菅ちゃんの呟き
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340「尖閣諸島問題」(10月11日)***************************************************
 尖閣諸島付近で発生した我が国の巡視船と中国漁船との衝突事故を契機に、このところ
日中両国が尖閣諸島の領有権をめぐって対立している。中国側は、「尖閣諸島は台湾に付
属する島嶼の一つであり、中国固有の領土である。これを日清戦争に乗じて日本が不当に
奪ったものである」と主張している。今回はこの正当性を歴史的な観点から検証したい。
 日清戦争とは、当時の中国の王朝である清と日本とが戦争したもので、これは朝鮮半島
における支配権の争奪を契機に勃発したものである。具体的には以下の経過をたどってい
る。1894年、日本は仁川に、清は牙山にそれぞれ上陸した。朝鮮政府は自国の農民の反
乱が鎮静化したことを理由に日清両国に軍の撤退を求めたが、日本はこれを無視した。そ
して朝鮮に親日政権を樹立し豊島沖で清の軍艦を砲撃、成歓や牙山にいた清軍を破り、8
月1日に宣戦布告した。これが日清戦争の始まりである。翌9月には日本軍は平壌を攻略
し、黄海海戦でも勝利した。10月には清の領土内にも進撃し、11月には旅順を占領した。
同時に朝鮮内では年内までに甲午農民戦争を鎮圧した。こうして日本は優勢に戦争を進展
させ、翌1895年4月、日本の山口県下関市において伊藤博文ら日本全権と李鴻章ら清国
全権とが日清講和条約を締結した。これがいわゆる下関条約である。その骨子は次の4点
であった。
 1.清は朝鮮が完全な独立国であることを承認する。
 2.清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲する。
 3.清は賠償金2億両を日本に支払う
 4.清は重慶・蘇州・杭州・沙市の4港を開港する。
この結果、清は朝鮮に対する宗主国としての権利が完全に否定され、日本は朝鮮に対して
自由に出入りできるようになった。また台湾の領有によって琉球問題(薩摩藩と中国の両属
の領土であった琉球諸島を1871年の廃藩置県の際に鹿児島県に編入したことによる日清
間の問題)が解決し、台湾は日本軍が南進するための基地として機能した。
 問題は上記の下関条約において清から割譲した領土の中に尖閣諸島が入っていないこと
である。そもそも尖閣諸島は無人島であった。1884年に古賀辰四郎が日本人として初めて
この地を探検した。その後沖縄県を通じて現地調査を重ねて、1895年1月14日の閣議決
定で我が国の領土に編入したものである。これが尖閣諸島に対する日本の領有行為の始ま
りとなるのだが、国際法上の「先占」(領有権がどの国家にも及んでいない土地に対して、歴
史的に先に領有権を主張した国家が領有すること)にあたる正当な行為であり、何の問題も
ない。しかも下関条約締結に向けて割譲する領土の交渉が始まったのは同年3月20日であ
るから、日本の尖閣諸島に対する領有行為は2ヶ月以上も前ということになる。
 その下関条約において、割譲する領土をめぐる交渉については、既に公開されている議事
録がある。遼東半島・台湾とその島嶼・澎湖諸島の割譲要求を出した日本に対して、清は強
く抵抗した。しかし尖閣諸島については何も触れなかったのである。もしこの時点で尖閣諸島
を「台湾に付属する島嶼」として自国の領土と認識していたとしたら、尖閣諸島の割譲要求に
対しても強く抗議したはずである。しかし講和条約の交渉の席でも、その後においても、日本
の領有に対しては何ら抗議していない。下関条約の締結後の同年6月2日に「台湾受け渡し
に関する公文」に日清両国は署名した。このとき「台湾に付属する島嶼」の定義をめぐり、日
本側の代表は「台湾の付属島嶼とは、それまでに発行された地図や海図で公認されており
明確である」とし、中国側もこの見解を了承している。この「それまでに発行された地図や海
図」では台湾の北東56kmにある彭佳嶼までが「台湾に付属する島嶼」とされており、その
先の尖閣諸島は含まれていなかったのである。したがって尖閣諸島は下関条約の締結によ
って日本が新たに占領した領土ではないことになる。
 その後第2次世界大戦になりドイツ・イタリアとともに日本は無条件降伏をした。ポツダム宣
言やカイロ会談により、かつて日本が中国から奪い取った台湾などの領土は、中国に返還さ
れた。しかし、尖閣諸島は沖縄本土とともに米国の施政下に置かれた。もし尖閣諸島も中国
(当時は中華民国)の領土であるのならば、この時点で台湾とともに中国に返還されていな
ければおかしいし、戦勝国である中国も日本に対して返還要求を出してしかるべきである。
しかしここでも中国側から領有権が主張されることはなかった。中国政府が尖閣諸島を自国
の領土であると公に声明を出したのは、なんと戦後26年も経過した1971年12月30日、台
湾が領有権を主張したのはその前年になってからである。
 結論として「日清戦争に乗じて日本が不当に奪った」という主張には理がないということに
なる。そこで日本政府は、国際法上の「先占」の法理に基づき日本の領土であるということ
を中国側にも国際社会にも訴える必要がある。そして何よりも解決しなければならないのは、
我が国の領海内で漁業に従事する沖縄県民が安全に操業できるようにすることだ。尖閣諸
島近海の監視態勢を強化し、中国の漁船が2度と領海内に侵入することのないようにすべ
きである。

339「円周率を3にする問題点」(10月 3日)*******************************************
 つい2日前のことである。私が親しくさせていただいている同僚と話をしていて、はっと気
づかされたことがあった。その同僚は数学科の教員で、日頃はプロ野球の話をしているの
だが、この日はなぜか円周率の話になった。小学校では、円周率を3.14と指導していた
ものが3になったことについて、その同僚は、「いくら小数の計算ができないからとはいえ、
3にするのは暴論だ」と酷評していた。その理由を尋ねたところ、「円周率を3にすると1辺
が1cmである正六角形の辺の長さと半径が1cmである円の円周とが等しくなってしまう」
というのである。確かにそうだ。1辺が1cmの正六角形なら辺の長さは6cmであるが、円
周は直径に円周率を乗じるから円周率が3なら半径1cmの円の円周も6cmになる。しか
し、実際には正六角形は円に内接するわけで、円周率が3ではなくさらに0.14……分あ
るだけ、正六角形の辺より円周の方が長くなければおかしいという理屈になる。
 私自身、小学生の頃から算数は苦手であったし、ましてや中学になって円周率がπにな
ってからは円の面積や円周がどの程度の数なのかがわかりにくくなった記憶がある。だか
ら小数の計算ができない児童が多いのなら、3にした方が間違いが生じにくくなるし、面積
にしろ円周にしろ答が自然数になった方が数量を把握しやすくなるので、円周率は3でも
良いのではないかと思っていたが、円に内接する正六角形があるのに円周と辺の長さとが
等しくなるのでは明らかに矛盾している。しかし、言われてみるまでは全く気づかない問題
点であった。

    (塾長コメント: 日能研の出した、誤った広告をまだ信じている人がいたのですね!小学校の学
             習指導要領では、「円周率は、3.14」と教えるものと書いてあるし、場合によっ
             ては(手計算で計算する場合)、円周率を3としてもいいよ・・・というニュアンスで
             した。(新学習指導要領では、既に、この表現は削除されている。)言わば概数計
             算です。1024×1024は幾つ?という問題で、大体1000000位かなという感
             覚も大切で、きっちり計算しなければダメという場合とは別次元の計算です。
              (→ 参考:「円周率は3」、「平成15年度前期東京大学理科系」))

338「紛らわしい地名は改称すべき」(9月26日)****************************************
 私が関西から神奈川県に転居して2年目の頃のことである。私の勤務する高校の野球部
が神奈川県大会に臨んだ。言うまでもないことだが、全国夏の高校野球選手権大会の代表
を決める地区大会で、神奈川県では当時204校の頂点を目指して7月に行われていた。そ
の試合会場が等々力球場であった。この球場は神奈川県川崎市中原区にあるのだが、私
は東急電鉄大井町線の等々力駅しか頭になかったので、当日は同駅までの乗車券を購入
して電車に乗った。しかし、等々力駅に着いても球場はどこにも見当たらなかった。あったの
は多摩川の支流が刻む等々力渓谷だけである。結局、もう一度等々力駅に戻って自由が丘
・武蔵小杉の2箇所で乗り換えて、JR南武線の武蔵中原へ回ったのだが、球場にたどり着
いたときには試合も終わっていた。
 こういう失敗が起こるのは「等々力」という地名が隣接する2つの都道府県に存在するから
である。東京都と神奈川県に関して言うと他にも「鶴間」「相原」がこれに該当する。前者は、
東京都町田市にも神奈川県大和市にもある。後者は東京都町田市にも神奈川県相模原市
にもある。(東京都の方は「相原町」であるが)しかも等々力と同じくどちらの「鶴間」「相原」
も距離的にはさほど離れていない。「金沢」のように(石川県金沢市と神奈川県横浜市金沢
区)非常に離れていれば間違いようもないのだが、同一の地名が近接した場所にあるので
は誤解の元である。もちろん地元の人はそれでも間違えるはずがないのだが、首都圏には
全国各地域から上京した人も大勢住んでいるという事実を行政は考慮すべきであろう。「等
々力」「鶴間」「相原」のごときは双方の市区町村が協議して片方が名称を変更するなど何
らかの方策を講じていただきたい。長年呼び続けてきた由緒ある地名を改称するのは抵抗
もあるだろう。しかしわかりやすくすることの方が行政のサービスとして大切である。

    (塾長コメント: 神奈川の大会なのに東京まで行ってしまうとはアンビリーバブルです...!で
             も、私も似たような経験はありますね。京浜急行空港線がまだ空港駅ビルの真下
             まで延伸していない頃、札幌に帰ろうとして京急蒲田駅から終点の羽田空港駅ま
             で行ったわけです。駅前に出てみると、羽田空港は遥か彼方!「エッ?」という感
             じで、結局その駅からタクシーに乗って空港に向かったという苦い思い出がありま
             す。)

337「民主党代表選挙に思うこと」(9月19日)******************************************
 今月14日、民主党代表を決める選挙が行われた。菅直人首相と小沢一郎前幹事長との
一騎打ちで、国会議員票・地方議員票・党員サポーター票の合計ポイントは菅氏が721票
だったのに対し小沢氏491票。形の上では大差で菅氏の再選されたことになるが、一言で
言うと情けない代表選というのが私の感想である。
 第1に、菅氏の対立候補が小沢氏であることだ。小沢氏は既に報じられている通り、陸山
会の件をはじめとする一連の事件に対し政治資金規正法違反に問われ、鳩山内閣のもと
で幹事長を引責辞任した人物である。第1回目の検察審査会では起訴を見送られたが、こ
れで完全に疑惑が晴れたわけではもちろんない。今もなお2度目の判断を待つ身である。
だから今後の審査によっては起訴される可能性は十分にあるのだ。しかし、小沢氏は国会
の証人喚問にも政治倫理審査会にも出頭しなかった。鳩山内閣における幹事長を辞任し
たことで「責任をとった」ということにしてしまった。つまり何一つ国民への説明責任を果たし
ていないのである。そして「政治とカネ」の疑惑は最初からなかったかのような顔で今度の
代表選に長野県軽井沢市内で「気合いだー!」とシュプレヒコールをあげて今回の代表選
に出馬した。「クリーンな民主党」を旗印にしている党なのに疑惑の晴れない人物が出馬す
るという小沢氏本人の自覚のなさも非難されるべきであると思うし、そんな人物を代表選に
出馬させようという小沢氏側近の行動も不見識きわまりない。
 第2に、菅氏が勝利したとはいえ、その理由は極めて後ろ向きなものでしかなかったとい
う点である。ここ数年でみると我が国の首相は短期間に代わっている。比較的長く続いたの
は小泉首相だけで、それ以降の安倍内閣・福田内閣・麻生内閣はどれも短かった。そして
自民党の大敗で民主党に政権が交代し鳩山内閣が誕生したのだが、それも8ヶ月で終わっ
てしまった。そして菅内閣が誕生し代表選を迎えた。しかし、ここで菅氏が敗北すると首相は
わずか3ヶ月で小沢氏に代わることになる。1年間に3人も首相が代わることを望ましくない
と考えた人、さらに疑惑の渦中におり今後起訴されるかもしれない人物が首相になることを
懸念して小沢氏への投票を敬遠した人は少なくない。そういった消極的な理由で菅氏を選
んでいるのであって、菅氏の政治的手腕や実績を高く評価をしたわけではないのである。
付言すると国会議員票においては小沢氏が400ポイント、菅氏が412ポイントで伯仲して
いた。国会議員票は一人に2ポイント分が与えられているので、実際には6人(6票)差で菅
氏が勝利したことになる。それだけ小沢氏に投じた人がいたことになるわけだが、小沢氏に
投じた国会議員の中には「両勢力の均衡を図った方が良いと考えて敢えて負けるであろう
小沢氏の側に投票した」と回答した者もいたと報じられている。国会議員票と党員サポータ
ー票とがあまりにも乖離していたことに対し、石原東京都知事は永田町の論理の非常識さ
を指摘していたが、必ずしも小沢氏に高い人物評価を下して投じていた者ばかりではなかっ
たということである。結局のところ、どちらの陣営にも後ろ向きな理由による得票が少なから
ずあったことになる。
 第3に、政策の中身に対する具体的な議論が何もなされないままに進んだ選挙であったと
いうことである。小沢氏は「生活第一」と先の衆議院議員選挙のスローガンを掲げ、原点に
立ち戻って選挙公約をきっちり守ることを主張して菅氏との違いを訴えた。だが、どのように
して公約を守るのか、とりわけ財源についての提案は打ち出していない。それに「最低でも
県外、できれば国外」とした普天間問題の公約に対しては一言も触れていない。つまり辺野
古への移設を決めた日米合意を白紙撤回するとは言っていないのである。一方の菅氏は、
「一にも二にも雇用」と訴えた。しかし抜け穴だらけといえる派遣労働者法案をはじめ、中小
企業への支援も含めて雇用を拡大するための解決策は何一つ打ち出していない。他にも
後期高齢者医療制度、保育所の待機児童問題、国民年金と国民健康保険問題など、苦し
い国民生活を救わなければならない事柄は多々ある。さらに沖縄県民に関しては普天間基
地問題は切実なものになっている。しかし、それらに対しても踏み込んだ提案はなかった。
この代表選の間に沖縄県名護市議選が行われて、今月12日の投開票の結果、稲嶺市長
と同じく基地受け入れに反対する勢力が16議席に達し過半数を占めた。これまでに行われ
た数々の世論調査でも、沖縄県民大会でも、さらには県議会において全会一致で採択され
た議決でも、普天間基地の県内移設に対しては反対であった。名護市議選においてもそれ
が改めて証明された形になったわけだが、菅氏・小沢氏ともこの件については、これまでの
政策を変更する発言はしていない。些末な部分では違いがあるものの、大枠の部分では変
わっておらず、どちらが代表に就任しても、その後の政策については大同小異であろうとい
うことが容易に想像される。
 以上の理由で選挙をするほどの価値があった選挙とは言えないように思う。代表選の結
果を受けて早速「脱小沢」路線ともいえる組閣人事がなされたが、早くも小沢氏を支持する
グループからは不満が出ている。そうでなくても衆参で多数党が異なるねじれ国会になって
おり、今後菅内閣は厳しい政権運営を強いられることは必至という情勢である。それなのに
党内で紛糾している有様では、今後の重要法案の審議や野党からの内閣不信任案決議に
造反する議員が出ることも予想され、ますます政治の空白期間を作ってしまうことにもなりか
ねない。結局次回の総選挙では「やはり民主党に任せても自民党政権と何も変わらなかっ
た」という評価になり、旧態依然の自民党政権が復活するのではないだろうか。そんな危惧
さえ抱いてしまう選挙戦であった。

336「横文字を崇拝する姿勢を改めよ」(9月12日)**************************************
 本場所の維持員席のチケットが暴力団員に譲渡されていた問題を発端に、親方・力士・さ
らには床山までもが野球賭博に関わっていたことなどが明るみに出て、角界の不祥事に対
する取組の一つとして日本相撲協会の全般的な改革を目指す第三者機関が発足した。内
部による自浄能力だけではもはや角界の不祥事を撲滅できないとされたからである。その
こと自体情けない話であるが、今回はこの第三者機関の名称である「日本相撲協会のガバ
ナンス(統治能力)の整備に関する独立委員会」について論じたい。問題は「統治能力」とい
う語彙があるのになぜそれを括弧書きにして「ガバナンス」という横文字を使うのかというこ
とだ。耳慣れない外来語を敢えて入れる意義が理解できない。同様に今年になってから新
聞紙上に現れた語彙として「クリンチ」がある。プロ野球でセリーグ・パリーグの両リーグの
首位から3位までが日本シリーズの出場権を賭けてクライマックスシリーズに挑むわけだが、
そのクライマックスシリーズ進出に必要な最低勝利数を「クリンチ」と表現するようになった。
クライマックスシリーズそのものは昨年も一昨年も行われていたのだが、「クリンチ」という語
彙が登場したのは今年になってからである。
 久しい以前に「選挙公約」をわざわざ「マニフェスト」という横文字で表現することに対して、
私はこの『言わせて頂戴』(017018107140)で異議を唱えた。日本にない言葉を
他国から輸入するのは致し方ないが、もともと日本語で表現できる語彙までをもわざわざ外
来語で表現する必要性はない。それにも関わらず何でもかんでも横文字を使おうとする我
が国の姿勢は依然として改まっていない。だいたい日本ほど他国の言語を使いたがってい
る国はないのだ。それでも世界各国の言語を均等に採り入れているのならよいだろう。しか
し実態は大部分が英語である。そうでない言語も欧州の各国のいずれかであり、欧州以外
の語彙はほとんどない。このように欧米の言語ばかりを使いたがる原因は欧米の文化を崇
拝し東南アジアや中近東など欧米以外の言語を劣等なものとみなす意識が日本人の上層
階級にあるからだ。卒業式で国旗を掲揚し国家を斉唱することで日本人としての誇りと自覚
をもたせる教育を学校現場に強制する一方で「マニフェスト」だの「ガバナンス」だのと次から
次へと横文字を使おうとし日本語(もとはといえば漢語であるが)の使用を放棄する姿勢は、
明らかに矛盾している。今の時代に鎖国をして自国の言語だけを使えと言うつもりはないが、
少なくとも役人の側から外来語を次から次へと登場させ普及を図ることは即刻やめるべきで
ある。日本語を愛することができる民族は日本人しかいないのだ。もっと日本語を大切にす
る姿勢を国家をあげて取り組んでもらたいたい。

    (塾長コメント: 日本語は割と外来語を取り込みやすい言語である。そのため例えば本来英語
             にはない和製英語なんていうのも立派な日本語として存在してしまう。でも、それ
             はそれで楽しいのではないか?)

335「最低賃金は800円を目標にして良いのか」(9月5日)*******************************
 2007年に最低賃金法を改定したとき、当時野党であった民主党の長妻議員の質問を受
けて、柳沢厚生労働大臣が「一般的な働き方をしたときに最低賃金が生活保護を下回らな
い水準にする」と答弁した。この「一般的な働き方」というのは端的に言えば正規社員と同様
に週5日をフルタイムで働くという意味である。それから政権交代があり長妻氏は鳩山内閣
の下で厚生労働大臣に就任した。そして今年の4月現在において最低賃金額と生活保護水
準との関係がどうなっているかというと、最低賃金が生活保護水準を下回っている都道府県
が10都道府県にも及んでいるとのことだ。具体的には北海道・青森・宮城・埼玉・東京・神奈
川・京都・大阪・兵庫・広島が下回っている。最高の乖離額は神奈川で、時給換算にして43
円も下回っている。しかし、この乖離額が埋まっても生活保護の水準を下回る人が出ている
のが現状だ。
 この件について、参議院の委員会では大阪労連が受けた労働生活相談の中で出た実例
が紹介された。それによると大学の清掃職員に雇用されている男性の例が紹介された。時
給は775円。1日の労働時間は7時間。月21日働いて月額は11余万円。この時給は地域
最低賃金を7円ほど上回っているのだが、それでもここから税と社会保険料を差し引くと、手
取り額で10万円に達しなくなり、「これでは暮らしていくことができない」と訴えて生活保護の
申請をしているというのだ。
 最低賃金を上回る時給でフルタイム働いているのに生活保護の受給に至るという現象が
なぜ起こるのか?それは労働時間の設定に問題があるからだ。現在の最低賃金法におけ
る最低賃金の換算の基準として、1ヶ月の賃金額についての労働時間は法定労働時間であ
る173.8時間で計算されている。しかし所定内実労働時間は153時間でしかない。つまり
20.8時間もの水増しがされていることになる。だから最低賃金審議会の中でも、実労働時
間を使うべきだという声が労働者側から上がっている。だが、使用者側はこの法定労働時
間の採用を主張して譲らないのが実情だ。そして現状は公益委員がこの議論を引き取る形
で法定労働時間が採用されたままとなっている。しかし、一般労働者も所定の実労働時間を
働けば生活できるだけの賃金を保障するのが最低賃金の当然のあり方ではないだろうか。
その当然のことすら実現できず生活保護の申請をする人がいるというのは、あまりにもお寒
い話と言わざるを得ない。
 今、全国平均800円の最低賃金を目指しているのだが、仮に800円に引き上げたとして
も焼け石に水である。1日7時間労働というフルタイムでも日当換算では5600円、これで月
20日労働しても112000円にしかならない。実際にはここから所得税・県市民税を徴収され
国民年金や国民健康保険といった社会保障費も支払うことになるから、手取り額がさらに下
回る。そして住居費や光熱費を支払えば、残ったお金の大部分は食費に消えてしまう。これ
では自分の自由になるお金がなくなるのは当然だ。するとどういうことになるのか。当然、預
貯金もできない。健康保険証を持っているのに病気になっても窓口の3割負担ができない。
だから医療機関にもかかれず病状を悪化させてしまっている。これでは憲法の「健康で文化
的な最低限度の生活」すら保障されているとはいえない。
 やはり民主党が政権をとる直前の選挙における公約通り、最低賃金は全国一律1000円
に引き上げるべきであろう。経営基盤の弱い中小企業の使用者がこの金額を労働者に支給
することは苦しいが、そんなものは270兆円を越えるともいわれる大手企業の内部留保額の
1%を切り崩すだけで解決してしまう。そして国は防衛費を削減してでも中小企業支援のため
の予算を増額する。まず雇用を確保し、すべての国民が生活できる賃金水準にする施策が
最重要課題である。そうしないと内需も伸びないし格差社会の是正にもつながらない。

334「防衛費を減らせないのか」(9月2日)*********************************************
 前回は沖縄の基地が抱える問題を取り上げたが、それに関連して今回は膨大になる一途
である我が国の軍事費を取り上げる。財政が厳しい状況が久しく続いており、公務員の給与
や国民健康保険の国庫負担額が減らされている。現状にあって、軍事費だけは年々増え続
け今や年間5兆円にものぼっているのが実態である。民主党政権になって事業仕分けの名
のもとに、税金の無駄遣いの撲滅に血道を上げている。しかし軍事費や在日米軍駐留経費
に関しては聖域になっている。しかも自公政権時代よりも増額されている。昨今、特にリーマ
ンショック以降、アメリカも含めた世界各国は財政危機を打開すべく、軍事費を聖域としない
で削減に向けて動いている。日本も深刻な財政危機におかれているにもかかわらず、逆に
軍事費が増えている。これは到底承伏できるものではなかろう。
 中でも納得できないのは、戦車や戦艦といった純粋な軍備以外のものにも日本が費用の
負担をしていることである。その最たるものが米軍基地内にある娯楽施設である。これも日
本側が在日米軍駐留経費、いわゆる「思いやり予算」から拠出している。本年3月に沖縄県
の米軍嘉手納弾薬庫地区に18ホールのゴルフ場が開業した。太洋ゴルフクラブというそう
だ。全体の面積は170.7haにもなる。ここにはゴルフコースのみならずレストランやカジノ
バーなども併せて建設され、その事業経費として日本政府は134億円を投入した。米軍へ
のいわゆる「思いやり予算」で建設したものはこればかりではない。この30余年で米軍の
家族住宅建設に11138戸、5510億円も投じられている。そして家族住宅とともに映画館
や体育館・プールといった娯楽施設まで日本の税金で作られている。さらにこれらの光熱費
まで日本側が負担しているのだ。そもそも「思いやり予算」とは我が国が負担する義務を負
っていないものである。日米安全保障条約にも日米地位協定規定にもその法的根拠はない
からだ。「思いやり予算」とはアメリカの財政悪化を理由に1978年に日本政府が始めたもの
である。当初は62億円だったものが年を追うごとに膨らみ、2009年までに総額5兆6000
億円もつぎこまれた。これは他のアメリカ同盟国26カ国の合計金額よりも上回る、突出した
数字である。
 米軍再編経費を日本側で負担することも納得しかねる。このたび沖縄の海兵隊8000人
余りをグアムに移転させることになったが、それについても日本側が60.9億ドルもの費用
を負担することになっている。移転に要する経費の総額が102.7億ドルであるから、全体
の60%近くを日本で負担している計算になる。しかし、そもそもアメリカの領土に存在する
アメリカの基地に対して日本が費用の負担をすること自体が理不尽である。野党時代の民
主党も「日本が巨額の経費負担を行う理由が明確ではなく、その内訳すら明らかにされて
いない」と述べて自公政権の施策に反対していた。ところが政権が交代し民主党が与党に
なってからは、海兵隊のグアムへの移転に対して非常に協力的になった。そればかりか今
年度の「思いやり予算」は米軍再編経費なども含めて総額3370億円にもなり、麻生内閣
による自公政権より500億円も増えている。米軍一人当たりの金額で換算すると937万円
にもなるわけで、これは自民党政権時代も含めた戦後史上で最高の金額である。これだけ
国税から米軍に対して費用を負担していたら日本が深刻な財政危機に陥るのも自明である。
 軍事費関連において世間の常識とは乖離しているお金の使い方はこれだけではない。防
衛省の技術研究本部では、ミサイルや戦闘機などの兵器の研究・開発さらには試作した製
品の試験の実施にあたって、軍需産業を担う企業から「技術支援契約」の名のもとで職員を
受け入れているのだが、その際に防衛省が企業側に「役務の対価」として支払っている日当
も非常識きわまりない金額になっている。過去5年間でみるとその総額は267億円にもなる。
この「技術支援契約」はかつて「労務借り上げ契約」と言われていた。防衛庁が2006年6月
16日にまとめた「入札談合等再発防止に関わる抜本的対策報告書」によると「労務借り上
げの契約金額が一人一日当たり平均10万円以上である」と指摘し、「この金額が高いとい
う批判を受けて見直す」と記載されている。この報告書の翌年、すなわち2007年度の職員
受け入れの状況をまとめたものによると、契約金額の多い上位20社だけでも33409人の
職員に対して一人平均105000円の日当が支払われている。日当10万円ということは月
額に換算すると200万円以上ということになる。これも我々の税金から支払われているの
だが、こんな破格な日当が納税者の理解を得られるのであろうか。防衛省が今年4月に公
表した資料によると、2009年度に防衛省から民間企業に646人もの職員が天下りをして
いる。そのため、職員の受け入れに際してなされる企業側との契約は90%が競争入札なし
の随意契約である。つまり天下り職員を受け入れた企業からは大量の職員を防衛省に受
け入れて高額な日当を支払っていることになる。一方、企業側も自らの職員の派遣を期待
している。開発した兵器が量産段階に移行した際は、研究開発を担当した企業が選定され
るという仕組みになっており企業側には非常に高い金額が入ることになるからである。こう
いう状況なので官業の癒着の構造が一向に改まらないし、「破格な日当」が事業仕分けの
対象にすらなっていない。
 財政危機を打開するために、消費税の増税とか医療の窓口負担を3割に据え置くなど国
民の負担を強いる施策に血道を上げているが、そんなことよりも防衛や米軍基地絡みの無
駄使いこそ是正すべきではないのだろうか。そうすれば後期高齢者医療制度をはじめとす
る医療・介護保険も、待機児童の解消が課題となっている保育所の問題も、年間2000億
円足らずしかない中小企業予算も改善できるはずである。税金は国民の福祉に供するよう
に使うのが本来のあり方だと思うのだが、米軍のゴルフ場建設費用まで日本で賄うのは理
解できない。それとも戦後65年が経過した今となっても日本は依然としてアメリカの従属国
でしかないのであろうか。

333「基地のない沖縄は実現しないのか」(9月1日)*************************************
 神奈川県大和市に大和駅がある。ここは小田急江ノ島線と相模鉄道本線が直交している。
ここから西にある引地川に向かって相模鉄道の線路に沿って歩いて行くと比較的大きな公
園に着く。公園の中には遊歩道も整備されていて、数々の植物が植えられている。花の咲く
季節には色とりどりの花が咲き乱れてじつに美しいのであるが、私は花がいくらきれいに咲
いていても2度と訪れる気にはならなかった。ほとんどひっきりなしに米軍の飛行機が離着
陸していたからである。偶然にも頻繁に離着陸をする時間帯に私が訪れただけなのかもし
れないが、米軍機の音が全く聞こえない静寂な時間は2分も続かなかった。そのくらいの頻
度で爆音が轟いていたのである。しかも低空飛行だから音量は相当なものだ。同行者と大
きな声で会話しても遮られてしまうほどである。たかだか公園に1時間程度過ごして20余機
の米軍機を見送っただけでその爆音から逃げ出したくなる気持ちになったのだから、沖縄県
民は何十年もこの爆音を毎日しかも四六時中聞かされて暮らしている心情がどれほど苦痛
なものかは想像に難くない。
 鳩山政権の末期に宜野湾市にある普天間基地を辺野古へ移設することで日米合意が交
わされた。その直後に行われた地元紙『琉球新報』の世論調査によると、県民の84%が辺
野古への移設に反対という立場である。特に基地を抱える宜野湾市民96.5%が反対し、
その75.6%は移設なしの無条件撤去を主張している。7月には沖縄の県議会で辺野古へ
の県内移設案に反対する全会一致の決議が採択された。「日米合意は県内移設に反対と
いう沖縄県民の総意を全く無視するもので、しかも県民の意思を全く聞かずに頭越しに行わ
れたものであり、民主主義を踏みにじる暴挙として沖縄県民を愚弄するものであり、到底許
されるものではない」と、断固として許さない態度を表明している。全会一致であるから自民
党や民主党の県議までもが移設案に反対したことになるのだが、それにもかかわらず鳩山
首相も菅首相も「抑止力」の一語でこの決議を退けている。過去65年間のみならず将来に
亘ってもなお沖縄県民に米軍基地の苦しみを強要しようとする態度は、まるで沖縄県民は
日本国民ではないとでも言っているかのように聞こえる。
 米軍の基地は沖縄だけではなく本土にも多数存在するのだが、沖縄県民の怒りを理解す
るには基地の成り立ちが異なることを知る必要がある。 本土にある米軍基地はその大半が
国有地の上に建設されている。これに対して普天間基地をはじめとする沖縄の米軍基地は
大半が民有地であった場所である。第2次世界大戦の末期に米軍が沖縄本島に上陸し凄
惨な地上戦を展開した。そして住民が収容所に入れられたり避難している間に米軍は基地
を建設した。つまり個々の沖縄県民が所有していた先祖代々の土地を銃剣とブルドーザー
で奪い取ったことになる。そして沖縄は戦後久しくアメリカの占領下におかれてきた。ようや
く日本に返還されたのが1972年。しかし基地の用地として奪い取った土地は返還されるこ
となくそのまま今も残っている。特に嘉手納町は町の面積の83%を米軍の施設で占められ
ている。戦後65年も経過したにもかかわらず、外国の軍隊の基地が、こういう形で残存して
いる国は世界のどこを探してもない。
 そういう事情で成立した基地の周辺で沖縄県民は毎日米軍機の爆音を聞かされ、生活環
境を破壊された中での生活を強いられている。そのために耳鳴りやめまいなどの症状に悩
まされ健康を害した県民も少なくない。それだけではない。沖縄では米軍機や米兵によって
これまでに県民の尊い生命が奪われる数々の事故・事件が起きた。1959年には小学校
に米軍機が墜落し児童11人を含む17人が死亡した。1965年には米軍機から落下傘で
落とされたトレーラーが民家を直撃し少女が自宅の庭で死亡した。2005年には普天間基
地に隣接する沖縄国際大学に米軍機が墜落した。このことは基地がいかに危険なものか
を如実に物語っている。そして米兵による日本人に対する犯罪もたびたび繰り返されてき
た。1955年には6歳の少女が強姦の末に殺害され海岸へ遺棄された。少女への暴行は
1995年にも発生し沖縄県民の怒りを買った。しかも米兵は治外法権を持っているから日
本の法律が適用されない。だから犯罪が起きても日本の裁判によるしかるべき償いがな
されないままである。こういう長い年月に亘って積み重ねられた筆舌に尽くしがたい歴史
が、今回の県議会や県民大会の怒りとなって現れたのである。一刻も早く基地のない沖
縄をと県民が切望するのは当然のことではなかろうか。にもかかわらず鳩山政権では県
民の総意を無視した日米合意を締結し、続いて発足した菅政権でも日米合意の実行をオ
バマ大統領に確約している。日本政府はいったい誰の代弁者なのであろうか。

332「札幌大通公園のビアガーデンの醜態」(8月31日)*********************************
 夏に札幌を訪れると大通公園にビアガーデンがある。アサヒ・キリン・サントリー・サッポロ
のビール各社がそれぞれに会場を設営し営業している。夕方になると仕事を終えたサラリ
ーマンをはじめとしてさまざまな人々が集まり、それぞれのグループごとに飲み会が催され
る。19時を過ぎる頃にはほとんどのテーブルがお客さんで埋まる。その数は何千人にもな
る賑わいぶりで、ビアガーデンを見る限りは不況に喘ぐ日本経済がうそのようだ。しかし昨
今はこのビアガーデンが問題になっている。私はどんな有様になっているのか札幌を訪れ
た日の夜に見に行ったことがある。
 数年前、この近くのホテルに電話で宿泊予約をとったとき、「夜間おやすみになる時刻に
外からの騒音が聞こえてくるかもしれませんが、それでもよろしいでしょうか」とフロントの係
員に尋ねられたことがある。騒音の理由を聞くとビアガーデンの酔客が大声でわめくからだ
という。いくらビアガーデンに近い場所とはいえ、鉄筋コンクリートで建設したホテルである。
それに、各部屋には厚いガラス製の窓が嵌められている。窓を開けなければ騒音というほ
どの音ではないだろう。酔客のわめき声よりも大通を絶え間なく走る車の音の方がよほどう
るさく感じられるのではないか。そのときはそう思った。しかし実際に宿泊して夜になってみ
ると、フロントの係員の言ったことが正しいことがわかった。夜が深まるほど車の通行量は
減るので車の音はむしろ静かになる。それに反比例して酔客のわめき声はひどくなる一方
である。宴も佳境になっているのであろうか、歓声も方々から聞こえてくる。酔客同士が口
論でもしているのだろうか、大声で怒鳴り散らす声も聞こえてくる。それでも22時になれば
ビアガーデンの営業は終了するので、帰路につくグループもあって次第に静かになる。札
幌都市圏は首都圏と違って遅い時刻まで電車やバスが走っているわけではない。いつまで
も飲んでいるわけにもいかないようだ。
 そのビアガーデンが今年から21時で営業を終了するようになった。それまでより1時間早
まったのである。周辺の騒音を配慮した結果だが、果たしてどうなったのか。私は今年も札
幌を訪れて、その状況を観察してみた。21時になるとビアガーデンの照明が一斉に消され、
客は店のテーブルから外へ追い出される。しかしそれで直ちに帰る客ばかりではない。大通
公園周辺の芝生や歩道に寝そべったり座りこんだりして飲み続けているグループが少なか
らずいるのである。もちろんビアガーデンのビールはもう飲めない。しかし大通公園の近くに
はコンビニエンスストアが何軒もある。彼らはそこで購入したビールで酒盛りの続きをやるの
である。中には1時間早くなった閉店時刻に対して店員に文句を言っているグループ客もい
る。ビアガーデン自体は夕刻の明るい時間から営業しているのだが、20時前後になってか
ら入店した客にとっては21時の営業終了では飲み足りないのであろう。だから21時を過ぎ
ても歓声や怒鳴り声は止まない。それどころか以前の閉店時刻である22時を過ぎても、酔
客のわめき声はエスカレートするばかりである。やがて警察車両のサイレンが聞こえてきて、
公共の場所を占拠して飲み続けるグループなど悪質な酔客に対して取り締まりがなされる。
こうしてようやく静かになるのは23時を過ぎてからである。翌朝早い時刻に大通公園を訪れ
ると、それは見るも無惨な有様であった。コンビニの袋や缶ビールなどが投げ捨てられたま
まになっている。こぼしたビールの跡も残っていてその付近は奇妙な悪臭が漂っている。急
性アルコール中毒になった酔客の吐瀉物まである。土地の人はもう慣れっこになっているの
だろうが、夏の札幌は内地からも日本の観光客が大勢訪れる。 日本人だけではない。京都
ほどではないが、外国人観光客も訪れるのだ。彼らがこんな荒れ果てた公園を目の当たり
にしたらどう思うだろう。
 こういう状況なので、主催者はビアガーデンそのものを中止すべきであろう。22時を21時
にしても事態は一向に改善しないし、酔客のマナーはますます悪くなっている一方だからで
ある。営業するにしても1人ジョッキ1杯までとか、制限時間を30分以内にするなどして、ひ
どく酔わないうちに店を出ざるを得ないような方策を考案すべきである。そういう意味ではテ
ーブルや椅子も置かない方が良い。立食なら疲れてくるからそう長居はできないからである。
そしてビアガーデンの入口と出口を分離し、店を出た客は地下鉄の駅へ誘導するような通
路をあらかじめこしらえておく。そうでもしない限り、現状を改善することはできない。

    (塾長コメント: 大通り公園はビルの谷間にあるので、声が反響するのでしょうね?ビルの屋上
             だと騒音が幾分軽減されるかな。でも、北海道人は地に足付けて芝生の中でお
             おらかに飲みたいんですよね!大学の中央ローンでのバーベキュー大会が懐か
             しい...。)

331「不適切な言葉に対するお詫びの訂正方法」(8月30日)*****************************
 今月25日、サンテレビという在阪のテレビ局が阪神タイガース戦を放映した。同月23日
〜25日はセ・リーグの全球団が復刻版ユニフォームを着用することになっており、阪神タイ
ガースの選手もその前身である大阪タイガース時代のユニフォームで試合に臨んだ。大阪
タイガースといえば戦後間もない頃であるから、今からもう60年以上前のことだ。この日の
試合には、その当時に選手として活躍されたOBの後藤次男さんがゲスト解説として放送席
に招かれていた。私はこの放送の一部始終を見ていた。試合が序盤の攻防を繰り広げてい
たときのことである。応援する観客の声がやや大きくなり、放送席では球場へ足を運ぶお客
さんの話題になった。実況アナウンサーが「昔も応援はものすごいものだったのでしょうね」
と問いかけたところ、後藤さんは「いやいや」と否定し、当時は観客動員数自体が少なかった
うえに、家族連れの姿も見られなかったと振り返っていた。そして応援の方法にも触れ、「今
は気違いのように応援するでしょう」と評し、「まあ言葉は悪いですが」と付け加えたのだ。も
ちろん現代の観客は非常に熱い声援を選手に送ることを高く評価した言葉であったのだが、
私は「ああ、これはまずい発言やなぁ」とすぐに感じた。
 生放送であるから不適切な発言があっても編集してカットすることができない。それに、発
言した後藤さんは86歳というご高齢である。昔なら何の問題にもならなかったが今では不
適切な言葉として扱われている語彙も少なくない。たとえば「啓蒙」という言葉がそうである。
「知識のない者に正しい知識を与え教え導くこと」という意味で、昭和の時代にはごく普通に
使われていた。しかし「啓蒙」の「蒙」には「暗い」という意味があって、これが「有識者」の対
極にある「無知な者」を指すので、現代では差別用語であるとの理由で不適切な言葉の一
つになっている。このような例は他にも少なからずある。「気違い」も同様で昔は普通に使わ
れていた。多くの中学生が読む文学作品でもある夏目漱石の『坊ちゃん』にも使われている
くらいだ。ましてや戦前は中国・朝鮮といったアジア諸国の人々や、同じ日本人の中でも被
差別部落の人々や女性に対しては蔑視思想があったからなおさらである。放送業界で生計
を立ててきた人でもなければ、これらの全ての語彙について知悉することは不可能であろう。
だから放送に対する専門知識のない一般人が番組に出演すると知らず知らずのうちに不適
切な言葉を発してしまうことになるのだ。
 しかし、こういうことになるのは番組に出演する視聴者個人の人間性の問題ではなく、むし
ろ放送業界の側の責だと私は考える。不適切な発言があった場合のお詫びの方法に問題
があるからだ。 たぶんサンテレビにクレームの電話やメールが数多く寄せられたのであろう、
問題となった発言の15分後になって案の定「番組の途中に不適切な発言がございましたこ
とをお詫び申し上げます」というテロップが画面上部に掲出された。見苦しいものを放映した
場合に「番組の途中にお見苦しい点がございましたことをお詫び申し上げます」という表現が
あるが、これと同様の表現方法である。どこのテレビ局でも日常的に使っている言い方では
あるが、「不適切な発言がございました」という謝罪では、どういう言葉が不適切なのかが視
聴者にわからずじまいになってしまう。放送業界は公共の電波を使って不特定多数の人々
に情報を発信しているのだから、番組の途中に不適切な言葉があった場合も、当該語彙を
指摘したうえで無難な語彙はこれこれであるという情報も併せて伝える責務があるはずだ。
そうすることで一般の視聴者が言葉に対する関心を高めたり、正しい日本語を知ったりする
ことができるからだ。「さきほど『熱心に』と言うべきところ、『気違いのように』との不適切な
発言がございましたのでお詫び申し上げます」と訂正するのが理想的である。そうすれば一
般の視聴者が「気違い」という言葉を使うのは不適切であるということだけでなく、どう改めれ
ば問題がなくなるかも知ることができる。
 最近は視聴者参加型番組も多くなった。また、ニュース番組などでも街角でインタビューを
して人々の声を聞くケースも増えている。放送業界でも芸能界でもない一般の人が放送局の
マイクに向かって語る場面がそれだけ増えてきたのだが、何が不適切な語彙であるかを知
らなければどうしようもない。放送業界はその道のプロなのであるから、言葉に関しても視聴
者にきちんと正しい情報を知らせるべきではなかろうか。不適切な発言があったことをただお
詫びして済ませるだけではなく、私たち視聴者に対して、今後の言語活動に寄与する絶好の
機会となるよう生かしていただきたいものである。

330「郵貯銀行のATMに一言」(8月29日)********************************************
 郵便局があるところには必ず自動預入支払機、いわゆるATMが設置されている。銀行と
同じく口座の預け入れ・引出し・口座間送金・通帳記入といった各種の操作ができるように
なっている。夜遅い時間に行っても手数料なしで引出しができるのは銀行のATMにはない
サービスだと評価できるが、今回問題にしたいのは稼働時間中にも取り扱いできないもの
があるということだ。ATMが稼働していれば平日の日中――すなわち郵便局の窓口取り扱
い時間中――に取り扱うすべての操作が可能と思われがちだが、じつはそうではない。本
局のATMでは平日なら夜21時、場所によっては23時55分まで稼働しているところもある
が、その時刻に行くとできる操作とできない操作がある。このことは意外と知られていないし、
郵便局側からの周知も徹底されていない。
 例えば明日、ある取引があって口座から引き落とされる場合、明日になってから入金した
のではもう間に合わないことがある。仮に間に合うにしても仕事などの事情で自分がATM
の稼働開始時刻に郵便局に行けるとは限らない。だから余裕をもって前日までに入金して
おかなければならないのだが、ATMが稼働している時間ならいつでも入金できるはずだと
思うのが自然だろう。ところが夜になるとできなくなる。特に18時以降は要注意だ。最初か
ら画面に「預け入れ」の文字が消えているのである。やはり、稼働時間帯は手数料を徴収し
てでもすべての機能を操作できるようにしておいてほしい。ちなみに窓口でも同じことがある。
私の自宅の最寄りの郵便局は17時まで営業しているが、本人確認を必要とする高額の送
金や金融商品の取り扱いは16時で終了してしまい、それ以降の1時間は書留や小包とい
った郵便業務のみの取り扱いとなっている。しかし、これも窓口があいている時間帯はすべ
ての業務を取り扱ってくれるはずだと思われがちである。銀行の窓口よりも1時間長く対応
しているだけでも評価できるのだが、郵便のみの対応しかしない時間帯があるのは誤解の
元であるし利用者に不便を強いることにもなる。これも善処していただきたいものである。

    (塾長コメント: ゆうちょ銀行は土日休日も手数料無料なので私も愛用しています。でも最近各
            銀行がインターネット決済に力を入れていて、ゆうちょ銀行のゆうちょダイレクトを始
            め私の取引銀行はすべてインターネット決済です。愛用パソコンがそのままATM
            になるわけで便利ですよ!普段現金は持ち歩かず、支払いはクレジットオンリーで
            す。コンビニも電子マネーで最近小銭を見ていませんね。)

329「夏の高校野球の開催地を安全な場所に」(8月26日)*******************************
 毎年夏がやってくることは今も昔も変わらないのだが、昔は冷房がなくても苦にはならなか
った。もっとも普及していなかったから、どこへ行っても冷房がなかった。バスや電車も窓を
全開にして走り、乗客は風に髪をなびかせていたものである。家に帰っても冷房はなかった
が、打ち水や風鈴の音で涼しさを感じていた。しかし日中は暑くても夕方になるとそれなりに
涼しくなった。だから縁側へ出て夕涼みを楽しむことができた。夜になるとさらに気温が下が
った。家の中にいても窓を開けると夜風が心地よかった。ただし夜は蚊が入ってくる。だから
蚊取り線香を焚いた。あの煙の香りも夏の風物詩の一つであった。確かに「暑い暑い」といっ
て冷えたビールを飲んだり、かき氷を食べたりしていたが、暑いといってもその程度であった
ので、冷房のない環境でも熱中症で死ぬ人はいなかった。そもそも「熱中症」という言葉すら
なかった。あったのは日射病くらいである。
 それが年ごとに暑くなっていった。特に大都市とその近郊地区はヒートアイランド現象の影
響でますます暑くなった。夜になっても気温が下がらないから、いつの頃からか「熱帯夜」と
いう言葉が登場した。日中の最高気温は35℃以上になる日も珍しくなくなった。そのため
「猛暑日」という言葉まで登場した。この言葉はここ10年以内であろう。「真夏日」(最高気温
30℃以上)だけでは足りないのである。今や日中の最高気温は38〜39℃にもなっている。
各地が40℃に達するのも時間の問題だろう。そうなると「猛暑日」でも表現できず、また新
語を登場させることになるに違いない。「酷暑日」、それとも「炎暑日」か。しまいには、「殺暑
日」といった人類の滅亡を思わせるような言葉も出てくるかもしれない。そんな有様なので熱
中症で倒れる人も年々増加の一途だ。今年に関して言うと5月末からの3ヶ月間で熱中症の
疑いで医療機関に搬送された人は4万人にも及んでいる。今後最高気温が40℃以上となる
日が当たり前になるような状態になったら、まさにバタバタと熱中症で倒れるようになるだろう。
6500人余りが犠牲となった阪神淡路大震災でも地震特約のなかった犠牲者には保険が支
払われなかったくらいである。毎年何千人も熱中症で死ぬようになったら、熱中症による死
亡では生命保険も下りなくなるかもしれない。それとも熱中症特約といった新商品が出され
るのだろうか。
 このように夏の暑さは昔と今とではまるで違っているのである。そこで思うのは毎年8月に
行われる夏の全国高校野球選手権大会だ。今年も8月7日から15日間の日程で開催され
たが、そのほとんどんの日が猛暑日であった。高校野球はこれまで兵庫県西宮市にある阪
神甲子園球場でずっと行われており高校球児の聖地となっているのだが、大阪も神戸も最
高気温が35℃以上となる日が続くようになった今となっては、今後もここを開催地とするの
はもう限界であろう。昨今は夏季休業期間中の部活動であっても熱中症によって生徒の身
に何かあれば部活動の顧問である教員の管理責任が問われる時代である。選手はもちろ
んのこともアルプス席で応援をする生徒の事故防止という観点でも、熱中症の危険性の少
ない、安全な場所に変更すべきである。特にアルプス席に陣取る応援団の生徒の中には、
吹奏楽部など日頃から炎天下で身体を鍛えていない人が多い。だから選手以上に危険で
ある。北からも南からも行きやすい場所となると開催地は関西地方にするしかない。その
こと自体は賛成だが、それならばいっそのこと京セラドーム大阪でやれば良い。ここなら空
調設備の完備した屋内の球場なので、試合中に熱中症で倒れる危険性はなくなる。どうし
ても屋外で自然の土のグラウンドでというのならば、もう北海道の球場に移すしかないだろ
う。本州ではどこへいっても猛暑日になっているからだ。最高気温が30℃程度にしかなら
ない、安全な場所は北海道へ行けばまだまだある。甲子園と比べると交通は著しく不便に
なるが、前途ある生徒の命には代えられまい。何事も犠牲者が出ないと何ら対策を講じな
いことが多い。だから夏の高校野球にしてもこれまでと同じく来年以降も甲子園で開催する
のだろう。しかし、生徒が死亡してからではもう遅いのである。日本高校野球連盟の英断に
期待したい。

328「被爆地に国連事務総長が訪れたが」(8月25日)***********************************
 8月6日といえば広島に原子爆弾が投下された日。8月9日は長崎に原子爆弾が投下さ
れた日。毎年この両日には慰霊の平和祈念式典が行われているが、今年は国連の潘基
文事務総長が来日し今月5日に長崎を訪問した。現職の国連事務総長が被爆地を訪問し
たのは、今回が初めてのことである。事務総長は長崎の爆心地で献花しスピーチをされた。
まず被爆地へ訪問した目的として「被爆者への尊敬の念を示し、市民に連帯の姿勢を示す
ため」と述べ、今後へ向けてのあり方として、こんな惨劇をどんな人にもどんな場所にも許し
てはならないこと、このような兵器が2度と使われないようにする唯一の道は、その全てを
廃絶することだとし、核兵器のない世界の早期実現を訴えた。翌6日には広島の平和記念
式典に国連事務総長として初めて出席し、ここでも核兵器の廃絶を強く訴えた。
 広島・長崎での平和祈念式典の席上で、天皇陛下を筆頭に内閣総理大臣や広島・長崎
両市長が唯一の被爆国である日本の立場として被爆者の苦しみを発信し、一刻も早く核兵
器を廃絶すべきことを国際社会に訴え続けてきた。これに応えて最近は各国の政府の方も
参列しスピーチをされることが多くなった。いずれも異口同音に核兵器のない世界の構築を
希求するという主張である。戦後久しく米ソ両国の対立が激化し「鉄のカーテン」と言われる
冷戦状態が続いていた。その当時は「戦争の抑止力として核兵器が必要だ」という主張もあ
った。「うちには核兵器があるから、たとえ戦争になっても敵国の人民を一人残らず抹殺で
きる。だから、うちと戦争をしようとする国家は現れないだろう」という理屈であった。そして、
アメリカ・ソ連は勿論のこと、フランス・中国など各国は現実に核兵器を製造し、その爆発の
威力を知るために地球のどこかで核実験を繰り返しては、より殺傷能力を高める方向へと
研究・開発を続けてきた。しかし今は時代が変わった。米ソの冷戦時代はとうの昔に過ぎ去
った。ベルリンの壁も崩壊し東西に分割されていたドイツも統一された。そして、ソヴィエト連
邦も解体した。核兵器のない世界をという考え方は洋の東西にかかわらず今や国際常識に
もなっている。だが、それにもかかわらず核兵器は依然として廃絶されていない。各国が保
有している核兵器を全て集めると、広島・長崎に投下された原子爆弾とは比較にならぬほど
途轍もない威力をもつ核兵器が世界中にまだ何万発もあるといわれている。このままでは
核廃絶の掛け声だけで、実践が伴っているとは言えない。平和祈念式典の席上における各
国要人の核廃絶を訴えるスピーチも、単なる日本へのリップサービスに堕してしまう。
 そこで国連としての核廃絶へ向けた具体的な行動が必要だ。今、国連では温室効果ガス
の削減目標を定めて各国に努力義務を課しているが、核兵器に関しても直ちに廃絶するよ
う罰則規定のある法規を作ることはできないのだろうか。そして国連が各国を頻繁に査察し
核の有無を確認する。そして廃絶義務に従わない国家には国連としてしかるべき制裁措置
をとる。その制裁に従わない国家もあるだろうから、それに対する戦争抑止力として国連が
核兵器を保有することは、あるいは必要かもしれない。しかし、各国が自国の利益のために
保有しその威力を競い合う時代はもう終わっているのである。現職の国連事務総長が被爆
地を訪れただけでも核廃絶へ向けて前進したと評価できるが、それだけで終わってしまって
は65年前のあの日に、たまたま広島・長崎にいたために被爆した方々はいつまでも浮かば
れまい。国連事務総長が核兵器の廃絶を公言した以上は、国連の力で各国に廃絶義務を
課し真に核のない世界を構築してほしい。それが被爆者の悲願でもあるはずだ。

    (塾長コメント: 過去の戦争の評価を下げてはならないと、ロシアは、9月2日を「対日戦勝記念
             日」と制定した。何を今更という感は拭えないが、これもロシアの対日工作のカー
             ドの一つになるのだろう。日本は平和すぎる。平和祈念式典に国連総長が来たぐ
             らいでニュースになるのだから。世界唯一の被爆国として対外的にもっと別な形の
             強いアピールができないのだろうか?8月6日、9日を平和祈念日として祝日にし、
             国民全体で平和を考える日にするとか...?)

327「花火大会の見物客に一言」(8月24日)******************************************
 夏は各地で花火大会が催されているが、今回は見物客のマナーの問題を2点指摘したい。
第1に場所取りの問題だ。花火大会当日は打ち上げ時刻のかなり早い時刻から自分の見
物場所を確保するためのビニールシートが持ち込まれて敷かれていることが多い。場所に
よっては夜明け前から場所取りが始まっている。しかもビニールシートを敷いた場所に誰か
が座り込んでいるのならともかく、敷きっぱなしである。そして日もとっぷり暮れて会場が見
物客で相当に混雑するようになってからおもむろにビニールシートの占有主が現れる。見
物会場となる場所はたいてい河川敷だから公共の場所である。そこへ個人がビニールシー
トを持ち込んで敷くということは、ある意味不法占拠でもあり不法投棄でもある。もし花火大
会ではない日に同様の行為をしたらゴミとして始末されても仕方なかろう。もっといえばシー
トを誰かに盗まれても文句は言えないだろう。花火大会を知らない人から見れば河原に放
置されたビニールシートは捨てられたものと見なされるからである。いくらベストポジションで
花火を楽しみたいとはいえ、こういう行為をしてまで自分の見物場所を確保するのはあまり
にも自己中心的であると思う。場所を確保したいのなら最低でも1人はビニールシートに残
るべきだろう。そして行政も敷きっぱなしのまま長時間放置されたビニールシートは容赦な
く撤去すべきである。そうやって厳しく取り締まらないと何時からビニールシートを敷いても
かまわないのだと誤解する人が出てくる。そうなるとビニールシートを敷き始める時刻が年
々早くなる。しまいには何日も前から場所取りが始まることにもなりかねない。
 第2に、花火の最中に移動する人の歩き煙草である。「打ち上げ開始時刻よりも遅れて来
た」「打ち上げ開始前ビールを飲み過ぎてトイレに行きたくなった」「待ち合わせた友達を迎
えに行く」「終了時の大混雑を避けて早めに帰る」など、人によって事情はさまざまだが、多
くの人が次々と打ち上がる花火に空を見上げている最中に席を立つ人が少なからずいる。
たかだか1時間かそこらの花火大会でも、最初から最後まで自分の敷いたビニールシート
から動かずに見ている人は意外と少ないものである。自分の近くを立ち歩く人が現れるた
びに、座っている人の顔の位置に立ち歩く人の指がくることになる。その指先に火のついた
煙草があるのだから、顔を火傷する恐れもあって非常に危険である。しかも花火が打ち上
がる時刻だから当然夜になっており自分の周囲は暗い。そういうことを考えると花火大会の
会場でも全面的に燻煙にすべきであろう。神奈川県では海水浴場を条例によって禁煙にし
た。「非喫煙者の受動喫煙を防ぐという目的による禁煙であるが、火傷や火災につながる恐
れを考えるならば海水浴場以上に花火大会の会場区域を全面的に禁煙にすべきである。

326「コマーシャルの音量を適量に」(8月23日)****************************************
 民放の番組を視聴していていつも思うのは、番組の途中に入るコマーシャルの音量であ
る。番組中の音量よりもつねにコマーシャルの方が大きい。プロ野球やバラエティー番組と
いったもともと音量が大きめの番組でさえ、コマーシャルの音量の方が大きい。視聴者は、
番組を聴くのにちょうど良い音量に設定しているから、たとえば、ドラマなどで静かなシーン
が続いた直後に突然コマーシャルが挿入されるとそのあまりの大音量に驚いてしまうほど
だ。その場合、多くの人は直ちにリモコンのミュートボタンを押下してコマーシャルの音が全
く聞こえないようにしてしまう。これではスポンサーも大金を投じてコマーシャルを流す意味
が半減してしまうのではなかろうか。心地よく聞こえる程度の音量なら消音設定をする必要
もないし、宣伝効果も上がるはずである。

325「非常識な役員報酬を是正せよ」(8月22日)***************************************
 今回は企業の役員らが受け取る報酬の金額について論じたい。不況が続くなかどこの企
業も従業員の賞与や残業手当はことごとくカットされ、春闘においても基本給の賃上げすら
満足な回答もできない状態がここ何年も続いている。経費のうちかなりの割合を占める人件
費の削減を余儀なくされているわけだが、では代表取締役以下役員の報酬がどの程度なの
か。果たしてそれが世間の常識、とくに労働者側の常識からみて妥当な金額なのか。今回
はそれを考えてみたい。
 次の数字は、本年8月3日に行われた衆院予算委員会で笠井亮議員の示したデータであ
る。大企業トップ:従業員の平均で示すと次のようになる。順位は役員報酬額の高い順であ
る。なお、”=”の右側は従業員の平均額を1とした場合の比率を示したものである。比率は
厳密には正確ではないが、笠井議員はおおよその値として示したのであろう。
  1位.日産自動車   8億9100万円 : 627万円 =142:1
  2位.SONY      8億2550万円 : 865万円 = 95:1
  3位.大日本印刷   7億8770万円 : 647万円 =122:1
  4位.信越化学工業  5億3500万円 : 814万円 = 66:1
  5位.セガサミーHD  4億3500万円 : 735万円 = 59:1
 笠井議員はこのデータを示しながら、
 1.今回から株主総会で年収1億円以上の報酬をもらっている役員については報酬の金
  額を公開することが義務づけられるようになったこと
 2.共同通信社によると約170社290人が1億円を超える報酬を受け取っている
という2点を指摘した。上記の金額と170社290人もの人が1億円以上の報酬を受け取っ
ているという現実を知って一般庶民はどう思うだろう。「大企業間トップといわれる人々はこ
の不況にもかかわらずそんなに高額の報酬を得ているのか」と呆れる人の方が多いのでは
ないだろうか。「あれだけの規模を有する企業なのだから妥当な額だ」と納得できる人は少
ないのではないだろうか。
 日産自動車の数字でみると、従業員の平均年収との格差が142倍にもなっている。もち
ろんすべての従業員が年収627万円に抑えられているわけではないのだが、平均である以
上はその金額より低い人が半数いることになる。627万円という年収は、現代の社会でみた
場合お世辞にも高額だとはいえない。日産自動車という大企業の社員の平均ですらこの年
収であるから、いわゆる日産グループに所属する関連企業、さらにはそれらの子会社・孫会
社で働く従業員のそれはさらに低額であろうことは間違いない。そしてこれらの現場ではこと
ごとく正社員の人減らしを強いられている。一方で契約社員・請負社員といった非正規の形
で大量に雇用した。そして彼らは低賃金かつ劣悪な勤務環境のもとで正社員同然の労働を
強いられている。そういう現場の状況を顧みず、企業のトップが社員平均の142倍もの報酬
を受け、それを当然のごとく受け止めている。
  企業の経営者なら社員の給与をカットする以前に、まず自身の身銭を切るべきであろう。
「俺もこれだけの給与で我慢する。だから社員のみなさんもこの金額で我慢していただきた
い」というのでなければ従業員も納得できない。社員平均と同額にしろとまでは言わないが、
少なくとも数倍程度に抑えるべきであろう。それでも3000万円を越える年収になるのである
から、少なくとも生活を営む金額としては充分であろう。いくら経営者であるとはいえこのよう
な厳しい雇用情勢の下で喘ぐ労働者を尻目に億単位の報酬を受け取るというのは、あまり
にも無神経ではないだろうか。そのうえなお余ったお金を従業員に分配せず内部留保という
形で溜め込んでいる。これでは徳川時代の「農民は生かさぬよう殺さぬよう」という施策と同
然である。

    (塾長コメント: 会社の役員にはそれだけの責任を伴うので、決して高額とは思いません。スポ
             ーツのプロ選手でも年俸10億とか20億とか話を聞きますが、会社役員もプロ選
             手並みに捉えれば理解できるのではないでしょうか?会社の業績が向上しなけれ
             ば株主総会で解任されるわけで常に背水の陣で臨む職業だと思います。)

324「ボールペンも客へのサービスの一つ」(8月21日)**********************************
 買い物をする際にクレジットカードで決済すると、「ここにサインのご記入をお願いします」
と言われて店舗側で管理するレシートとボールペンを手渡される。最近は、小型の機械に
カードを挿入した状態のまま機械ごと手渡されて、「暗誦番号の入力をお願いします」と言
われることも多くなってきたが、店舗によって、あるいはカード会社の方針によっては、サイ
ンによる確認によるところもまだまだある。問題はそのサインの際に手渡されるボールペン
なのだが、満足に書けないものを平然と客に渡している店舗が少なくないことだ。うまく書こ
うとしても書けないから当然客は良い気分がしない。「あれ、インクが出ないですか?ああ、
すみません。では、こちらのペンをお使い下さい」というお詫びとともに代わりのボールペン
を渡されることもあるが、それさえもよく書けないこともある。客の立場では早く決済を済ま
せたいのに足止めされるからますます不愉快になる。
 カード決済時に客がするサインは、標記の取引についてクレジットカードで決済をすること
を本人が認めた証拠となる重要な書類になる。だから濃くはっきりとした文字で記入されて
いなければならない。あまりにも薄かったり不明瞭だったりすると書類としての効力を失う恐
れもあるのである。だから店舗側はボールペンについても良質の品物を用意し、つねに書
ける状態になっているか否かをチェックすべきであろう。それともう一つ忘れてはならないこ
とがある。それはさらに客に書かせる場所の環境だ。いくらインクが充填された高品質なボ
ールペンであっても、大理石やガラス製のカウンターの上で直に書いたのではインクが出に
くくなるのは当然である。ところがそのような堅い平面上で書かせようとする無神経な店員も
少なくない。当該店舗に従業員として勤務して以来、カード決済をするたびに何人もの客に
書かせてきたのだろうから、どういう場所なら書きやすいかについても知るべきであろう。
 現代はサービスの時代である。良質な商品を安価で提供、明るく清潔感ある店内、客を
待たせず笑顔で応対、営業時間の拡大、ポイントカードの充実など、店舗側が心がけなけ
ればならない項目はいろいろとある。いずれも客に不愉快な思いをさせないことにつながる
ものであるが、書きやすい環境を提供し書きやすいボールペンを手渡すのも客に対する心
がけの一つとして忘れてはなるまい。たかがボールペン。されどボールペン。1本のボール
ペンでも店舗が客に与える印象は良くも悪くもなるのである。

323「予算委員会の質疑応答を聞いて」(8月20日)*************************************
 菅内閣が発足して初めての予算委員会が実現した。野党の質問に対して菅首相以下、民
主党の閣僚らが果たしてどんな答弁をするかと、私は今回の予算委員会の質疑は過去のそ
れ以上に非常な興味をもって聴いた。しかし野党時代の菅氏とは正反対の、期待はずれの
答弁だった。
 第1に、あまりにも歯切れの悪いことを指摘したい。これを第1に挙げたのは答弁の内容以
前にひどいと思ったからである。首相は語頭や語尾に「あー」「うー」「えー」などのア行の長音
を加えながら一語一語述べていくことを繰り返していた。これでは自民党政権下における歴
代の首相・閣僚の答弁と何ら変わらない。野党時代には同じ予算委員会の席上で鋭く切り込
んだ質問をしていた。かつての自公政権下における選挙期間中の街頭演説では、ずばずば
と改革案を提示していた。それが政権与党となり首相の座に就くとなぜ快刀乱麻を断つよう
な明快な答弁ができないのか。それが私には不思議でならない。たとえぱ、質問に立った議
員から「※※について、このような実態をどう思いますか?」と尋ねられたのなら答え方はい
ろいろあるだろう。しかし「このような実態をあまりにもひどいと思いませんか?」と言われた
のなら答えは2通りしかあり得ない。質問した議員の考え方に同意しているのなら「私もひど
いと思います」となるし、否定するのなら「私はひどいとは思いません」である。それ以外の語
句は一切言う必要はない。だから3秒もあれば答弁は済むはずだ。しかし基本的にYesかNo
かで答えられる質問に対しても前置きをしたり、あれこれと理屈を並べたり、質問した議員の
言葉尻を取っては質問内容を再度要約したりと、まるで時間つぶしとしか思えないような手法
を取って答弁の時間を引き延ばしている。なぜそんなことをしなければならないのか。それが
私にはわからない。”Yes”あるいは”No”と明言することで言質を取られることをあまりにも恐
れている答弁にしか聞こえなかった。言質を取られまいとしてア行音を挟んでは余計な言葉を
並べているのだろうが、それはまるで官僚が霞ヶ関から乾電池のなくなりかけたリモコンで操
作して永田町にいる総理や閣僚の口を動かしているのかのようであった。政治家本人の意思
や信念というものがないのだろうか。本音を表明するのならもっとずばずばと答えることができ
るだろうと思うのだが、あるいはそういう答え方をしてはならないと霞ヶ関の官僚から脅されて
いるのだろうか。いずれにしても、なにか明快に答えられない事情でもあるのかと勘ぐりたくな
るほど、歯切れが悪い。
 第2に、質問した議員が総理に答弁を求めているのに大臣が応じているケースがあった。そ
れも専門的な分野に及ぶ質問をされたのではない。純粋に「※※のこの点について、総理の
率直な感想をお答え下さい」と言われただけである。感想を求められたのだから、なにも建設
的な政策を述べる必要はない。だから誰でも答えられそうなものだが、それなのに総理とは別
の人物が答弁に立つシーンが目立った。これもなぜそういうことをするのか理解に苦しむ。
 第3に、答弁の内容についてである。野党時代にしていた菅氏自身の主張をなぜ今になって
覆すのか。これが最大の疑問だ。その端的なものが沖縄の海兵隊である。野党時代は菅氏自
身が「沖縄に海兵隊は要らない。あれは日本を守るための部隊ではない。地球の裏側まで飛
んでいって攻める部隊だ。沖縄に海兵隊がいるかいないかは日本にとっての抑止力とはあま
り関係がない」とまで言い切った。ところが今はどうだろう。かつての自民党政権のそれと同様
に「抑止力」という言葉を使ってその必要性を説いている。後期高齢者医療保険制度に対して
もそうである。野党時代は「直ちに撤廃すべき」と主張していた。自公政権下当時、国民新・社
民・共産ら野党が共同で提出し参議院で成立させた後期高齢者医療制度廃止法案には、民
主党も先頭に立って参画していたのである。それが今では4年後に新制度を作るからそれま
での間は現状のまま保留するという態度に変わった。元の老人医療保健医療制度に戻すだ
けなら現在の後期高齢者医療制度を撤廃しさえすれば良いはずだ。だから1週間もあればで
きそうだが、それも実現させようとはしていない。政権与党になったら野党時代に発言してい
た事柄を次々と断行してくれるものと信じて有権者は先の総選挙で自公政権を退場させ民主
党政権を選択したのである。それなのにかくも覆されたのでは期待はずれでしかない。そこへ
いくと昔の指導者は早かった。「単なる独裁者に過ぎない」と言われればそれまでだが、ナポ
レオン・ビスマルク・ヒトラー・レーニンといった世界史に登場するこれらの人々は政権を掌握
するやいなや、現状を変える政策を次々と断行した。現在の民主党政権にそこまで要求する
ことはできないが、少なくとも野党時代の主張を覆し旧来の自公政権と大同小異の政策を進
めるのでは、民主党に投じた有権者の期待を裏切る行為と言われても弁解できまい。
 自民党政権が長く続いていた当時、「日本の政治は官僚がしているのであり政治家は官僚
に動かされているだけだ」とよく批判されていた。新たに内閣が組閣された時に首相による所
信表明演説があるが、あれも官僚の作成した文章を代読しているだけだというのである。その
後の予算委員会の質疑応答にしてもそうである。まずあらかじめ各党から質問内容を伺う。そ
して官僚が作戦を考える。将棋のように「こう聞かれたらこう答えろ」とばかり「次の一手」を教
えてもらう。当日はそのシナリオ通りの答弁をしてそつなく終わらせるというわけである。そうい
う官僚主導の政治が連綿と続いていたのだが、昨夏に民主党政権に代わり官僚主導の政治
との決別を打ち出した。だからこそ今回の予算委員会の質疑応答に私は期待したのだが、歯
切れの悪さと答弁の内容は自民党政権下のそれと大同小異という印象を払拭することはでき
なかった。

    (塾長コメント: 民主党は所詮「ミニ自民党」「民主党というお面をつけた自民党」なのだから期待
             する方が無理です!野党時代と答弁が違うというのは、その程度の認識しかないと
             見限った方がよいと思います。早晩民主政権は長続きしないでしょう。)

322「日航ジャンボ機墜落事故を思う」(8月18日)**************************************
 今年も群馬県の御巣鷹山への慰霊登山が行われた。1985年8月12日の夜に日航ジャ
ンボ機が墜落した。乗客509名、乗員15名のうち助かったのは4名の乗客のみ。505名
の乗客と15名の乗員は帰らぬ人となった事故であった。今年はそれから25年が経過した。
毎年8月25日には入れて登山の模様が報じられるが、その日がくるたびに私はこの事故
の本当の原因について考えさせられてしまうのである。理由は私がとある古本屋で一冊の
著書に出会ったからだ。池田昌昭著『JAL123便』(文芸社刊)である。著書名を見る限り
何の変哲もない事故解説本にしか見えないのだが、中身は驚かずにはいられないことばか
りが書かれている。
 その著書の中身に入る前に、運輸省の事故調査委員会が公表した事故原因の報告書を
簡単にまとめておく。報告書は、問題の飛行機JAL123便が離陸後24000フィートまで上
昇した時点で後部圧力隔壁の一部が破断したことを直接の事故原因としている。正確には
後部圧力隔壁のL18接続部分に金属疲労による亀裂が進展しており強度が著しく低下し
ていたため、上空と客室内との気圧の差圧に耐えきれなくなり18時24分35秒ごろ破断し
たことによる事故である。これにより尾部胴体の内圧が上昇し方向舵・垂直尾翼も損壊し、
飛行そのものはどうにか可能なものの機長の意図通りの操縦が極めて困難になり、迷走飛
行の挙げ句に群馬・長野県境の山中に墜落したというわけである。しかし、この著書はそう
ではないと主張している。 圧力隔壁が破断すれば機内に急な減圧が生じるはずだが、問題
の時刻すなわち18時24分35秒にはそれが発生しなかったからである。では、あの事故の
真の原因は何なのか。墜落現場の付近に住む人々の証言や事故当初の地方新聞の記事、
さらには航空評論家のコメントなど、さまざまな証拠を示した上で著書が推論した内容は次
の8点である。
 1.事故当日は相模湾上を護衛艦「まつゆき」が航行し、この護衛艦上から海上自衛隊所
  有の無人の標的機が発射され軍事演習が行われていた。
 2.JAL123便の機体に異常事態が発生したとされる18時24分35秒ごろに、上記1の
  無人標的機が垂直尾翼付近に衝突し尾翼の2/3を損壊した。
 3.無人標的機の衝突直後の時点において、JAL123便は機体をどうにかコントロールし
  て羽田空港か米軍横田基地へ着陸する態勢にあった。
 4.第2の雫石事故と見なされ、反自衛隊感情が高まることを恐れた当局はただちにJAL
  123便を追尾した。
 5.無人標的機が民間機に衝突した証拠を抹消するため、追尾した自衛隊機からJAL
  123便にミサイルを撃ち込み御巣鷹山に墜落させた。
 6.上記5の結果、JAL123便の機体は火を噴き2度爆発した後に地面に激突し、機体
  は勿論のこと乗客乗員の遺体もバラバラに粉砕された。
 7.自衛隊は無人標的機の衝突及びミサイルで撃墜させた証拠物件を速やかに回収する
  ため、現場に極秘部隊を直行させ無人標的機やミサイルの残骸を回収した。
 8.自衛隊は有事危機管理態勢に基づき情報統制を行い、墜落地点に関する情報をわざ
  と長野県側と発表した。
 9.上記8の行動をとることで自衛隊は被害者の救出活動を意図的に遅滞させ、生存者の
  証言で事故の真相が明らかにならないようにした。
 これが事実ならじつに恐ろしい話である。国民の生命を守るための自衛隊が自ら犯した事
故を隠蔽するためにミサイルで520名の人命を故意に奪ったことになるからである。問題は
著書が出版された後の当局の態度であると私は考えている。これが著者の妄想であり全く
の捏造で書かれたものであれば、直ちに自衛隊なり防衛庁なりが名誉毀損で著者を訴える
べきである。著書の初版は1998年1月25日だが、そんな話はいまだかつて聞かなかった。
それどころか、あの事故は圧力隔壁の破断ではなかったと推論する著書は他にもいくつか
出ている。それにもかかわらず防衛庁も自衛隊もこの25年間黙秘を貫いたままである。黙
秘ということは、このような著書の内容を認めてもいないが、かといって正々堂々と反論した
わけでもないので否定してもいないことになる。ひたすら事故が風化するのを待っているとし
か思えない態度である。だからあの事故の真相はいまだに闇の中だというのが正確なとこ
ろであろう。一応事故調査委員会の報告書が事故原因とされ、製造元のボーイング社も謝
罪して決着がついたことになってはいるが、断言はできない。これでは遺族は浮かばれまい。
当局はこういった著書に対して、遺族はもちろん国民が納得のいく態度を示してほしいもの
である。

321「増税に対して怒りの声を」(7月11日)********************************************
 いよいよ今日は参議院議員選挙の投票日を迎えた。今回の参議院議員選挙は民主党が
政権与党になってから初めて有権者の審判が下される選挙でもある。
 さて、今回の選挙の争点の一つは消費税である。元号が昭和から平成に代わって22年
が経過したが、この22年の歴史は同時に消費税の歴史でもある。なぜなら、89年(平成
元年)4月1日に消費税法が施行され、全ての物品やサービスに対して一律に3%の課税
がなされるようになったからだ。「消費税の導入を」という提案が政治家の口から出たのは
78年の大平内閣が最初であった。その後、中曽根康弘首相(当時)が「大型間接税の導
入はしない」と公約したにもかかわらず、その後の竹下内閣のもとで88年に消費税法が成
立し、翌年度から課税が始まったのである。そして97年の橋本内閣のもとで税率が5%に
引き上げられた。今度の選挙が告示された当初、民主党は消費税率を10%に引き上げる
ことを打ち出した。この数字は、元はといえば現在は野党の立場にある自民党の原案であ
る。したがって民主党・自民党とも消費税率の引き上げを10%とする点で一致していること
になる。これは平均的な所得の世帯でみると、今回の増税分で新たに年間16万の負担増
となる。既に支払っている5%分と加算すると年間34万もの負担を強いるものとなる。34万
といえば1ヶ月の給与にも匹敵する金額である。しかも、低所得者ほど所得が消費に回る割
合が高くなる。現に、総務省が「家計収入別の消費の平均割合」を00年〜09年にわたって
調査したところ、年収400万の世帯では所得に対する消費の割合が80%であるのに対し、
1000万円のそれは60%であった。つまり、消費税は低所得者ほど負担の大きい逆累進
的な課税方式なのである。これを10%に引き上げるのだから、ますます低所得者の負担を
強いる結果になるのは間違いない。低所得者層でなくとも国民の消費は冷え込むであろう。
 何のための増税か。菅首相は内閣発足直後の所信表明演説で「強い経済」を打ち出した。
その「強い経済」の目玉として、今回の民主党のマニフェストには法人税率の引き下げが明
記されている。この方針は日本経団連が今年の4月に打ち出した「経済成長戦略2010」に
盛り込まれた提案に応えたものである。そこでは、法人税率の引き下げを現行の40%から
25%とする方針を打ち出されている。その方針通り法人税の実効税率を25%とすると、現
行と比して歳入が9兆円減る計算になるという。一方消費税を10%にすることによって新た
に11兆円の歳入が見込まれている。つまり消費税の増税の大部分は、法人税の減税によ
る欠損分を補填する手段に他ならないということである。問題はこういうことが今回から新た
に行なわれようとしているわけではないということだ。消費税の導入以来の22年間で、我々
消費者が支払った消費税の総額は224兆円と言われている。一方、同じく22年間に法人
3税(法人税・法人住民税・法人事業税)の減税の総額は208兆円。つまり、消費税が導入
されて以来法人税の減税分を消費税で賄い続けてきたのが、この国の消費税の歴史でもあ
るわけである。88年に消費税の導入が打ち出されたときも「医療・福祉・介護の財源確保の
ため」という言葉がたびたび出ている。その後税率を5%に引き上げる際にもこの言葉が出
た。そして今回の選挙でも先月22日に実施された日本記者クラブ主催の党首討論会で「福
祉の財源を確保するため」という言葉が菅首相の口から出た。しかし、法人税の実効税率を
25%に引き下げるのだから、その大部分はこれまでと同じく法人税の減税分に回されること
になるであろう。仮に、国民の福祉に回るとしてもそれは微々たるものでしかないということ
だ。もし本当に消費税の全額が医療・介護・福祉に回っているのなら、健康保険を初めとす
る各種の社会保険料や病院での窓口負担額が下がっていなければおかしい。現状はこの
22年間で負担増の一途であった。
 こういう方式では国民の生活は決して改善しないであろう。年間3万人を越える自殺者も
減らないであろうし、内需の拡大などは到底望むべくもない。得をするのは法人である。そ
れも中小企業や零細企業ではない。大企業だけが喜ぶシステムである。こんな方法で国
民にさらなる負担を求め、徴収しやすいところから徴収している。一方で、株で儲けたお金
などは「不労所得」であるにもかかわらず税率は10%でしかなく、国際的にみても著しく低
い。こんな租税の仕方は一刻も早く是正させなければならない。そのためにも有権者は「消
費税が値上げされても仕方ない」と諦めずに、怒りの声をあげてもらいたいと思う。

    (塾長コメント: 国民生活の向上を期待した民主党は所詮「ミニ自民党」「民主党というお面を
            つけた自民党」でしたね!もう民主党に期待することは何もないです。大企業優
            遇に走り子供だましの消費税論議や高速道路無料化、子ども手当のばらまきな
            ど一般国民を馬鹿にしたやり方にただ呆れるばかりです。早く別な政権に取って
            代わって欲しいくらいです。このような悪政はいつまで続くのでしょうか?)

320「鳩山内閣8ヶ月の総括」(6月 7日)*********************************************
 発足して1年を迎えたときに、「鳩山内閣1年間の総括」というテーマで書こうかと思ってい
たら、突然の辞任会見とともに終わってしまった。普天間基地問題で「最低でも県外」という
選挙公約を守ることができなくなった時点で参議院の与党議員を中心に総理辞任の声が高
まりつつあった。しかし、総理は前日までは続投へ向けて強気な姿勢とも受け取れる態度を
見せていた。それだけに、6月2日の辞任会見には多くの国民が驚いたのではなかろうか。
とにかく8ヶ月という短命な政権になってしまったので、現時点で総括を記しておきたい。
 第1に、総理があまりにも軽々しい発言を繰り返してしまい、選挙公約に対する信頼性を失
わせてしまったことを指摘したい。先の衆議院議員選挙の際には民主党は数多くの公約を国
民にした。普天間基地の移設、高速道路料金の見直し、八ッ場ダム、子ども手当てなど、後
期高齢者医療制度の撤廃など、これまでの自民党・公明党の政策に対抗すべく国民にとって
期待感を高めるような公約をした。そして自民党を歴史的惨敗に追い込んで政権を掌握した
のだが、いざ公約を実行しようという段になって、財政その他もろもろの事情で到底できない
事態であることに気がついたようだ。もちろん高校の授業料無償化や子ども手当など実現で
きたものもあったのだが、総じて国民が期待したレベルにはほど遠いと評価せざるを得ない
ほど届かなかった。結果的に「鳩山内閣はこれまでの自民党・公明党による悪政を変えるべ
く取り組んでくれるだろう」という多くの国民の期待を裏切ってしまったことになる。この罪は非
常に大きい。その最たるものが辞任の契機となった普天間基地移設問題であった。これに
対する選挙公約は「最低でも県外」、つまり沖縄県以外の都道府県に米軍の基地を移設す
ることだった。それが「最低」なのだから、「最低」ではない公約は日本国外への移設という
ことになる。その「最低」として掲げた「県外」については、一応、鹿児島県の徳之島を移設
先の候補として挙げた。しかし、基地としての要件を満たす場所は限られており、徳之島は
その条件に適っていなかった。総理はそのことを調べもせずに徳之島を出したのではなか
ろうか。基地の移設は総理が移設先を決めさえすれば米軍が「はい」と言って移ってくれる
ような単純な問題ではない。そんなに容易にできたのならこれまでの自公政権下でとっくに
実現できたはずである。結果的にはその「県外」でさえ無理だったのだが、鳩山総理は国外
への移設まで公約にしていた。しかも移設先となる相手国との交渉どころか、移設先の国名
そのものも示せなかったのだから呆れるばかりである。もともと日米安全保障条約は日本と
アメリカとの間で交わされた条約である。それを考えれば基地を国外へ移設することなどで
きるはずがないのに、何を考えて「国外」と口にしたのか理解できない。基地問題について
最終的に決まった案は、名護市の辺野古にある海を埋め立てて海兵隊の基地を新設する
というものであった。これはかつて自民党・公明党による政権が掲げていた場所と同じであ
る。これでは沖縄県民に対する裏切り以外の何ものでもないと言われても弁解できまい。
できもしないことを軽々しく口にするからこういうことになるのである。鳩山首相は選挙公約
を「選挙に勝つために行なう国民へのリップサービス」にしてしまった。今夏には参議院議員
選挙が行なわれることになっている。また各党が選挙公約を口にするのだろうが、国民はも
う選挙公約そのものに対して「どうせ実行できやしない」と疑心暗鬼になっている。そう思わ
せてしまった罪は大きいと言わざるを得ない。
 第2に、連立政権そのものに無理があったことだ。鳩山首相にしろ小沢幹事長にしろ、もと
はといえば自由民主党に所属していた政治家である。つまり55年体制でいうところの「右派」
になる。しかし社民党の前身は日本社会党なのだ。当然55年体制下では「左派」になる。自
民党が与党であった当時は、日本共産党などとともに民主党・社民党も野党であった。だか
ら自民党政権を滅亡させるという点で利害が一致していたというだけに過ぎない。しかし、政
権与党となり連立関係になってからも利害が一致するだろうという読みはあまりにも甘かっ
た。日米安全保障条約の問題を考えたとき、もともと自民党と社会党だった政党が相容れる
はずがないのは自明である。今回は普天間基地の移設問題でそれが露呈した。日本社会
党はもともと安保そのものに反対の立場である。結果的に鳩山首相は移設先を辺野古に決
めてしまい福島氏に対しては閣僚を罷免させてしまった。党首が罷免されたのだから社民党
は党として連立から離脱するという動きに出るのは当然である。かくして社民党との連立は
あっけなく瓦解してしまった。鳩山政権発足時にこうなることが予測できなかったとは思えな
い。私に言わせれば最初から社民党とは連立を組むべきではなかった。数を確保すること
ばかりにとらわれてしまったために、何を議論しても与党内での意志統一を図ることがなか
なかできず、個々の閣僚は方々の講演で勝手なことを口にするようになり、政策の実行力
をも削いでしまったのだ。それでは何もならない。
 第3に、最も裏切ってはならない「政治とカネの問題」でも総理は国民を裏切ってしまった。
野党時代に相次ぐ自民党議員の「政治とカネの問題」に対して他のどの政党よりも厳しく追
及をしていたのは民主党である。だから「少なくとも民主党は政治とカネの問題だけは起こ
さないだろう」という期待を多くの国民が抱いていた。ましてや総理自身が政治資金規正法
違反に問われるとは予想すらしていなかったはずだ。しかし結果は鳩山総理も小沢幹事長
も問題を起こしていた。それだけではない。疑惑として騒がれた当初の言い訳は「私は知ら
ない。秘書がやった。その秘書はもう解任したから説明はしない。したがって責任も取らな
い」というもので、これまでの自民党議員のそれと何ら変わるところがなかった。これでは納
得できない。結局、責任だけは取らざるを得なくなって2日の辞任会見になったのだが、政
治資金規正法違反に対する説明責任は最後まで果たさないままであった。証人喚問も参考
人招致もなく政治倫理審査会に出ることもなく終わってしまったのである。民主党は「金権腐
敗のないクリーンな政党」というふれこみだったはずである。それがこの体たらくとは、いった
い何だったのだろうか。
 このように鳩山総理自身や鳩山内閣には数々の問題があって辞任することになったのだ
が、最後に、辞任会見での発言についても触れたい。総理は「国民が主役になる政治を創
るべく今日まで頑張ってきたが、次第に国民が聞く耳をもってくれなったのが残念」と発言し
た。この、「俺は尽力した。悪いのは国民だ」と言わんばかりの発言はいったい何だったの
だろうか。カネの問題にしろ、基地の移設問題にしろ、国民の期待を裏切ったのは総理であ
る。それなのにこの期に及んで神経を逆撫でするような発言をどうしてできるのか。それが
私には理解できない。せめて有権者に交わした公約を反故にしまったことに対しては、ひた
すら謙虚になって謝罪するべきであろう。

319「ネット上から個人情報を引き出すな」(5月31日)***********************************
 個人がインターネットで閲覧したサイトをはじめ、ネット上で購入した物品や検索を試みた
語彙といった情報を収集して分析するシステムについて、総務省が許可する姿勢を打ち出
した。これはDPIといわれるシステムである。これまでは個々のサイトから広告が配信され
るだけであった。しかしプロバイダーからDPI業者が個人のインターネット上での行動に関
する情報を読み取ることで、個々のパソコンユーザーの趣味・嗜好に応じた広告を配信し
ようというねらいだ。そうすれば万人に同じ広告を出すよりも、ユーザーへの宣伝効果がよ
り上がるのではないかという理屈である。
 サイトの閲覧履歴が情報として記録されるから、アダルトサイトなどいわゆる好ましくない
サイトを閲覧する行為に関しては一定の抑止効果が期待できるだろう。しかし個人の趣味・
嗜好のみならず、アクセスしたサイトによっては政治的思想や宗教、学歴や職業さらには
持病や悩み事といった個人情報をも業者に把握されることにもなる。たとえば、「ダイエット
食品」という語彙で検索をかけようものなら、翌日からはパソコンを立ち上げてインターネッ
トに接続しただけでダイエットがらみの広告が山のように届くことにもなりかねない。それで
はサーバーの向こうにいる目に見えない組織によって「自分が肥満を気にしている」という
個人情報を把握されているかのようで、気味が悪いはずだ。これではたとえインターネット
で知りたい情報があっても、うかつに検索できなくなるだろう。たとえば、うつ病・統合失調
症といった精神疾患、痔や尿道炎といった排泄物に絡んだ疾患、無精子症や子宮内膜症
といった生殖器の疾患などは、知人・友人はおろか家族・親戚にさえも知られたくない情報
である。しかし、それらの病に関する治療法や闘病記が書かれているサイトにアクセスする
と、その瞬間にこのユーザーはそういった病を患っているのではないかという情報が業者に
把握されてしまうのである。訪れるサイトによっては居住する地域や年齢・性別まで推断さ
れる恐れもある。たとえば京都市内に住んでいれば必然的に京都市内の施設にアクセス
する機会が増えるだろう。それもハローワークや税務署など、京都を訪れる観光客がアク
セスするような施設とは違う施設にアクセスするはずだから、自ずとそのパソコンユーザー
が京都市民であることを知られてしまう。それだけならともかく、たとえば京都銀行にアクセ
スすれば取引銀行が京都銀行であることまで推断されてしまう。これらのことでわかるよう
に、インターネットの利用履歴を業者が収集するということは、個々の家庭に盗聴器や盗撮
用カメラを設置してその家にの住人の行動や言動を監視するのと本質的には何ら変わらな
いのである。それだけではない。そういった個人情報を業者に把握されるということは、同
時にそこからどこへでも流出してしまう恐れがあることも覚悟しなければなるまい。特に、政
治・宗教といった思想に関してはなおさらだ。たとえば日本共産党のサイトを閲覧しただけ
でIPアドレスからユーザーが特定され、「こいつは共産党員か?」と判断されかねない。こ
れでは小林多喜二の小説『蟹工船』の時代と何ら変わらないではないか。
 総務省は「利用者が不利益を被るような事態にはならないようにするから、何の問題も生
じない」と主張するだろう。しかし新しい制度やシステムの導入当時に予測される事柄を想
定して何らかの方策を講じても、必ず悪徳業者が現れるし、制度やシステムの抜け穴を利
用した犯罪も起こるのが常だ。それでも政府はすぐには動こうとはしないから、最初の被害
者は泣き寝入りを余儀なくされる。ようやく政府が重い腰をあげて救済へ向けた施策を練る
のは、何千・何万人もの被害者が出て問題が顕在化し深刻な事態になってからである。こ
のように政府の対策が常に後手後手に回ることは、水俣病をはじめとするこれまでの数々
の事例がそうであることを物語っている。
 イギリスでは2007年、利用者に無断でDPIを試験的に導入した業者が現れ、EUに問題
視される結果となった。アメリカではその翌年にDPIを広告目的に使うために導入した業者
を連邦議会が問題視した。それどころか集団訴訟まで起きてこの業者が破産したという。そ
ういう欧米の前例もあるのに、我が国ではなぜ総務省が認可したのか。結局は業者から国
民のプライバシーを保護することよりも、広告から商品を購入させることで大企業の利益を
優遇する政策を推進したいだけのような気がしてならない。

318「大学当局の飲酒指導に一言」(5月24日)****************************************
 新年度がスタートして1ヶ月半が経過した。どこの大学でも年度当初は履修登録や新入生
に対するサークルの勧誘活動などで慌ただしいものだが、今ではすっかり落ち着いてきた。
この1ヶ月間、私は自分の勤務する大学の掲示物に注視していた。それは個々のサークル
が催す新入生歓迎のコンパに対して大学当局がどのように学生への啓発をするか、それを
確かめたかったからだ。かつて私が大学生であった当時もそうだったが、新入生歓迎コンパ
が催されるこの時期は、毎年のように救急車で搬送される学生が出た。先輩部員から酒類
の一気飲みを強要され、それが原因となって酒を飲み慣れていない学生が急性アルコール
中毒になるからだ。中にはそのまま意識が戻ることなく、文字通り「急性」の経過をたどって
容態が悪化し「急逝」する学生もいる。そのような悲劇を繰り返さないために、大学側は学生
課長名で「新入生歓迎コンパについて」という掲示物を学内に貼り出している。しかしどれを
見ても「大学生として節度ある行動を取るように」だの「一気飲みを強要しないように」といっ
た文言で「飲酒による事故の撲滅」を訴えているに過ぎない。最も肝心なこと、すなわち大学
生の全てが飲酒を法的に許されている年齢に達しているとは限らない
という視点が欠落しているのだ。
 言うまでもなく中学校を卒業して高校へ入学をするのは満15歳である。そして3年間を高
校で過ごしてから大学に入学するのだから、現役で大学受験を突破した学生は4月の時点
で満18歳である。今の時代は高校受験で失敗して浪人する人はまずいない。そして高校生
も多くは3年間で卒業していく。定時制や通信制の高校は別格だが、全日制高校で留年する
生徒は昔に比べるとはるかに少なくなっているからだ。大学受験で浪人する者は確かにいる
が、これも少子化の時代となった現代では以前より減っている。とりわけ中堅以下の大学で
は新入生の過半数が現役合格を果たしているのが実情だ。ということは新入生は無論のこ
と、学部の2年生も年度当初の時点では未成年ということになる。したがって新入生歓迎コン
パを催すにしても、アルコールを口にすることができるのは学部の3年生以上に限られるの
である。しかし、学内に張り出されている掲示物のどこを見ても、そのようなことを指摘したも
のは見あたらない。他大学についても私の教え子に聞いてみたのだが、答えは同じであっ
た。「事故のないように節度ある新歓コンパを」という指導はしているが、「現役合格をした学
部1年生と2年生の飲酒を禁止する」とはどこにも書かれていない。こういう掲示では「事故さ
え起こさなければ大学当局は未成年の飲酒を公認しているのか?」と疑われても弁解できな
いのではないだろうか。
 それだけではない。酒類の販売に対しても「大学生でも未成年者がいる」という自覚があま
りにもなさすぎる。学内の販売施設では購入者の全員が学生・院生・職員のいずれかである
(つまり一般の店舗と異なり不特定多数ではない)という安心感があるためか、客の年齢確
認に対しては近隣の商業施設以上に無頓着である。しかし酒にしろ煙草にしろ未成年者は
購入すること自体が法的に禁止されている。そして学部1年生と2年生には未成年の者も含
まれているのである。それがあたかも大学内は治外法権であるかのようになってしまってい
る。キャンパス周辺にあるコンビニなどの商業施設も、学生の酒類購入に対してはノーチェ
ックであることに驚かされた。ここでも本来なら購入希望の学生の全員に学生証の提示を求
めて年齢を確認すべきであろう。しかしコンビニの店員が確認しているのは近隣の中学生・
高校生(私の勤務する大学の近くに中学校と高校がある)か大学生かであって、後者、すな
わち一見して大学生と思われる客に対しては学生証の確認もせずに販売している。コンパ
の会場として利用される居酒屋でも同様である。大学生の団体とわかった時点で、客が注
文するままに無条件で酒類を配膳してしまっている。ここでも店舗側はコンパの参加者全員
に学生証の提示を求め、その中の誰が未成年であるかを確認し、会計を済ませて退店する
までの間は未成年の学生が酒類を口にすることのないように監視しなければならないと思う
のだが、そこまでして未成年者の飲酒をチェックし警察へ通報している店舗はない。せいぜ
い参加者の中で車を運転する人物がいるか否かを確認する程度だ。あまりうるさくチェック
すると「あそこは年齢確認がうるさい」という風評がたつ。それでは客が来なくなり営業成績
が悪化するという事情があるから店舗側としてはどうしても客を疑うようなことはしたくないと
いう心情が働く。それは理解できるが、だからといって年齢確認を怠って良いのだろうか。
 このままでは新入生歓迎コンパで急性アルコール中毒という悲惨な飲酒事故を撲滅する
ことは今後も不可能だろう。若い命が酒によって失われることのないよう、大学当局は学生
への飲酒指導を徹底し、大学生でも法的に飲酒をしてはならない年齢の者がいるという事
実を個々の学生に自覚させるべきである。昨今、非喫煙者の受動喫煙を防止する観点か
ら不特定多数の人々が出入りする施設での喫煙を全面的に禁止する動きが盛んである。
県立高校でも校舎内の喫煙エリアが撤廃され、喫煙したい職員は校門前の公道に出て一
服するようになった。これはこれで大切なことだが、だからといって煙草にばかり規制の目
が向くのでは片手落ちである。今夜煙草を吸いすぎて数日以内に学生が死ぬということは
考えられないが、今夜酒を飲み過ぎて数日以内に死ぬ学生は現実にいるのである。大学
当局は勿論のこと、学生に酒類を販売する業者も含め、関係者はこの事実に対峙ししかる
べき対応をしてもらいたい。

317「お金を借りることは恥ずべきことではないのか?」(5月16日)************************
 ある日、電車の中吊り広告で、芸能人のタモリの写真があった。私は別にタモリのファン
でも何でもないのだが、あまりにも目立つのでから、『何かいな』と思って近づいて見たら
「10万円を30日間借りた場合のお利息は1500円です。それ以上は頂きません」と宣伝
していた。広告を出しているのは消費者金融業のアコムである。この広告を見たとき、こん
なことが商売になる時代なのかと思った。
 昔は借金をすることが恥ずかしいことだった。急にお金が要ることになった場合、あるい
は返済期限の迫った借金があるのに手持ちの金がなくて返済できない場合、親戚や知人・
友人宅を回っては「どうか貸して下さい。必ず○月×日までには返しますから」と頭を下げ
てお願いするしかなかった。当然相手には不愉快な顔をされる。断られることの方が多い
だろう。仮に貸してくれるにしても、喜んで貸してくれることは決してない。「おまえは日頃か
らお金にだらしないからこういうことになるんや。ええか、今回限りやで。もう2度と貸さん
で!」とさんざん説教され怒られるのが普通だった。それでも貸してくれるのならありがた
く感謝して借りていたものだった。貨幣というものが世の中に登場して以来、妻子がいるの
にお金にだらしない夫というものはいつの時代でもいたが、昔は首が回らなくなってお金を
借り集めるようなことをしたら村人からも不道徳呼ばわりされたものである。
 ところが今はどうだろう。「どうぞお借り下さい。いくらでもお貸しします」と言わんばかりに、
街中の至る所に無人の自動貸付機が置かれてある。機械を操作するだけで借りることが
できるのだから、利用者は誰とも顔を合わせず済む。つまり親戚にも知人・友人にも「借金
をした」という事実を知らされることもない。恥ずかしい思いをすることもないし、怒られて惨
めな思いを強いられることもないのだ。しかも機械は24時間365日休まず稼働しているか
ら、いつでも借りることができる。所定の利息さえ遅滞なく支払って返済すれば、何の問題
も生じない。「またのご利用を心からお待ち申し上げます」という言葉とともに、お金を借りた
ことを歓迎されるのだ。
 「消費者金融業」という商売が成り立つ時代になってからは、人々の間から借金をするこ
とに対する羞恥心がなくなってしまった。これは人間として非常に情けないことのように思う。
いつでも気軽に借りることができるようになったため、収入に見合った買い物をし計画的に
お金を使うという、ごく当たり前のことすらできない人が増えた。それと同時に、お金をしっか
り管理できないことを道徳的に問題にする人も少なくなったように思う。一方、消費者金融
業の側も同業者との熾烈に勝たなければ生き残れない状況に置かれている。だから、あの
手この手を使って消費者がお金を借りやすい環境を作っている。今や1週間以内に返済す
れば利息0円ということを売り文句にしている業者すらあるのだ。消費者金融業というサー
ビス業が町中に進出するのもどうかと思うし、このままでは我々の「借金」に対する価値観
は麻痺してしまいかねない。少なくともお金を借りるという行為は人間として恥ずかしいこと
だという価値観だけは、人々の共有する社会常識として持ち続けるべきではなかろうか。

316「新聞は不要か」(5月 9日)****************************************************
 集合住宅の郵便受けを見ると、最近は新聞をとっている世帯が少ないことがわかる。集合
住宅の場合、古紙回収の日になると郵便受けの下に古紙の入った袋を置くことになっている
ので、その個数で新聞を定期購読している戸数がわかるのだ。昔は全戸といってもいいほど
古紙の入った袋がずらりと並んだが、今は入居戸数の半分にも満たない。それだけ新聞を
とらなくなった世帯が多いということだ。情報社会となった現代では確かに新聞の短所は山
のようにある。まず4000円近い月極購読料は家計の負担を重くするだけだ。特に不景気
の今はなおさらである。それだけの高い買い物なのにもかかわらず、紙面の半分近く以上
が広告で占められている。だから自分が必要としている情報は全体のわずかしかない。読
み終われば古紙となるからゴミでしかない。もちろん業者が古紙回収をしてくれるのだが、
月に一度なのでそれまでは古新聞を溜め置かなければならない。新聞だけが溜まるのなら
ともかく、新聞に挟まるちらしは新聞以上に膨大な量である。しかもその折り込み広告も大
部分は自分にとって不要なものである。情報の速さも新聞は他のメディアに太刀打ちできな
い。テレビのニュースを見たほうが新聞よりも早く最新の情報を入手することができる。今で
はインターネットでもニュースが配信されるから、多忙でテレビのニュース番組を見損なって
も自分の時間の空いているときにアクセスしてニュースを見ることができる。これだけ他の
メディアの利点があると、今の時代には新聞そのものの存在価値がなくなってしまったかの
ような印象を受ける。
 しかし、新聞は最新の情報を得るだけの目的ではない。ニュース以外にも大切なことがず
いぶん書かれているのである。ひとつは社説をはじめとするコラムだ。これは新聞社の論説
担当委員が書いている。他にも、ニュース記事の横に時事用語についての解説も詳しく書
かれてあることも多い。つまり事典としての機能も果たしている。これはかなり勉強になる。
健康のコーナーや教育のコーナーなど、本来なら専門書を購入しなければ得ることのでき
ない専門分野の知識も新聞で得ることができる。読者が自身の見解を投稿する欄もある。
全国のニュースとは別に自分の住む地域のニュースが載った頁もある。そして記事を切り
取って保管することもできる。テレビのニュースを録画したり、インターネットで配信された記
事を印刷したりすることよりも簡便だと思う。そして何よりも大切なことは活字を読む時間を
毎日確保することができる点だ。よほど読書を趣味としている人でない限り、毎日読書をす
る時間をきっちりとっていることは少ないからだ。せめて新聞の活字を追う習慣だけでも毎
日の生活の中に持ち続けた方が良いのではないだろうか。

    (塾長コメント: 新聞には新聞なりの、ネットにはネットなりの良さがあるので将来も両者は共
             存して欲しいですね!)

315「ストーブの設置と使用は臨機応変に」(4月18日)**********************************
 公立学校の冷房化は遅々として進まないようだが、冬期のストーブは昭和の時代からあ
る。電気のコンセントを入れて点火すると燃焼筒の下部にあるコイル状の電熱線が赤くな
り、まもなくして灯油が筒の下に流れて着火する方式だ。点火後は灯油で燃焼し、電力で
ファンを回し煙突を介して排気する。風の強い日は排気がうまくできず排煙が燃焼筒に逆
流することがあるが、それ以外は極めて安全に使うことができる。
 さて、そのストーブだが、神奈川県の公立高校では毎年12月上旬に設置され翌年の3月
上旬に撤去する。真夏に設置しておいても狭い教室では邪魔になるだけで、それこそ「夏炉
冬扇」でしかない。だから使わない季節に撤去するのは当然なのだが、12月〜3月のみ設
置というのはあまりにも杓子定規な感が否めない。4月どころか6月になっても梅雨寒の日
があるし、晩秋になると朝夕は相当に冷える日がある。特に今年は4月に入ってからも真冬
同然の気温しか上がらない日が結構あって生徒は非常に寒い思いをして授業を受けている。
教育の受益者たる児童・生徒に対して学習活動に最適な環境を提供するという観点からも、
教室のストーブぐらいはいつでも使えるようにしておくべきだろう。季節外れに寒くなることも
あるからだ。

    (塾長コメント: 私が子供の頃はダルマストーブで灯油を浸した新聞紙を種火にして石炭を燃や
             していましたね!石炭というのは燃えかすの量がすごくて最後の消火の後始末
             が大変でした。中学では、ダルマストーブの周りに弁当を置いて暖めていました。
             あ〜、ダルマストーブが懐かしい!)

314「MDレコーダーを絶滅させてよいのか」(4月11日)*********************************
 最近、ある大手家電量販店に入って愕然としたことがある。それは売り場にMDプレーヤ
ーが全く陳列されていないことだ。今は携帯電話でもパソコン経由でも音声を録音する時
代だから、MDは要らないと言われれば致し方ない。しかし、MDプレーヤーよりもさらに前
の時代に主流だったカセットテープレコーダーは今もなお数機種ほど陳列されていたので
ある。これこそとっくに絶滅してもおかしくないはずだが、おそらくデジタル化されたオーディ
オを操作することが困難な世代の方々に利用されているのであろう。また、往事に録音し
たものがすべてカセットテープだった場合、iPodなどとは全く互換性がないからカセットテ
ープレコーダーで聴くしかないという事情もある。それならばMDに関しても同じことがいえ
るはずだ。じつはMDにはMDならではの良さがあるのだ。それはかつてCDがレコードに
取って代わったときに、レコードにはCDにはない良さがあると言われたのと同じである。新
しい方式による機種が出た場合、旧来の方式の機種に対する需要がなくなるのは当然の
現象だが、だからといって「一世代前の産物」として化石扱いするのはいかがなものかと思
う。

    (塾長コメント: 私もMDの流行に乗り遅れまいと、カセット・CD・MD付きのラジオデッキを購
             入し、MDディスクも録音用に10枚くらい購入しましたが、結局MDのよさも分か
             らず、1枚だけ使っただけで最近は全くMD機能は使っていないですね!MDに
             はどんなよさがあったのか不明なままです。CDだと大きすぎるのでちょっと小さ
             いものという発想で一時期メーカーが開発したのでしょうか?今ではたくさん記
             憶媒体があるので、MDが化石化するのも運命だったのでしょうネ。)

313「年度の始まりを1月に」(4月4日)***********************************************
 「本年も1年間なにかとお世話になりました。佳いお年をお迎えください」という挨拶は12
月の下旬に、「新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます」
という挨拶は1月上旬にする。これは言うまでもなく1月1日をもって年が改まるという暦に
なっているからだが、我が国の場合はもう一つ、4月が新しい年度の始まりとして機能して
いる。入学や就職は4月で卒業や退職は3月になるのが普通だから、社会生活上は4月
が実質的な新年といえる。会社でも上半期といえば4月1日〜9月30日を、下半期は10
月1日〜3月31日を指す。学校でも4月1日に学年が始まり3月31日に終わることになっ
ており、その中を前期・後期、あるいは第1学期〜第3学期と区分し学期ごとに授業・試験
・成績評価をしている。だから、12月31日が1月1日になったところで本質的には何も変
わらない。異動があるわけでもないし、担当している部署が大幅に変わるわけでもない。
12月31日以前にしてきた業務を1月1日以降も継続するだけである。したがって「1年間
お世話になりました」は3月下旬に、「本年もよろしくお願いします」は4月上旬に言うべき
言葉ではないかと思う。「新年明けましておめでとうございます」も、無事に前年度が終了
したことを祝って4月になってから言いたい言葉だ。
 しかし、国際的には1月1日をもって年を改めているので、我が国だけ4月1日から新年
にするというわけにはいかない。そこでいっそのこと1月1日を年度の始まりにしてはどう
だろうか。すなわち「年度」というものを廃止し、社会生活も1月1日に始まり12月31日に
終わるようにするのである。そうすれば1月が文字通り新しい年のスタートとなる。上半期
は1月1日〜6月30日になり、下半期は7月1日〜12月31日になり、わかりやすくなる。
年末年始の休みをこれまでどおり設定すれば、人事異動になった場合に生じるであろう転
居その他の雑務も休日を利用できるようになるから、現状以上に余裕をもってすることが
できる。確定申告も「年度」という単位が消滅するから、1月1日〜12月31日を単位とした
申告で煩雑さがなくなる。つまり4月から勤務先や収入のスタイルが変更になることによる
手間がなくなるからだ。
 学校に関しては国際的な流れに従うべく秋期入学制度の導入を一部で検討しているよう
だが、これも1月8日に始業式、12月25日に終了式とすればよい。そうすれば大学入試・
高校入試とも11月下旬にはあらかた終わることになるから、雪の降りしきる中を入試会場
に向かう事態にはならない。古代から日本人に愛されてきた桜の咲くうららかな春の日に
入学式ができなくなるのは残念だが、1月を年度のスタートの月にした方がいろいろな点で
メリットが大きいように思う。

    (塾長コメント: 日本では「桜」の文化が定着しているので、4月入学は和の心に合致している
             と思います。)

312「相席を嫌う風潮」(3月29日)***************************************************
 地方の鉄道を利用していつも思うことがある。それは4人で向かい合わせに座るように造
られた車両の場合、一人でも先客が座っているともう他の3席に座ることを遠慮する風潮が
あることだ。私が旅行をした際にもそうであった。自分の荷物を網棚に上げて他の3席には
ちゃんと座れるようにしておいてあるのに、土地の人はなかなかそこへ座ろうとはしないの
である。この傾向は特にその土地に住む利用者でも若い世代の人ほど著しい。幼児期から
自分の個室が与えられた家庭環境に育ち、日頃から親の運転するマイカーで移動するなど
して個人主義思想が浸透した結果、見ず知らずの人と相席となることを極端に嫌うようにな
ったのではないかと思われる。そのため車内にはまだまだ空席があるにもかかわらず通路
やドア付近に立つ客が次第に増えて、その後に停車した駅から乗る人はますます乗りにくく
なっている。
 昔は「旅は道連れ」と言われ、見ず知らずの人と相席になることで意気投合したり思わぬ
情報を得たりすることを楽しんだものだ。それは航空機や新幹線による旅では決して味わ
うことのできない、各駅に停車しては土地の客を拾っていくローカル線の旅ならではの良さ
でもあった。しかし、今の時代は違う。中学生や高校生は自分の友達にさえも本心を語ろう
とはしなくなっている。ましてや旅行者などその土地の人間ではない人に対する警戒心は昔
以上に強い。現代社会は他所者による犯罪で、その土地の純朴な人が騙されて被害に遭
うケースも増えているから仕方ないのかもしれないが、それを差し引いても「知らぬ人とは関
わり合いになりたくない」、「自分に話しかけられたくない」という気持ちは非常に強いようだ。
だから彼らが先客となっているところへ自分の知り合いではない人が座ると非常に迷惑そう
な表情をする。また、他の人を座らせないように隣の座席に鞄を置く人も増えた。自分が確
保したのは一人分の座席だけのはずだが、その周囲の空間にも他人に侵入されたくないと
いう気持ちが無意識のうちにも働いているのである。
 同様のことは食堂でも見られる。外から店内を覗いて相席になりそうな混雑度だともう敬
遠してしまうのである。先客といっても4人で座って食べることができるテーブルに一人ずつ
座っているだけである。そこへ自分が入店して座ったくらいではさほど狭い思いを強いられ
るわけではない。ましてやその先客が食べ終わってしまえば、あとはそのテーブルを自分一
人で占有できる。だから相席といっても数分から10分程度という、ほんのわずかな時間でし
かない。しかしそれでも相席となることを嫌うようだ。
 昨今、現代人のコミュニケーション能力の不足が問題視されている。インターネット上では
見ず知らずの人とコミュニケーションをするくせに、面と向かって意思疎通を図ろうとする相
手は自分と気の合う仲間だけである。しかも仲間内だけで通じる言葉を使いたがる。違う世
代の人や自分とは考え方を異にする人との交流を避ける傾向がある。このような問題は一
人っ子が多くなり、たとえ兄弟姉妹がいても子どもの勉強部屋が個室として与えられるよう
になった家庭環境も大きいのだが、戸外へ出ても単独(ないしは自分の仲間内だけ)で行動
しようとする生活習慣にも問題があるのではないかと思う。列車や食堂で相席となって不特
定多数の人とも交流することでもコミュニケーション能力は自ずと培われるものである。そう
でないと彼らが社会へ出て企業人となったとき、コミュニケーション能力のなさを指摘され本
人にとっても不幸なことになる。

311「空港は98も要らない」(3月14日)**********************************************
 このたび茨城空港が開港した。これが全国で98番目の空港だという。我が国は47都道
府県からなるが、これまでになんとその2倍以上もの空港が建設されたことになる。中国や
アメリカのような大陸ならともかく、こんな狭い国土に98もの空港が必要なのだろうか。本
当に必要なのは以下の条件に該当する場合に限られると私は考える。
条件1.大都市をもつ都道府県
 ここでは東京・大阪・名古屋のいわゆる三大都市の他、札幌・仙台・福岡を加えた6都市
と定義する。これらは相当な需要が見込まれるので必要だ。
条件2.離島
 需要が少ないのだが代替の交通手段が貧弱なので致し方ない。1日に数便程度の船し
かなく本土まで2時間も3時間もかかるような状況では、それこそ孤島となってしまうからだ。
ただし、空港の施設は小型機が離着陸できさえすれば充分だ。島の人口も島への往来も
少ないのだから、双発のビーチクラフト機などで運べば良い。しかし、ヘリコプターで運べば
間に合う程度の過疎地なら離島でも空港は不要だ。ヘリポートさえあれば良いことになる。
条件3.東京から直結する新幹線の駅がない都道府県
 現時点では北海道・富山・石川・福井・鳥取・島根・佐賀・長崎・熊本・鹿児島・茨城・山梨・
三重・奈良・和歌山・香川・徳島・愛媛・高知・大分・宮崎の21道県がこれに該当する。しか
し、このうち富山・石川の両県には県庁所在地である富山・金沢に新幹線の駅が設置され
る。目下北陸新幹線の建設が長野以北で進められているからだ。開業したとき東京〜金
沢が3時間を切れば富山も金沢も条件4に該当しなくなるから小松・富山の両空港は不要
になる。なお、金沢・富山はもともと首都圏よりも関西との結びつきが強いが、大阪〜金沢
は現在でも在来線の特急利用で3時間未満で結ばれている。(大阪〜富山は3時間20分
程度を要する)
条件4.新幹線で3時間以上の所要時間がかかる地方都市
 都市間の移動の際、航空機と新幹線とではどちらが速いか?この問いの答えはアクセス
を含めたトータルでみると、3時間が境界になる。航空機の場合フライトそのものは国内の
どこへ飛んでも1時間〜2時間だが、空港までのアクセスやチェックイン〜搭乗までの所要
時間を加算しなければならない。また着陸後も到着ロビーからその都市の中心部までの所
要時間も加算することになる。そうするとフライトの前後は全国どこの空港でも、おしなべて
30分〜1時間は余分にみることになる。したがって3時間という所要時間がつねに境界線
となるのである。これにあてはめて考えると、東京から西へ行く場合は岡山、北へ行く場合
は盛岡以遠が航空機の守備範囲になる。したがって条件3に該当しなくても広島・青森など
は空港が必要である。将来九州新幹線の博多〜新八代が開通し東京〜鹿児島中央が全
通しても、東京や大阪から新幹線で3時間では結べないため、熊本・鹿児島の空港は今後
も必要だろう。逆に東京から神戸・大阪・名古屋や仙台へは新幹線利用の方が速い。上越
新幹線や長野新幹線は終点まで乗っても3時間未満なので新潟や長野も新幹線の守備範
囲になる。
条件5.1時間程度で条件1の都市に行けない府県
 大都市近郊は交通網が発達している。たとえば首都圏の場合、東京から横浜・大宮へは
30分程度で行ける。水戸でも1時間だ。関西圏でいうと奈良・和歌山は天王寺から40分、
新大阪からでも1時間未満で行ける。ましてや京都・神戸にいたっては新快速で30分もか
からない。滋賀県都の大津でも40分で行ける。中京圏で言うと岐阜は名古屋から快速利
用で18分、津も在来線の特急で1時間。静岡も新幹線で1時間しかかからない。したがっ
てこれらの府県には空港は必要ない。大都市近郊の地区で唯一の例外は甲府で、中央本
線の特急利用でも新宿まで1時間30分を要する。しかし、ここは将来リニア新幹線が建設
されることになっており山梨県内では既に着工している。したがって山梨県に空港を造る必
要もない。
 こうして考えてみると、本当に必要不可欠な空港は限られている。大阪の伊丹に空港があ
るのになぜ隣の神戸にも建設したのか。新幹線が開通して東京から3時間もかからずに行
けるようになったのに、なぜ福島・山形・新潟に空港が今なお存続しているのか。頻繁に新
幹線が走っていて名古屋へも東京へも短時間で出られるのになぜ新たに静岡に空港を造
ったのか。どれも私には理解に苦しむ。今回の茨城空港にしてもそうである。東京へも1時
間程度だし、隣の千葉県には成田空港がある。国際線にも国内線にも困らないはずだ。そ
れにもかかわらず建設された。しかし航空各社が就航を見合わせたので、ソウルと神戸の
2路線しか就航が決まっていない。茨城県民が一日にどれだけソウルと神戸へ行くというの
だろうか?結局、一日に何便も離発着がなく利用者も増えないまま施設全体が遊休化し朽
ち果てていくことになるのは目に見えている。そうなったとき空港の運営維持に必要な資金
は我々の血税で賄われることになるのである。それも年間にして億単位の金額だ。これで
はいったい何のために空港を造ったのかわからない。県民の需要とは関係なく、空港利権
にしがみついている一部の業者や天下り希望の官僚のエゴでしかないと私は思う。全国98
の空港のうち黒字経営になっているのは一部だけで大半は赤字であることが、需要を無視
して建設してきたことを如実に物語っているからだ。地元の人々が頼みもしないのに勝手に
空港を建設し、赤字になったからといってその尻拭いを国民がさせられるのではたまっもの
ではない。

310「卒業式の日程に一言」(3月7日)************************************************
 3月といえば卒業シーズン。小・中・高校、さらには大学・専門学校を問わず、全国どこの
学校でも卒業式が挙行される。ただ、卒業式を月間行事予定に入れる場合、3月のいつが
適しているかは地域や校種により問題が生じる場合がある。関東地方の高校の場合、卒業
式を3月上旬に設定している学校が多い。しかし私はあまり賛成できない。以下に挙げる問
題があるからである。
 第1に、気候の問題がある。九州・四国地方ならともかく、関東地方では3月上旬でも雪が
降る。一部の私学のように冷暖房完備の、市民ホール顔負けの施設で卒業式を挙行する
のならともかく、公立の学校(小・中・高校すべて含む)では何の空調設備もない体育館で行
なわれる。冷え込んだ曇天の日に体育館で1時間余りの式に臨むのは身にこたえるものだ。
その証拠に、式が終わって卒業生・来賓・保護者・在校生の順に式場をあとにすると、必ず
といってよいほど式場に近い女子トイレには行列ができる。それだけ寒い思いをさせている
ことになるのだ。寒さを緩和すべく暖房機器を体育館に持ち込んでいることも多いが、館内
の容積がありすぎるので全体を暖めるのは到底不可能だ。それに体育館は通常の建築物
よりも天井が非常に高い。しかも暖気は下から上へ集まる性質があるから、いくら暖房運転
しても足下は暖まらない。暖房機器によっては運転音がうるさかったり異様な臭気を発した
りするものもある。そんな代物に予算を費やしてまで暖めるくらいなら、暖かくなってから卒
業式を挙行した方がはるかに節税に貢献できる。
 第2に、3月上旬では進路未定のまま卒業式を迎えてしまう問題がある。これはいわゆる
進学校ほどそうなる恐れが高い。理由は国公立大学の受験者がいるからだ。彼らは1月中
旬に行なわれた大学入試センター試験の自己採点後に出願した各大学を受験しているわ
けだが、その2次試験の合格発表前に式を迎えることになる。式では学校長以下、PTA会
長・来賓代表・祝電披露に至るまで幾度となく「ご卒業おめでとうございます」という言葉をか
けられるわけだが、「私はまだ進路未定だから、『おめでとう』と言われても嬉しい気持ちが
しない」と呟いていた生徒がいた。中には卒業式によって学校から追い出されてしまい学校
の職員に見捨てられたように感じる生徒もいる。それでは卒業式を迎える生徒も可哀想だ。
 第3に、3月上旬では在校生の試験が間近に迫っていることになる。この時期に行なわれ
る定期考査は2期制の高校の場合は後期期末考査、3期制の場合は学年末考査だが、ど
ちらにしても同じ時期に行なわれる。試験問題の作成が佳境を迎え、出題ミスや試験問題
原稿の管理に最も細心の注意を払わなければならない時期である。卒業式の日は式後に
卒業生とゆっくり思い出に浸ったりPTAの方々と歓談したりと、この日にしかできないことを
楽しみたいのに、こんな慌ただしい時期ではそれもできない。
 結論として卒業式は3月下旬が妥当ではなかろうか。多くの高校では3月25日に終業式
となるから、その1〜3日前あたりに挙行すれば良い。それなら寒さもだいぶ和らいでいるし、
暖房のない(あっても式場全体には効かない)体育館で挙行しても問題はない。卒業生にし
ても雪が降ってもおかしくないような寒い日ではなく、桜の咲き始めた頃になって式に臨む
方が春にふさわしいのではなかろうか。その頃なら国公立大学へ進学する卒業生にしても、
後期日程の受験生は別として、大半が進路が確定して式を迎えることができる。そして在校
生の試験も終わって成績も確定し、進級判定会議も済んでいる。職員の業務の繁閑を考え
れば、後期期末(学年末)試験の直近よりものんびりできると思う。

    (塾長コメント: 進学校だと進路が未確定なときを選んで卒業式をやっているかも...。もし志
             望校に不合格だった場合卒業式に出にくいのでは?また、学年末は試験前より
             も試験後の成績処理が大変では?3月中旬には新入生受け入れ準備が始まる
             ので、3月上旬に卒業式を置くのは自然の流れだろう。)

     菅ちゃんからの返信です.....
      最後の段落にある通り卒業式は3月下旬、それも終業式の1〜3日前での挙行
     を提案しました。したがって試験後とはいえ成績処理や進級判定会議は済んでい
     ると思われる時期(判定会議において保留ないし追認指導の対象となった一部の
     生徒は除く)になりますから、少なくともこの点に関しては問題ないのではないでし
     ょうか。

309「入試に出題する問題文に一言」(2月28日)***************************************
 今月18日に神奈川県公立高校の後期選抜試験が行なわれた。国語・社会・数学・理科・
外国語の5教科の学力検査を課されるもので、国語の入学試験の場合は漢字の読み書き
と語句の用法に関する設問の他に現代文が2題(内訳は評論と小説が各1題)、古文が1
題出題される。原則として出典は原文のまま掲載するのだが、それでは理解できないと推
断される語句に対しては適宜注釈が付けられたり、あるいは表記を改変したりする。受験
生の全員に注釈が必要な場合は問題ないのだが、一部の受験生には注釈の必要性がな
い語彙が登場するケースがある。今回の小説で出題された問題文がそうであった。出典は
風野潮『モデラートで行こう♪』で、一部表記を改めた上で出題されている。以下がその問
題文の前半部分である。
 高校一年生の「私」(「綾香」)は、現在、吹奏楽部でクラリネットパートを担当している。入
部直後は同じ学年の女子四人で行動することが多かったが、それぞれ別のパートを担当
することが決まってからは、話す時間が少なくなってしまった。また、自分以外の三人は校
内の寮に入っているので一緒に帰ることもできず、寂しく思っていた。
「それでは今日もお疲れ様でした。」
「どうもありがとうございましたー。」
 終わりのあいさつのあと、各自楽器を片付けて帰り支度をする。クラリネットは分解して中
を拭いたりしなきゃならないので、しまうのに時間がかかる。それで、いつもみんな私に声
をかけて先に帰っていく。
「お疲れさん、綾香。」
「ほいたら、私ら先に帰るがね。」
 今日も全然みんなと話せなくてへこんでたんだけれど、[    ]笑顔で答えた。
「ほんなら、また明日ね。」
 音楽室から出て、寮の方へ三人仲良さそうに歩いていくのが、窓のはしっこをよぎる。
はぁっとタメ息ついてから気を取り直して急いで楽器を片付けた。
 カバンと楽器ケースを持って校門を出たところで、後ろから肩を叩かれた。
「綾香ちゃん、ちょっと待って。一緒に帰らへん?」
そう言って笑って立っていたのは、パーカッション二年の藤原ノリコ先輩だ。走ってきたのか
息が切れている。パーカスは大きな楽器を楽器倉庫に入れたりしなきゃならないので、練習
する曲目によっては片付けにすごく時間がかかる。だから、今まであまり一緒の時間に帰っ
たことがなかったんだ、と思いあたった。私がパーカスの人たちを待っていれば今までだって
ノリコ先輩と帰ることもできたのに、自分のことしか考えてなかったから気付かなかったんだ。
 校門からのゆるい坂道を下りながら、ノリコ先輩が言った。
「綾香ちゃん、いっつも一人で帰ってたら寂しいんちゃう。」
「え、いや、あ……はい。」
 そう答えたとき、私はなんだか泣きそうになってしまった。実際、寂しくてしかたなかったの
だけれど、こうして口に出してみると、余計に自分がみじめに感じてしまって。
 こんなこと、平気で尋ねてくるノリコ先輩の無頓着さが、たまらなく嫌に思えた。
「綾香ちゃんの気持ち、わかるわぁ、うち。」
 うんうん、うなずきながらノリコ先輩が言った。
 何言うてんの。先輩たちの学年は女子の自宅生は奈緒先輩と二人いてるくせに。
 私はちょっとムッとしてノリコ先輩をにらんだ。
だけど、先輩はそれには全然気付かない様子で、遠くを見るような目をしながら話し出した。
「うちも最初の頃ずーっと、誰も話し相手なく一人で帰ってたもんなぁ。
真琴と恵美は寮生やし、奈緒は学校のまん前が自宅やったさかいに。」
「あっ。」
 うっかりしてた。奈緒先輩って寮生とほとんど変わらないくらい、家が学校と近かったんだ。
「けどまあ、うちはこんな性格やさかい、男の先輩らの中にもすぐ溶け込めたからよかった
んやけど……。綾香ちゃんなかなかそれも難しそうやし、うち心配やねん。もし良かったら、
これからも一緒に帰れるよう、待っててくれたらうれしいんやけど、あかんかな?」
 つぶらな目を細めた人なつっこい笑顔で、私の顔をのぞきこんでくる。

 神奈川県公立高校の入学試験に出題する文章として考えた場合、問題点が2点ほどある。
いずれも受験生にとってわずかな部分ではあるが無形の差が出る部分である。一つは吹奏
楽部の生徒ならすぐにわかってしまう語彙が使われていることである。具体的には「パーカッ
ション」「パーカス」という語彙である。もちろんこの2語には問題文の後に次の注釈が付され
ていた。
パーカッション=ドラムやシンバルなど打楽器の総称。ここではそれを担当するパート。
          「パーカス」はその略。

 吹奏楽部とは無縁の生活を送ってきた大半の受験生には「パーカッション」と言われても
わからない。だから問題文の後に書かれた注釈にも目を向けなければならない。しかし在
籍する中学校で吹奏楽部に所属していた受験生にとっては注釈を読むまでもなくわかるの
である。つまり、この時点で吹奏楽部に所属していたか否かで注釈を読む時間の要不要が
分かれることになる。限られた時間内で問題文を読み設問に対して解答するという作業を
遂行する上で、意味不明の語句にぶち当たり注釈に目を転じることでその語句を理解する
プロセスを挟むのと挟まないのとでは、やはり不公平な点があると言わざるを得ない。ちな
みに出典となった作品の題名『モデラートで行こう♪』にしてもそうである。「モデラート」も楽
曲を演奏する際のテンポを表す専門用語なので、吹奏楽部や合唱部など音楽に携わった
ことのある受験生にしかわからない。今回の入試には「モデラート」には注釈が付されてい
なかった。しかし設問によっては作品名が問題文の読解にも影響を与える恐れがある。入
試の問題として出題する以上は、作品名に使われる語彙にも神経を遣わなければならない。
 もう一つの問題点は方言が使われていることだ。それも受験生の全員が解読不可能な方
言なら注釈をつけることで解決するから問題はなくなるのだが、一読してわかるように上記
に使われている方言は関西弁である。関西弁の何が問題になるかというと、関西弁がすぐ
わかる受験生とそうでない受験生とが出てしまうことである。理由は首都圏と関西圏とは他
地域以上に人口移動が激しく相互に交流があるからである。関西地方に生まれ育って中学
時代に神奈川県に転居した受験生は言うに及ばず、たとえ神奈川県生まれで神奈川県育
ちの場合でも、親族や知人に関西出身者がいてその方言を聞いて育った人にとっては関西
弁で表記されてもすぐにわかる。しかし、その一方で全く関西とは関わりのない受験生も少
なからずいる。彼らにとっては関西弁で表記されるとわかりづらいものがある。特に「や」と
「さかいに」は他の語彙と誤読する恐れもある。具体的には次の一文で使われている。
 真琴と恵美は寮生やし、奈緒は学校のまん前が自宅やったさかいに。
標準語で表現すれば「や」は断定の助動詞の「だ」、「さかい」は理由を表す助詞「から」に
なる。だが、「やった」と書かれると「物事を実行する」意の「やる」という動詞にも解釈され
る恐れもある。「さかい」も「境界」を意味する「さかい」という名詞がある。
 ほんの些細なことではあるが、本人の国語に対する学習態度とは無関係の部分で、受
験生によってすぐわかる語彙となかなかわからない語彙が生じてしまうのは好ましくない
のではないか。それが、今回の問題文を読んだ私の率直な感想である。

    (塾長コメント: 擬似関西人が関西弁を話すようなレベルなので無問題だと思います。また、モ
             デラートも普通に中学校の音楽の時間で学ぶ楽典の基礎知識なので既知として
             よい範疇だと思います。)

     菅ちゃんからの返信です.....
      全国の方言の中でも関西弁は接する機会の最も多い方言であることは確かです
     が、だからといって「無問題」とするのはやや早計かと思われます。理由は関西弁
     を音声として聴くのと表記された文章を読むのとでは決定的な差があるからです。
     音声の場合は抑揚によって識別できます。たとえば、「ゲームやった」と言われた
     場合に「ゲームをプレイした」という意味なのか「ゲームだった」という意味なのかは、
     話の流れを把握しなくてもイントネーションでわかるわけです。しかし、表記されたも
     のを黙読する入試の現場では抑揚が全くわかりません。しかも限られた時間内に正
     確に読み取る能力を求められますので、同じ「関西弁が使われた文章を読む作業」
     でも書店で立ち読みしているのと受検とでは本人の精神状態がまるで違います。で
     すから無形の差異があるのではないかというのが私の見解です。もう一つの「モデ
     ラート」についてですが、アチーブメントテストで音楽も出題されていた昔の神奈川県
     ならともかく、音楽という教科が受験教科と無縁になった現在では、たとえかつて学
     校教育で習っていても、受検の時点では大多数の生徒が忘れていると思われます。

308「トヨタのリコール問題を考える」(2月21日)***************************************
 既に報じられているとおり、今月9日、トヨタはハイブリッド車「ブリウス」をはじめとする4車
種22万台についてリコールを国土交通省に届け出た。これはブレーキ制御システムの一
部を修正しブレーキが瞬間的に効かなくなる現象に対処するものである。かねてからこの問
題についてはユーザーから苦情が寄せられていた。その多くは滑りやすい路面を低速で走
行しているとブレーキが1秒程度効かなくなるというものであった。最初は「効いていないよう
な感じがする」といったものであったが、実際には制動距離が伸びていることがわかった。も
ちろんそのまま踏み続けていればブレーキはかかるのだが、たとえ1秒とはいえ20km/h
走行時でも5mは進んでしまうから、ドライバーの意図する位置に停車することができなくな
る。そこでリコールとなったものである。今回はこの問題について私見を述べたい。
 第1に、販売店に出荷する前の時点で問題を発見できなかったのかということだ。メーカー
は開発したクルマの試運転をあらゆる走行条件のもとで繰り返し、その安全性ついて検証し
なければならないことは言うまでもない。たとえ納車の段階では問題なくても、その後1万km
2万kmと走り込んでいくうちにクルマの状況も刻々と変化するから、経年劣化に対する安全
性も検証し続けなければならない。しかし今回指摘されたプリウスは2010年モデルであるか
ら、どのユーザーも使い始めてからさほど日時が経過していないことになる。だから現時点で
苦情が寄せられるくらいなら、出荷前のテスト走行で発見できたはずである。もしブレーキが
効かないことが予見していたにもかかわらず販売することを優先していたとしたら、これは企
業倫理にもとる重大かつ悪質な行為であると言わざるを得ない。
 第2に、苦情に対するトヨタの対応が遅いことだ。トヨタがリコールを届け出たのは今月の9
日だが、同じ型のプリウスが出荷されたアメリカでは昨年の後半から今年1月にかけてブレ
ーキに関する苦情が多発し、今月3日の時点で既に100件を超えていたのである。アメリカ
の高速道路交通安全局によると先月までにブレーキが効かなかったことによる追突事故が
4件報告され、そのうち2件はドライバーも負傷したという。この時点で我が国での苦情件数
はわずか2件にとどまっていた。そのためであろうか、トヨタの広報部ではリコールについて
は「現時点ではコメントする段階にない」として退けていた。しかし、その後も苦情は寄せられ
てはいた。それでもトヨタはあくまでもブレーキの欠陥性を否定し、サービスキャンペーン(自
主回収)で対応するつもりであった。無償修理することに関してはリコールと同様だが、サー
ビスキャンペーンなら国土交通省にも届け出る必要もないし、「ブリウスは欠陥車である」と
いうイメージを持たれずに済むからである。しかしユーザーの不安は日増しに増大するばか
りであった。それだけではない。これまでにもトヨタはアメリカでフロアマットやアクセルペダル
をめぐる大量のリコールを抱えており、10日には米議会で公聴会が開かれることになってい
た。今回新たに指摘されたブレーキの問題についてリコールを届け出たのはアメリカ側に「ト
ヨタ車は安全性に対する姿勢がいい加減だ」という心証を持たれないためになされた措置で
はないかと言われているが、公聴会の前日である9日になってようやく届け出たということは、
欠陥をひた隠しにし続けて最後の最後まで悪あがきをしていたと思われても致し方ない。
 最後に、クルマの安全性に対するメーカーの姿勢についても言及したい。今回の問題を受
けて、トヨタでは「アクセルよりもブレーキを優先させる装置を今後生産する全車種に取り付
ける」と発表した。これはブレーキが踏まれた場合、アクセルがどんな状態であっても解除し
非常停止するシステムである。これによりフロアマットにアクセルがひっかかったために暴走
した場合でも、クルマを停めることができるという。しかし、そんなことは私に言わせれば当た
り前である。むしろ今頃になってブレーキを優先することを考え出したのかと思うとぞっとする。
保安装置というものはたとえ操縦者が発狂して前代未聞の操作をしても安全に動作しなけれ
ばならない。たとえば鉄道の場合、信号機から信号機の間には1本の列車しか進入できない
ようになっている。後続の列車の運転士が突然気が狂って力行(クルマで言うとアクセルを踏
むこと)の操作をしても、ATSやATCなど保安装置が作動して所定の速度まで自動的に落ち
るようになっている。そしてこれまでは前方の列車への追突に対する安全性しか配慮してい
なかったが、急カーブにさしかかる手前でも所定の速度に下がるようにATS等のシステムを
追設した。これは兵庫県尼崎市で起きたJR福知山線の脱線事故を教訓にしたのである。し
かしクルマに関してはそういうシステムを採り入れようという呼びかけすらない。たとえば前方
のクルマとの車間距離が一定以上に短くなったら機械がそれを関知し、自動的にブレーキが
かかっても良さそうなものだ。しかしそういうシステムも導入されないから追突事故も後を絶
たない。同様のことは急カーブや急な下り坂に対しても青天井である。カーナビによってどこ
に急カーブや急坂があるかは事前に情報を受けることでクルマの側にはわかるのだから、
せめて抑速ブレーキぐらいは自動的にかかるようにすべきであろう。もっと言えば前方の赤
信号に対してアクセルを踏んでもブレーキがかかることもない。だから信号無視をしようと思
えばいくらでもできる。相次ぐ飲酒運転による悪質な事故を受けてアルコールを関知したら
発進できないシステムも考案されたが、現車には全くといってよいほど普及していない。シ
ートベルトやチャイルドシートにしても、正しく装着していなければ発進できないようにすべき
であろう。これらはメーカーを問わず公道を走行する全ての車両に採り入れるべき最低限の
安全装置ではないかと私は考える。しかし世にクルマという乗り物が登場してから、これだけ
長い歴史があるにもかかわらず、フロアマットにアクセルがひっかかるトラブルでさえ今にな
って対処しているのが、安全性に対する取り組みの実態である。あとは衝突時のエアバッグ
程度でしかない。そんな有様だから、我が国の交通事故は今後も減ることは期待できない
だろう。

307「夫婦別姓に即した税制を」(2月15日)*******************************************
 夫婦別姓が議論されてから久しくなった。最近では事実婚といって、夫婦でありながら別姓
のまま生活し役所に婚姻届も出さない例が珍しくなくなった。特に妻が高収入の場合や社会
的に著名な場合で改氏すると社会的に不利になる恐れがある場合は、婚姻後も別姓を選択
する人が少なくない。私も夫婦別姓には賛成である。男女雇用機会均等法によって、女性も
社会で働くのが当然となってきた現代において、女性だけが結婚によって姓が変わり(実際
には婚姻時に夫が妻の姓に改氏することもできるがその例は稀)、離婚によって旧姓に戻る
のは、「結婚」「離婚」という個人情報が職場や取引先などに知れ渡ってしまう点で問題だと
考えるからである。また親が離婚すると子どもは母親と暮らし、元の夫から養育費を受け取
るケースが多い。しかし、それによって子どもは親の離婚を通学先の学校中に知られること
になってしまう。場合によっては、それがいじめの原因になることもある。子どもには何の罪
もないだけに理不尽な話だ。だから女性の収入や社会的地位がどうであれ、婚姻後も夫婦
は別姓のままで良いと私は思う。子どもの場合は最初から母親の姓にしておいた方が良い
だろう。そうすれば後日離婚して妻が子どもと一緒に生活する事態になっても子どもの姓は
変わらず、したがって「片親しかいなくなった」という本人の個人情報を周囲に知られずに済
むからだ。
 夫婦別姓を支持する世論の高まりを受けて、国も超党派で民法の改正案を国会に提出す
るなど真剣に議論するようにはなった。しかし過去に提出された原案はいずれも廃案にされ
ており、夫婦別姓を骨子とした改正法案はいまだに実現されていない。したがって、現在で
も依然として夫婦いずれか一方の氏を選択した上で夫婦同氏とすることを規定している。結
婚しても別姓であり続けるのは当事者の自由だが、それでは役所に婚姻届を出すことがで
きない。そのため、事実婚では確定申告の際にいろいろな面で不利になるのが問題だ。具
体的には、まず配偶者控除や寡婦控除が適用されない。次に医療費も不利になる。昨年は
新型インフルエンザが大流行し、一家で感染・発病してしまい医療費のかかった世帯も多い
と思われるが、事実婚の場合は夫婦の医療費を合算して還付申告することはできない。で
きるのは「同一生計の親族」と認められた親子の医療費だけだ。さらには法律婚ならば受け
ることができる相続税の軽減措置も適用外である。事実婚では妻はあくまでも「内縁の妻」
でしかなく「夫の配偶者」とは見なされないから、婚姻していれば適用される制度の恩恵を
享受することはできないままである。
 我が国では、夫は妻子を養う働き手となり妻は家事と育児に専念する時代が続いた。つ
まり男女とも生き方が画一的だったのだ。しかし現代は違う。女性も男性と同等に働くよう
になったため経済力もついて社会的地位も上がっている。一方、男性にも育児休暇を認め
るなど、生き方や働き方は男女ともに多様化してきた。現に、夫婦別姓を認める人の割合
も世論調査の回数を追うごとに増えている。特に婚姻前からの仕事を継続する際に改氏で
何らかの不便があると感じる人は06年の調査で46.3%と半数近くに達し、5年前に比べ
5%も上がっている。それなのに民法は改正されず、税制も旧態依然として法律婚のみを
夫婦として認定している。これでは夫婦別姓という生き方を認めたことにはならない。法律
婚とともに事実婚も婚姻として扱われるように民法を改正できれば最も良い。だが、それが
できないのならばせめて事実婚を選択したことによって法律婚と比して不公平が生じないよ
うな税制に改めるべきである。

306「公立高校入試の合否も個人情報」(2月7日)**************************************
 先月25日26日の両日に神奈川県立高校の前期選抜試験が行なわれ、今月の1日に合
格発表が行なわれた。毎年思うのは合否の発表方法だ。個人情報を大切に扱うことが声高
に叫ばれている昨今、「これで問題はないのだろうか」と思わずにはいられない。
 最大の問題は「合否」という受検生の個人情報が周囲にまるわかりになってしまうことであ
る。現在の方法は自分が受検した高校で合格発表が行なわれ、受検生はその場で自分の
受検番号と照合して合否を確認してもらうことになっている。そして、合格した者だけが事務
室へ行き、入学手続きの書類が入った封筒を受け取ることになっている。その封筒には「合
格おめでとうございます」とか「合格した受験者のみなさんへ」などと大書されている。したが
って、合格発表を見に行った帰り道はその封筒を持っているか否かで同じ中学校の仲間に
も合否がわかってしまうのである。学校の定期試験の得点やある学期の成績評価が他の生
徒に漏洩しただけでも、個人情報の漏洩という事故として大騒ぎになるご時世である。それ
なのに他の生徒にも合否を知られてしまう方法で入試の合格発表を行なって良いのだろう
か。
 芸能プロダクションがときどき行なっているタレントのオーディシヨンのように合格する生徒
の方が珍しい入試なら、それでも良いかもしれない。古い話で恐縮だが、旧制高校の入試
では不合格になる生徒の方が圧倒的に多かった。合格発表の当日は不合格になった生徒
を乗せるための臨時電車が最寄り駅で待機していたくらいである。自分も不合格だが友達
のみんなも不合格になっているのが普通であった。そういう状況下では群集心理が働く。
「受からなかったのは自分だけではない。みんな落ちているではないか」と開き直ることが
できる。だから、合格できなくても悲観することはなかった。しかし現代の公立高校の入試
は違う。地区別に高校が振り分けられ、同一地区内の高校でも偏差値による序列化がなさ
れている。そして生徒に無謀な受検をさせないよう、各中学校では事前に進路指導をして出
願させている。そのおかげで、入試当日の受検者数が合格者数の2倍を超えていることは
ほとんどない。つまり出願した生徒の過半数は合格ラインに達しているのである。そういう状
況だからこそ、なおさら合格できなかったことに対する本人の衝撃は計り知れないものがあ
る。合格発表を公開の場で行なっているのは今も昔も同じだが、一部の生徒だけが合格す
る入試と大多数の生徒が合格する入試とでは不合格になったときの心情は天と地ほどの差
があるのだ。
 合格であれ不合格であれ、入試の結果は受検生の個人情報である。本来ならば出願時に
切手を貼付した封書を提出させて、合否の通知を封書にし本人宛に郵送するべきであろう。
あるいは中学校に当該受検生の合否情報と合格者への入学手続き書類を一括して郵送し、
クラスの担任が生徒を一人ひとり呼び出して通知すべきである。圧倒的多数が合格できる入
試であるからこそ、そのくらいの配慮は必要だろう。いくら大多数が合格できる入試だからと
いっても「不合格になったんはあんたの努力不足なんやから自業自得や!」と片付けてしま
うことはできまい。当日の試験には運不運もあるからだ。たかだか1.2倍程度の競争倍率
しかない入試の合格発表で、入学手続きの書類が入った封筒を手に周りの生徒が喜んでい
るのに自分だけは受け取ることができず、合格した同級生と一緒にすごすごと高校をあとに
するのでは、あまりにも可哀想である。

305「数学もっと易しく」(1月31日)***************************************************
 私が小学生だった当時、円の面積の公式は「半径×半径×3.14」と教わった。不確か
ではあるが、小数の計算は小学3年生に習った記憶があるから、円の面積もたぶん3年生
か4年生だったのだろう。それが今の小学校では円の面積は「半径×半径×3」と教えるよ
うになった。円周率を3.14から3に変更したのは小数の計算が不得手な児童が多くなっ
たためだとか聞いた覚えがある。円周率を3にしてしまえば簡単に面積を求めることができ
るようになるから、小数の苦手な児童にとっては正解を出すことができて先生に褒められる
機会が増えるだろう。そうすれば算数が嫌いな子どもを減らすことができるかもしれない。私
も数学以前の算数の頃からもう苦手教科だったので、この話を聞いたとき、『自分も円周率
は3と教わりたかったなぁ』というのが正直な感想だ。
 算数嫌い・数学嫌いの子を減らすのが目的ならば、いっそのこと中学や高校でも円周率を
3にしてしまえば良い。私が習った当時は中学に進学してからは3.14からπという概念の
つかみづらい記号に変わった。しかし、もし3のままだったら球の表面積は「12×半径の2
乗」、球の体積は「4×半径の3乗」になる。全てが自然数で片付くし、πという意味不明の
記号が入らないから面積や体積がどの程度の大きさなのかをイメージしやすい利点がある。
πだけではない。無理数をなくすのも数学嫌いを減らすにはうってつけの手だ。たとえば直
角二等辺三角形の場合、斜辺が√2、他の2辺が1なので、よく数学の先生はこれを「1:1
:√2」と教える。しかし、これを1:1:1.4と教えるのだ。そうすれば√2よりもわかりやすく
なる。「斜辺は他の2辺の1.4倍だ」と言われれば長さをイメージしやすくなるからだ。正三
角形を半分にした直角三角形の場合、3辺の比を先生は「1:2:√3」と教えていることが多
い。私もそのように暗記させられた記憶がある。しかしこれも誤解の元だ。そう教えると生徒
は斜辺が√3だと勘違いするからだ。「1:2:√3」と言わずに「1:√3:2」と教えれば斜辺が
2と思うようになるかもしれないが、それでも「わかりにくい」「覚えづらい」と訴える生徒が出
そうな気がする。それは√3が2よりも小さい数であることが即断できないことに起因するの
ではなかろうか。そこで「1:1.7:2」と教える。もっというならば小数もやめて「10:17:20」
と教えればさらに簡単になる。
 無理数を扱わないと、どんな2次方程式の解でもわかりやすくなる。たとえば、2次方程式
ax2−bx−c=0 の式において、a=2、b=−3、c=−4の場合、解の公式にあてはめて
計算すると、{3±√41}/4 になる。しかし√2を1.4と教えるのと同様に√41を6.4と教
えておけば、分子は9.4と−3.4とになる。分母が4だからそれぞれ5倍すれば、この方程
式の解は47/20と−17/2とになる。こうすれば、少なくとも{3±√41}/4よりはわかりや
すい数だろう。ただ、47/20や−17/20を x に代入しても左辺と右辺は等しくはならない
が……。ちなみに無理数を指導しなければ解の公式において√の中が負の数になることも
考えられないから、虚数を扱う必要もなくなる。たとえば2次方程式ax2−bx−c=0におい
て、a、b、c ともに1の場合、解は{−1±√3i}/2になるが、√3は1.7と教えておくのだ
から分子の部分は−4.7あるいは0.7である。したがって解は−47/20と7/20だ。
 円周率を3としたように、簡単にしようと思えばいくらでもできる。しかし本当にそれで良い
のだろうかという声も聞かれる。基礎・基本を重視するためなのか理数離れを食い止める
ためなのかはわからないが、解けない児童・生徒が多くなったきたからといって彼らに迎合
するようなことをするとますます学力低下を招くと指摘する人もいる。だが最近では大学生、
それも理系の大学でさえ分数の四則計算が満足にできない学生がいるというのも現実だ。
小学校4年生で習っているはずの分数がそこから8年以上経っていても理解できていない
ことになる。私もさすがに理系の大学生で分数の計算もできないと聞いたときは半信半疑
だった。しかし大学に勤務するようになってから現実にそういう学生がいることを知った。典
型的な文系の私でさえ分数の四則計算程度はできるのだから、このことを知って愕然とし
た。そこまで深刻な状況なのだ。そうなると中学や高校で√やsinθなどを扱っている場合
ではあるまい。どんなに易しくしてでも、児童・生徒のみんなが理解できるような内容に改め
ざるを得ないのではなかろうか。円周率を3にしたのは決して良いことだとは思わない。や
むを得ない選択だったのではないかと思う。

    (塾長コメント: 面積の概念が小4くらいなので、円の面積はその後の小5くらいではなかった
             でしょうか?円周率については文科省は一貫して「3.14」ですが、概算で「3」
             でもいいよということが一人歩きしてしまったみたいですね。「円周率=3」にした
             ら数学が壊れてしまいます!また、円周率や無理数など概数で計算することを
             提案されていますが、賛成しかねます。概数はあくまでも概数で、真の値にはな
             れません。正確な値が求められることに数学の魅力を感じる方が多いのではな
             いでしょうか?)

304「ロードレースの実況中継に一言」(1月24日)**************************************
 毎年正月2日〜3日の箱根駅伝をはじめ、冬になるとマラソンや駅伝が全国各地で催され、
実況中継される。その映像を見ていつも思うのは、もう少し排気ガスのない環境を選手に提
供してあげることはできないのかということだ。
 第1に、レースやその実況中継に使われる車両数があまりにも多すぎることだ。まず先導
の白バイがコースの左右に一台ずつ、そして撮影機材を積み込んだ中継車、さらには監察
や救護用の車両などが走る。これら何台もの車両が連なるようにして選手の速度にあわせ
て走ることになる。選手は走っている間、これらの車両から間断なく出される排気ガスをずっ
と吸わされているのである。選手の走る速度に合わせているから、20km/hにも達しない
ような低速である。しかしだからといって排気ガスはほとんど出ていないと考えてはいけない。
むしろ現実は逆である。排気ガスを全く出さない電気自動車にするか、そうでなければ移動
を要する中継はヘリコプターから望遠レンズを使った方式にし、地上には先導の白バイと救
護用の車両以外は一切走らせないようにすることである。
 第2に、ロードレースに使われるコースが国道や県道などの主要道であるのも問題だ。主
要道であるから、長時間に亘って交通規制することができない。だからレース中であっても
選手の進行方向とは反対側に向かう車線では通常通り車両が走っている。当然それらの
車両も停止・発進・加速を繰り返すわけで、排気ガスを撒き散らしている。そこでコースその
ものを変更する必要がある。たとえ上下線とも交通規制をして一般車両を締め出しても、さ
ほど影響を与えないような裏道をコースに選ぶのである。箱根駅伝でも東京の大手町から
小田原中継所までなら裏道はいくらでもある。そこから芦ノ湖湖畔の往路ゴール地点までは
道路が限られているが、湯本から大平台・小涌谷を経由する現在の国道1号線ルートよりも
畑宿を経由する旧街道の方が交通量は少ない。また旧街道の方はほぼ全線に亘って箱根
新道が平行しているので、レース中は旧街道を上下線とも通行止めにしても良いと思う。ち
なみにコースを旧街道に変更すれば宮ノ下〜小涌谷にある踏切の問題(選手の通過にあわ
せて列車が一時停止するので列車のダイヤが乱れる)も解消される。
 ロードレースは長距離ゆえに、ただでさえ過酷なスポーツである。選手の体調や健康を損
ねないよう車両の数を必要最小限に減らし排気ガス対策を講じるべきである。渋滞した道
路の歩道を歩いたときに排気ガスの臭いで不快な思いをしたことは誰にでもあるはずだか
ら、排気ガスを吸わされ続けてレースに臨んでいる選手の立場もわかりそうなものだのだ。
しかし、実況の様子を見ると車両の数は増えこそすれ減ることはない。早急に改めるべきで
あろう。

    (塾長コメント: 確かに現在置かれている状況は選手にとって過酷かもしれないですね。ただ駅
             伝ファンにとっては、選手が走り抜ける街並みの様子も気になるところです。)

303「択一式問題で本当の国語力を測れるか?」(1月17日)*****************************
 今年も昨日と今日の2日間にわたり、大学入試センター試験が行なわれている。国語に関
して言うと、昨年度までの試験は80分の解答時間で現代文が2題、古典が2題の計4題で
あった。前者は評論と小説が1題ずつ、後者は古文と漢文が1題ずつとなっている。それぞ
れの文章に対して6〜9程度の設問がある。その設問はすべて数個の選択肢から最も適切
な一者を選んで解答する方式である。大学入試センター試験が始まって以来、この方式は
もうずっと変わっていない。今年も昨年度までの形式を変更することはないだろう。これで果
たして本当の国語の学力を測定しているといえるのだろうか。私は懐疑的である。
 最大の問題点は、択一式の出題では表現力がなくても高得点が取れてしまうことにある。
いくつかの選択肢の中から最も適切なものを選ぶのだから、個々の設問には正解となる選
択肢が必ず含まれていることになる。ここが記述試験・論述試験・口頭試問などと決定的に
異なる点だ。記述試験なら漢字の書き取り問題ひとつにしても自分で正解を考えて正しく書
かなければならない。自分の言葉で説明する設問なら解答に記述する文の読点も適切な場
所に打たなければならないし、使用する語彙も的確なものを考えだして使わなければならな
い。さらに論述試験なら自分の見解を採点者側に理路整然と述べなければならない。しかも
指定された字数を満たし、無駄なくわかりやすくという条件も加わる。また、面接試験や口頭
試問なら眼前に座っている相手にはっきりと聞こえるように適切な速さと抑揚をもって伝えな
ければならない。そういう表現力も国語の学力の一つとして重要なはずだ。しかし択一式問
題しかないのでは、こういう学力を測ることは絶望的である。問題文を読み要旨やあらすじ
を把握して設問の意図を正しく読み取ってしまえば、あとは正解となっている選択肢を選ぶ
だけである。誤っている選択肢で紛らわしいものを効率よく排除する方法さえ身につけてし
まえば、表現力がなくても正解することができてしまうのだ。そんな試験で高得点を取っても
「国語力がある」と評価して良いとは思えない。
 高校入試にしろ大学入試にしろ、さらに言えば入社試験にしろ、択一式問題が主流になっ
てしまうと我が国の国民の識字率も低下する恐れがある。現に、高校では漢字の書き取り
の問題は出すものの、「トメ」「ハネ」「ハライ」といった文字の細部までは昔ほど厳しく見なく
なった。「矢」と「失」のように別の字を書いたら当然×にするが、そうでなければ「書いてあ
れば○」とする傾向にある。細部まできちっと書けなくても大学には合格できるのだから、生
徒も『正しく漢字を書けるようになろう』という気にはならない。そして、最近は大学に入学し
ても自筆でレポートや論文を書く機会が著しく減少している。なぜなら、レポートや論文作成
の条件に「自筆・パソコンのいずれでも可」となっているからである。その影響で、私が勤務
する大学のレポート課題を見ると大半の学生はパソコンで作成してくる。択一式問題を受験
し、入学後もパソコンでレポートを作成するのだから、ますます漢字が書けなくなるのは当然
の帰結である。正しく書く能力はパソコンや携帯電話の漢字変換機能が担うのだから、学生
は「読めること」と「同音異義語を判別すること」ができさえすれば不自由はしない。その2つ
の条件にしても、後者に関しては不要になりつつある。最近のソフトは至れり尽くせりで、た
とえば「保障」「保証」「補償」の使い分けなども吹き出しで解説してくれるからだ。たかが漢
字ですらこの有様である。ましてや文章表現や論述力が低下し稚拙になるのは言わずもが
なである。そして、そういう環境に育って社会に出てから困るのは択一式問題を出した側で
はない。そういう試験に合格し、IT社会にどっぷり浸かっている彼らである。
 大学入試センター試験には、数十万人を超える学生が全国で一斉に受験し短時日に結
果を明示しなければならない事情がある。それは私も理解するが、やはり国語に関しては
全問択一式問題とするのでは思考力や表現力の観点で問題である。大げさな表現をする
ならば、彼らが大学を卒業して社会に出たときのコミュニケーション能力に悪影響を及ぼす。
1題でもいいから論述させる問題を課し、思考力や表現力を問う必要があろう。ここ数年の
傾向として、大学入試センター試験利用による受験方式で入学することができる私立大学
も顕著に増加した。しかし、私は感心しない。国公立の2次試験と同様に、やはり思考力や
表現力を問う試験を大学入試センター試験とは別に行なうべきである。否、大学入試セン
ター試験には参加せず、その大学ならではの独自の試験に拘泥し、本当の国語の学力を
測定して学生を選抜するのが私立大学の本来の姿であろう。そうしないと表現力も思考力
もなく択一式問題の攻略方法を会得した者ばかりが将来の我が国を担うことになる。

    (塾長コメント: 今朝の新聞に昨日のセンター試験の問題が載っていたので目を通してみた。
             その中の地理Bに山形県最上地方に関する問題が載っていたので考えてみた。
             鳥瞰図の問題や統計調査に関する問題など、よく練られた問題で感心した。た
             だ一つ疑問が涌き起こった。受験勉強などしなくても解けてしまうのだ!これっ
             て、日本史や世界史など膨大な暗記が必要な科目と大いなる不公平がないか
             心配になってきた。以前は、理系受験生の受験科目は国数英以外に世界史・
             物化と相場が決まっていたが、最近の受験生の動向をみると、世界史離れが
             顕著で優秀な生徒ほど地理や現代社会を選択する傾向が強い。今回実際の試
             験問題を見て、その理由に合点がいった。この受験生の動きに反発するかのよ
             うに、学習指導要領では世界史が必修になっている。このことと数年前にあった
             未履修問題が深く関わっている。今回の地理Bのような問題を出題する限り、受
             験生の世界史離れに歯止めをかけることは難しいだろうと思った。)

302「葉書では個人情報を守れない」(1月10日)***************************************
 今年も年賀状をたくさんの方からいただいた。お世話になった方々に対して本来なら 正月
に年始回りをして直接会って挨拶すべきところ、容易に移動できる距離ではない場所に住
んでいる方に対しては年頭の挨拶を書状にて失礼させていただきますというのが年賀状の
始まりである。お世話になった方に対して前年のご厚誼に感謝し本年も変わらぬ厚情をお
願いしたり久しく会っていない知人に対しては自身の近況などをこの機会に報告するのであ
る。だが、私は正直なところ年賀状というものはあまり好きではない。お世話になった人へ
挨拶をするという趣旨は大いに賛成であるが、その手段として葉書を使うことに抵抗がある
からだ。
 葉書は1枚の紙片に過ぎないから信書の秘密が保たれない。先方の家族に見られること
もあるし送受信者とは何の関係もない郵便局員にも見られる恐れがある。年賀状を書くに
当たってはそんな1枚の紙片に自分の住所・氏名のみならず電話番号・メールアドレス、さ
らには家族全員の写真などを印刷しているのである。最近は企業や官公庁による個人情
報の流失が新聞沙汰になり、個人情報の管理には非常に神経を遣わざるを得ないご時世
であるが、自らの情報を郵便局員という第3者の手を介して送ってもらうことに対して何の
抵抗感もないのだろうか。配達する人に悪意がなくても郵便局員が紛失した場合はその葉
書が誰かに拾われる恐れもある。年賀状を携帯電話やデジカメで撮影してしまえば、その
人の個人情報をパソコンで管理することも不正に利用することも容易である。現実にはそう
いった犯罪が報道されていないから多くの人は何とも思っていないのかもしれない。しかし
年賀状に住所・氏名・電話番号・メールアドレスが明記されている限り、悪意のある人がそ
の人の個人情報を入手すること自体は現実に可能なことだ。ひとたび個人情報を入手され
てしまったら、それがどこでどのように悪用されるかは知れたものではない。自分やその家
族の画像がネット上で流される恐れもあるし、迷惑メールが大量に送りつけられたり迷惑電
話がひっきりなしにかかる恐れもあるのだ。
 そう考えるとこれだけ個人情報の管理のあり方が問われている現代社会に年賀状を葉書
で送ることはもうやめた方が良いだろう。新年の挨拶は面倒ではあるが封書にしてもらいた
いというのが私の本音である。封書なら宛先と差出人の住所・氏名以外は他人に見られる
恐れはないから、葉書よりも格段に信書の秘密が保たれる。封書だからといってなにも新年
の挨拶をわざわざ便箋に書く必要はない。現在と同様に1枚の紙片に書き上げ、それを封
筒に入れて投函すれば良い。
 歴史的には郵便制度が確立した当初は葉書ではなく書状で年賀状を認(したた)めて送っ
ていた。それが1873年に郵便葉書が発行されるようになり、誰もが簡潔かつ安価に年頭
の挨拶を書いて送ることができるようになった。そして1880年代以降は年賀状を出すこと
が年末年始における国民的な習慣となった。 簡潔かつ安価という利便性が年賀状の普及
を早めたといえる。しかし良いことづくめではない。個人情報の流失や不正利用の被害に
遭う恐れがあることを考えると利便性を追求する行為もいかがなものか。そういう意味では
年賀状のみならず通信手段として葉書を利用することそのものをやめた方が良い。たとえ
ば公開番組の観覧希望の際に出す応募葉書がその例だ。葉書で応募をする場合、 住所・
氏名・年齢・性別・電話番号やメールアドレス等の連絡先といった個人情報を書くことにな
るが、再三指摘しているとおり、葉書では第3者にも容易に中身を見られてしまう。しかも1
枚の紙片であるから封書に比べると紛失の危険性も高い。個人情報を自ら守るためにも、
再考の余地があるのではないだろうか。

    (塾長コメント: 年賀状をやり取りするという風習はなかなかいいものだと思う。普段会えない
             人だからこそ近況を語りあう機会として是非残してほしいものだ。近年個人情報
             保護という観点から教え子たちと年賀状を交わすということもなくなった。今でも
             続いているのは昔の教え子たちだ。「とうとう私も40になりました!」という年賀
             状には思わず私自身の歳を感じてしまったし、「子育ては難しいが今年も楽しみ
             たいです」と聞けば充実した生活ぶりが感じられる。そんな教え子たちとのやり
             取りが今でも出来る自分自身を幸福と思わずにはいられない。)

301「疲弊する港町に救いの手を」(2010年1月3日)***********************************
 東京だろうが大阪だろうが名古屋だろうが、幕の内弁当を買うと必ず海老フライや魚の一
切れが入っている。寿司屋や和食レストランに行けばマグロやイクラなどの海産物をいつで
も好きなだけ食べることができる。日本は島国だから海に面している都道府県は実に39に
も及び、(逆に海に面していないのは栃木・群馬・埼玉・山梨・長野・岐阜・奈良・滋賀の7県
のみ)そこにはたいてい港がある。だから大都市に住んでいると、我が国の水産物に関して
は何の不自由もなく確保できているように見える。しかし、現実はそうではない。食用水産物
の自給率は59%しかなく、残りは外国からの輸入に頼っている。現在、漁業の従事者も20
万人程度しかいない。農業でも後継者不足が深刻な問題となっているが、漁業でもそれは同
様だ。地方の港町も大部分は過疎化が進行しており、10年後には漁業従事者は11万人に
まで減ってしまうのではないかと懸念されている。それはとりもなおさず輸入による食用水産
物が増えることを意味し、ひいてはそれだけ食の安全が脅かされることにもつながる。
 漁業だけではない。海上貿易に必要な外航の日本人船員も激減している。島国である我
が国は貿易の99.7%を海上輸送で賄っている。陸路がないのだから、そうなるのは当然
だ。現在の我が国の国民生活水準を維持するのに必要な輸送力をすべて日本籍の船舶で
賄うためには最低でも450隻の船舶と5500人の日本人船員が必要であるとされている。
しかし造船業の不振は言うに及ばず、外航日本人船員も激減し昨年度の時点で2649人し
かいない。昭和から平成になってまもない1990年度は10084人いたことを考えると、4分
の1近くにまで減ってしまっている。必要な船舶と船員の確保に向けて法律が施行されたが、
船員は特殊な技術が必要とされ海技士国家試験を合格しないと従事できないので短時日
に養成し増員することができない。
 本州と離島とを結ぶフェリーや旅客船を操船する内航船舶も厳しい状況に追い込まれつ
つある。特に本州から四国に対しては鳴門・坂出・今治の3ルートで高速道路が建設され
たため、そこで働いていた船員の多くが離職や待遇悪化の被害を受けてしまった。今後、
全国で高速道路料金の大幅割引や無料化がなされると、国内の旅客船業界が壊滅的な
打撃を受けるのは必至である。船や船員の絶対数が減ってしまうと高速道路の恩恵を受
けない離島に住む人々にとっては生活物資の輸送も確保できなくなり、彼らの国民生活に
も深刻な影響が出る。
 小学生に「将来なりたい職業は何か?」と聞くといろいろな答えが返ってくる。航空機のパ
イロットや電車の運転手といった乗り物関係であったり、あるいは俳優や歌手といった芸能
関係だったり、はたまた野球やサッカーの選手といったスポーツ関係だったりと、時代や子
どもの年齢によって人気のある職業はさまざまだが、今や船員と答える子どもはいなくなっ
てしまったようだ。私自身、自分の勤める高校の生徒に尋ねても船舶や漁業に従事したい
という生徒は聞いたことがない。このままでは船員や漁師が子どもの憧れる職業になること
も、活気あふれる港町が復活することも2度とないだろう。国を挙げて地域活性化予算を活
用し疲弊する港町に救いの手を差し伸べる必要があるのではないだろうか。そのためには
まず船員の育成と彼らの雇用の安定が必要だ。また専業の漁師でも国民の平均的な年収
が得られるよう国家による手厚い保護もしなければならない。そうしないと船員も漁師も若
者の憧れる職業にはなり得ないし、後継者も減る一途で産業そのものが滅んでしまう。