとなったら夜逃げ同然に自主退院する手も残っているからだ。だが、患者に麻酔をかけ
られて密室で行われる手術については、いったん始まったらもう逃げようがない。極端な話、たと
え二日酔いの医師に執刀されても患者の方から中断させることはできないわけで、術中・術後の
生殺与奪はすべて医師に握られていると言えよう。さて、その手術だが、癌の治療における問題
点は次の4つである。 
 第1に、癌の摘出手術は、問題の臓器のみならず、周辺のリンパ節も含め、広範囲な切除とな
ることが多い点だ。もちろん、肉眼では見えない程度の癌細胞がどこに点在しているかわからな
いし、それらが転移したり再発するのを防ぐためにも広く切除せざるを得ないわけだが、その結
果、術後一度も意識が回復することもなく、死ぬことすらあるのだ。また、たとえ死ななくても術後
の生活は非常に苦しいものとなる。たとえば胃癌で胃の全てを切除された場合はどうなるか。米
粒ひとつでもうっかり噛まずに飲み込んでしまうと、突き刺すような強い腹痛に襲われ、脂汗を流
すはめになる。胃がないということは食道から直接小腸へ管がつながっているわけだから、食べ
物が咀嚼されずに腸へ入った途端に腸が痙攣するのだ。人間は爪一枚剥れただけでも不自由
な思いをするではないか。指一本脱臼しても日常生活は不便になるではないか。ましてや、内臓
がなくなったら、なおさら苦しい思いをするのは必至なのである。それでも、手遅れの癌で手術も
できずに死ぬよりはマシかもしれないが、癌から生還できた人々の大部分は、術後の後遺症に
悩まされているのが現実だ。
 第2に、大手術を敢行してそれだけの不自由や後遺症に耐えたからといって、命が助かる保証
はないという点だ。そもそも、手術で癌細胞を一つ残らず切除できるとは限らない。むしろ、肉眼
では見えない小さな病変を取り残す危険性の方が高いと考えるべきで、いずれそれが増殖して
再発するのは必至である。百歩譲って、手術した部位からすべての病変を取り除くことができた
としても、手術した時点で他の臓器に転移があれば、転移先の癌細胞が増殖するから、いずれ
再発して死ぬ運命は不可避である。フジテレビの司会で人気があった逸見政孝氏が癌告白の記
者会見をしたのは記憶に新しいところだろう。あの会見の席で、彼は、「3ヶ月休養して癌と闘って
みよう」と言っていた。そして、彼は再発した胃癌のため、93年9月16日に東京女子医大で、癌
を含め臓器3kgを摘出する大手術を受けたが、結果は一度も退院することもできず、同年12月
25日に亡くなっている。癌の手術というのはそういうものだと考える方が良いという好例だ。
 第3に、医師が手術の危険性を説明せずに患者を手術に誘導している点だ。手術が原因で死
亡することを医療界では「術死」という。たとえば、食道癌では全国平均で8%の率になっている。
つまり、100人のうち8人が手術をしたために死ぬ計算だ。こう書くと、読者は「あとの92%は大
丈夫だから大した事はない」と思われるかもしれない。だが、この「術死」は、「手術後1ヶ月以内
の死」と定義されている点が盲点だ。先々週に挙げた「交通事故死」が「発生から24時間以内
の死」と定義されているのと同じである。つまり、たとえ手術が原因であっても、31日目以後に死
亡した場合は「術死」としてカウントされないのである。実際には術後の容態が改善せず、あらゆ
る延命努力をした揚げ句に3ヶ月も経ってから亡くなる人もいる。だから現実の術死は公表され
た数値の4倍はあると考えなければならない。従って食道癌の術死は32%にもなる。だから3人
に1人が死ぬ手術なのだ。それにもかかわらず、「手術は安全だから私に任せてください」などと
偽って手術を勧める医師が多いのが実態だ。
 第4に、手術の分野でも患者をモルモットにした人体実験が本人の承諾もなしに行われている
ことだ。ある癌の手術の方式にA・B・Cと3通りが研究されていて、それぞれを患者に試みてどう
いう成果が出るかを実験するというのは日常茶飯事である。たとえばAが従来よりも小さく切除し
て臓器の温存を図る術式、Bが従来の術式、Cが従来以上に広範囲に切除する術式だとする。
その場合、C方式を受けた人が術後に七転八倒した揚げ句に死んだり、あるいは逆に、A方式
の人が取り残した癌の再発で死亡したりする。
 以上の事情で手術が招いた死はかなりある。端的な例では、手術前日まで元気だった患者が
術後一度も意識を取り戻すことなく数日で死亡することすらある。これが虫垂炎のような簡単な
病気で術後まもなく死亡したら、「もしかしたら医療ミスではないか」と遺族も疑うのだろうが、病
気が癌だけに、医師から「最善を尽くしましたが、予想以上に癌のタチが悪く手の施しようもあり
ませんでした。」と誠実に言われてしまうと、納得してしまうことが多いのである。だが、術後3ヶ
月以内に死亡する患者の大部分は明らかな医療ミスだったり、広範囲に臓器を摘出しすぎたた
めに死亡しているのが現実だ。しかし、仮に遺族が、「手術に問題があったのでは」と不審感を
抱いても、手術室は密室だから、中で行われたことが遺族には全くわからない。したがって、裁
判で訴えようにも、病院の業務上過失致死を立証することができないのである。

021「癌治療の恐るべき実態(Part1)」(9月18日)*************************************
 我が国の死因のトップが癌になってから久しくなったが、彼らが本当に癌で死亡したのかとい
うと非常に疑わしいものがある。と言うのは、実際には癌ではなく、治療行為の結果生じた副作
用や合併症のために死亡している人が非常に多いからだ。もし、癌の治療による死を癌細胞の
増殖による本来の死とは別にカウントしたら、我が国の死因のトップは間違いなく現在2位であ
る脳血管疾患になるはずだ。そこで今週と来週とで癌治療の柱ともいえる抗癌剤と手術につい
て問題点を検討する。今週は抗癌剤投与の実態を述べたい。
 抗癌剤は問題点ばかりだ。第1に、治療目的のない人体実験を、実際の癌患者に対してどこ
の病院でも日常的に行なっていることだ。どの薬剤でも新薬が開発された場合、適切な服用量
を調べたり、効果や副作用の有無を確かめるために人体実験をしている。しかし、抗癌剤でな
い一般の薬剤の場合は、製薬会社に勤める有志や新聞の治験広告を見て応募した人などが
被験者となり、薬効や薬剤の安全性・副作用の有無などを調べているので、さほど問題点はな
かろう。だが、抗癌剤は予期せぬ副作用で死亡することも想定されるので、一般の人を被験者
にするわけにはいかず、癌患者を毒見役にしているのだ。しかも、この人体実験には治療目的
はない。段階的に増量して副作用で死亡しない限界の投与量を求めたり、既存の抗癌剤と組
み合わせた場合の効果を調べるだけである。実験の対象とされるのは既存の薬剤では有効な
治療法が見出せない末期の癌患者で余命6ヶ月以内の人である。実験する医師も「もうこの患
者はどうせ助からないのだから・・・」という意識があるから、患者をモルモットにすることに対し
てさほど抵抗感を持たないようだ。
 第2に、この人体実験が被験者となる患者に無断で行われていることだ。一応、事前に実験
の概要を説明して患者の同意を取るという建前にはなっているが、実際には「あなたの病気に
効く新薬を使おうと思います。」という医師の提案に、患者が「先生にお任せします。」と応じて
いるだけで、患者は自分自身が人間モルモットになった事実を知らされずに実験されているの
である。医師にしてもまさか「あなたを新しい抗癌剤の危険性を測るための実験台にしたいの
ですが・・・」とはとても言えまい。しかし、だからといって無断で患者をモルモットにすることが許
されるものではないはずだ。
 第3に、新薬の発売認可基準が恐ろしく甘いことだ。どの薬剤でも実験結果を提出して厚生
省の中央薬事審議会に承認されれば正式に治療薬として薬価が定められ発売が認可される
が、抗癌剤の認可基準はなんと被験者の10%に一定以上の腫瘍の縮小が確認されれば認
可されてしまうのが現実である。逆に言えば、90%の患者には何の効果が見られなくてもOK
なのである。他の一般の薬剤、たとえば抗菌剤などでは最低でも80%程度の効果が認められ
なければダメだし、それも治癒を前提としたレベルでの「効果」であるのに対し、抗癌剤ではた
とえ治癒が望めなくても腫瘍が小さくなれば良いという程度で認可されてしまうのである。この
ため、我が国では胃癌など抗癌剤では絶対に治らない癌に対しても、かまわず投与され、副作
用による死の山を築き上げているのが実態だ。
 最後に、副作用で死亡してもその事実を隠蔽して、遺族を平然と欺いていることだ。これがか
ぜ薬だったらすぐに遺族に怪しまれ、投与した医師と病院が訴えられるところだが、病気が癌
だけに、主治医が「最善を尽くしましたが、癌の進行が予想以上に速く・・・・」と弁解すれば片付
いてしまうのである。というのも、一般の人には「癌は恐ろしい病」という先入観があるので、医
師は抗癌剤の副作用で患者が死亡しても、癌の進行や増殖による死と偽って容易に遺族を欺
くことができるからだ。結果、遺族は抗癌剤が招いた副作用による死であることを知らずに終
わっている。仮に、遺族が怪しんで提訴すべくカルテの保全をしようとしても、病棟ではカルテ
の改竄も日常的に行われているので、どうにもならない。
 これが癌治療の現実、それもほんの一部である。私は癌と診断されて入院したもののあっとい
う間に亡くなった人を何人も見てきた。しかし、癌は基本的に一定の速度で細胞分裂を繰り返し
て増殖するので、入院前まで日常生活ができた元気な人が1ヶ月や2ヶ月という短時日で亡くな
るはずは絶対にないのである。94年に塩酸イリノテカンという開発中の新抗癌剤の治験で477
人中27人が1ヶ月以内に死亡した報道は記憶に新しいところだが、これも間違いなく薬剤投与
が招いた死であろう。つまり、その27人の患者は人間モルモットにされていたのだ。抗癌剤さえ
投与されなければ、もっと長く生きられたであろう患者はたくさんいたのである。近年、医療界で
は情報公開だのインフォームドコンセントだのと言われるご時世にはなったが、癌の治療に関し
てはまだまだお寒い限りであることを肝に銘じておかねばなるまい。

020「損保会社の恐るべき実態」(9月11日)*******************************************
 先週、「交通事故で年間1万人が死亡している」と述べたが、あれは事故発生後24時間以内
に死亡した人だけをカウントしたものである。実際には、事故後さまざまな治療を施したものの、
脳死状態に陥って1週間後に亡くなる人もいるわけで、もし「事故当日から1ヶ月以内の死亡」を
交通事故死として扱ったら、警察庁の発表する数値の3倍はあるとみなければならない。ちなみ
に、負傷者は年間110万人にものぼっている。1年間で国民100人あたり1人が交通事故で怪
我をしている計算になるが、もし、同一人物はニ度と怪我していないものと仮定すると、10年間
で10人に1人、20年間では5人に1人の確率で負傷することになるわけだ。こう考えてみると決
して他人事ではなかろう。さて、そんな事故時の備えに自動車保険があるわけだが、これにも問
題は山ほどある。自動車保険には強制(自賠責)保険と任意保険がある。このうち後者は98年
に自動車保険の自由化以降、さまざまな商品が登場してきた。最近は「リスク細分型」と銘打っ
て、従来より最大40%も安くなる保険がある。その他にも緊急時に迅速な対応を売り物にする
など、ドライバーにとっては非常に聞えがよいが、保険金を受け取る側、すなわち被害者側から
みると恐ろしい実態が隠されているのだ。
 それは払い渋りである。自賠責保険の限度額を超えるような事故では、いわゆる「一括払い」
がなされる。これは示談交渉を加害者の契約した任意保険会社が一括して行なうことだが、こ
のとき損保会社から提示される賠償額は恐ろしく安いのが常である。あまりにも低い提示額に
不審を抱いて弁護士を交渉代理人にした途端に提示額は3倍にハネ上がったり、裁判で争った
ところ示談提示額の10倍で解決したなどというのは日常茶飯事である。ひどい例だと損保会社
で支払額なしと査定された死亡事故が、裁判で4000万になったものすらある。被害者は素人
だから裁判所の基準額など知らないし、「裁判で争うと弁護士費用などカネがかかるから損」と
いった先入観もあって、示談交渉で相手の言われるままに印を押してしまうことが多い。これで
はまさに被害者への詐欺行為と同然である。
 また、加害者側が90%悪い事故なのに、損保会社の査定で50%に過失相殺されたり、双方
に50%の過失がある事故にもかかわらず、加害者側が無責にされたりする例も少なくない。無
責とは、加害者側には一切責任がないという意味なので、つまり被害者側には保険金が1円も
支払われないことになる。さらに、ひどいのは被害者が死亡した場合だ。「死人に口なし」だから、
目撃者がいない限り、事故当時の状況は加害者側からしか聴取できない。そうなると情況を被
害者側から立証できないのをいいことに「加害者は無責」と処理され、被害者の遺族に全く支払
われないことも珍しくない。現に、無責になる確率は毎年傷害事故より死亡事故の方が高い。例
えば97年では、傷害事故が総件数1179818件のうち無責とされたのは5686件で0.48%
に対し、死亡事故は13205件中373件で2.82%であった。率にして5.8倍もの開きがある
のである。
 こうして大量の交通事故が低額な賠償金で処理されているのが現実である。損保会社側では、
まず低い金額を提示して相手の反応を見るのが常套手段で、それで済めば儲けものという考え
がある。テレビのCMでもわかるように、あれだけ熾烈な値下げ競争を繰り広げているのだから、
当然どこかで切り詰めなければ、会社の経営は成り立たないであろう。しかし、被害者側からす
れば保険金を払い渋って経費を削減されてはたまったものではない。そもそも自動車保険とは
被害者への金銭的救済が滞らないようにするために存在するものである。それが現実には被
害者はいいカモにされてしまっている。加害者となりうるドライバーに対しては保険料を安くして
契約させる一方、事故時に被害者に払い渋るのでは、いったい誰のための保険なのだろうか。

019「抜き打ち検査で防災を徹底せよ」(9月 4日)**************************************
 9月1日は防災の日ということで、全国各地で大規模な防災訓練が行われ、今や毎年の恒例
行事と化している。その訓練に多くの市民が参加するようになり、防災への意識が高まってきた
のは歓迎すべきことだが、一方では、客や従業員の安全を確保すべき場で、依然として防災を
考えていない実態がまだまだ見受けられる。
 だいぶ前になるが、兵庫県尼崎市にある長崎屋尼崎店で放火があった。防火シャッターの下
りる付近や階段に、入荷した商品の詰まったダンボール箱を山積みしたために、非常時に肝心
の防火シャッターが下りず、あっという間に上階に煙が充満し、多くの犠牲者が出た。あの火災
から「避難路に物を置くのは危険だ」という貴重な教訓を得たはずなのに、それが全く生かされ
ないまま、昨年、新宿歌舞伎町でビル火災が発生し、44人もの尊い命が奪われた。その歌舞
伎町のビル火災から丸1年が経過したが、付近のビルでは今でもなお狭い階段や通路に古い
看板やダンボール箱を放置するなど、依然として防災意識が育まれていない。どうせ「自分の店
に限って火災には遭わない」と、たかをくくっているのだろう。歌舞伎町界隈のビルですらそうな
のだから、全国各地の繁華街に建てられた他のビルではなおさら「対岸の火事」に違いない。
2件とも建築基準法や消防法、さらには地方公共団体の条例があるにもかかわらず、これらの
法律が全く機能していなかったために起きたもので、私は完全な人災であると思う。
 諸悪の根源は日頃消防が行なう立ち入り検査のあり方に問題がある。現状はあらかじめ巡
回指導する地区を定めて定期的に、しかもビル管理者に事前に検査日時を予告した上で行な
っている。しかし、これでは検査当日だけ「良い子」を装っていれば「合格」になるわけで、それ
が済めば元の木阿弥である。また、検査は消防が行うので悪質な店舗に対しても、注意・勧告
程度の指導しかできないのも難点だ。次回の巡回までには店舗やビルの管理者が代っている
ことも多く、いくら指導してもいたちごっこというのが実状だ。これでは巡回するだけ税金の無駄
遣いになってしまう。やはり、巡回には消防に警察が同行し、不定期かつ抜き打ちで行うべき
だ。それも私服で客を装って毎日のように訪れ、少しでも違法性のある店舗やビルに対しては、
その場で警察手帳を示して責任者を現行犯逮捕・投獄し、即刻、店舗を営業停止処分にすべき
である。そのくらいの強制力を発動しなければ彼らの意識は改まらないし、本当の意味での防
災にはならないはずだ。
 人は、自分自身に直面しない限り、事態を深刻に受け止めない傾向があるようだ。その好例
が交通事故だろう。年間1万人も事故死しているのだから、本来なら各人とも他山の石として厳
粛に受け止めるべきなのに、違反を繰り返すドライバーは「自分だけは事故に遭わないはずだ」
と思ってハンドルを握っているに違いない。そういう人にはいくら呼びかけても糠に釘である。
防災もまた然り。行政が常に厳しく指導・監督し、悪質な業者を徹底的に撲滅させない限り、現
場はいつまでたっても改善されないのである。

018「日本語で表現できる言葉は日本語で」(8月28日)********************************
 先週に引き続き、もうひとつ、マスメディアが使う言葉に関する苦言を呈したい。それは余り
にも外来語を氾濫させている点だ。現在、日本語として使われている語彙のなかには、外来
語もかなり入っている。たとえば”computer”は、そのまま「コンピュータ」という言葉として使
われている。これは外国で発明された物資だから異論はない。
「エレベータ」、「アンテナ」、「サッカー」など、もともと西欧の文化を輸入したものは当然外来
語を使うことになる。
 しかし、もともと日本語にある言葉をわざわざ外国語に直して使いたがる姿勢は感心しない。
たとえば、野球の実況中継では、「1点のビハインドで迎えた9回裏の攻撃」などと、アナウン
サーが言う。「1点差をつけられて迎えた・・・」と言えば誰にでもわかるはずで、ここでわざわ
ざ”behind”という英単語を使う必要性は全くない。このような例は枚挙に暇がない。「合意」
を「コンセンサス」、「復讐」を「リベンジ」、「会合」を「ミーティング」、「過程」を「プロセス」、「安
定」を「コンスタント」など、なぜ日本語で伝えることができる語彙があるのにもかかわらず、わ
ざわざ外国語を使おうとするのか。そんなに日本語の使用を放棄したいのだろうか。
 他の国では安易に外国語を自国語の語彙に取り入れたりはしないものである。「ようやく労
使の合意が得られた」で良いではないか。「彼は復讐を誓った」で良いではないか。何も「コン
センサス」だの「リベンジ」などと言わなくても、視聴者・読者に伝える気持ちがこめられていれ
ば、きちっと伝わるはずである。文中に外来語を織り交ぜることが、「かっこう良い」という考え
があるとしたら言語道断である。日本語で表現できる言葉は日本語を使うのが当然だ。「かっ
こう良い」とか「かっこう悪い」という次元で判断する事柄ではないのである。
 これ以上、妙な外来語を氾濫させないでほしい。

017「正しい文字表記をしよう」(8月21日)*******************************************
 日本語の文字は、ひらがな・カタカナ・漢字の3種類である。このうち、カタカナは「テレビ」「ア
ンテナ」など外来語(主として英語)に対して使い、「うどん」「筆」など、もともと日本にある言葉
はひらがなか漢字で書く。しかし、外来語でもないのに、わざとカタカナで表記した単語が最近
やたらと目立っている。それも、日本語の範となるべきマスメディアが、率先してカタカナ表記に
しているから非常に始末が悪い。
 たとえば、「携帯電話」を省略して慣用的に使われている「携帯」がそうだ。本来なら漢字かひ
らがなで書くべき単語である。しかし、街角の携帯電話会社が出す広告の宣伝文句は「ケータ
イ」である。なぜカタカナで表記する必要があるのだろうか。外来語ではないのだから、カタカナ
で表記する必然性は全くないはずだ。このような例は他にもある。よく10代向けの雑誌などで
「フツーの女のコ」という文字も目にする。「フツー」は「普通」、「コ」も「子」と表記すべきで、これ
らもカタカナにするべき単語ではない。
 表記上さらに気になるのは、カタカナにした瞬間に長音に変換されている点だ。「携帯」の正し
い読みがなは「けいたい」である。同様に「普通」は「ふつう」となる。それを「ケータイ」「フツー」
と表記してしまうと、国語で漢字の読みを出題されて、その他の語句、たとえば「当然」「調子」な
ども「トーゼン」「チョーシ」と、長音で答える生徒まで現れかねない。やはり、われわれは正しい
文字表記を次世代に伝承すべきだ。特に、マスメディアは日本語の範となる存在でなければな
らない。そうしないと、誤った国語が横行することになり、文字文化の崩壊につながりかねない
のである。

016「マスメディアは特定の価値観を洗脳するな」(8月14日)****************************
 「個性を大切にしよう」などといわれる世の中にはなったが、まだまだ我が国は多種多様にあ
るべき価値観を認めず、特定の思想に統一したがる風潮があるようだ。そして、統一しようとし
ている価値観の多くは、服飾品などの業界やマスメディアが作り出し、我々の無意識の中に浸
透させている。具体的な例を出しながら考察したい。
 例えば、未婚の女性に「自分にふさわしい理想の男性は?」と問うと、「自分より背の高い人」
という回答が圧倒的に多い。これは、「自分より背の低い彼氏(夫)ではみっともない」という価
値観が多くの女性にあるからだ。では、その価値観はどのようにして形成されたのか?少なくと
も学校の授業で教師が指導した結果ではないはずだ。家庭の躾けでもなかろう。結局、雑誌や
テレビなどのマスメディアが、そういう価値観を持つように世の中の女性を洗脳しているのであ
る。男性も男性で、知らず知らずのうちに「女性の理想像」を洗脳されている。「バストがあって
ウエストが引き締まっているのがナイスバディだ」という価値観を植え付けられてしまっている。
そして、そうではない女性は「かっこ悪い」とされてしまう。だから、マスメディアの提示した理想
像に程遠い女性は精神的に追い詰められてしまい、高いお金を払ってエステや豊胸・整形まで
して、少しでも理想像に近づけることができるように、不毛な努力を強いられるはめになるので
ある。
 結局我々はマスメディアに煽られた価値観に翻弄され、服飾品や化粧品などを買わされて、
悩まなくてもいいことに悩まされているのである。その最たるものが「流行」だ。たとえば「今年
の夏はこういう水着が良い」という像をまず作り出して、マスメディアが我々に周知させる。そう
すると「持っていない人はかっこう悪い」ということで、友達からも仲間はずれにされかねないし、
いじめや自殺の遠因にもなっている。水着だけならともかく、サンダルや鞄、玩具や文房具に
至るまで、身の回りのあらゆるものについて、業界やマスメディアの作り出した流行に従わざる
を得ない環境に追い詰められている。そして、流行についていけない者は「かっこう悪い」の一
言で片づけられ、異端者として仲間から締め出されてしまうのである。
 これほどアホらしいことはないだろう。小太りだって良いではないか。巨乳でなくても良いでは
ないか。自分より背の低い彼氏でも良いではないか。世の中いろいろな考え方があって良いと
思うし、お互いがそれを認め合うべきだと思う。所詮、価値観は相対的なものだ。科学の世界
のように絶対的な正誤を論じるものではない。業界とマスメディアで特定の価値観を煽り、消
費者に洗脳して、要らざる悩みを植え付けたり不毛な努力をさせるのは、もうやめにすべきで
ある。マスメディアの煽った価値観に応えられずに、自殺した中学生や高校生までいるのだか
ら。マスメディアも業界も、視聴者や読者に与える影響の甚大さを真摯に考えてもらいたい。

015「取材のあり方を再考せよ」(8月 7日)******************************************
 先週に引き続き、マスメディアの取材や報道姿勢に関する問題点を指摘したい。
今回はAに挙げた「取材される側の立場に立っていない」という点である。芸能人の婚約発表
やスポーツ選手の勝利インタビューなどは別として、一般人に対してなされる取材の多くは、取
材を受ける側にとって決して快いものではないはずだ。特に犯罪や天災の被害に遭ってしまっ
た方々の場合はなおさらである。しかし、それでも取材陣は相手構わずカメラやマイクを向けて
いる。
 阪神・淡路大震災の時の取材状況もそうであった。避難場所となった学校の体育館には、連
日のようにカメラマンなどを伴って、大勢のリポーターが押しかけていた。避難した方々は、医
療設備おろか、衣類も食糧も満足な暖房すらなく、難民同然の状態で非常に不安な日々を過
ごしていたのである。中には、まだ救出されていない親類や家族の安否を気遣っている方、建
てたマイホームが全焼して莫大なローンだけが残ってしまった方、勤務先が全壊して明日から
の仕事がなくなってしまった方も少なくなかった。しかし、取材陣はそんな方々の気持ちも考え
ず、一人一人にマイクを向けては、「今のお気持ちは?」だの「今、足りなくて困っている物は?」
などと問いかけていた。さらには、数日後、暫定的に遺体の安置場所となった体育館では、運
ばれてきた遺体の身元が確認されて棺に縋るようにして号泣している遺族に対しても、同様に
マイクを向けていたのである。
 こういう状況下で、あまりにも分かりきったことを質問するリポーターの気が知れない。被災者
に「今、何が足りないか」と訊かなくても、映像を見れば視聴者にも伝わるはずだし、あとはリポ
ーター自身が見たままを報告すれば充分である。ましてや、被災者に今の心情を問わなくても
回答は常識でわかるはずだ。それとも「被災してとても嬉しいです」などと奇を衒った答えでも期
待して質問しているのだろうか?社の方針で何が何でも質問するように社員に教育された結果
なのか、それとも、リポーター個人の常軌を逸した人格に原因があるのかは定かではないが、
とにかく取材して談話をとることだけしか頭にないようだ。だから、阪神淡路大震災に限らず、災
害や犯罪の犠牲となった方の遺族など、取材を受ける側が明らかに不愉快な思いをするであろ
う相手に対しても取材を強行し、無神経極まりない質問を繰り返している。また、何が何でも取
材しようとするあまり、取材したい相手の自宅付近などに24時間張り込み、そのためにただで
さえ狭い道路が何十社もの報道陣でいっぱいになり、近隣の住民の迷惑を全く考えていないこ
とも少なくない。
 先週にも論じたとおり、興味本位の報道姿勢でしかないから、こうなるのであろう。とにかく我
が国のマスコミには、ヒューマニズムの精神が全くないのである。その他にも、取材を受けた側
が実際の放映内容を事前に閲覧できないため、製作者側で意図的に真意を歪曲して報道され
うる点も看過できない。
 とにかく、現行の取材姿勢には問題点ばかりを感じる。少なくとも大勢の報道陣が押しかけて
現地周辺に張り込むこと、取材を拒否している相手に対しても無理やり談話を求めること、興味
本位にわかりきった愚問をぶつけることだけは即刻やめるべきである。また、個人の談話には
著作権と同等のものを認めるべきだ。被取材者に対して事前に放映内容を確認させ、彼らの許
可が下りないかぎり取材内容を放映できない法的保護ぐらいは必要であろう。早急に善処して
もらいたいものである。

014「報道のあり方を再考せよ」(7月31日)******************************************
 現在のマスメディアは、取材や報道姿勢に大きな問題がある。それは、
@茶の間の視聴者を喜ばせるだけの興味本位の取り上げ方しかしていないこと
A取材される側の立場に立っていないこと
以上の2点である。
 いずれも、1995年1月17日の午前5時46分に発生した阪神淡路大震災で、被災した私
が体験した出来事をもとに論じてみたい。今週はそのうち@について取り上げる。
 震災後、現地に真っ先に飛んできたのは、自衛隊でもなく消防でもなく、マスコミのヘリコプ
ターであった。低空で上空を旋回するものだから、地上ではものすごい爆音であった。それも、
一機や二機ではなかった。報道会社すべてのヘリが来たのかと思われるくらい、次から次へ
と何機も上空にやって来て、震災の翌日、翌々日と日増しにヘリコプターは増えてきた。これ
らのヘリコプターが救援物資を輸送していたのなら許せるが、現実は上空から被災地の惨状
を撮影し、東京など被災地以外の茶の間の視聴者に映像を流していただけであった。このと
き、地上ではようやく到着した機動隊などが、瓦礫の下敷きになっている箇所を訪れていた。
生存者の有無を確認するためである。震災後、瓦礫に埋もれてずっと動くこともできずに救助
を待っていた人に、大声で救助を求める元気があるはずがない。だから、機動隊員は、被災
者のかすかな呻き声を聞き取ることで、生存者の有無を判断していたのである。そこを低空で
ヘリコプターが爆音を轟かせていたのだから、生存者の声も碌に聞き取れない。結局、「ここ
には生存者はいない」と判断されて、機動隊は次の地区へ移ってしまい、1週間以上も経過し
てから、遺体となって収容されたのである。あの震災では瞬時にして6400人もの命が奪われ
たのではなかった。瓦礫の下敷きになりながらも、震災当日から翌日にかけては、まだかなり
の人が生存していたのである。私は、救うことのできたはずの何人もの命を、マスコミが奪った
と今でも思っている。それも興味本位に集まってきたヘリコプターのせいである。
 上空からの撮影は、報道各社を代表して一社が担当すれば充分なはずだ。何社が撮影しよ
うが、被災地の映像は大同小異である。そんなことよりも、この非常事態に、マスコミとしてで
はなく、人間として果たすべき役割に徹するべきではなかったのか?ヘリコプターがあるのな
ら、爆音を轟かせて被災地を撮影する以外にも、被災者のためにもっと役立つ使い方があっ
たはずである。地上で何が行われているのか、一人でも多くの命を救うために何をすべきなの
か、あの当時のマスコミは全く理解していなかった。
 マスコミの犯した罪はヘリコプターだけではなかった。まだ片付けられていない遺体が瓦礫の
下に埋もれているにもかかわらず、その上を平然と歩いて、「この瓦礫の下には亡くなった方
が・・・」などと報道している、無神経極まりないリポーターも数多くいた。いずれにしても、彼ら
は未曾有の事態に興味本位で集まってきて報道したにすぎず、被災地では救助活動の邪魔
になっているだけで、何一つ被災者には貢献していなかったのである。

013「政治家・官僚の不祥事を根絶するには」(7月24日)*******************************
 古くはロッキード事件、リクルート事件、薬害エイズ事件、そして、昨今新聞を賑わせている
ムネオハウス事件、帝京大学の不正入学疑惑など、戦後50余年を経過してもなお、相変わ
らず政治家や官僚の不祥事ばかりが続出している。こんな国家は世界中どこを探しても我が
国ぐらいではなかろうか。全くなさけない話だ。
 最大の問題は、ある事件が明るみに出たときの、彼らの意識だ。事件の当事者は、まず、
「そのような事実はありません」などと粘る。そして、とうとう、どうにも釈明できない事態に及
んで、ようやく罪を認めるというパターンだ。だから、証人喚問にもなかなか応じようとしない
し、検察の訊問にものらりくらりとした態度であることが多い。全く謙虚さがなく、往生際の悪
い人ばかりだ。「党に迷惑をかけた」などと陳謝して離党するが、何年か経過して、ほとぼりが
さめたころに無所属で立候補して、当選してから復党したケースも少なくない。事件の非当事
者の意識はもっと悪質だと思う。「バレてしまったあいつは運が悪かった。自分だけはバレな
いようにやればよい」と考えているとしか思えない。まるで、いつも駐車違反をしている自分の
車が、たまたまその日に限って、レッカー移動させられた時のような感覚でしかないのだ。だ
から、何年もたってから過去に働いた犯罪が明るみに出るのだろう。政治家や官僚自身に腐
敗の根絶をする意識がないのだから、政治浄化が一向になされないのも当然の帰結である。
 政治資金目当ての収賄事件があまりにも多いため、政治資金規制法なる法律が制定され
たが、法の網をかいくぐって不正を働くことが容易にできる悪法で、およそ政治浄化とはほど
遠い代物だ。本気で政治家や官僚の汚職を根絶させるなら、まず政治献金そのものを、金額、
個人・法人の別なく全面的に禁止させ、1円でも受け取った者は、公民権剥奪という厳しい罰
則が必要だ。これは、ナチス=ドイツの支配下にあったユダヤ人に適用された法律の一つで、
当時のユダヤ人は公立学校や公立図書館への出入りも禁じられるほど、徹底した差別を受
けていた。不祥事を起こした政治家(秘書も含む)や官僚は、全財産を没収の上、終生、選挙
権・被選挙権は勿論のこと、公職からも追放し、ユダヤ人のように戸外へ出るときは、ダビデ
の星が描かれたバッジの着用を義務付け、病気になっても医療保険すら適用されないなど、
難民と同様の待遇に陥るようにすべきである。韓国の大統領で死刑になった例すらあるでは
ないか。我が国もそれに匹敵する厳しい制裁が必要だ。また、そうでもしない限り、今後も不
祥事が後を絶たないであろう。

012「マイカーでは公共心が育まれない」(7月17日)***********************************
 先週は地球環境の観点から自動車、特にマイカーの減少を訴えたが、今週は公衆マナーの
観点から論じようと思う。
 公共の場所でのマナーが悪くなっているように思われてならない。15年前、電車の中で
ウォークマンを聞いている乗客のヘッドホンから、シャカシャカと漏れる音が迷惑だと叫ばれた
ことがあったが、現代はそんなレベルではないほど悪化している。携帯電話を使って大声で喋
る人もいるし、車内に空いている座席がないと、通路やドア付近でも平然と座り込んでしまう人
も目立つようになった。車内で化粧している女性も多い。高校生でもホームで平然とタバコを
吸うようになった。座席の横に自分の荷物を置いて席を占有したままで、車内が混雑しても知
らん顔している人も少なくない。
 こうなった原因はいろいろあるだろう。ひとつは個人主義が浸透したため、よその子どもを叱
ることのできる大人がいなくなったことだ。そのため、叱られないのを良いことに何でもありの
状態になってしまった。そして、見知らぬ人に注意されると逆ギレして暴力をふるうようになった。
そのために、大人も、何を見ても関わり合いになりたくない心理が先行し、見て見ぬふりをする
ようになってしまった。
 しかし、それだけが原因ではない。私はマイカーの普及も、公共心の欠如に多大な影響を及
ぼしたと思う。私はマイカーとは、移動可能な自宅だと考えている。自分の家の中は、他人の
迷惑になるかどうかを考えずに行動してもかまわない空間であるが、マイカーも自分の家と同
じように振舞うことのできる乗り物なのである。したがって、生まれたときからどこへ行くにもマ
イカーで出かけるような環境では、「乗り物の中では他の乗客に迷惑にならないようにする」と
いう躾けを受ける機会もなく育ってしまうわけである。近年、大型駐車場つきのファミリーレスト
ランが増えたが、これも好ましいことではない。自宅からマイカーで出かけてそのままレストラン
へ入るから、自分の家に居るときと同じような身なりで来店する人が多い。そして、店内では子
どもがギャーギャー騒いでいたり、走り回っていたりして、自分の家と同じように過ごしている。
しかも、親も強く叱ったりしないので、子どもは「自分の家」の他に「公共の場」という空間があ
ること自体を知らずに育ってしまう。
 したがって、少なくとも子どもが一人前になるまでは、マイカーを使うべきではないと思う。子
どもの教育のためには、長い列を作って順番を待って乗車したり、一人でも多くの方が座れる
ように座席を詰め合わせて腰掛けたり、お年寄りやお体の不自由な方に席を譲ったり、混雑す
る階段を上り下りしながら乗り換えたりという苦労を、積極的にさせるべきである。そうすれば
公共の場に触れる機会が増え、他人に迷惑にならないように配慮する心も育つはずである。

011「市民一人一人ができる地球温暖化対策を」(7月10日)****************************
 今年も夏が来た。今月8日には東京都心でも33度、埼玉県熊谷市では35度を超える暑さ
になった。夏を過ごすたびに思うのは、年々気温が高くなっていることだ。平成になってからは
最高気温が40度に達したり、熱中症で死亡する人まで出るようになった。昔から日本の夏が
そうなら別に何とも思わないが、自動車も冷房も普及していなかった昭和40年代までは、今
ほどの猛暑ではなかったといわれている。昨今の暑さは明らかに地球温暖化現象の影響だろ
う。
 この原因は明らかに自動車が普及しすぎたことだと思う。もちろん自動車だけが温暖化現象
の犯人ではないが、あれだけ車が走って排気ガスを撒き散らしていたら、温暖化が加速されて
当然だ。光化学スモッグ注意報が発令される日も年々増えているが、これも自動車の氾濫によ
る大気汚染が原因のかなりのウエイトを占めている。しかし、温暖化現象の対策を真剣に考え
ている人は少ない。その証拠に自動車は相変わらず減っていない。ある自治体では毎週水曜
日を「ノーカーデー」と銘打っていたが、自動車の通行量は他の日とほとんど変わらず、いつの
まにかやめてしまった例すらある。熱中症による死者が出るほど暑くなっているのにもかかわ
らず、政府も自動車を規制しようとしていない。ディーゼルに代わる「電気自動車」という車両が
だいぶ前から開発されているようだが、いまだに市中では見かけない。バスや電車などの公共
交通機関が利用されず、便利だからといって、どこへ行くにもマイカーになりつつあるが、本当
にこのままでよいのだろうか?
 この問題への解決策は車に乗らないことに尽きる。とは言っても、現状では温暖化現象を憂
いて車を手放す人は皆無だろう。そこで、政府が抜本的な対策を講じなければならないのだ。
ガソリンなどの燃料や自動車税を現行の10倍程度に引き上げて、よほどの経済力がある人し
か自動車を所有できないような状態にすべきである。1リットルが1000円に跳ね上がれば、さ
すがに人々は公共交通機関を利用するようになるだろう。事業用車両はともかく、少なくともマ
イカーはなくなるはずだ。物流輸送にしても、昔は国鉄の貨物列車で遠隔地から運搬し、各地
の貨物ターミナルからトラックで輸送していた。それで十分輸送できたのだから、何も九州から
首都圏までの長距離を、高速道路で飛ばす必要はないはずだ。こうして自動車が減れば、冷
房でガンガン冷やす必要もなくなるのである。現状ではあまりにも暑いから冷房を目いっぱい
使わざるを得ず、冷房機の排熱で外気温をますます上げるという悪循環を招いている。まずは、
諸悪の根源である自動車に乗らないこと。これが市民一人一人のできる「地球環境を守る行
為」ではないだろうか。もちろん、かく言う私も自動車免許はないし、それで何不自由なく生活
しているのである。

010「NHK受信料の徴収について」(7月 3日)***************************************
 電気・ガス・電話など、毎月料金を支払うものはいろいろあるが、NHKの受信料は他にはな
い問題点を孕んでいる。それは、視聴した時間とは無関係に視聴料金を徴収されてしまうこと
だ。電気料金などはメーターで使用量を検針し、それに応じた料金を支払うことになっている。
水道やガスも同様だ。これは当然のことで、日常の買い物でも、例えば3個買えば3個分の金
額を払うはずだ。しかし、NHKの受信料はどうだろう。番組視聴の有無にかかわらず、一律に
同額の料金を徴収されてしまうのである。ほとんどNHKを視聴しない人にとっては、3個しか買
わないのに10個分の値段を支払うのと同然である。さらにひどいのは、マンションやアパートな
どに転居した場合だ。集合住宅では屋上に共聴アンテナがあるから、たとえ自宅にテレビがな
くても集金係は受信料の徴収に来るのである。これは、店に入らなくてもその店の商品の代金
を徴収されるようなものだ。これほど理不尽なものはないのではないか。テレビは民放しか見な
い人もいるかもしれないし、BSやCS・ケーブルだけしか見ない人もいるのである。
 テレビがNHK放送を受信した時間を月間ごとに累計し、視聴した分だけ支払う方式にすべき
である。

009「結婚の意義・Part4」(6月26日)**********************************************
 3週に亘って縷々述べた理由で、良好な夫婦関係の維持には、数多くの障害を克服していか
なければならない。換言すれば、これらの障害を乗り越えるだけの人格がなければ、結婚して
も早晩破綻するのである。結婚する以上は、それだけの覚悟を持って臨まなければならないと
思う。だが、私の見る限り、そこまで考えた末に結婚に踏み切った人は非常に少ない。多くは、
「この人と一緒なら幸せになれそうだ」とか、「いい年をしていつまでも独身ではみっともない」と
いった安直な理由でしかない。そして、結婚してから理想と現実の差に愕然とし、しまいには離
婚を考えるようになるのである。その証拠に、離婚件数は年々増加の一途だ。最新の統計では
年間に28万組とも言われている。離婚でこの数なのだから、離婚こそしていないが、法律上た
だ婚姻関係にあるだけの―愛も誠意も失われた―夫婦はその何倍になるのか計り知れまい。
本当の意味で「結婚している」と言える夫婦は、全婚姻件数の1/10程度ではなかろうか。そうで
なければ、新聞やテレビで毎日やっている身の上相談が、離婚願望の訴えばかりになるはずが
ない。
 このように考えれば、結婚するということはいかに大変なことかわかるはずだ。だが、当人は、
「自分たちだけはうまくいくはずだ」と、たかをくくっているのだろう。交通事故で年間1万人もの
人が犠牲となっているのにもかかわらず、「自分だけは事故に遭わないだろう」と考える心理に
似ている。あるいは、「人が当然のごとく結婚するから、自分も結婚できるだろう」と考えている
のか・・・・。どちらにしろ、現実を甘く見ているとしか思えない。
 最後に重大な指摘をしたい。それは子供のことである。夫婦間の不和が、子どもの心身の健
全な発達にどれだけ悪影響を及ぼしているのかを考えたことがあるだろうか。夫婦生活が破綻
しても、当人は離婚という代償を払えばそれでもよかろう。だが、親を選択することもできずに、
この世に生まれてきた子どもの立場はどうなるのか。このことを特に強調したい。親の一方的な
エゴイズムで何の罪もない子どもを不遇な環境に陥れることが、人間として許されるのだろうか。
 今日、「バツいち」だの「できちゃった結婚」が当然のように語られ、子どもへの虐待が社会問
題化しているが、これは非常に情けない事態である。本気で次世代を担う人材を育成する意思
や力量のない人には、結婚する資格がないと思う。これ以上不遇な子どもを増やさないために
も、「結婚」を「アルバイト」のように安易に考えないでほしい。

008「結婚の意義・Part3」(6月19日)**********************************************
 第五に、経済上の問題がある。独身ならば、稼いだお金は自分の好きなように費やすことが
できる。収入が少ないから4畳半一間のアパートに住もうが、三食ともカップ麺にしようが、誰か
らも文句を言われることはあるまい。だが、結婚すればそうはいかなくなる。夫婦だけならとも
かく、子供が生まれれば、ある程度の広さがある住居に住まざるを得ない。第一、育児費は相
当な額がかかる。経済には好不況があるから、子供が成長して親元から巣立つまでの約20
年間、我が子を養育するだけの金銭収入が得られるという確証はどこにもない。ひょっとしたら
自分の勤める会社が倒産して失業するかもしれない。ローンを組んでマイホームを手にしたも
のの、途中で支払えなくなるかもしれない。親から莫大な遺産を相続してかなりの資産がある
ならともかく、そうでない人は、いつ収入を絶たれるかの不安と闘いながら、家族を守っていか
なければならないのである。子供が進学して最もお金のかかる時期に失業し、妻子に保険金
を遺して自殺せざるを得なくなった夫までいるのだ。
 最後に、当然のことであるが、婚姻関係を維持するためにはお互いが生きていかなければな
らない。だが、これも保証の限りではない。現在は健康であっても、数年後には癌になり、あっ
という間に全身に転移して死ぬかもしれない。あるいは、交通事故の犠牲になるかもしれない。
家族で海や山に出かけて遭難するかもしれない。さらには、犯罪の被害に遭って殺害されるか
もしれない。死亡ならともかく、病気や負傷の結果、不可逆的な後遺症に悩まされることもあり
うる。あるいは加齢とともに痴呆症になることもありうる。これらの場合、自分がなれば、配偶者
に多大な迷惑をかけるし、配偶者がなれば、自分が介護しなければならない。お互いが心身と
もに健康な生活を送り続けることは一見当然のようだが、じつに大変なことなのである。

007「結婚の意義・Part2」(6月12日)**********************************************
 先週に引き続き、今週も夫婦関係の維持がいかに大変なものかを考察したい。
 第三に、お互いの性格や価値観が常に一致するとは限らないからだ。仮に結婚当初はそう
であったとしても、その後も一致するとは限らない。加齢・環境の変化、さらには結婚後に体
験したできごとによって、人は良くも悪くも変わるものである。そうした変化が起きても、お互
いの性格や価値観を尊重し合えるかは保証の限りではない。結果として、性格不一致を理由
に離婚するか、配偶者の言動に迎合して死別するまで辛抱するかのニ者択一となる。
 それに、だいたい結婚を決意したときに下した相手の人格に対する判断すら正しいとは限ら
ない。相手の熱心な求婚に折れてしまっただけだったり、うわべだけの優しさに惚れ込んでい
たに過ぎないということも少なくない。そういう結婚では早晩、性格や価値観の不一致に気付
くときが来る。それでも配偶者の人格を認めつつ、自己をも理解してもらうだけの人間的力量
があるなら問題はない。だが、私の見る限り、そこまで器の大きい人は、十人いても一人いる
か否かといったところである。
 第四に、結婚後に生ずる人間関係が負担になるからである。結婚を恋愛の延長のように考
えている人も多いようだが、私は両者は本質的に異なるものだと思う。恋愛は2人だけの閉ざ
された人間関係だ。だが、結婚は違う。婚姻が成立した瞬間に、配偶者の親族との人間関係
も否応なく結ばれてしまうからだ。そして、当然、それを円満に維持していかなければならない。
したがって、気に入らない義兄ともうまくつきあっていかなければならない。特に、配偶者の両
親との同居は大変である。たとえ結婚当初は同居せずに済んでも、何年かの後に、事情が変
わって親の面倒を直接見なければならなくなることもあろう。これが相当な精神的ストレスにな
ることは、周囲を見れば分かることである。
 いずれにしろ、当の夫婦が円満な関係を維持できても、それだけではダメなのである。とは
言っても、配偶者に選んだ相手が好きになったから結婚したのであって、配偶者の親族が好き
になったわけではないはずだ。自分と合わない人との交際は、大人が社会生活を営む上で不
可避であるが、特に、配偶者の親族の場合は、会社の上司のような短期間の人間関係ではな
いので、それだけに苦悩も大きいはずだ。

006「結婚の意義・Part1」(6月 5日)**********************************************
 程度の差こそあれ、多くの青年は結婚に憧れを持つようだ。中にはさほど憧れない人もいる
のだが、それでもいつの間にか結婚していることが多い。そして、結婚当初は誰もが永遠の
愛と、いずれ誕生するであろう我が子の健全な成長を、当然のごとく考えている。だが、私は
夫婦関係の維持ほど大変なものはないと思う。ひょっとしたら会社を経営していくことより難し
いかもしれないと思う。その理由を列挙しながら、4週にわたって結婚の意義を考察したい。
 第一に、今まで相手に抱いていたほどの魅力がないことをお互いが知るからである。恋愛期
間中は一途に相手のことを思っているから、「あばたもえくぼ」で相手の長所しかわからない。
だが、結婚後は配偶者の短所も見えてくる。今まで気付かなかった悪い癖や、ちょっとした態
度が気になってくる。そこで、「こんな人だったのか」という感情を持つようになる。それに、結
婚すると、恋愛期間中ほどには「相手に好かれよう」という努力をしなくなるものだ。つまり、相
手に対する遠慮が失われ、お互いが自己本位になってしまう。だから、恋愛期間中は慎んで
いたであろう、相手の機嫌を損ねるような行為も、結婚後は平然とするようになる。その典型
が妻に対する夫の暴力であろう。いずれにしろ、配偶者に対する魅力は早晩失われる。それ
に伴い、好意も愛情もなくなっていくものだ。
 第二に、浮気したい欲求に駆られるからだ。結婚とは、「配偶者以外の人とは性的関係を持
たない」という暗黙の契約である。だが、現実は日常生活で多くの異性と知り合う。女性の職
場進出や男性の単身赴任などで、昔よりも人間関係が広範囲に及んでいる。ふとした契機か
ら男女関係にまで発展する例は枚挙に暇がない。現在の配偶者に魅力を失いつつある状況
下ではなおさらである。浮気の事実が配偶者に発覚したとき、不倫の相手と訣別して配偶者と
の愛情が甦ることは極めて稀である。理由は浮気された側が、配偶者に対して著しい不信感・
嫉妬心・憎悪を抱くからだ。浮気した側がいくら誠意をもって謝罪しても、一度生じたこれらの
感情は決して癒えて消えるものではない。結果として離婚するか、あるいは、ただ法律上婚
姻関係にあるだけの(夫婦間に愛情のない離婚同然の)状態となってしまう。こうなるなら、初
めから結婚しないほうが良いに決まっている。

005「被害者が浮かばれる量刑を」(5月29日)****************************************
 今は国際的に死刑が廃止される傾向にある。我が国ではまだ完全に廃止されたわけではな
いが、それでも、執行された場合は新聞に載るくらい、死刑は稀になった。刑法199条では殺
人の法定刑を「死刑又は無期、若しくは3年以上の懲役」と定めているが、現実は殺人犯に対
して死刑の判決が出ることすら珍しくなった。これは果たして歓迎すべきことなのだろうか?
 犯罪は年々悪質・陰湿化しており、警察の検挙率も低下の一途である。現状では、ただでさ
え甘い法定刑が、弁護側の主張によって情状酌量されて、ますます甘い判決になり、さらには、
たとえ無期懲役に処せられても、仮出獄や恩赦による減刑を受ける例すらある。加害者の自
己中心的な動機だけで残忍な方法で殺害されて、死体遺棄されたようなケースでも、15年程
度の有期懲役で済んでいるのが実状だ。これでは殺害された被害者の遺族が浮かばれまい。
「殺害しなければ、自分がその場で殺害される」というような特殊な状況でない限り、殺人に対
する量刑は死刑を原則とすべきである。被害者の遺族の立場で考えれば、たとえ加害者が死
刑になっても、それで被害者が生きて帰ってくるわけでもなく、憤りが消えるというものでもある
まい。ましてや、それより軽い量刑ではなおさらである。
 さらにもう一つ提言したいのは、刑罰には犯罪を予防する効果があるわけで、それを最大限
に利用して犯罪防止の努力をすべきだということだ。これは、「悪いことをすればこうなるのだ!」
ということを具体的に示すことで、未犯罪者が安易に犯罪に走らないようにする働きが刑罰には
あるということだ。その観点から、死刑は公開で、しかもなるべく残虐な方法で執行された方が
良い。昔はどこの国家でも残虐な身体刑が行われた時代があったが、本来ならそのほうが良
いのだ。これは何も殺人に限らない。たとえば窃盗ならその手を切り落とすような刑罰の方が、
本人も2度と窃盗ができなくなるわけで、刑罰としての効果が上がるはずだ。
 現状では警察が発表している『犯罪白書』の内容が良い方向に向かうとはとても思えない。
「情状酌量」だの「温情判決」といえば聞こえが良いが、現実は被告人を甘やかしているだけに
過ぎないので、まず各犯罪行為に対する量刑を重くし、情状酌量の水準も厳しくし、執行猶予は
よほどの場合でない限り適用しない方向に、刑法・刑事訴訟法を改善すべきである。ましてや、
仮出獄、恩赦による刑の減免、時効による捜査打ち切りなどは言語道断である。

004「違法駐車をなくすには」(5月22日)********************************************
 今回も交通問題に関する提言をしたい。前回、交通事故の原因の大部分はスピード違反で
あることを指摘したが、もうひとつ、深刻な問題になっているものに違法駐車がある。これは、
大都市の駅付近や繁華街などに顕著であるが、特に、幹線道路の路上駐車によって交通渋
滞を招き、路線バスの定時運転の妨げになっている。そればかりか、道路の見通しも悪くなり、
駐車した車の陰から飛び出す歩行者が轢かれるなど、交通事故の一因にもなっている。
 そこで提案だが、違法駐車した車両に対しては汚損・破損しても免責となる法律でも定めた
らどうだろう。つまり、駐車場でない場所に駐めた車両は、遺棄した物品と同じと見なすのであ
る。たとえば、自分の買った週刊誌を路上に置き去りにしておいて、1時間後に週刊誌を置い
た現場に戻ったら、週刊誌がビリビリに破かれていたと仮定しよう。そのとき被害届を出そうと
しても、警察は相手にしないではないか。本来なら違法駐車もそうでなければおかしいのだ。
違法駐車したということは、所有者が遺棄したことを意味するのだから、その車両に対しては、
錐でタイヤを突き刺してパンクさせても、フロントガラスを割っても、車体にスプレーで落書きし
ても、さらには、部品を分解したり、盗んでもかまわないという法律をつくり、現実にそういう行
為が公然となされるようになれば、いかにマナーの悪いドライバーも違法駐車はしなくなるは
ずである。
 違法駐車に限ったことではないが、近年はマナーの悪さや公共心のなさによるトラブルが多
い。ゴミのポイ捨てや車内での携帯電話など、いくら人々の良心に訴えてもやめない人は絶
対にやめようとしないものである。こういう行為に対しては、上記のように過激な法律を作った
り、戦前の特高のように、発見したら容赦なく警察へ連行し投獄でもしない限り、根絶はでき
ないということを関係当局は知るべきであろう。

003「交通事故を減らすには」(5月15日)********************************************
 交通事故で年間1万人もの尊い生命が失われているが、その原因の大半は、スピードの違
反が絡んでいる。よく「私は無事故無違反や!」と豪語する人がいるが、正確には「無事故無
検挙」であって、決して「無違反」ではないはずだ。所詮、法定速度を遵守しているドライバー
など皆無なのだから。
 車の免許取得時や更新時のドライバー教育で、交通事故の映画などを見せている。スピー
ドの出しすぎの恐ろしさを訴える内容であるが、そんなものは「喉もと過ぎれば・・・・・・」に過ぎ
ず、映画を見てから違反しなくなったドライバーがいるとは思えない。他人が交通事故を起こ
しても「対岸の火事」にしか受け取らない人が多いし、ラジオ放送や道路の標識で「スピードは
控えめに」と、あれだけ訴えても、それで素直に法定速度以下に落とすドライバーはいない。
要するにドライバーの良心に訴えても、スピード違反は一向に減らないのだ。では、どうすれ
ば良いのか?
 それは法定速度以上のスピードを物理的に出せないようなシステムを作るのが一番だ。電
車で言えばATCのようなシステムである。これは、先行列車との間隔によってその都度指示
された速度信号を車両が受信し、運転士がその範囲内の速度でしか運転できない仕組みに
なっている。カーナビが普及し、今、自分の車がどこを走っているかを受信できる技術がある
のだから、全ての道路の法定速度を受信し、それ以上はいくらアクセルを踏んでもスピードを
出せないようにすることぐらい容易に開発できそうなものだ。また、前方の車との間隔も読み
取って一定以上に接近した場合は、自動的にブレーキがかかるシステムも必要である。そこ
で、まず、この速度受信装置と制御装置を、現在走行する全ての車両に設置を義務付ける。
設置した車両はナンバーが登録され、一定の期限内に設置しなかった車両の所有者は、罰
せられるようにする。勿論、警察消防など緊急を要する車両は対象外とする。このシステムで
全ての車両が法定速度までしか出せなくなると、交通事故が激減するばかりではない。地球
環境にも貢献できると思う。「40高中」と規定された道路を、50km/hや60km/hで走行するこ
ともできなくなるわけだから、当然、ある地点からある地点まで移動する際の所要時間が現状
以上に延びる。場所によっては、鉄道を利用したほうがずっと速くなる所も出てくるだろう。そう
なれば、マイカー利用も減るのではないだろうか。

002「日の丸・君が代、靖国神社参拝問題」(5月 8日)*********************************
 毎年入学式や卒業式を迎えるたびに、国旗を掲揚するか、国歌斉唱を式次第に入れるか否
かで、どこの学校でも議論になっているようだ。また、新しい首相が就任するたびに、靖国神社
へ参拝するのか否か、参拝する場合は首相としての立場でするのか、一個人の資格でするの
かが議論になっている。そして、これは現状が続く限り、いつまでも解決されない問題だと思わ
れる。今回は、この問題についての私見を述べてみたい。
 国旗を掲揚し、国歌を斉唱することで、日本国民としての認識を持たせ、国家を愛し、大切に
する心を教育するという行為そのものは、私は賛成だ。諸外国では、国旗の掲揚や国歌の斉
唱を、学校の教育活動で自然に行なっている国家もある。また、一国の首相が、第二次世界
大戦で犠牲となられた方々が祀られている神社へ参拝する行為も、それ自体に異論はない。
しかし、それは、わが国が「日の丸」以外の国旗に改め、「君が代」以外の国歌に改め、靖国
以外の神社に参拝すれば、の話だ。「日の丸」・「君が代」・「靖国」である限り、決して、すべき
ではないと考える。
 「日の丸」・「君が代」ではなぜいけないのか。それは、日中戦争以来、中国・韓国をはじめと
する日本占領下のアジア諸国にとって、「日の丸」・「君が代」は日本軍国主義を象徴する国旗
であり、国歌であったからである。オリンピックのある種目で日本選手が優勝したときなど、表
彰式で、場内に「日の丸」が掲げられ、「君が代」が流されるが、あの旗を見て、そしてあの音
楽を聴いて、著しく感情を害する国々の民がいることを、政府は認識しているのだろうか?日
本の占領下に置かれた国々の民にとって、日本軍国主義とは、自分の家を焼かれ、財産や
土地を奪われ、肉親を殺された具体的な光景として、まざまざと脳裏に刻み込まれており、まさ
に「鬼」そのものの存在だったのである。その象徴が「日の丸」と「君が代」だったのである。そ
して靖国神社には、その日本軍国主義を推進して、あの戦争へとわが国を導いたA級戦犯も
合祀されているのである。たとえ、首相が「私は戦犯には追悼の意を表明しない」と釈明しても、
戦犯が合祀されている靖国へ参拝した以上、日本の占領下に置かれた国家の理解を得るこ
とは不可能であろう。
 本来なら、わが国が第二次世界大戦に無条件降伏した時点で、国旗も国歌も改め、さらに
は天皇制も廃止して、新しい日本として再出発すべきであったと思う。百歩譲って、当時それ
ができなかったとしても、少なくとも昭和天皇が崩御した時点でやるべきであった。靖国神社
もそうである。戦犯が合祀されているから問題なのだ。首相が過去の戦争に哀悼の意を表し、
犠牲者の冥福を祈るのなら、戦犯以外の戦没者を靖国から他へ移し、その神社へ参拝すべ
きである。 国際社会にあって、今後わが国がアジア諸国との友好な関係を、維持・発展させ
なければならないことは言うまでもないだろう。それにはまず、当該国から批判されるような行
為は二度としないことである。日の丸・君が代は、即刻なくすべきだし、戦犯が合祀された靖
国神社参拝もやめるべきだ。

001「大人がどれだけ立派なのか」(2002年5月 1日)********************************
 子供が母親を刺したり、少年が集団でリンチしたり、学級崩壊だのと、子供が世間を騒がせ
る事件が起こるたびに、「最近の子供は・・・・」と、評論家ぶって喋る大人がいる。まるで、「自
分たちが子供だった時代は、ここまでひどくはなかった」と、いわんばかりの言い方だ。しかし、
そういう当の大人が、どれだけ素晴らしい人格なのだろうか?
 「車内での携帯電話の使用はおやめください」と、あれだけ車掌が放送しても、電車の中で
平然と携帯電話で喋っている大人は大勢いる。自分の車に吸殻入れがあるにもかかわらず、
運転中に煙草の吸殻を窓から捨てているドライバーもいる。深夜の駅構内で、泥酔して醜態
を晒している大人もたくさんいる。不要になった冷蔵庫などを、山林まで自家用車で運んで、不
法投棄しているのも大人だ。横断歩道ではないところで、道路を横断しているのは、子供より
むしろ大人のほうが多いくらいだ。このように、悪い見本は全て大人にあるのだ。それを棚に
上げて、「最近の子供は・・・・」と、語る資格がどこにあるのだろうか?
 だから私は、子どもの良くない行為は、大人に責任があると思う。混雑した車内でも携帯電
話で通話したり、座席を詰めようとしない中学生や高校生がいるけれど、それは、彼らが悪い
のではない。何が他人に迷惑をかける行為になるかを、きちっと躾けてこなかった、彼らの親
が悪いのだ。どうせ、そういう親は、子どもに対して真摯に愛情を注がなかったのだろう。本気
で、次世代の我が国を担う人材を育成しようという気持ちがあるなら、子供だって、まともな道
を歩むはずだ。親を選択する権利もなく生まれて来た子どもが、身勝手な大人の犠牲にならな
いように、大人一人一人は、自らの行為が子供の手本になっているかどうかを、見直すべきだ
と思う。