菅ちゃんの呟き
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260「苦闘を余儀なくされる格差社会の子どもたち」(3月16日)****************************
 3月13日の23時から、私はNHKのドキュメント番組『ニッポンの現場から』を見るべくテ
レビの電源を入れた。別に毎回この番組を見ているわけではない。以前務めていた高校
の卒業生から「3月13日の夜にうちの高校がテレビに出るから見て!」と言われたからで
ある。学力低下だの陰湿化するいじめだの学校裏サイトだのと、何かと問題の絶えない昨
今の教育現場だが、果たしてどんな「現場」が放映されるのか。私は一抹の不安を抱きな
がらも見た。
 テレビに学校名が流れたのでここでも公表するが、カメラが追ったのは横浜翠嵐高校定
時制課程の3年4組であった。冒頭で、正門前に到着した路線バスから降りる生徒の姿が
映される。私にとっては2年前まで勤めていた学校なので、正門も校舎も教室も懐かしい
風景である。もちろん定時制課程の3年4組を授業で受け持ったわけではない。だから取
材を受けていた生徒とは直接の関わりがない。それでも2年前、すなわち3年4組だった
生徒が1年生だった当時、廊下で出会った彼らの一部は顔見知りである。だから、テレビ
でも「ああ、映っている」という感慨はあった。
 番組は「最近は定時制の高校に進学する生徒の数が多くなりました。」というナレーショ
ンで始まった。なぜ、多くなったのか。取材陣は3年4組の生徒の何人かにマイクを向ける。
そこで得た結論が「家庭の経済的事情」であった。生徒は自ら好んで横浜翠嵐高校の定
時制課程を第1志望にしたのではない。公立にしろ私立にしろ、中学生の時点では誰もが
全日制の高校への進学を希望していた。昔なら、たとえ公立の全日制の受験に失敗して
も、私立の高校へ進学していたという。それがここ最近定時制課程の高校へ進学する生
徒が著しく増加した。その最大の理由は学費を支払うだけの経済力にあったのだ。一人
の女子生徒は、リポーターの差し出すマイクに向かって「親の勤める会社が倒産したから、
姉も大学を中退せざるを得なくなった。」と答えた。だから自分も昼間働いて稼いだお金を
家庭に入れていかなければならないのだという。なんと悲しい話か。中には、定時制高校
の授業が終ってから仕事に行くのだという生徒もいる。授業が終るのは21時近くになるか
ら、それから仕事ということは当然深夜の勤務になる。理由は深夜の仕事の方が昼間より
も時給が高いからだ。しかもその多くは、いわゆる「3K」と言われる仕事だろう。私自身も
そうだったが、高校の授業料は勿論のこと、部活動にかかる費用も修学旅行費も、さらに
は大学の受験料や入学金も全て親が支払ってくれる全日制の高校の生徒にとっては、さ
ぞ想像もつかないことであろう。世界有数の先進国で物資豊かな国と評価される同じ日本
に生まれても、こういう境遇に置かれている生徒がいるという現実を、番組を見て否応なく
思い知らされた。
 進学率の高い高校の生徒ほど、親の経済力がしっかりしているというデータが以前から
新聞やテレビで報道されていた。つまり、子どもの学力と親の経済力とが比例するという
ことである。一見、何の相関関係もなさそうな両者だが、子どもが学校生活を楽しみ学業
に専念できる環境に置かれているか否かは、ひとえに親の経済力の有無で決定づけられ
るのだ。つまり、経済力がなければ伸びる子どもの能力も阻まれて伸びなくなる、というわ
けである。たとえば、中学生にもなると、高校進学への対策の一つとして塾へ通うようにな
る。中学校での授業だけでは心もとないからだ。本来それでは教育の在り方としておかし
いはずだが、それが現実である以上、彼らが塾通いをするようになるのも仕方あるまい。
ましてや難関高校と言われる学校の入試に対応する授業までは中学校では扱わない。と
なると合格したければ塾で勉強するしかないのだ。私が務めている現在の高校の生徒も、
1997年から務めていた横浜翠嵐高校の全日制の生徒も、みんなそうやって高校受験を
突破してきたのである。しかし家庭の経済力がなければ、塾の授業料も模擬試験の受験
料も支払えるはずがない。ましてや小学校の給食費すら支払えないという経済事情では、
塾どころではあるまい。6畳一間のアパートに一家4人が住んだり、親の離婚によって母
子家庭だったりで、そのアパートの家賃を支払うのがやっとという経済状況に置かれた家
庭の子どもと、瀟洒な家の立ち並ぶ閑静な住宅地に住み、落ち着いて勉強に取り組むこ
とができる子ども部屋が与えられ、塾にも行けて模試も受けられる環境に置かれている子
どもとで、差がつくのは必然なのだ。
 取材陣は、3年4組の生徒の進路にも目を向けた。これも、全日制高校のそれとは雲泥
の差だ。法律上は全日制課程だろうが定時制課程だろうが、さらには通信制課程だろうが、
卒業証書を受け取れば、学歴上は「高卒」として認定され、進学・就職の機会均等が保障
されている。しかし、現実はそんな甘いものではない。まず進学だが、大学にしろ専門学校
にしろ、受験料や学費の壁が立ちはだかる。これが支払えなければ、初めから進学そのも
のを断念せざるを得ない。では就職はというと、これもその内実はお寒いものだ。全日制の
高校へ届く求人の1/5にも満たないという。それも、将来が保障された大企業ということは
決してなく、中小ないしは零細企業でしかない。この求人の貧弱さは定時制高校の生徒に
対する社会の偏見が根強く残存していることも否めない。歯に衣着せずに表現するならば、
「定時制高校は普通の高校ではない。全日制の高校も卒業できない人材には碌な者はい
ない」といった差別意識である。これが払拭されない限り、この問題は決して解決されるこ
とはないのではないか。そう私は思う。だから、待遇は正社員といえど日給月給で高くても
月15万円程度。現在のアルバイトの方が収入が高いと嘆く生徒もいる。前回「正社員とい
えど、派遣社員と変わらず」の記事でも書いたとおり、社会保障の有無を別にすれば、確か
にそういう計算になるだろう。それでも現場の教職員は生徒に定職に就くことの意義を強調
する。しかし「今さえ良ければ良い」と思っている生徒を翻意させるのは容易ではない。結果
として、多くの生徒が進路未定のまま卒業していくのが現実だという。
 番組では、さまざまな家庭の事情を抱えて入学してきた生徒たちを真正面から受けとめて、
担任の先生をはじめとする教職員が真摯に生徒を支えていく姿が、じつに涙ぐましく描かれ
ていた。それはそれで、全日制課程には決してない「人間の心の交流の暖かさ」といえるが、
学校としてはどうすることもできない現実が立ちはだかるのは変わらない。「イラストレーター
になりたい」「高校の先生になりたい」と、個々の生徒はみんな夢を持っているのだが、先立
つ物は「カネ」という現実の前に、悪戦苦闘を強いられる境遇に置かれている。恵まれた環
境に育ちながらも、本人がこれまで学業を怠けてきた結果そうなったのなら自業自得だが、
事実はこれまで述べてきたようにそうではないのだ。親は子どもを選ぶことができても、生
まれてきた子どもは親を選ぶことはできない。格差社会の被害者となった親の下に生まれ
てきた子どもは、最初から格差社会の被害者として育って行くことを余儀なくされている。そ
れが現代の日本の社会の現実であると番組は教えていた。これからの時代に生きる、無
限の可能性を有する子どもたちまで、格差社会の犠牲にするような社会政策の是非は、改
めて論じるまでもなかろう。

259「正社員とはいえど派遣社員と変わらず」(3月11日)*********************************
 いまや働く人の3人に1人が非正規社員と言われている。いわゆる契約社員や派遣社員
の類で、年収200万円に届くか否かといった所得層の人々である。年金保険・健康保険・
雇用保険といった社会保障が一切ない、勤務時間中に事故が起きても労災が適用されな
い、極めて短期の雇用契約でしか仕事をもらえず、本人の勤務成績とは無関係にいつでも
簡単に解雇されるという、非常に弱い立場におかれている。こうした派遣社員や契約社員
には、「労働者」としての「人権」が蔑ろにされ、簡単に補充の利く部品同然の扱いでしかな
いのである。だから今日、正規社員との格差が問題になっているのだが、では、正規社員
なら悠々自適な生活かといったら、とんでもない話であるようだ。
 卒業した教え子から近況を聞くといろいろな声が耳に入ってくる。その中にはこんなひど
い話も聞かされた。4年制の大学卒で正社員として雇用されているにもかかわらず、月給
はわずかに15万円あるかないかといった程度だという。一日の労働時間も8時間をはる
かに越え、ほぼ毎日のように残業となる。当然のことながら「何時間の労働をしたら何分
間は休憩」といった労働基準法の規定も死文化されている。だから、日によっては昼食を
とる時間すらなくなってしまうという。そして、ひどいのは出張時の扱いだ。上司の命令で
業務上の出張したにもかかわらず、それに要した交通費・宿泊費などの経費は、全てそ
のわずかな月給の中から支払わされるというのだ。だから、実労働時間だけで比較する
と、時給800円程度のアルバイトをしている方が所得が高くなるというのだ。出張費を差
し引けば月給10万円にも届かなくなるからである。よく、非正規社員は年収200万円未
満、正規社員なら500万円以上と言われるが、この人の話では正規社員でも200万円
に到底届かない。まあ社会保障が完備されているだけ、アルバイトの身分よりはマシとい
うだけの話である。正社員なら普通に認められているはずの昇給も賞与もなく、不当な雇
用に対して使用者側に対して争議する権利もなければ、ストライキを敢行する権利もない
という。
 これが事実なら労働基準法に照らし合わせるまでもなく、明らかに違法行為だろう。しか
し、労働基準監督署の職員が日本に存在する全ての会社を抜き打ちで視察して回ってい
るわけではないから、それぞれの職場で個々の労働者がどのような勤務を強いられ、ど
んな待遇に置かれているのかは全く闇の中だ。「いまの御時世で正社員として就職できた
のなら安定していて恵まれていますね」とよく言われるが、会社によってピンからキリまで
だ。中小の企業の内実はこんなお寒いところもあるのである。これでは、雇用期間が短期
の有期契約ではないという点を除けば、派遣社員と何ら変わりがない。
 バブル崩壊後の日本経済を立て直すのだとして、小泉前首相が「痛みを伴う構造改革」
を断行した。しかし、その構造改革が終れば、国民は「痛み」から解放され、いつかは「春」
が来るはずだと期待していたことだろう。その後、首相は小泉→安倍→福田と代わったが、
痛みは依然として緩和されておらず、「冬」が続いているのみである。それも「酷寒」になっ
ていくばかりである。久しい以前は「貿易黒字」で日本にばかりお金が集まり、そのことで
世界の各国から批判されるほどであった。しかし、今は、企業も経営成績が好転せず利潤
がないためカネがなく、従ってその従業員も裕福な生活ができず、都道府県などの地方公
共団体も税収が思うように入らないという有様。そして、合理化の美名のもとで人件費削減
ばかりが推進され、正規社員・非正規社員を問わず、働く人を「人間」と見做さずに「容易に
補充の利く消耗品」として扱うようになってしまった。それを象徴する言葉が「人材」という単
語である。「食材」「木材」「資材」「題材」「素材」「教材」など、「材」が下につく熟語は数多く
あるが、いずれも「材」はすべて「物」という意味である。だから、「人材」という言葉を出した
瞬間に、まさに「人間」を「物」としてしか見ていないことになると思う。そういう「物」を「派遣」
することを目的とした「人材派遣会社」なる会社までもが設立されているのだから呆れ返っ
てしまう。もう、終身雇用制度の下で、家族を安心して養っていくことのできる働き方は、こ
れからの我が国では永遠にできなくなってしまうのだろうか?

258「四捨五入は果たして公正な処理か?」(3月 5日)********************************
 日常生活のあらゆる場で「小数点以下の端数は四捨五入します。」とか「10円未満の端
数は四捨五入します。」という注意書きが明記され、その文言どおりの処理が行なわれて
いる。たとえば、消費税がそうだ。かつて税率が3%の時代、300円の商品は、税込みで
309円だった。だから、コンビニエンスストアなどの店舗では代金309円として販売してい
た。しかし、鉄道会社や路線バス会社では最小の金銭単位を1円ではなく10円と定めてい
るから、消費税導入前に300円であった区間の運賃は310円に値上がりした。すなわち、
10円未満の端数である9円は小数の0.9と同じ扱いで四捨五入により、切り上げられた
のである。一方、消費税導入前に400円であった区間の運賃は410円の値上がりに留ま
った。3%なら412円になるはずだが、前述の通り1円単位の金銭の収受は取り扱わない
ので、四捨五入という計算処理の結果420円とはならず、2円が切り捨てられたのである。
このように日常的に「端数を四捨五入する」という処理がなされているのだが、今回は果た
してこれが公正な処理といえるのかを考えてみたい。
 整数2を基準に、その前後に存在する小数第1位までの数は次のように配列することが
できる。

(ア) (イ) (ウ) (エ)
(A) 2.1 2.2 2.3 2.4
(B) 1.9 1.8 1.7 1.6

 上記のように記したことでおわかりかと思うが、ある整数に対して±0.1となる小数が最
も左側に記した(ア)の列にある2数である。以下、
   ±0.2となる数が(イ)の列にある2数
   ±0.3となる数が(ウ)の列にある2数
   ±0.4となる数が(エ)の列にある2数
となる。(A)の行にある2.1から2.4までの4数は、いずれも四捨五入することで小数点
以下が切り捨てられ2.0に収斂する。(B)の行にある1.6から1.9までの4数は、いず
れも四捨五入することで小数点以下が切り上げられ2.0に収斂する。ここまでは四捨五
入の処理がうまくできている。問題は上記の8つから除外していた1.5と2.5という数で
ある。小数点第2位以下の数を考えず、小数点第1位の数だけで論じると、0.5は、ある
整数 n と n+1 となる整数とのちょうど中間に存在する小数になる。したがって、「五入」
という処理は結果として必ず高い方の数値になってしまう。たとえば学校で日常的に行な
われている成績処理である「10段階評価」と「5段階評定」の問題だ。いわゆる通知表に
は10段階で成績評価が示される。しかし、公的な書類として効力を有する指導要録や、
進学先の学校へ提出する調査書の場合は、10段階で求めた成績評価を5段階に換算
して成績評定として表す。すると、10段階評価の「9」は2で除すると4.5だから「五入」
の結果、5段階評定では「5」になる。つまり、10段階評価で「10」をとった生徒と同じ値
になるということだ。以下、次のようになる。
   10段階評価 5段階評定
       「7」 → 「4」
       「5」 → 「3」
       「3」 → 「2」
 まあ、成績の場合は「五入」により良くなり生徒の利益になるから良いだろう。しかし、ロ
ーンなど各種の借り入れ金の利息や消費税などはどうか。「五入」されると実質的な値上
げになるから、不利益を被ることになるのだ。
 では、「四捨五入」を改め「五捨六入」という処理にすれば公正なものになるかというと、
これもそうではない。結局のところ、0.1から0.4までは切り捨て、0.6から0.9までは
切り上げとすることはできても、端数の中央に位置する0.5はどうすることもできないの
ではなかろうか。端数を解消する必要に迫られて「五入」として処理しているのだが、あく
までも便宜的なものでしかない手段のように思う。結論を言うと「四捨五入」という処理は
一見公正な方法に見えるが、0.5に関しては切り上げても切り捨てても公正にならなくな
ってしまうのである。

    (塾長コメント: 四捨五入や切り上げ、切り捨ては、あくまでも複雑な数を分かり易く概数で
             把握しようという概念なわけで、そこに公正さを追及するのは、四捨五入など
             に対してかわいそう過ぎます。ある数 x を小数第1位で四捨五入することは、
             数学的には、ガウス記号を用いて、 [x+0.5]=m で表されますが、
             m−0.5≦x<m+0.5 の範囲にある数 x の代表値として、m で表すこと
             は妥当な判断と思われます。)

257「奢りの精神が招いた海難事故」(2月27日)***************************************
 今月19日、マグロの漁に出た漁船「清徳丸」が海上自衛隊のイージス護衛艦「あたご」
に衝突し、「清徳丸」の乗組員親子2人が行方不明になるという痛ましい海難事故が起き
た。海上自衛隊の艦体による海難事故としては、20年前に釣り船の「第1富士丸」が海上
自衛隊の潜水艦「なだしお」と衝突して釣り船の乗客ら30人が犠牲になるという事故が起
きた。以後、海上自衛隊は事故の再発防止に向けて取り組んでいたはずだが、なだしお
の教訓は生かされなかったと言わざるを得ない。事故後のニュース解説を見て驚いたの
は、模型で表された両者の船の大きさが比較にならないほどの差があるという事実だ。ゾ
ウと蟻とまでは言わないが、全長12mという街中を走る路線バスほどの大きさしかない漁
船にとって、全長165m、全幅22m、基準排水量7750トンにも及ぶイージス艦との衝突
は、まさにジブラルタの岩盤に衝突したのと同然である。
 最大の問題は、「あたご」が早い段階での回避行動を取らずに漫然と航海していたこと
に尽きる。事故は未明に起きたが、天候に問題はなく海は凪であった。「あたご」にとって
は航行中の船舶の明かりも容易に目視できたはずであるし、レーダーの画面にも映し出
されていたはずである。「あたご」の見張り員によると、衝突の12分前にあたる午前3時
55分には清徳丸とみられる灯火を確認しているという。その段階で気づいていたのなら
迅速な対応が取れたはずだが、自動操舵を解除することもなく回避行動は一切取らなか
った。したがって「あたご」はあらかじめ設定した速度で同じ方向を直進するのみである。
事故の恐れを感じて手動操舵に切り替えてエンジンを後進にしたのは、なんと衝突の1分
前であったというのだから、これでは怠慢以外の何物でもない。12−1=11。秒にすれ
ば660秒だが、この間、「あたご」は一体何をしていたのか?
 第2に、政府官邸に情報が伝達されるまでの時間が余りにもかかりすぎていることだ。
石波防衛相に報告がなされるまでに91分、福田首相には2時間を要している。「清徳丸」
の出航した千葉県勝浦市からなら、特急電車に乗っても90分もかからずに東京に着くこ
とができる。「あたご」の無線から防衛大臣に直接つながる電話回線はないだろうが、そ
れでも「海難事故が起きた」という一報だけなら、数分もあれば伝達できるはずだ。海上
幕僚監部や統合幕僚監部が定めた内規には発生から1時間以内に防衛大臣に第一報
を連絡することになっている。しかし、現実はどうだったか?事故の発生は午前4時7分、
「あたご」が第3管区海上保安本部に連絡したのは4時23分。この時点で既に16分が
経過している。横須賀にある護衛艦隊司令部に届いたのが事故から36分後の4時43
分、東京にある海上幕僚監部オペレーションルームに届いたのが4時48分、海上幕僚
長の耳に入ったのが5時過ぎであったから、もうこの時点で内規の1時間を経過している
という有様であった。官邸は磐石な危機管理体制を敷いていたのだが、現場で情報が滞
っていたために危機管理体制が何の役にも立たないという皮肉な結果になってしまった。
 「あたご」に搭載されている最新鋭の高性能レーダーは、あくまでも空を飛ぶ敵機に対す
るものであって、海上の船舶に対しては何ら機能しないという点も問題にしなければならな
いだろう。だから、一般の艦体と同じく見張りを置くなどして人的な警戒に頼っていた。もち
ろん「あたご」には対空レーダとは別に海上の船舶を捉えるレーダーもあって、事件当時
も正常に稼動していたという。このレーダーは相手船舶の航行速度や方位を継続して追
跡し、衝突の危険がある場合は警告を発するという仕組みにはなっているのだが、その
機能を発揮させるには人間が予めコンピュータで目標物を特定しなければならないという。
事件当日はこれが機能していなかった。
 新たな情報が小出しに出てくるのも問題点の一つだ。その際、最初の情報と覆ることも
気になる。しかも、必ず自衛隊側にとって不利な情報に転じる。その典型が、最初に「清
徳丸」を発見した時刻だろう。事故直後の防衛庁の調べに対し、「あたご」の乗組員は「漁
船には衝突の2分前の午前4時5分に気づいたので、あまりにも至近距離で回避が間に
合わなかった」と証言した。しかし、その後の調べで、衝突の12分前に確認していたことが
明らかになった。これでは「自衛隊が情報を操作している」「情報の隠蔽工作をしている」と
勘ぐられるのも当然だ。清徳丸とともに漁場に向かって航行していた漁船団に回避行動を
取っていなかったことが、僚船の乗組員の証言で明らかになった。また航跡画像がそれぞ
れの漁船のGPSに記録されていた。特に金平丸はかなりの急旋回をして回避している。
こういった情報も事故直後にはなく、3日ほど経ってから明らかになっている。「あたご」の
見張り員が4時に当直を交代していて、交代したばかりの見張り員は「清徳丸」の灯火を
継続的に追うことを怠っていたという事実も、事故から4日後になってから明るみに出た。
また、3時55分に視認した見張り員も海上保安本部の調べに対して「あたごの後方を清
徳丸が通る」と判断していたこと、だから「緊急性を感じなかった」と供述していたことも23
日にわかっている。この体たらくでは、この原稿が掲載された後からどんな新事実を突き
つけられるか知れたものではない。
 それにしてもイージス艦はあまりにも巨大だ。写真見ただけでも巨大だと感じるのだから、
海上で実物を見たら度肝を抜かれるくらいの大きさに感じるに違いない。1912年4月15
日にTITANIC号がアメリカへ向けて処女航海をした際に、北大西洋上を漂う浮氷原を避け
ることができずに衝突したのと同様に、大型船は巨大さゆえに急な旋回や停船は性能上
不可能なのは仕方あるまい。しかし、自船は巨大だから、周囲の船舶が回避してくれるは
ずだと見込んで自動操舵を解除しないのは奢りの精神以外の何物でもないだろう。そうい
う意味では「緊急性を感じなかった」とか「清徳丸は自船の後方をいう航行すると思ってい
た」という認識も、政府官邸に第一報が届くまでに時間がかかったことも、すべては海上自
衛隊の「奢りの精神」が招いたものではないだろうか。なだしおの教訓が生かされなかった
ことを重く受け止めて内部に根強く残る奢りの精神を一掃してもらいたいものだ。

256「望まぬことに税金を使うな」(2月18日)*******************************************
 先週の金曜日のことである。学校での仕事が遅くなったので、夕食を外食して22時に自
宅の最寄駅を出るバスに乗った。私の家は駅から8kmほどの場所にある。朝夕のラッシュ
時は50分前後を要するのだが、さすがに22時ともなると交通量が著しく減るので30分以
内で自宅のあるバス停まで到着できる。しかし、この夜はそうはいかなかった。乗ってすぐ
に眠ってしまったので、途中の状況は全くわからなかったのだが、到着したときに時計を見
たら55分もかかっていたのである。運転手曰く、「道路工事で渋滞してしまいまして申し訳
ありません。」とのこと。勿論、バス会社にも運転手にも何の罪はない。翌日の土曜日に駅
へ向かって乗ったら、確かに昨夜に工事したと思われる形跡があった。しかし、その工事箇
所は改めて舗装し直すほど磨耗している路面ではなかったのである。
 毎年のことでたが、街のイルミネーションが外され始め、「確定申告はお早めに!」という
横断幕が掲げられる季節になると、必ず道路の補修工事が各所で始まる。そして、工事期
間中は片側通行になるから、当然のことながら工事箇所を先頭に渋滞する。問題はその工
事の必要性の有無だ。私が走って路面の状況を見る限り、早急に舗装し直さなければなら
ないという必要性がないものばかりである。都道府県や市区町村など、各地方公共団体は、
予め各部署に配分した予算に従って我々に必要な行政サービスを提供しているわけだが、
年度末の道路工事ほどムダなものはあるまい。路面が磨り減っていて凹凸が激しくなって
いるのならともかく、現実は工事の必要性がない箇所が大部分だ。それをこの時期に行な
うのは、何が何でも配分された予算を年度内に使い切ろうという、道路行政担当者のエゴイ
ズムでしかない。万が一、年度内に予算を使い切らなければ、次年度に配分されるお金が
削減されてしまうからである。余剰金を翌年度にプールしておくとか、将来大きなプロジェクト
を実施するために積み立てておくという発想は全くないようだ。
 しかし、当局にはよく考えていただきたい。これらのお金は元をただせば全額我々市民の
血税である。市民が心底から道路の補修工事を望んでいるのなら大いにすべきだが、現実
は誰も頼んでいないはずだ。頼んでもいないのに「年度末までに予算を使い切ろう」という考
えだけで血税をムダにすることほど憤りを感じるものはない。そんなに余っているお金がある
のなら、教育なり福祉なり、必要な部署に再配分すべきだろう。たとえば、県立高校を例にと
ると、特に事務職員の要員は6人体制が4人になり、率に換算して33%も削減されている。
しかし学校における業務の量そのものは減っていない。すると、どういうことになるか。削減さ
れた事務職員の業務も一部は教職員が担当しなければならなくなるのである。そのため、本
来の教職員の業務、すなわち授業に必要な教材研究や研修、生徒指導や部活動の指導に
充てることができる時間が減らされてしまう。これで私立高校に匹敵する質の高い授業や指
導を求めるのは、木に縁りて魚を求めるようなものだ。最近は救急患者が救急病院をたらい
回しされて落命する事件とか、介護職員が人手不足で現場では入所者の管理が行き届かな
いなど、現場はどこも要員不足で大変である。財政難で人件費を抑えるべく要員を削減する
という安直な対応を進めた結果、必要な行政サービスを犠牲にすることが許されるものなの
か。
 それでも、本当に1円たりとも財源がなく、何一つ行政サービスを提供できないのなら仕方
あるまい。しかし、現実は財源は潤沢にあるのだ。そうでなければ、道路の補修や大規模な
建設工事などに、どんどんお金をつぎ込むこともできないからである。その典型が、神奈川
県の県央地区を流れる相模川沿いに建設している相模縦貫道路だろう。先日、私はJR相
模線に乗って呆然としたのだが、もう場所によっては基礎工事が完了し立派な橋脚ができあ
がっている。しかし、その建設現場の付近には住民が立てたと思われる反対運動の看板さ
え掲げられているのだ。つまり、住民は建設を望んでいるどころか反対しているのである。そ
れにもかかわらず住民から搾取した税金をつぎこんで工事を推進するとは、いったいどんな
神経なのだろう。
 その一方で、住民の足となっているJR相模線はというと、平成3年に電化されてディーゼ
ルカーが電車になったことを除けば、ほとんど開業以来のままで、依然として全線が単線で
ある。日中は20〜30分に1本しか走らず、電車に乗っても対向列車の行き違いのため、
15km程度の距離でも30分近くを要するという、きわめて「遅い乗り物」になってしまってい
る。バリアフリー対応の駅も、起点の茅ヶ崎と終点の橋本を別にすると、寒川・上溝など2、
3駅程度しかなく、降雨時のホーム上屋すら満足にないというお粗末な施設である。高齢の
ためにクルマを運転することができない、いわゆる交通弱者は、この沿線でもご多分に漏れ
ず増えている。当然彼らは鉄道利用を強いられるわけだが、鉄道やバスで快適に移動でき
るような行政の支援は情けないほどなされていないのが現状である。
 今さら言うまでもない話だが、税金は誰のために、何のために使うべきなのか?それを考
えれば、年度末の道路補修工事の是非は自ずと答えが出るはずだ。

    (塾長コメント: 我が家の周りでも下水道工事で掘った穴を、最近、水道管の取り替えということ
             で再度掘り返しています。これって一度に出来ないんですかね?)

255「遅すぎる危機管理体制」(2月10日)*********************************************
 先月の30日以来、中国から輸入された毒入り餃子の事件が連日のように報道されてい
る。いまだに犯人が逮捕されていない。それどころか、どの過程でどのようにして毒が入れ
られたのかも推測の域を出ていないといった有様だ。今回の事件で最大の問題は、行政
当局の危機管理がなっていないことだろう。最初の被害が出た時点で、迅速かつ適切な対
応が取れていないことが被害を拡大させてしまっている。一連の事件の経過を時系列的に
追うと、次のようになる。
 最初に被害の報告があったのは、昨年の12月28日であった。被害者は病院に搬送さ
れたが、食中毒か急性の胃腸炎と診断されてしまった。しかし、食中毒ならサルモネラ菌
などの細菌が検出されるはずだ。感染性の胃腸炎ならノロウイルスやインフルエンザウイ
ルスなど、炎症の原因となったウイルスが発見されていなければおかしい。ウイルスも細
菌も検出されていない以上は、他の原因を考えなければならない。しかし、疑うこともなく
そのままにしてしまっている。これが第1の落ち度である。
 千葉市の被害者は生協にも保健所にも異常を伝えたという。しかし、生協で食べ残しの
餃子を検査したものの、化学物質は対象外であったため、『異常なし』との結論を出してし
まった。これが第2の落ち度である。千葉市の保健所へは生活協同組合から連絡のメー
ルが入っている。しかし、保健所は年末年始の休業期間に入っていたいたため、事件を知
ったのは1月4日であった。これが第3の落ち度である。もう、ここからして危機管理がなっ
ていない。危機は正月だろうがお盆休みだろうが日時を選ばずに襲ってくるものだという認
識が全くないと言わざるを得ない。
 年が明けて先月の5日に兵庫県高砂市で一家3人が被害を受けた。ここで初めて有機リ
ン中毒の恐れがあることが判明した。しかし、この情報が公表されることはなかった。理由
は被害者は「同じ袋に入っていた餃子を最初に食べたときは何ともなかった」と証言したか
らである。この証言で兵庫県警は、被害者が購入した餃子を開封して最初に食べた後から
犯人が毒を混入したのだろうという判断を下してしまい、犯人逮捕のために、情報を敢えて
流さなかったのである。だから製品そのものについては不問に付してしまった。これが第4
の落ち度である。
 その後も天洋食品で製造された冷凍餃子の臭いや味について、消費者から各地の生協
などに散発的に苦情が届いていたという。しかし、どれも公表されることなく片付けられてし
まっている。生協では提供された食べ残しの餃子を受けて検査をしたが、ここでも微生物と
臭いの検査しかしていない。そして、「異常なし」の判定をしてしまっている。これが第5の落
ち度である。
 そんな中、先月22日に千葉県市川市で3件目の被害が出た。ここで初めて中毒の原因
が農薬成分であるメタミドホスと判明した。そして兵庫の事件と同じものが混入されている
ことがわかったのはさらに1週間後の29日。厚生労働省と警察庁にこの情報が伝わった
のは、さらにその後のこと。だから国民に公表されたのは最初の事件から1ヶ月以上も経
過してからという顛末になったのである。
 以前、特養老人ホームで集団感染したノロウイルスのように、同じ場所で一斉に発生す
るとすぐに原因を突き止めることができるのだが、このように1ヶ月近くといった時間差の
ある中で千葉・兵庫と散発的に起こると、情報の共有も伝達も遅れがちだということを今
回の事件は教えてくれる。また、最初の患者が発生したときの診断も容易ではない。下痢
や嘔吐といった症状があったと患者から訴えられても、医師がまず疑うのは風邪や胃腸炎
であろう。そういう患者の方が圧倒的に多いのだから致し方ない。まさか最初から「農薬か
もしれませんね」などと患者に言うはずはないし、化学薬品の検出を真っ先にする医師が
いるとも思えない。ましてや、証拠となる排泄物が医療機関に提出されなければ、原因物
質を調べようがない。結局は胃腸炎で片付けられ、水分や電解質の補給といった対症療
法に終始することになる。そして、患者が治ってしまえば永遠に原因が突き止められずに
終ってしまう。風邪か胃腸炎という診断になったままであるから、情報は当該医療機関と
購入した店舗から他の機関へ伝達されることもなく、第2・第3の事件を未然に防ぐことが
できなくなるのである。もし、一連の事件がアルカイダのような国際的テロ組織による日本
を標的とした食品テロであったとしたら、と思うと空恐ろしくなる。今後もっと大規模な中毒
事件が発生することも考えて行政当局は今回の事件の教訓をしっかり生かすべきである。

    (塾長コメント: 中国産・国産に関わらず昨年から「食の安全」が脅かされていますね!販売
             業者が商品にもっと責任を持ってもらわないと困ります。箱詰めされたものを単
             に並べるだけでは誰でもできる...。以前農薬混入の疑いのあった「冷凍ほう
             れん草」を業者に返品した経験がありますが、お金が戻ってきても後味は悪い
             です。それにしても「食の安全」では信頼のあった生協が問題商品の販売に関
             わっていることの方に驚きました。)

254「苦痛をもたらすノロウイルスにこそ予防接種を」(2月 3日)**************************
 冬は私にとって大好きな季節だ。山へ行けば空気が澄んでいて遠くまで見渡せる。太平
洋側の地域では晴天の日が多い。日光を浴びても夏と違って日焼けはしない。長い間、日
なたで過ごしても寒いから汗をかくことはない。湿度も低いからじとじととした不快感もない。
夏と違って胃腸の機能が弱ることもないから食欲は旺盛である。だから私は体重も50kg
を維持できる。それに、なんといっても虫がいない。これがこの上なく気持よい。蚊に刺され
ることもないし、食卓の上をハエも飛び回ることもない。蜂も出なければアブも飛ばない。ご
きぶりの姿も見ないで済む。最も私が嫌いな蝉も鳴かない。
 このように冬は良いことばかりで気持良く過ごせる季節だが、一つだけ厄介なのは、急性
の感染症が流行することだ。その代表がインフルエンザウイルスとノロウイルスだろう。い
ずれも冬に爆発的に流行する。特にインフルエンザは脳炎や肺炎を併発し、老人を中心に
死者も少なからず出ている。特効薬とされるタミフルが処方されるようになったが今度は服
用した患者がうつ病になって自殺している。新型のウイルスも続々と現れていて、今後の流
行によっては最悪の場合数百万人が死ぬとさえ言われている。ただ、インフルエンザに関
しては昔から予防接種がある。新型のウイルスが出現しても、ワクチンを製造することがで
きる。かつてはどこの小中学校でも全校の児童・生徒が毎年2度に亘って予防接種を受け
た。接種後に起こるインフルエンザ脳炎などの後遺症の影響もあって、現在は任意になっ
ている。健康保険の適用とはならないから5000円程度の出費にはなるが、それでもワク
チンを接種しておけばある程度は予防できる。
 だが、ノロウイルスはどうなっているのか。私も2001年の2月に一度経験したからわか
るのだが、発症すると急激に襲われる悪心・嘔吐・腹痛・下痢などで、その苦痛はインフル
エンザの比ではない。また、感染力も強大で、患者の吐瀉物からは大量のノロウイルスが
空気中を漂い、飛沫感染する。これではうっかり駅のホームも歩けない。貝類の生食さえ
しなければ感染しないのなら、自分が食べなければ予防できるが、そんな生易しい病気で
はないのだ。インフルエンザよりは死亡率は低いものの老人養護施設などでは集団感染
し、吐瀉物を気道に誤飲したことによる死者まで出ている。それなのに、ノロウイルスの予
防接種はいまだに開発されていない。これこそ早急に必要なのではないか。『今は元気で
も、数時間後には自分も発病するのではないか?』と、いつもびくびくしながら過ごすのは、
決して気持の良いものではないからだ。

    (塾長コメント: 最近の病院では、診察前に手を殺菌するための薬剤が診察入り口付近に置
             かれています。強制はされないので任意なのでしょうが、私はなるべく使用する
             ようにしています。医師に対する礼儀と思って...。)

253「猿山と化した裏山に絶句」(1月27日)********************************************
 先週のことである。大学入試センター試験の初日にあたる19日、神奈川県内は前日ま
での天気とうってかわって穏やかな好天に恵まれたので、私は裏山を訪れてみた。去年
から東丹沢のほぼ全域でヤマビルの被害が凄まじかったので、私は山登りを敬遠してい
たのだが、この時期になるとさすがに被害も聞かなくなったので、もうだいじょうぶだろうと
思ったのだ。ところが、全然だいじょうぶではなかった。登山口から歩き始めて15分、ま
だ距離にして1kmにも達していない地点である。頭上の樹木がやけにワサワサと揺れる
音がする。もちろんはじめは烏だと思った。だがその割には音があまりにも大きすぎる。
それに烏の鳴き声もまったく聞こえない。『もっと大きな動物とちゃうか』と思ってふと上を
見上げたら、なんと一匹のニホンザルであった。今までも自宅の裏山に登ったときニホン
ザルを見たことはあったのだが、それはだいぶ奥へ入ってからである。少なくとも登山口
から1時間近く歩いた頃になってから数匹ほど見かけただけである。ところが、今は違う。
頭上にいる1匹とは別に、自分がこれから歩こうとする登山道を20匹近くものサルが横
切ったのである。そう、樹木の頂点で枝を揺らしていたサルは監視役で、下に居る仲間
のサルに合図を送っていたのだ。それを見たとき思わずサルに向かって「どんだけ〜」と
呟いてしまった。(「どれだけ増えたのか」という意味)
 この裏山は首都圏から気軽に訪れることのできるハイキングコースにもなっていて、好
天の休日に入山するといつも人の気配がある。平日の午後や夏休みなどは地元の子ど
もの遊び場にもなっていて、その喚声もよく聞こえてくる。だが今日に限ってここに来るま
での15分間に誰ともすれ違わなかった。それを不思議に思ってはいたのだが、このサル
の群れが原因なら納得できる。自分はこの山で一人きりである。相手は何十匹ともなくい
る。散弾銃でも持っていれば話は別だが、万が一襲われたときに武器になりそうなものは
何一つ持っていない。これよりさらに奥へ進んだら数十匹ものサルに取り囲まれて進退両
難な状況に追い込まれそうな気がした。20匹近い群れを見た時点で私は何となく怖くなっ
たので、来た道をすたすたと逃げ帰って来た。情けない話だが、ここは逃げるのが正解だ
ろう。ある意味、一匹のクマと出くわす以上にサルの群れは危険とされているからだ。
 それにしてもいつの間に裏山のサルがこんなに増えたのだろうか。サルはボスを頂点と
する一つの社会が形成されていて常に群れで行動することは知っていたが、こんな登山
口に近い地点で何十匹もの群れがいたことは今までなかった。サルの天敵がいないとな
ると今後はもっと増えるだろう。山中の餌がなくなれば山麓の畑で栽培している農作物を
食べに下りてくるのは間違いない。山に自生する植物の繁茂がない冬は特にエサがなく
なるから、なおさらだ。しまいには私が往復の通勤で利用しているバス停にも現れやしな
いだろうか。そんな気がする。そこまで事態が悪化しないまでも、気軽に裏山へ登れなく
なったのがなによりも残念だ。この裏山は、登山口から30分ほど登った地点に立派な展
望台が建てられている。晩秋から早春にかけての晴れた日には展望台から東京新宿の
超高層ビル群をも一望できたので私は今まで気軽に登ってはストレスの解消をしていた。
地元の人も犬の散歩に利用したりウォーキングやジョギングに利用したりと、みんなこの
裏山に親しんでいた。しかし、しばらく訪れないうちにすっかり猿山と化してしまった。知ら
ずに入山したハイカーが山頂で弁当でも広げようものなら、あっという間にサルに取り囲
まれ襲撃されるに違いない。このままでは、恐らくそんなニュースが遠からぬうちに報じら
れるであろう。せっかく親しんでいた山なのにと思わずにいられなかった。

    (塾長コメント: 自宅の庭の柿の木はお猿さんのためにあるようで、柿の実はいつの間にか
             なくなってしまって食べたことがありません。庭には他に冬の時期には貴重な
             果実がいくつかなっていて、我が家は小鳥等の格好の餌場です。バードウォ
             ッチングができるのはいいのですが、そのお土産には閉口かな。2階の窓を
             開けたらお猿さんとご対面ということもあり、ちょっとドッキリですね!)

252「福袋は本当に『福』か?」(1月20日)********************************************
 毎年正月になると百貨店などの大規模小売店ではどこでも「初売り」を始める。最近では
2日からの営業が当たり前になり、元日でも通常どおりの午前10時から営業という店舗も
珍しくなくなった。さて、その「初売り」では必ず「福袋」というものを販売する。中身は開けて
みてからのお楽しみということで、金額に応じた品物が入ってはいるのだろうが、私はこれ
を買ったことは一度もない。果たしてどれだけの価値があるのか懐疑的にならざるを得な
いからだ。その理由は次の3点である。
 第1に、必ずしも欲しいものがあるとは限らないからである。何と言っても、これが最大の
理由だ。たとえ中にどれだけ盛りだくさんの品物が入っていようが、購入した金額以上の価
値のある品物が入っていようが、それが自分の欲しかった品物でなければ、購入した代金
分をそのままムダにしたことになる。また、仮に欲しいものが1つ2つ入っていたとしても、そ
れが購入金額に見合った品物でなければやはり損だ。私に言わせれば福袋は一種の抱き
合わせ商法だと思う。「WindowsのVistaを購入するためには、MacのOSもどれか1つは
同時に購入しなけければならない」などと言われたら、みんな腹立たしく思うはずだ。無用な
品物を買わされて購入金額の何%かがムダになるという点では、これと本質的に変わりが
ない。しかし、なぜか福袋は飛ぶように売れている。その消費者心理が私にはわからない。
 第2に、福袋の中身がわからないことが問題だ。さきほどの抱き合わせ商法なら、不要な
品目がわかっている分、まだ対応のしようがある。AB2つの商品があって、自分にとって商
品Bが不要なとき、これを誰かに譲渡してもいいし、中古を扱う店に売るつもりで購入するこ
とができる。しかし、福袋は中身が全くわからないから、購入前にそうした目処をつけること
すらできない。かといって中身があらかじめわかっていたら、購買意欲は殺がれるだろう。
これも要らない、あれも要らないといった状況で何千円も何万円も出して買う人がいるとは
思えないからである。
 第3に、仮に欲しいものばかりがもらえたとしても、本人がそれを気持ちよく使えるとは限
らないからだ。特に身に着けるものはサイズが問題になる。たとえサンダル一つとってもサ
イズが合わなければ履くことはできない。否、仮に履くことはできたとしても快適には歩けま
い。帽子にしろシャツにしろ、ネックレスなどの装身具にしろ、個々人の身体は、一つとして
同じではないのだから、福袋の中に入っていた品物のサイズがぴったり合うほうが、おかし
いのだ。普通に購入する際はサイズを見て選ぶし、慎重な人は試着してから買う。そのくら
い神経を遣わなければ快適に身に着けることはできない。
 このように考えると福袋を買って得するとはとても考えられない。それなのに人はなぜ買
うのだろう?それが疑問だ。

    (塾長コメント: 中身を公開している福袋(ブランドもの)が最近流行していますね!)

251「なぜ日本人は元日にこだわるのか」(2008年1月13日)****************************
 元旦早々に、人騒がせなニュースが飛び込んできた。大晦日から元日にかけての深夜、
槍ヶ岳への登山ルート途上にある槍平で、設営したテント内で仮眠をとっていた登山グル
ープがテントごと雪崩にのみ込まれて4人が死亡したという。現場周辺の地域では、12月
30日から上空に強い寒気が入り、大雪に見舞われていた。私も槍ヶ岳に登ったときに(も
ちろん夏だが)遭難現場を通ったことがあるからわかるのだが、確かに犠牲者となった一
行がテントを張っていた槍平小屋付近は、この山域にしては珍しく緩斜面で槍ヶ岳の登山
ルートの中でも比較的安全な場所である。そのためか事実、夏に訪れれば初心者と思し
き人も結構入山している。犠牲者はいずれも登山経験が豊富でこの地域の降雪量も熟知
していたそうだ。だから自分だけは絶対に遭難することはないと思っていたのだろうが、そ
の日の降雪量はその日にならなければわからないのが厳然たる自然現象でもある。つま
り、極論すれば過去の気象データは一切あてにできないということだ。その日に例年以上
の積雪があれば当然のことながら雪崩も起こるであろうし、最悪の場合には自分がその
犠牲者となるのである。その前には豊富な登山経験も無力である。
 遭難の原因はともかくとして、私が問題にしたいのは、こんな荒天にも関わらずなぜ彼ら
は入山したのかである。理由は新年を槍ヶ岳で迎えたかったということだ。初日の出を槍
ヶ岳の山頂から拝みたかったのだろうが、こういう発想がじつに馬鹿馬鹿しく思われてな
らないのだ。このことに限らず、日本人は元日にいろいろなことをやろうとする風習がある。
「初詣」「初日の出」「初滑り」「書き初め」「初泳ぎ」などなど、「初」のつく行事が全国各地で
繰り広げられ、それがNHKの全国ニュースで報じられている。しかし、よく考えてみよう。ど
れも元日(広く言えば正月)にしかできないことではないのだ。たとえば、「初詣」がそうだろ
う。どこの寺社でも年中無休である。なにも混んでいる正月に行かなくても「詣で」ようと思え
ば一年のいつでも「詣で」ることができる。さすがに夏にスキーはできないが、雪が積もって
いるシーズンならいつでも楽しめる。ましてや海で泳ぐのなら夏の方が気持ち良いに決まっ
ている。なにも酷寒の元日に全身に鳥肌を立ててまで海に入らなくてもよいではないか。日
の出に至っては晴れてさえいれば一年中見ることができる。これも元日に限って、しかも日
の出という自然現象を「見る」のではなく「拝む」対象とする理由がわからない。
 その人がその年の最初にその行為をすれば、その時点でその人にとって「初」になるの
ではないかと私は思う。たとえば会社が多忙でなかなか夏季休暇が取れず、ようやく、8月
31日になって今年初めて海に出かけることができたとしよう。そしたらその人にとって8月
31日がその年の「初泳ぎ」になる。それで良いではないか。私は高層住宅に住んでいるの
で、季節によっては毎朝の出勤時刻がちょうど日の出の時刻と重なる。だから今まで数え
切れないほど日の出を見た。だから、元旦に日の出を見に行ってみたいと思ったことは一
度もない。北海道の根室市にある納沙布岬が日本で最も早く日の出を拝める場所だとい
うことで元旦に大勢の観光客が訪れるそうだが、それを見に行ったところでどれだけの意
義があるのだろうか。
 今回の山の遭難にしてもそうだ。確かに槍ヶ岳の山頂から望める光景は360度どこをと
っても素晴らしい。しかし、そんなに槍ヶ岳に登りたければ雪がすっかり解けて山開きして
から登れば良いではないか。それでも槍ヶ岳クラスの山行ともなれば、それなりに危険と
背中合わせになるのである。それをわざわざ大雪警報が発令する中、雪崩を覚悟で行く
とは自殺行為に等しい。もっと切実な理由があってどうしても大雪の中を登頂せざるを得
ないのなら遭難にも同情の余地もあるが、「新年を槍ヶ岳で迎えたいから」という、きわめ
て個人的な欲望で入山しそれで遭難して山岳救助隊ら大勢の人に迷惑をかけているのだ
から、元日にこだわる日本人の風習には全く呆れるばかりである。

    (塾長コメント: 次の写真は、登山を趣味とされている方から頂いた今年の年賀状である。

              

             この写真を見ると、毎日見ている日の出とは何かが違う神々しさが感じられる。
            決して逆戻りできない時間とともに我々が生きているという実感を元日に確認す
            ることもあながち無意味なこととは思われない。)

250「平成19年を振り返って」(12月23日)********************************************
 今年も一年を振り返って書くときが来た。個人的には今年もこれといって不幸なできごと
は何一つなかった。事件の被害にも遭わなかったし、怪我も病気もしなかった。インフルエ
ンザやノロウイルスどころか風邪もひかなかった。今年も素晴らしい仲間に出会い、たくさ
んの良い思い出をつくることができて、とても充実した一年を過ごすことができた。だが、世
の中はどうか。やはり今年も、歓ぶべきことよりも憂うべきことが、はるかに多かったように
思う。一言で言えば「偽装」にまみれた一年であった。そのせいだろう、財団法人日本漢字
検定協会が全国から公募した今年の世相を表した漢字は2位以下を大きく引き離して「偽」
と決まった。建築に関しては耐震偽装に続いて耐火偽装の物件も発覚した。生命保険・損
害保険会社では保険料の不払いも目立った。大手の英会話学校「NOVA」の授業料先取
り倒産もあった。人材派遣会社の偽装請負事件も発覚した。
 しかし、「偽」の筆頭に挙げるべきものは何といっても食品業界のそれだろう。生命にかか
わるかもしれないという点では耐震偽装や耐火偽装と同罪だが、毎日の食事で口に入るも
のだけに、より悪質であると思う。まず1月に不二家が期限切れの牛乳を使ってシュークリ
ームを作っていたことが発覚した。これが一連の偽装問題の始まりともいえる事件であった。
その後まもなく北海道の苫小牧市に本社がある食肉加工卸会社ミートホープによる「偽ミン
チ」が発覚した。牛肉よりも安価な豚肉や鶏肉を混入したミンチ肉を「牛肉100%」と銘打っ
て出荷していたのである。まさに四字熟語の「羊頭狗肉」を地で行なったような事件である。
それだけではない。外見上も牛肉と思わせるようにするために、家畜の血液をも使ってわざ
わざ赤く着色させていたという。続いて同じ北海道の道都札幌市に本社を構える石屋製菓
では賞味期限を改竄をした「白い恋人」を販売していたことが発覚した。「白い恋人」といえ
ば北海道を代表する土産品として全国的に知られている銘菓である。そして、三重県伊勢
市に本社を置く「赤福」でも製造日を偽っていた。そればかりか店頭で売れ残った製品も再
使用して出荷していたという悪質ぶりである。赤福といえば創業300年を誇る関西を代表す
る老舗である。そんな信頼性の高い企業でもこの体たらくであった。しかも不二家の件が発
覚した以後は売れ残り商品の再使用を、こっそり中止して再使用の事実を隠していた。しか
し回収品の再使用は7年前から、製造日の印刷の訂正は34年前も前からずっと行なわれ
てきたというから、大半の人は賞味期限を偽装した赤福餅を食べさせられていたことになる。
まさに「知らぬが仏」である。秋田県の会社では「比内地鶏」と銘打って別の鶏肉を使った商
品を販売し続けていた。この「地鶏」問題は、その後、比内のみならずあちらこちらで生産地
や素材の偽装が明るみに出た。これでもう「偽装」は終わりかと思っていたら、大阪の高級
料亭「船場吉兆」でも取締役の指示の下で商品の賞味期限を記したラベルを張り替えてい
たことが発覚した。さらに船場吉兆では人気メニュー「但馬牛すき鍋御膳」に九州産の牛肉
を使うなど、食糧品の産地の偽装も犯していた。
 こうした「偽」が明るみに出た理由が、社員の内部告発によるところが大きい。製造や販
売の現場では「採用されたからには会社に骨を埋める覚悟で働く」といった愛社精神のあ
る正社員に代わり、契約社員・派遣社員・パート・アルバイトといった極めて短期間の有期
雇用で働いている人が大半を占めるようになったかである。正社員なら自分の生活設計が
崩れる恐れがあるから悪事とわかっていても秘密保持に努めるだろうが、彼らは会社に対
してさほど愛着がないから、経営の方針に矛盾や不満を感じれば、それを外部に漏らすの
は当たり前だし、雇用期間が終れば会社と無関係の人間になるのだからなおさらであろう。
私はことあるごとに長引く不況と非正規社員の増加を嘆いてきたが、彼らがいなければ内
部告発もなく、したがって今後も偽装工作が続けられていたのかと思うと、空恐ろしくなった。
 こうした「偽」に対して「消費者をバカにしている」と憤慨する気持ちはもっともだが、だから
といってこれらの行為を100%会社の責にすることはできないということも指摘しておかな
ければなるまい。会社にしても偽ってでも経費を抑えなければ存亡にかかわるという経営
状況だったからである。元号が昭和から平成に代わって来年で早くも20年になるが、顧み
るとこの20年間のうち好景気で儲かったと喜ぶことができたのは最初の数年しかなかった。
あとの15年余りはほとんど不況だったのである。これだけ不況が長引けば経営が悪化す
るのが当然であるし、「発覚しない程度に誤魔化して経費を抑えよう」と画策するのも必然
的な結果だと思う。だから、不況に対して有効な対策を講じて活気をもたらすことができな
かった政府の経済政策こそ最も責めるべきであろう。先述したとおり非正規社員の内部告
発のおかげで偽装工作が相次いで発覚したのだが、考えてみれば非正規社員が、どこの
企業にも少なからずいるという現実そのものが、そもそも尋常ではない事態なのである。そ
の証拠に首都圏でも近畿圏でも毎日必ずどこかの鉄道線で人身事故が起きている。年間
で3万人を越える自殺者が続いていること、そして、その自殺者の多くが経済的な困窮を理
由にしているのもここ数年以上全く改まっていない。一部の報道には「景気は上向きに転じ
た」などと書かれてはいるが、依然として企業も国民もその大部分は水を求めて喘いでいる
金魚のような状況に置かれているである。
 「民」だけではない。「官」もまた「偽」にまみれていた一年であった。政治活動費の偽りも
然り、インド洋で行なわれたアメリカの軍艦に対する給油量の偽りも然り。守屋防衛事務次
官の山田洋行との癒着に絡むゴルフ接待疑惑も、国民の信頼を大きく裏切る行為であった。
さらには官庁の裏金工作もあったし、国民から徴収した年金を社会保険庁の職員が横領し
ていた事実も発覚した。「消えた年金」問題も依然として解明されていない。舛添厚生労働
大臣はこの問題に関して「全件に関して徹底的な調査をし、最後の一人、一円まで支払う」
と公約したのだが現状は解明への道はほど遠く絶望的ですらある。薬害肝炎問題でも「偽」
が明るみに出た。血液製剤「フィブリノーゲン」を投与されたためにC型肝炎に感染した疑い
が濃厚な418人の患者を特定できていたにもかかわらず、その症例リストが、厚生労働省
に放置され本人には全く告知されていなかったのである。患者の中には、感染させられたC
型肝炎の悪化が原因で死亡した者もいる。少なくとも患者情報の資料を提出した2002年
の時点で患者に告知されていれば、たとえ肝炎を発症していたにしても病期の進行を遅ら
せるなど迅速に適切な措置を講じることができたはずだ。死亡した患者の遺族が国や製薬
会社を相手取って提訴したのは当然の行為だが、たとえ全面勝訴したところで失われた命
は2度と帰って来ないのだから、原告にとっては嬉しくもなんともないだろう。
 とにかく今年は「偽」にまみれた一年であった。今年の流行語の一つに「どんだけ〜」があ
ったが(残念ながら1位ではなかったが)私に言わせれば、「どんだけ偽装すれば気が済む
のか」と嘆かずにはいられないほど、偽装が多かった。もはや「信じられるものは何一つな
い」と断言しても過言ではない。それほど、官民問わずさまざまな分野で国民を欺く行為が
見られた。否、過去から欺き続けてきた悪事が一気に暴露したというのが正確な表現だろ
う。来年は、1年間の世相を風刺する漢字が「信」になることを願ってやまない。

    (塾長コメント: いま世の中全体がデジタル化しているように感じる。あいまいさが敬遠され、
             何事も白黒つけようという世界である。このような世界に私は一抹の不安を感
             じる。消費期限や賞味期限が1日でも過ぎていると捨ててしまうという方が少
             なからずいるらしい。この事実に私は驚きを隠せない。食べられるかどうかを、
             なぜ自分の五感を使って確かめようとしないのか不思議だ。物が有り余る時
             代にあって、こんなことを嘆いていても無力感を味わうだけかな?)

     菅ちゃんからの返信です.....
      ご指摘の消費期限や賞味期限につきましては、製造物責任者法の関係で厳格
     に規定されるようになったものです。たとえば弁当を購入した場合、従来は製造日
     を印字するだけで、あとは「お早めにお召し上がり下さい」と注意するだけでした。
     しかしそれではどの程度の時間までが「お早め」なのかが、個々人の解釈によっ
     て曖昧になってしまいます。ある人は「製造後1時間以内だ」と感じていても、別の
     ある人では「6時間くらいまでなら・・・」と解釈しているということが往々にしてあり
     ます。そういう状況下では、その弁当を食べた結果事故が発生した場合、責任の
     所在が製造者の側にあるのか消費者の側にあるのかがわからなくなってしまいま
     す。そこで消費や賞味に対して期限を明記するようになったのではないでしょうか。
     例えば弁当の場合は、製造した日時を印刷すると同時に、「2時間以内にお召し
     上がり下さい」と指示するようになったのです。このように明記されますと、消費者
     としては「製造後2時間以上経過してから食べた場合は、いかなる事故が発生し
     ても一切責任を負いません」と製造者側から言われたのも同然です。ですから消
     費者は「期限が切れたら廃棄する」という行為に出るわけで、これは至極自然な
     行動だと思います。私自身、やはり賞味期限が切れた食品を食べるのは気持悪
     いですね。だいいち後で体調が悪くなったらどうしようなどと心配しながら食べてい
     てもおいしくも何ともありません。ですから、もし1日でも期限が切れていたら私も
     直ちに廃棄します。まあ捨てることのないように期限内にいつも食べ尽くしますが
     ・・・。「食べられるかどうかをなぜ自分の五感を使って確かめようとしないのか」と
     の意見にも一理ありますが、問題のある食品なら必ず五感で感知できるとは限ら
     ないのが現実です。たとえば食パンの表面にカビが生えていたら誰でも視認でき
     ますが、ウイルスや細菌が付着している食品を五感で感知するのは無理です。特
     に弁当の中に生ものがある場合はなおさらその危険性も高まりますから、やはり
     五感に頼らず賞味期限に神経質にならざるを得ないのではないでしょうか。この
     ことは食品に限ったことではありません。たとえば何十年も使い続けたテレビや
     洗濯機などは、漏電や火災を引き起こす恐れもあるので、たとえまだ使える状態
     であっても危険です。メーカー側は個々の家電製品に対して「本機の補修用部品
     の保存期限は製造打ち切り後×年」と定めていますが、それはそれ以降の使用
     に関しては安全を保障できないからです。したがって、我が家では購入年月日を
     逐一記録し、所定の年月を経過した製品は故障の有無にかかわらず買い換えて
     います。

    (塾長コメント: 私の場合、「もったいない...。」が先にきますね。多分いま営業を禁止され
             ている赤福なども、そういう思いが根っこにあると思います。ただ、そういうこと
             を企業がやってはいけないと思うのです。企業が自信を持って送り出す商品で
             すから一点の疑義が有ってもいけないし、一つの事故も起こしてはいけないと
             思います。それに対して個人は違うと思います。企業が安全と思って送り出し
             た商品をどう扱うかは個人の責任でいいと思います。そういう思いから上記の
             コメントとなりました。
              もっとも消費期限やら賞味期限は企業が独自に決めるものなので、かなり用
             心深く早めに日時が設定されています。ですから、その日時より多少過ぎてい
             ても、ほとんど問題は起こらないはずです。「1日でも期限が切れていたら廃棄
             する」というのは、私の場合、まさに「信じられない...!」ですね。
              電化製品も壊れるまで使います。何年か前にも、それまで20年位使っていた
             テレビのブラウン管が「プッツン...」と音がして映像が途切れた瞬間に立ち会
             いましたが、何となく「よく頑張ったな!」と労いの気持ちがわき起こりました。)

249「苦労してでもローマ字入力?」(12月16日)**************************************
 「あれ?何だこりゃ?文字が入らないよ、これ。」そんな素っ頓狂な声が職員室の奥から
聞こえるときがある。そのたびに、「ああ、また俺が原因か?」と思う。
 どこの学校でもそうだろうが、職員室の奥に「コンピュータルーム」なる一角がある。そこ
には数台のパソコンとプリンタなどの周辺機器が置かれていて、必要に応じて職員が利用
している。そのパソコンだが、どうやら日本語の文字を入れるのに、わざわざ「ローマ字入
力」で行なっている職員がいるらしいのだ。それも少なからずいるらしいことが最近になっ
てわかった。私が自分で初めてパソコンを所持するようになったのはWindows95のOS
を搭載した機種だったが、それ以来13年間当然のことながら日本語の文字入力は「かな
入力」一筋である。しかし、初めてパソコンに触れたときからローマ字入力しかしたことが
ないという人もいるというから驚きだ。私が職員室のパソコンを使おうとすると、前に利用
した職員が「ローマ字入力」の設定で入力している場合がよくある。そんなときは文字入
力の「プロパティ」を呼び出して「かな入力」に戻して利用している。そして自分が使い終わ
った後はそのままにして立ち去るから、次に利用した職員がローマ字入力をしようとする
と本人の意図しない文字が入力されてしまう。それに対する反応が冒頭に挙げた素っ頓
狂な声となって現れるのだ。文字入力方式の設定を変更できる職員は黙って変更してい
るのだが、中にはできない職員もいてそんなときは大騒ぎになる。そのたびごとに「これっ
てもしかして俺が使った後のパソコンか?」と思ってしまうのだ。
 何年か前まで、私は文字入力を「ローマ字入力」で行なう人がいるという事実を知らなか
った。外国人ならいざ知らず、日本人である以上は全員が「かな入力」で行なってはずだ
と疑いもなく信じていた。だから職員室で誰かが大騒ぎして私が対応すると、いつも必ず
次のような会話になった。
    私:「どうしたんですか?」
 同僚A:「文字が入らないんだよ。故障かな、これ。」
    私:「じゃあ私がやってみましょうか。何を入れたいんですか?」
 同僚A:「ここにさあ、『次年度の教科書の選定について』ってタイトル入れてくれる?」
    私:「ああ、いいですよ。」
 ***************5秒後***************
    私:「ちゃんと入るじゃないですか、ほら。だいじょうぶですよ。」 
 同僚A:「あ、ほんとだ。何でさっき入らなかったんだろう?」
    私:「じゃあ、先生入れてみてください」
 ***************私が自席に戻って間もなく***************
 同僚A:「あれ?やっぱり入らないよ。おい、どうなってんだ!これは」
 同僚B:「あ、これ、ローマ字入力になっていないよ。これじゃあ入らないよ」
 同僚C:「誰だよ、かな入力で使っているのは?」
と、このような同じ会話が聞こえてくるのだ。その後、日本語をローマ字で入力する職員が
いるという事実を知ってからは、設定を変更してあげて、ローマ字入力ができるようにして
いる。しかし、自分が忙しいときはやはり変更せずに席を立ってしまうから、私の不在中に
上述のような光景が繰り返されているのかもしれない。
 それにしても、どうして日本人が日本語を入力するのにわざわざローマ字を使うのか。そ
れが最も解せない。だいたいローマ字というものは外国人が日本に来た時「東京」「大阪」
といった固有名詞を発音できるようにするためにあるものであって、もともと平仮名・片仮
名・漢字を読むことができる我々日本人にとっては、ローマ字はなくても何ら不自由しない
はずである。だから、私はローマ字はほとんど覚えていない。それに今更学ぶ必要もない
だろう。ところがローマ字で日本語のかなを入力するためには五十音の全てをローマ字で
書き表すことができるよう勉強しなければならない。それだけでも面倒くさい。そして、キー
ボード上にあるアルファベッドの配列も覚えなければならない。これも「A」のキーから順番
に横に並んでいるわけではないから、覚えるのは大変である。それだけではない。ローマ
字入力にするとキーを叩く回数が格段に増える。かな入力ならほとんどのかなは、その文
字が書かれたキーを一度押すだけで出せるが、ローマ字で入力すると母音以外のかなは
すべて2箇所以上のキーを押下しなければならない。「ち」を”chi”と押す場合など、かなに
よっては3箇所にもなる。そんな面倒なことをしてまで、なぜ日本人が日本語を入力するの
にわざわざローマ字入力にするのだろう?ところが、パソコンではなく携帯電話でメールの
文章を作成するときは、日頃からローマ字入力でパソコンを操作する人でも、かな入力で
行なっているではないか。
 英語など、日頃からアルファベッドを頻繁に利用する教科の職員がローマ字入力にする
というのは、理解できる。英文を打った直後に日本語の文を打つのに、いちいち入力機能
の設定を変更するのは煩雑だからだ。しかし、少なくとも国語科の教員ならアルファベッド
を利用する機会はほとんどないはずだ。現に私自身の経験では「傍線A〜Eの読みを答え
なさい。」と書きたいときに”A”とか”E”などと入力する程度だ。あとの99%以上は全て日
本語である。だったらかな入力で充分なはずだ。ところが、あるとき国語科だけで忘年会
を催したとき、その席で私が、「皆さんの中でパソコンで文章を作られるとき文字入力をロ
ーマ字入力にされている方いらっしゃいますか?」と尋ねたところ、「あははは。そんなの
誰だってローマ字入力だよ」という答えが返ってきて、事実私以外の国語科教員はほとん
どローマ字入力だったことがある。せめて国語科ぐらいは「かな入力」を死守しようよと提
案してはみたのだが・・・・・・。これも、たとえば「選挙公約」を「マニフェスト」と表現して、日
本語で表現できる語彙をもカタカナ英語を使おうとするように、何でもかんでも欧米の文化
を是として日本の文化を捨てようとする昨今の悪しき風習と無縁ではないだろうか。

    (塾長コメント: 私もワープロ時代は「かな入力」でしたが今はすっかり「ローマ字入力」ですね。
             菅ちゃんの思いとは逆で、「かな入力」をしている方を見かけると、「エッ!」とい
             う思いが頭をよぎります。ま〜入力方法はその人の好みでいいんじゃないです
             か...。でも、入力の負担を考えると、やはり、「ローマ字入力」かな?タッチタ
             イピング向きで覚えるキーの数が少ないから。ただし、「を」を「w」「o」と入力す
             ることを知ったときは、さすがに引きましたが...。)

248「ブログを始めてみたくなったけど・・・」(12月 9日)*********************************
 一昨日の『日記とお知らせ』に、私が生徒のブログをいくつも訪問したことを書いた。多感
な年ごろである16歳か17歳の高校生が自分の思いを赤裸々に綴っていることに感動する
とともに、高校生でも立派にブログを開設して記事を書いているのだから自分もブログを始
めていろいろ訴えてみたいという衝動に駆られた。「今さらブログなんか始めんでも、訴えた
いことは、このホームページに山ほど書いとるやんか?」と突っこまれそうだが、周りの人が
やっているのを見るとなぜか自分も無性にやってみたくなるという、これまた私の悪い性癖
が顔を覗かせてしまうのだ。
 ブログを開設すること自体は簡単だが、いくつか問題がある。言うまでもなく、ブログとは
”web log”、つまり日本語で言うところの「日記」に相当するから、まず今まで当HPで続
けてきた『日記とお知らせ』をどうするかがさしあたっての問題になる。これも従来どおり毎
週書き、新設のブログにも定期的に記事を書くのは苦しい。最初からブログを「不定期更
新」と銘打ってしまえばラクだが、そうすると今度は長続きしないような予感がする。始めて
もほどなくして「幽霊ブログ」となってしまうのでは、毎日のように更新し続けている教え子か
ら笑われることは目に見えている。この『日記とお知らせ』ですら毎週1回の更新で、事実
上『週記とお知らせ』と化している体たらくである。(それでも書く内容に困ることがたまにあ
る)短期間に重大な出来事が重なれば両方に異なる記事を書くことも可能だが、そうでない
と書く内容がどうしても同じになってしまう。同じことを書くのならブログをわざわざ開設する
意味もないだろう。だからといって『日記とお知らせ』をここからブログに移転するだけという
のも芸がない。今まで書いてきたことの続きを書くだけなら、やはり開設する意義がない。
 となると、『日記とお知らせ』は現行のまま存続させるとして、ブログに何を書くかということ
が次なる問題になる。折角新設してまで書くのだから、このホームページにはとても告白で
きなかった「読者の、いまだ知られざる私の真実」を赤裸々に書いてみたいというのが本音
だ。だが、そういうことをしたいのなら何もブログにしなくてもこの『日記とお知らせ』に、これ
から書き込んでいけばいいような気もする。そのほうが多くの読者に見ていただけるし、私
と同じ苦しみや思いを抱いていらっしゃる方々にも多少なりとも励みとなることだろう。『さく
ぶん上手』が既に完成し、『こてんこてん』も今年度末には完成するのだから、その分の時
間を「読者の、いまだ知られざる私の真実」に充てることぐらいはできる。それとも、このホ
ームページの読者に読まれては困ることを書くか?それならブログにするしかないが、そう
なると今度は、ブログのアドレスそのものを公表できなくなるから、訪れる人が誰もいない
「極秘のブログ」になってしまう。誰にも読んでもらえないのでは、何のために書くのかがわ
からなくなってしまう。かといってブログのアドレスを公開してしまえば、結局はここに書くの
と同じことになる。
 そこでここに書く『日記とお知らせ』をブログ風にし、装いを新たにスタートするという手を
思いついた。今までのように長い文章にするのではなく、詩のように倒置法・体言止め・連
用中止法を駆使した(文法用語ばかりでごめん・・・)、改行の多い文にする。たとえばこん
な感じだ。

   ああ、また今日も犯してしまった。3日前と同じミスを。
  てっきり知っている人と思いこんで声をかけたら、全くの人違いだったというミスを。
  そうかと思うと、職員室にある日突然新人が入った気がする。
  11月のこの時期になぜ?
  そう思っていると、その人は失礼なほど馴れ馴れしく俺に接してくる。
  やがて、ある職員が「△△さん」と、その人の名前を呼ぶ。
  なんだ、△△先生だったのか。
  全く気づかなかったよ。
  △△先生は前日に美容院に行ってヘアスタイルを改めただけなのだ。
  なのに俺の脳はもう別人と認識してしまう。
 
   どうして俺はかくも人の顔を覚えられないのだろう。
  名前はすぐ記憶できるのに・・・。
  この間もそうだった。
  冬至に近い、放課後の職員室のこと。
  ある女子生徒がノートの提出をしに来た。
  すぐ中身を見て返したが、ノートのどこにも名前が書かれていない。
  これでは提出の評価のつけようがないから、
  「これ、名前書いていないけれど、何組の誰だったっけ?」
  と迂闊にも聞いてしまった。
  相手は驚いた顔をして答えた。
  「×組の○○です」と。
  それを聞いて俺は愕然とした。
  ○○なら、去年も一昨年も教えてきた生徒ではないか!
  あと3ヶ月足らずで私は卒業するのに、
  この期に及んでいまだに私の顔も覚えてくれていないの?
  そう生徒の目が悲しそうに訴えている。
  ああ、また生徒の心を傷つけてしまったな・・・。
  傷つける心算は毛頭なかったのに・・・。
  後悔するが、もう後の祭りだ。

   それでも教員という職を選んで、まだマシだった。
  思い返すと、昔、俺は刑事に憧れていた。
  しかし、こんな有様では絶対に務まらない。
  「犯人は変装している可能性が高い。よく注意して見張るんだ!」
  空港のロビーで張り込みを始める矢先に、こんなことを捜査一課長に命じられたら終り
  だからだ。
  きっと俺の目の前を犯人が堂々と歩いても、俺は気づかずに犯人を逃すだろう。
  解決できる事件をどんどん迷宮入りにしてしまうだろうな・・・・・・。

   どうすれば人の顔を素早く覚えられるようになるのだろう?
  誰か教えて。


 と、まあ、少年時代に戻った自分のつもりになって、こんな感じの文章にして赤裸々に書
き綴るコーナーに改めてみたいのだが・・・。ただ、塾長のご意見を伺っていないこともあり、
この問題の結論は出せない。新規にブログを開設するかも、この『日記とお知らせ』を来年
(来年度?)からブログ風に模様替えするかも、とりあえず、当分保留にしておこう。

    (塾長コメント: 当HPで活躍されている菅ちゃんが新規にブログを開設されることになりました。
             おめでとうございます。当HPでは今後も菅ちゃんのページのメンテナンスを継続
             し、菅ちゃんのページを応援していきたいと思います。)

247「腹立たしきもの(Part2)」(12月 2日)******************************************
 前回の「腹立たしきもの」を掲載したところ、「やはり関西人だけの特性なのかもしれませ
んね」といったご意見をいただいた。一言で言えば、関西でいうところの「いらち」。標準語
で言えば、若干ニュアンスは異なるが、いわゆる「せっかち」。少しでも速く、たとえわずか
でも時間を無駄にしたくない。そんな意識が人一倍強いのかもしれない。しかし、私にとっ
ての「腹立たしきこと」はそればかりではない。今週のは、先週以上に腹立たしいものを挙
げてみたい。
5位・・・公共交通機関での車内マナーを守らない人
 以前、車内で実際に測定したことがあるのだが、携帯電話で通話しているときの声量は、
みなさんが想像するほどの音量ではない。むしろ、複数の人が車内で会話している場合の
声量の方がはるかに大きい。もっと言えば、バスのエンジンや電車のモーターから発せら
れる走行音の方が大きい。だから音の大きさだけを問題にするならば、車内で通話してい
ても全く迷惑にはならないはずだ。しかし、携帯電話で喋っている人を見るとなぜか腹が立
つ。理由は声量の大小でも「通話」という行為そのものに対する善悪でもない。電鉄会社が
「禁止」と定めた行為を平然と敢行することに対する怒りがこみあげてくるのだ。その他、混
雑した車内で座席を2人分占領している人とか、通路やドア付近にしゃがみこんでいる人に
対しても腹が立つ。どこかのテレビドラマではないけれど、「痛い目に遭いたくなかったら電
源を切りな」と言って、その人の眼前に刃物でもつきつけてやりたい、そんな過激な衝動に
駆られる。まあいくら正義の通告といえども、実際にやったら銃刀法違反の罪に問われるか
ら実行はしないが。
4位・・・風俗店が広告になっているティッシュを渡されたとき
 街頭でチラシやティッシュを配っている人がいる。しかし、よく観察していると通行人の全員
に配っているのではない。たとえば、眼鏡をかけている人にはコンタクトレンズのチラシが渡
されるが、裸眼の人には渡さない。女性にだけ渡すのは化粧品や装飾品、あるいは生理用
品などのチラシだろう。では、私に配布しようとしているチラシやティッシュはどんなものか。
以前、ある年の一年間に、配られるままに受け取った300個近いティッシュを貯めて広告業
種別に分類したことがあるのだが、見ると本当にろくなものがない。私は眼鏡をかけている
からコンタクトレンズの広告は納得できる。他にはパチンコ店や居酒屋店の宣伝。どちらも
私には無縁だが、男性の社会人なら多くの人が嗜んでいるから、これもまあ許せる。しかし、
それらを除く残りの70%近くは性風俗関係のものだ。この人に渡せば店を訪れてくれるとで
も外見で判断して渡しているのだろうか。だとしたら、非常に失礼な話だ。一度だけだが「俺
がこんな店に行く思うて渡しとんのか!ボケ!」と怒鳴って渡されたティッシュをその人の顔
に叩きつけてやったことがあった。それ以来、ティッシュの広告が何であれ、私は受け取ら
ないことにしている。
3位・・・酔っ払いの吐瀉物
 これは12月・1月と3月〜5月に限って急に増えるからすぐわかる。理由は12月は忘年
会、1月は新年会、3月は送別会、4月〜5月は歓迎会のシーズンだからだ。いい年をした
オッサンが、駅のホームだろうが車内だろうがおかまいなく嘔吐する。本人は泥酔していて、
どこなら嘔吐して良い場所かという判断力はおろか意識さえ朦朧としている状態だから、始
末に終えない。だからといって公共の場所でもかまわずに嘔吐することが許されるものでは
ないだろう。吐瀉物は非常に汚いし不快なこと極まりないからだ。普段から患者の吐瀉物や
排泄物を見慣れている医療従事者なら何も感じないのだろうが、私はとても正視できない。
見てしまうと自分も吐き気に襲われるから、その日の食事は喉が通らなくなるほどだ。駅の
ホームに吐き散らされると、たとえ掃除をしたとしても数日間は跡が残るから、いつも不快な
気分にさせられる。酒のない忘年会や歓送迎会ならどんなに素晴らしいことかといつも思っ
てしまう。だいたい酒がなくてもその人に歓迎や惜別の心情くらいは言葉で伝えられるはず
だ。どうしても飲みたければ飲んでもいいが、ゲロを吐くまで飲むな!これだけは声を大にし
て言いたい。
2位・・・宗教の勧誘
 これは信者と思しき女性が自宅にまで押しかけて来るから迷惑だ。何だか知らないが妙
な冊子やら本を無理やり渡そうとするから、一度だけ受け取ったその場で燃やしてやった
ことがある。受け取る直前に「私に渡したっちゅうことはこれはもう私の所有物やな?」とわ
ざと質問して、相手から「はい」と言質を取った瞬間にライターで炙ったのである。すると相
手は怒りの表情を見せた。「私の所有物なら、それをどう処分しようと私の勝手やろ!」と
怒鳴りつけたら、その人は涙を流さんばかりの顔をして帰っていった。本当に素晴らしい場
所であれば宣伝しなくても人が集まる――これは私の持論だ。安くてうまいラーメン屋には
長蛇の列ができる。予備校でも人気講師が担当する講座には立錐の余地がないほどの受
講生が教室に集まる。それと同じ理屈で、本当に素晴らしい教団なら、信者がわざわざ布
教して回らなくても、その教団の信者になりたいと思う人が殺到するはずである。このこと
は逆に言うと、布教しなければ信者を増やすことができないというのは、その教団にはそれ
だけの値打ちしかない証拠だということである。どうしても信者を増やしたいのなら、それだ
け世間から高く評価される教団に成長することだ。それを棚に上げて布教運動に熱を入れ
て戸別訪問するなどもってのほかである。
1位・・・結婚相談所の電話
 業者からの勧誘には変わりがないが、上記の4位と2位に挙げたものと決定的に違う点
は、その人の個人情報を調べた上で勧誘の電話を入れてくることだ。個人情報を入手しよ
うとする行為も許せないし、また個人情報を売っている業者も許せない。さらに腹が立つ
のは電話での話し方である。黙って聞いていればどんどん調子に乗ってくる。まるで結婚
するのが「正しい生き方」で、しない人が「誤った生き方だ」と言わんばかりで結婚を勧誘
する。何でそんな説教まで聞かされなければならないのか。そもそも「生き方」なんて人そ
れぞれだろう。社会や他人に迷惑をかけなければどう生きようと自由なはずだ。中には結
婚願望があるのに肉体的な事情で叶えられない気の毒な方もいらっしゃるのである。たと
えば、癌で子宮や卵巣を摘出してしまったら妊娠も出産も諦めざるを得ない。そういう方々
の存在を無視しているとしたら非常識きわまりないし、あまりにも失礼だ。こんな不愉快な
電話にはもう2度と電話に応じたくないから、私はこれまでに数々の嘘をついてきた。ある
ときはもう結婚したことにして「ああ、先月挙式して新婚旅行から帰ってきたばかりですよ」
とか、あるときは父親のふりをして「息子はもう交通事故で亡くなったんです」などなど。また
あるときには「ぜひ僕を会員に登録していただけないでしょうか。じつはAIDSと淋病を患っ
ていて医者からはもう治らないと宣告されたんですが、それでも結婚相手の女性を紹介し
てください。」と応じてみた。すると、その業者からは2度と電話がかかってこなくなった。断
るのなら性病を持ち出すのが一番のようだ。それにしても、こんな嘘をつかないと無礼千万
な業者を撃退できないのだから、なんとも情けない社会だ。

    (塾長コメント: 菅ちゃんの「腹立たしきもの」パート2もスゴイ!ですネ。第5位は、真面目に
             やることを拒否する人がカッコイイと賞賛される世相にあって、そういうタイプが
             増殖しつつありますね。周りから取り残されているよ!ということを、そっと教え
             てあげるとビビるみたいです。第4位は普段はいつも車なので、そういう機会は
             ほとんどないのですが、ポケットティッシュは買うと高いので結構業種を気にせ
             ずもらってしまいますね!家では中身だけ取り出してティッシュケースに入れて
             使うので全然気にしません...。第3位も車利用の私には無縁の世界ですね!
             第2位は、私の家にもよく来ますね!モニター付きのインターホン越しにそれら
             しい人にはドアを開けないで帰ってもらっています。一番困るのは、教え子から
             勧誘されるときですね!どう断っていいか悩みます。第1位は業者も必死なん
             でしょうね。よくマンションに投資しませんかとか職場にまで電話がかかってき
             ます。私の同僚などは、「借金がありますから」とか「寝たきりの老人がいるの
             で」とか言って速攻で電話を切っているようです!仕事の電話と思って取ると
             これでは、直ぐに切りたくなります。我が家では一度留守電にして相手を確認
             してから電話に出るようにしているので、そういう問題はないようです。)

246「腹立たしきもの(Part1)」(11月27日)******************************************
 今回と次回の2週では、清少納言の『枕草子』風に日常の生活で腹立たしく感じる事柄を
列挙したいと思う。
第10位・・・ATMをいつまでも占領するオバハン
 ATM機には「混雑時にはお一人様2回まででお願いします」と明記していることが多い。
しかし、そんな断り書きにもおかまいなく操作し続けている人が少なくない。家族全員分や
っているのか、それとも仕事で社員全員分やっているのか、事情はわからないが、ひどい
のになると5冊も10冊も通帳を脇に置いて何回も操作している。どうしても何度か利用し
なければならないのなら、1回終ったら列の最後尾に並び直すべきだろう。自分はわずか
な時間しかかからないだけに、待たされている私は腹立たしい。
第9位・・・エスカレーターを並列で立ち止まるオバハン
 大阪とはなぜか逆だが、東京のエスカレーターでは立ち止まる人が左側、歩く人が右側
になっている。私はつねにエスカレーターでは歩いている。立ち止まるのはよほど体調が
悪いときぐらいだ。だから左右とも立ち止まられてしまうと前へ全く進めないから非常にい
らいらする。そもそもエスカレーターは、私に言わせれば立ち止まって乗るものではない。
「動く歩道」と同じで、機械の力と自分の脚力の総和で階段を昇降するよりも早く目的階に
到達するための乗り物である。今となっては昔だが、関西で育った私が東京へ来て、まず
驚かされたのは、エスカレーターで誰もがベルトコンベアーに乗せられた品物みたいに立
ち止まって乗っていることだった。非常に時間を浪費しているように思われてならない。
第8位・・・隣のレジに並んでいたほうが早く買い終えることができた場合
 ある程度の規模が大きいスーパーマーケットでは数台以上のレジが設置されている。そ
のどれに自分が並ぶかは、既に並んでいる人の数と先客の持っている買い物かごの分量
で判断し、最も時間がかからなさそうなレジを選択するのだが、自分の予想が外れて隣の
レジの列がどんどん進むことがある。そんなとき、自分の列の前方を見ると、先客が財布
から現金やポイントカードを取り出すのにもたもたしていたり、レジの担当者が新人だった
りする。ETCがなかった時代の高速道路における料金所の渋滞もそうだ。どの車線に並
べば早く料金所を出られるか予想し、ある車線の最後尾に停車するのだが、自分の並ん
でいる車線に限ってなかなか前に進めないと、これもまたいらいらする。
第7位・・・自分より後から入店した人の料理が先に運ばれてきた場合
 「お客様の注文した品物によっては、順番が遅くなることがございます」と、お断り書きが
ある店もあるので、頭では理解しているのだが、それでも自分の注文した料理がなかなか
来ないといらいらする。後から入店した人の料理が運ばれてくると、「もしかして忘れ去ら
れているんとちゃうか」と疑ってしまう。以前、50分近く待たされた末に「料理はまだ来ない
んですか」と逆に店員から尋ねられたことがあった。このときは後から来た客が食事を終
えて会計を済ませていたくらいだったから、私のオーダーした料理は完全に忘れ去られて
いたのだ。また、料理はちゃんと来ても、おかわりを注文したときの対応が遅いのも腹立
たしい。レストランでは「ごはん・味噌汁のおかわりはご自由にできます」と明記した以上は、
おかわりの注文にも迅速に対応してほしい。だいぶ経ってからおかわりが来ても食欲が失
われてしまう。理由は胃が「これで食事は終わったのだ」と思い込むからだ。
第6位・・・少し後に出れば渋滞しないことがわかった場合
 銀行のATMでもスーパーのレジでもそうだが、次のような時は腹立たしい。自分が最後
尾に並んだ当初は前にたくさんの人が並んでいる。長い間待たされた末にようやく自分の
順番が来て用事が済む。やれやれと思ってふと後ろを振り返ってみると、後ろに誰も並ん
でいなかったり、並んでいても2、3人しかいないときがある。少し遅く行けばすぐに用事を
済ませることができたのにとわかると、ものすごく時間を無駄にしたような気がする。道路
でもそうだ。渋滞に耐えてやっと目的地にたどり着いて用事が済んですぐに自分が来た道
を戻ったとき、さっきまでの渋滞が嘘のように消えているときがある。これも時間を浪費し
た気がしてならない。

    (塾長コメント: 菅ちゃんにとっての「腹立たしきもの」が結構あるものですね!第10位は給料
             日の後の振込で大変そうだな〜位。第9位はエスカレーター上を歩くこと自体が
             迷惑に感じる私。危険だからぶつからないでね〜と言いたい。第8位はお気に入
             りの子のレジに並ぶので全然問題なし。第7位は周りに全然注意を払わないで
             話に夢中になっているから全然問題なし。第6位は用事が済めばいいので問題
             なし。)

245「年金納付記録に控除申告書を生かせ」(11月18日)********************************
 今年も年末調整や確定申告の時期が来た。毎年のことだが、契約している各種の保険
会社から控除申告書が送付されてくる。残念ながら地震特約などの一部の商品を除くと
損害保険の控除は今年から対象外になってしまったが、その他の生命保険・個人年金保
険からは送付、さらには国民年金や国民年金基金からもちゃんと送付される。そこでふと
思ったのだが、これを毎年2部、内容証明郵便で送付してもらえないだろうか。控除申告
書には「あなたは今年これだけの金額を支払いました」と金額が明記されている。現状で
は申告書類と一緒に添付して税務署に提出してしまうから、証明書が手元には残らなくな
ってしまう。申告に提出する分とは別にもう一部送ってくれればそれを各自で保管するこ
とができる。そうすれば立派な「納付記録」の証明になり、現在問題になっている年金記
録逸失問題は解決するはずだ。同時に、控除申告書の郵送方法も改善する。現状はハ
ガキが普通郵便で送られてくるだけだが、それでは郵送上の事故などで不配となる恐れ
もある。そこで郵便局側にも送付の記録が残るよう内容証明郵便にする。そうすれば証
明書は確実に手元に届くから郵便の配達上の過失もなくなるばかりか、内容証明郵便な
ので社会保険庁が納付の記録を散逸しても大丈夫なのではなかろうか。

    (塾長コメント: 住宅の火災保険の証明書が今年は届かないな〜、地震保険の分で控除額
             は確保されるから、ま〜いいや...と思っていたら、そういうことだったんです
             か!地震保険による控除額が大幅に増えて、今年は若干減税の恩恵に与れ
             るかな?)

244「体育会系の部活動も文化祭に参加させよう」(11月11日)***************************
 「読書の秋」「スポーツの秋」「食欲の秋」といろいろ言われるが、秋といえばまた学園祭
のシーズンでもある。中学も高校も、各校の年間行事計画に従って文化祭を催し、来校者
を集めている。クラスの出し物の他に文化系の部活動、そして、有志団体にPTAが参加す
るのが一般的な形だが、これに体育会系の部活動も参加させてみてはどうだろう。過去に
自分が勤めた学校の文化祭に行くといつも思うのだが、体育館は演劇や吹奏楽部など音
楽関係の出し物で利用されているものの、グラウンドやプール、テニスコート、さらには、柔
道場や剣道場は特に使用していない学校が多い。これはじつにもったない話だ。さすがに
11月にもなると九州や四国の南部でもない限りプールは無理だが、その他の施設は各部
活動が何らかの出し物で参加しようと思えばできるはずだ。9月に催す学校ならプールも使
うことができる。開催する日はたいてい土曜日・日曜日だから、他所の学校の部員を招待し
て試合を見せるもよし、「初心者××教室」と銘打って部員が入場者に技術指導をしてもよ
し。屋外の施設で活動をする陸上部・野球部・サッカー部・テニス部、また屋内で活動する
部のうち柔道部・剣道部など、参加できる部活動はいろいろある。いずれにしろ折角の施
設と機会を生かさない手はない。スポーツも立派な「文化」なのだ。

243「NOVAから学ぶべき教訓」(11月 8日)*****************************************
 英会話学校最大手といわれれるNOVAが会社更生法の適用を申請した。今までおよそ
30万人もの受講生が全国各地にある800の教室で英会話のレッスンを受けていたのだ
が、全ての教室が閉鎖され休校となった。授業を担当していた5000人の外国人講師と
2500人の日本人社員に対する未払いの給与と、受講生に返還すべき授業料など、負債
総額は439億円ともいわれている。たとえ規模を縮小するにしても現状と同様に今後も授
業を継続するためにはスポンサーによる経営支援を求めるしかないので、保全管理人が
目下支援先の企業を探している。だが、「会社にほとんど現金がない」(金融機関の話)の
でもはや一刻の猶予も許されず、そう悠長に探し求めて待つわけにはいかない。もしこの
まま、支援する有志の企業が現れなければ、NOVAは破産手続きに移行せざるを得ない。
そうなると受講生が前払いして引き換えたレッスンチケットはすべて紙切れと化し、職員へ
の給与も未払いのままとなる。特に深刻なのが外国人講師だ。賃金が支払われていない
ためもはや本国に帰る航空機代もなく、このまま日本で暮らすにしても収入がないままな
ので家賃すら支払えない人もいるという。
 こうなった理由は猿橋望前社長のワンマン経営にあると指摘されている。彼は日本人の
外国人に対するコンプレックスに着目して「必ず儲かる」と思って英会話学校を起業した。
当時、外国人講師によるレッスン料は1万円が相場だったが、これを2000円と格安にし
て幅広い層からの客集めに成功した。しかし、外国人講師に対する社内研修はたった3日
しかないなど、安かろう悪かろうという批判を浴びていた。猿橋社長は社員の使い方も荒か
ったという。時間外労働に関する労使協定がなかったり、社会保険に加入させていなかっ
たりで、社員はいくらでも補充の利く「使い捨て」の人材と考えていた。さらに、社長はすべ
てを自分だけで決断し、他の役員・幹部社員には事後報告しかしなかったという。経済産
業省が今年の2月に立ち入り検査をし、6月に一部の業務停止命令を下してからはNOVA
の経営は急速に悪化し、受講生からの中途解約が相次いだが、猿橋社長は取締役ら幹部
に対して何の説明もなかった。企業運営に関しては「儲ける」ことさえできればあとはどうで
もよいという商法だった。そして、儲けたお金は自分に対して湯水のごとく浪費したようだ。
保全管理人によって大阪本社の社長室が報道陣に公開されたが、専用のサウナや茶室な
ど、世界で最も高級なホテルの客室に勝るとも劣らない贅沢三昧な設備で、会社の私物化
ぶりに唖然とさせられた。結局、受講生からお金を集めるだけ集めては私腹をさんざん肥や
し、経営が行き詰ってからは経営責任も説明責任も果たすことなく現在逃走中というのだか
ら、呆れるばかりである。
 だいたい教育をビジネスと考える発想が間違っている。猿橋社長には本当に英語が話せ
る日本人を国際社会に送り出そうという教育的な情熱は微塵も感じられない。だから前払
いのレッスンチケットを売ることしか考えていなかった。そしてNOVAの知名度を上げるた
め「駅前留学」「No problem」といったキャッチコピーでコマーシャルを頻繁に流していた。
授業は完全予約制で、受講生はいつでも希望の時間を予約できるシステムであった。しか
し、受講生が増えるにつれそのシステムは有名無実化した。レッスンの予約を申し込んで
も先客の予約で満員になっていて、自分の希望する時間にレッスンを受けられないケース
が多くなったためである。教室や講師の数に限りがある以上そういう事態を招くことは自明
だったにかかわらず、NOVAは何の対策も講じなかった。このため業を煮やした一部の受
講生が中途解約したが、その際、前払いした受講料の返戻金もめぐってもトラブルを起こし
ていたというのだから、受講生の語学力のことは全く眼中になかったとしか思えない。たと
えカネにならない仕事であっても、受講生のためには自分のプライベートな時間を犠牲にし
てでも尽くすのが教育者だ。そんな奉仕精神もなく、教育を金儲けの手段と考えて売り上げ
を上げることしか頭にない社長は、もとから「教育」の業界に入る資格がなかったのである。
 管財人が確保したNOVAの資産は、まず従業員の未払い分の賃金に優先的に充てるこ
とになっているという。だから、外国人講師らはそれで全額ではないにしろある程度は救済
されるのだろう。しかし、このことは換言すると、既に支払い込んだまま授業を受けることが
できない受講生に対しては一円も戻らないということを意味する。今後、2度と再発しないよ
うにするためには、全ての学校で授業料を毎回支払うシステムにすべきであろう。予約を申
し込み実際に授業を受ける日に教室を訪れた際に、その日の授業料だけを授業前に徴収
する。次回の授業料は次回の来室時に徴収する。電車に乗るときにその都度乗車券を購
入して乗るのと同じ理屈である。英会話学校も自動車の教習所も、すべてこういうシステム
にする。前払いしたカネだけが先に集まるようなシステムは即刻廃止すべきだ。そして赤字
に転落したらその時点で直ちに経営再建を図る。今回、ここまで被害が拡大したのは、取
締役ら幹部がもっと早い時期に会社更生法の適用を申請するよう猿橋社長に求めたにも
かかわらず社長は全く耳を貸さなかったためであった。いくら自由経済社会とはいえ、やは
り国なり第三者の機関が企業の経営状況を常に監視し、不透明な資金繰りなど不健全な
経営をしている会社に対しては行政が強制的にしかるべき手段を速やかに講じるシステム
にするべきだ。

242「亀田騒動をめぐる呆れた報道姿勢」(11月 4日)**********************************
 しばらく書かないうちにいろんな事件が起きた。守屋防衛事務次官の汚職、赤福の製造
日偽装問題、英会話学校NOVAの経営破綻など、どれも呆れるものばかりだが、今回は
世界ボクシング評議会(WBC)フライ級タイトルマッチで、亀田大毅が対戦相手の内藤選
手に反則行為を繰り返し、その後の謝罪会見に至るまでのテレビ各局の報道姿勢を挙げ
たい。
 この試合が行なわれるまでは徹底的に亀田兄弟を持ち上げていた。特にTBSは一方的
に亀田の味方といっても過言ではない姿勢で報じていた。亀田兄弟が頭角を現してからは
ずっと亀田を煽っていたし、これまでに数々の外国人選手と戦っては勝って来たので不敗
神話まで創り上げていた。だから、問題の試合にしても解説者は亀田大毅を擁護する立場
に終始していた。TBSほどではないが、他局もやはり亀田兄弟を煽っていた。少なくとも問
題の試合前までは亀田一家を批判した報道番組はなかった。しかし、今回の試合で反則
行為を犯して敗れてからは、どの局もまるで手のひらを返すように非難する態度に走った
のだ。その後、亀田家・協栄ジムから謝罪会見が2度行なわれたが、最初の会見で精神的
なショックで一言も口を利ける状態ではない大毅が謝罪会見途中に退席するシーンと、2度
目の会見で丸坊主姿になった興毅が謝罪するシーンは執拗に繰り返し放映していた。そし
てワイドショー番組のレポーターやスタジオのコメンテイターらの多くは、まるで極悪犯罪人
を扱うかのような叩き方であった。問題の試合はまるでプロレスを思わせるような反則があ
り、確かに「ボクシング」を冒涜していると言われても仕方がないような荒唐無稽な内容であ
った。また、セコンドを務める父の亀田史郎と兄の亀田興毅が反則行為を指示していたの
も事実だ。だから明らかに亀田一家が悪いのであり、ライセンス停止処分を食らうのも当然
なのだが、だからといって魔女狩りのごとく連日袋叩きにして報じるほどのものではないは
ずだ。
 この亀田大毅のフライ級タイトルマッチをめぐる一連の報道姿勢は、何も彼とその一家に
限ったことではない。大相撲の朝青龍も然り。その前の若貴兄弟でも然り。芸能人の沢尻
エリカにしても広末涼子にしても、さらには実業家のホリエモンでもそうだったが、その世界
で頭角を現すとひたすら褒めまくって神童だの何だのといって一躍「時の人」にまで持ち上
げる。しかし、彼らが一度でも何か不祥事や失敗を犯したら今度は一転して犯罪者扱いし
「死んで責任を取れ」と言わんばかりに徹底的に叩く。そこまで非難を浴びせるほどの悪者
なら、過去にさんざん高く評価してもてはやしていた自社の報道姿勢も取り上げて、「人を
見る眼のなさ」を深く反省するべきだが、そんな態度は微塵も無い。つねに正義の味方・世
論の味方だとアナウンスしていい子ぶっているだけである。つまり視聴率の稼げる道を選
んでは陽の当たる場所に居たいというご都合主義でしかないのだ。よく「マスコミは社会の
木鐸をもって任じている」と言われるが、ただ興味本意に取り上げて持ち上げては叩きの
めしているだけでしかないのだから、私に言わせれば木鐸どころか偽善者だ。こういう手法
で視聴率を稼ぐことがマスコミの常套手段になっているのだから、なんとも情けない限りで
ある。

241「意外と不便な電卓」(10月21日)***********************************************
 今回は私達が身近に使っている電卓を取り上げ、その機能について論じてみたい。その
前に断っておくが、ここで論じる「電卓」とは、ごく普通の雑貨店や文具店で販売されている、
8桁までしか表示できない機種とする。関数電卓、及び大学や企業の研究室などの特殊な
場でしか採用されていない電卓は対象外とする。さて、その「どこにでも市販されているあり
ふれた電卓」だが、今や100円ショップにも売っている。昔は本当に電気のコンセントを差し
込んで使ったが、今では太陽電池が常識になっていて、わずかな光さえあれば使用できる
ようになっている。また、携帯電話にも電卓の機能が標準装備されている。これなら太陽電
池が機能しない暗い場所でも使用できる。消費税が導入されて以来、「税」と書かれたキー
をを押すだけで3%(導入当初は3%であった)の税額を上乗せした値をすぐに表示できた。
消費税導入からしばらくの間は総額表示制度ではなく外税方式だったので、私たちはよく
電卓で税額分を加算していたものだった。そんな便利な電卓だが、欠点も少なからずある。
それも小学4年生ですら正しく計算できる問題も電卓ではできないことがあるのだ。以下、
具体的な例を挙げて言及したい。
 第1に、自然数の四則計算でさえ正しくできないことがあるという点だ。たとえば5×3+7。
これは電卓でもキーを正しく押下さえすれば「22」と表示される。では7+3×5はどうか。こ
れも解は22に決まっているが、電卓でこれをやるとなんと50になってしまうのだ。乗除は加
減に優先されるのが四則計算の原則だから、当然3×5を先に計算してその解に7を加えな
ければ正解にはならない。しかし電卓では(7+3)×5と計算されてしまう。つまり、キーを押
した順番にしか計算できないのである。こんな単純な欠陥ぐらい現代の科学技術をもってす
れば明日にでも改善できるはずなのに、いっこうに改善されていないし今後も改善される様
子がない。そもそも電卓に括弧を意味する「(」と「)」というキーがないのも不思議だ。これが
ないと乗除より加減を優先させたいときも正しい計算ができなくなってしまう。たとえば、冒頭
の例にしても、5×3+7なら22で良いが、5×(3+7)を求めたいときにも22になってしまう
のでは話にならない。
 第2に、現状の電卓では分数の計算が全くできないことを指摘したい。分数は小数とともに
小学4年生にもなれば学習するはずである。分数どうしの加減の場合は分母を同じ数に揃え
る、いわゆる「通分」をしたうえで分子同士を計算すること、また、割り算の場合は除する側の
分母と分子を逆にしてから除される側の数と掛け合わせるといったルールがあるが、そのくら
いは電卓の中にプログラムできるだろう。中学校に入学しないと学習しない「√」でさえ電卓の
キーに存在するのに、それ以前に学習する分数の計算ができないのはどういうことなのだろ
うか。これも理解できない。
 第3に、自然数ならできても整数になるとできない計算があるということだ。
たとえば−3−8=と押すと、現在の電卓でも−11という解が出てくる。しかし(−3)×(−8)
を電卓で計算するとこれも−11になってしまう。原因は(−8)の「−」、すなわち負の記号を
表す専用の記号がないからだ。(−3)×(−8)=とやると、(−8)を乗じたのではなく、電卓
は「×」を引き算を意味する「−」に訂正したのだと認識してしまう。したがって、「操作した人
間は−3−8=を求めようとしているのだ」と認識し、−11という解を表示するのである。さら
に驚かされるのは、(−3)−(−8)=と押すと、なんと、−11になることだ。
「−3」の後に「−」を2回連続して押されることなど恐らく電卓にとっては想定外なのだろう。
「−」が連続したら結果として「+」になるから解は(−3)+8を計算した場合と同じく「5」だ
が、そんな簡単なルールさえプログラムされていないのだ。結論として、電卓ではある数に
負の数を加減乗除することは全くできないのである。だから負の数の累乗も計算できない。
(−3)×(−3)=と操作すると上述した理由で−6になる。また括弧を表すキーがないから
−3の2乗と(−3)の2乗も区別できない。
 最後に、「√」キーがあるのにもかかわらず、「√」を使った計算が全くできないことである。
現在の電卓にできるのは、ある数を「√」した場合にいくつになるかという平方根の値だけ
だ。「5」というキーを押してから「√」キーを押すと、2.2360679と表示される。しかし、
√5×√10=という計算はできない。だから√50=7.0710678と求めることができる
が、√50=5√2という計算はできない。これでは一体何のために「√」キーを設置してあ
るのだろうと首をかしげたくなる。
 以上縷々述べたが、これだけ大量に生産されて誰もが日常的に使っている電卓なのに
もかかわらず、意外なほど求めることができない計算があるということに驚かずにはいら
れない。そして、どのメーカーもそういう欠点を改善しようとしないことにも驚かされる。「わ
が社の電卓では分数の計算も可能です」といった宣伝もなければ「四則計算・負の数の
計算も正しくできます」という宣伝もない。私に言わせればこのくらいの欠点は改善されて
当然だし、もっといえば義務教育で習うような図形の表面積や体積の公式くらいはデータ
に入っている電卓ぐらい普及してもよさそうなくらいである。願わくば1辺10cmの立方体
の対角線の長さもと言いたいところだが・・・。

    (塾長コメント: いやぁ〜、菅ちゃん、電卓がかわいそっす...。雑貨屋さんや文房具店で売
             っている8桁程度のソーラー電卓に多くを期待してはいけません。菅ちゃんが求
             めている機能は関数電卓並みですね。負の数が先にある計算とか負の数同士
             の掛け算、ルートの計算は、日常生活ではほとんど使うことはないので機能か
             ら意図的にはずして廉価販売しているのではないでしょうか?私の持っている
             関数電卓だと、プログラムを組んで計算させたり、括弧も使い放題、地図上の
             距離を測ったり、分数計算もグラフ描画も可能ですが、日常生活で使ったため
             しがありません。むしろ、(7+3)×5という計算を「7」「+」「3」「×」「5」「=」
             と打ち込むだけで求められてしまうところに凄さを感じるし、とてもけなげに思い
             ます。)

240「登山者を困らせるヤマビルが繁殖」(10月14日)**********************************
 9月半ばでも冷房をかけるほど今年は残暑厳しい日々であったが、暦は10月になりすっ
かり秋らしい気候になった。この時期は暑くもなく寒くもなく、ハイキングには絶好だ。しかし、
都心から気軽に行ける神奈川県の丹沢山塊には近づかないほうが良いだろう。理由は吸
血ヤマビルの被害が深刻になっているからである。
 ヤマビルとはミミズの仲間で体長は数センチ程度である。日光の当たらない、じめじめし
た山地に好んで生息している。ミミズの仲間と書いたが、シャクトリムシのように吸盤を使
って移動する。ヤマビルは濡れた地面にいるから登山靴から頭部へ向かって移動するの
だが、その速さは1分間に1mと非常に速いので、あっという間に首の辺りにまで達する。
ヤマビルは蚊と同じで動物の呼気から二酸化炭素を感知して近づき、その血液を吸う。一
度の吸血で体重の20倍程度、量にして1ccである。蚊の場合は刺されても痒みが残る程
度で済むが、ヤマビルに吸われると傷口から出血が止まらなくなるから厄介だ。これはヤ
マビルがヒルジンという血液の凝固を妨害する物質を吸血時に注入するためだ。また、同
時に吸血時の痛みを麻痺させるため、人間はヤマビルに吸われたことに気づかないこと
が多い。帰宅して衣服や傷口が赤くなって明らかに出血した跡があることがわかって、初
めて被害に遭ったことを知るケースがほとんどだ。被害に遭ったら傷口から血を押し出す
ようにしてヒルジンを洗い流さない限り、止血できない。その際、ヤマビルが衣服などに這
っていたら直ちに除去する。ただし素手で取り除くことは危険なので、ペンチなどで摘まな
ければならない。また、ヤマビルは軟体動物なので地面に落として登山靴で踏みつけても
死なない。靴の裏側に潜んでいてあっという間に頭部へ向かって登って来るからだ。確実
に殺すにはライターで炙って焼死させるしかない。
 ヤマビルが最近になって増殖した原因は、里山の手入れが行き届いていないためだ。
草刈りや落ち葉の除去、樹木の間伐など、里山にはそれなりの手入れが必要である。し
かし、高齢化や過疎化によってこれらの手入れを怠った結果、日の当たらない多湿の草
むらを増やしてしまった。そういう場所はヤマビルが越冬するのにも最も適している。結果
的に、人間がヤマビルを増殖させる環境を作ってしまったといえるだろう。また、丹沢では
シカが異常に増殖したこともヤマビルの被害の深刻化に加担している。ヤマビルは主とし
て動物の血を吸って産卵し繁殖しているのだが、シカはその繁殖に好都合な場所を提供
しているからである。ヤマビルはシカのひずめの中に穴を開けそこで血を吸っては穴の中
で暮らしているからだ。近年、シカが深い山中の草を食い尽くして里山へ下り、さらには山
麓の人家にまで下りて畑の作物をも食い荒らすようになった。その結果、ヤマビルもシカ
の移動に伴って登山道だけでなく、山麓の人家にまでばらまかれることになったのである。
 我が家もすぐ裏山がある。今までは暇さえあればひょこひょこと登っていたが、こんな有
様では迂闊にも山には入れない。それどころか、自分が山に入らなければ被害に遭わな
いとは限らないことも問題だ。幸いシカは見かけないがニホンザルはいるからだ。またこ
れらの動物が運ぶ以外に、登山者が下山した際にヤマビルを住宅地に持ち込んでしまう
恐れがある。神奈川県もヤマビル対策に重い腰をあげたようだが、現時点では被害を根
絶させる決め手はない。となると、これからは普通の住宅地にも出没するかもしれない。
果たして大丈夫だろうか?

    (塾長コメント: ヒルに悪い血を吸ってもらうというのを昔田舎でやっていたような...。「チス
             イビル」や「ヤマビル」、「コウガイビル」などいろいろ生息地によって種類がある
             ようですね。因みに、我が家の外に置いてあるゴミ箱の裏側に「コウガイビル」
             のあの異様な姿態を見て驚いたことがあります。あれは、ホント気色悪い!)

239「相撲の世界も旧態依然」(10月 7日)*******************************************
 大相撲の序の口力士「時太山」(本名・斉藤俊さん)が稽古直後に急死するという痛まし
い事件が起きた。角界に入門してわずか3ヶ月。年齢はまだ17歳。前途ある若者だ。当
初は病死とみられていたが、死亡の前夜に親方や兄弟子が暴行していたこと、死亡当日
も通常なら5分程度しかしないぶつかり稽古を延々30分以上にわたってさせていたことな
ど明らかに稽古や躾とは違う目的による行動と推断される事実が発覚し、時津風親方は
日本相撲協会から解雇される前代未聞の処分となった。また、この処分とほぼ同じ頃に斉
藤さんの死因が多発外傷による外傷性ショックであることが判明し、警察は傷害致死事件
として立件する方針で捜査に臨むこととなった。
 日本相撲協会の北の湖理事長は時津風親方を解雇処分とした理由として、兄弟子が行
なった斉藤さんへの暴行を黙認していたこと、死亡当日に30分にも及ぶぶつかり稽古を
強いていたことを挙げ、「師匠としてあるまじき行為。全ての部屋でこうした行為をしている
かのような誤解を与え、協会の信用を著しく失墜させた」と述べた。協会が親方を解雇処
分した時点ではまだ斉藤さんの組織解剖は行なわれていなかったので、暴力と死亡との
因果関係は証明されていない。しかし仮にそれが証明されていなくても、暴行があったこと
と原因は何であれ一人の力士の命が失われた点を協会の理事会は重視した。当然の処
分といえる。むしろ斉藤さんの死後100日余りも経過した今になって処分するとはあまり
にも遅すぎる。
 問題となったビール瓶による暴行から翌日の死亡後にかけての過程について協会が時
津風部屋の全員に事情聴取したところ、力士ら部屋の関係者と親方の証言内容との間に
食い違いがあったという。また親方が協会に提出した上申書とこれまでに各種のメディア
で報道された内容とも、かなりの点で差異がある。それは次の8点だ。
【報道や弟子らの証言】
 1・親方は斉藤さんの死亡前夜にビール瓶で頭部を殴った。
 2・1の事実を弟子らに「警察には証言しないように」と口止めした。
 3・親方は兄弟子に対して「お前らもやってやれ」と暴行をけしかけた。
 4・死亡当日に行なわれた30分以上にも及ぶぶつかり稽古は親方の指示による。
 5・ぶつかり稽古の後に斉藤さんの様子がおかしいことに気づいたが、20分以上放置し
  た。
 6・死後、遺族に対して火葬を自分らで執り行うことを遺族に打診した。
 7・親方や兄弟子は斉藤さんの皮膚にたばこの火を押し付けていた。
 8・斉藤さんは鼻骨を骨折していたほか、歯が折れて耳が裂けるなど傷だらけの状態で
  あった。
【上申書に記載された証言】
 1・ビール瓶で殴ったのではなく軽くコツンとやる感じで叩いた。
 2・事情聴取に対しては事実ありのままを証言するよう指導した。
 3・兄弟子に暴行をけしかけた事実はない。兄弟子が金属バットで斉藤さんの尻を1回叩
  いたので、バットは危険だからやめるよう制止した。
 4・30分にも及ぶぶつかり稽古も絶対に私は指示していない。
 5・ぶつかり稽古の後に斉藤さんは倒れたので、それから救急車が来るまで斉藤さんに
  つきっきりでいた。
 6・遺体の搬送依頼の前に火葬の依頼をした事実はない。
 7・たばこの火を押し付けた事実はない。斉藤さんの皮膚は伝染性膿痂疹の可能性があ
  り現在捜査中である。
 8・鼻骨骨折・歯の折損・耳の裂傷の事実はない。

 現時点ではどこまでが事実かはわからないが、最も重視したいのは6の「遺体の火葬を
親方の側でするという打診をした」という行為である。これが事実なら、偶然にも遺族が打
診を断ったために遺体が傷だらけであることが発覚したから事件になったということになる。
逆に言えば、もし親方の申し出を遺族が了承していたら、永遠に事実は闇の中に葬り去ら
れるところであった。これではまさに殺人行為を隠蔽するに匹敵する工作と言える。6が事
実だと3〜5も非常に怪しくなってくる。そもそも親方からの指示が出ないのに兄弟子が勝
手に暴行を働いたりぶつかり稽古を30分に延長したりするだろうかという疑惑さえわくの
だから、なおさらだ。
 中学や高校の部活動、それも特に体育会系の部においてコーチ・顧問の教員がある特
定の部員に対して、あるいは上級生の部員が下級生の部員に対して暴力をふるうという
事件は、これまでもたびたび起きて報じられていた。だが、まさかプロのスポーツの世界で
も同じことが行なわれていたとは、呆れるばかりである。こういうことが起こると、プロレス・
ボクシング・野球・サッカーといった他のプロスポーツの新人指導の場においても同様のこ
とが行なわれているのではないかと疑われても致し方あるまい。今回は新弟子が死亡した
から事件として大きく取り上げられたが、暴行ないしは過度の練習で倒れて危うく救命でき
たケースはその何倍もあるのではないか。そんなことを考えるとスポーツ選手育成の現場
に対する信頼も音を立てて崩れていくような気持ちがしてならない。

238「泥棒同然の社会保険庁職員」(10月 2日)***************************************
 しばらく書かないうちに世の中はいろいろな事件が起きた。そんな中、最も呆れた事件は、
社会保険庁の、市区町村職員による国民年金保険料の横領であった。9月3日に公表した
1次調査では44の市区町村で49件、横領した金額は2億77万円であった。その後さらに
調査を行なった結果、83の市区町村で95件、総額2億2800万円にのぼっていることが
明らかになった。既に社会保険庁職員による横領が50件、総額1億6800万円になってい
るので、これと合算すると総件数で145件、総額で3億9600万円に達することになる。1
次調査と2次調査とで横領金額は2723万円増にとどまっているものの、件数と地方公共
団体の数は1次調査のそれと比べてほぼ倍増している。これについて社会保険庁では「1
次調査は調査の方法に甘さがあった」とコメントしている。
 しかし、それだけで驚くのは早い。もっと愕然とさせられるのは、横領した職員対する処分
の甘さである。市民から預かった公金を横領したのだから、泥棒と同然である。当たり前の
ことだが、横領した職員は全員刑事告発され、刑事裁判を経て然るべき判決を受け服役す
べきである。しかし、その「当たり前」のことすら行なわれていなかった。95件もの件数があ
りながら刑事告発したのは17件、そのうち刑事裁判となった起訴されたのはわずかに8件
しかないのである。95件のうち職員を処分したのは70件で、あとの25件は何の処分もし
ていなかった。また、処分した70件にしても諭旨免職や停職・減給で済ませている例も少
なくない。本来なら退職金が1円も支払われない懲戒免職処分とすべきである。諭旨免職
や依願退職では退職金が支払われるから言語道断だ。事件が発覚する前に横領した金
額を全額返済したからという理由で懲戒免職はしなかったようだが、そんな言い分は処分
を見送った理由にはならない。返済以前に、着服した時点で既に犯罪は成立しているの
である。そういう認識がないから、そういう甘い処分になるのだろう。
 横領は、未納分の年金を現金で支払われた場合に最も多く発生していたのだろうという
ことは容易に想像できる。具体的にはこうだ。未納分の年金があるという通知を受け取っ
たAさんは驚いて社会保険庁に来て、その場で全額を現金で支払ったとする。そのとき領
収書を発行しないで受理する。Aさんから領収書の発行を求められたら、「これでコンピュ
ータには支払いの事実が記録されましたから、あなたの年金はもうだいじょうぶです」と応
じる。Aさんにしてもそこまで言われてしまうと、さすがに「領収書を出さない限り絶対に支
払わないぞ」とは言えないだろう。結局、領収書を出さずに現金で受け取ってしまえば、あ
とは受理した職員の良識次第ということになる。こうして横領や着服は容易にできるのだ。
ずっと後になってからAさんが「支払った」と言い張っても水掛け論になるだけで、もう後の
祭りである。「消えた年金」問題はこうして発生していたのだろう。
 舛添厚生労働大臣は「総務省を通じて市区町村に刑事告発させ、厳格に臨む」と記者団
に話した。しかし、現実問題としてはそれも難しい。いくら横領や着服の事実がわかっても、
事件を起こしたのが7年以上前であれば時効により免責となるからだ。私は犯罪の立件要
件に「時効」という制度そのものがあること自体、論外だと思うのだが、現行法では横領の
時効は7年なので、逆に言えば7年の間だけ発覚を免れさえすれば、あとは罪に問われる
こともなくやりたい放題できることになる。ただちに時効制度そのものを撤廃し(残すにして
も人間の寿命に近い年数にする)、過去に横領した職員を一人残らず立件し処罰すべきで
ある。
 それと同時に職員の採用方法も改めるべきであろう。一般教養の有無を学力試験という
形で課して一定以上の点数を取った者を採用している方法では、受験生の人物を全く見て
いないことになる。もちろん全員に面接もしているのだが、一人当たり数分から10分程度
で果たしてその人物の人となりがどれだけわかるというのか。採用担当者が私立探偵を雇
ってでも、1週間くらいは受験生の行動を極秘裏に調査すべきであろう。また、採用するに
しても試用期間を10年程度に延長すべきだ。つまりその間は正規採用とはせず臨時任用
扱いとするのである。少しでも勤務上の問題があったら即刻解雇にする。10年間の勤務
期間中に問題がなければ正規採用しても問題はないとは断言できないが、少なくとも3ヶ
月や6ヶ月しかない条件付き採用制度をとっている現行のシステムよりはましだ。また庁舎
内は監視カメラを設置し、職員の一挙手一投足も一つ残らず撮影できるようにする。そうし
て少しでも怪しい行動はただちにチェックされ、第3者機関に通報されるシステムにする。こ
んなことはどこの銀行でも行員に対して行なわれているのだ。ましてや国民の貴重な財産
の一部である年金を預かる(頂くのではない)場であるのだから、銀行以上に職員の行動
を厳重に監視すべきである。

237「不可解な安倍首相の辞任」(9月16日)******************************************
 今月12日の午後、安倍晋三首相は突然辞任を表明した。7月末の参議院議員選挙の
大敗を受け止めて8月末に内閣を改造し、新内閣のもとで所信表明演説を行なった直後
のことである。これまでにも数多くの首相が任期満了を待たずに辞職したが、所信表明演
説をして各党からの代表質問に臨む矢先という時機での辞任は前代未聞である。そのあ
まりにも唐突さに、唖然とさせられるばかりである。
 なぜ今になって辞任するのか。それが最も不可解である。その12日の辞任会見の席で、
安倍首相の口から発せられた辞任理由は「自らがけじめをつけることで局面を打開しなけ
ればいけないと判断した」と述べた。7月末に開票した参議院議員選挙の直後なら、その
理由で誰もが納得したことだろう。有権者の厳しい審判を真摯に受け止めて「自らがけじめ
をつけ」たことになるからだ。しかし、あの当時は「総理は責任を取るべきだ」との声があっ
たにもかかわらず、「私の国造りはスタートしたばかりで、総理として国民にお約束したこと
に対する責任を果たしていかなければならない」という理由で続投を表明したのである。そ
して「人心を一新する」ために内閣の改造を断行した。その新内閣から早くもカネがらみの
不祥事によって辞職した閣僚が出たが、安倍首相はそれに対する責任を取ったわけでは
ない。その証拠に今月8日にはアメリカのブッシュ大統領と会談し、インド洋における海上
自衛隊の給油活動の継続について「最大限努力する」と約束し、「対外公約」とまで言い切
ったのだ。そして、10日に召集された臨時国会で所信表明演説も滞りなく済ませた。そこ
では相変わらず改革の理由を「戦後レジームからの脱却が必要」とし、「改革を止めてはな
らない」と主張した。またその一方で「改革の影の部分に光を当てる」と、これまでの方針に
対する修正も表明した。今後は当然その所信表明に則った施策をするはずだと、国民の誰
もが思ったはずだ。そして12日から各党の代表質問に臨むことになっていた。その代表質
問の当日の辞任だ。そこまでしながら「自らがけじめをつけることで局面を打開しなければ
いけないと判断した」という理由は、到底理解できない。
 その「局面打開」の理由として、海上自衛隊の給油活動の継続に対する理解を求めるた
めに、民主党の小沢代表に党首会談を呼びかけたものの断られたことを挙げた。しかし、
それは理由にはならない。小沢代表はもともと海上自衛隊の活動継続そのものを認めな
い立場である。党首会談をしたところで小沢代表が翻意する可能性はなく、平行線に終る
であろうことは、やる前からわかりきっていたはずだ。それに、海上自衛隊の給油活動は
小沢代表がいくら抵抗しても政府与党の意思で継続することができる。今年11月1日に
期限が切れるテロ対策特別措置法にしても延長する法案を出せば、自衛隊の活動を継
続させることができるからだ。野党議員が過半数を占める参議院では当然否決されるだ
ろうが、会期を延長して衆議院で2/3以上の賛成が得られれば法案は再可決される。
「テロとの戦いを継続させるにはむしろ局面を転換しなければならない」という言葉も、どう
局面を転換するのかがまるで見えてこない。記者会見で給油活動の継続を「対外公約」と
まで言い切って、ブッシュ大統領に約束したのなら、どんなことをしてでも法案を可決させる
よう全力を上げるべきだ。結局のところ、何を考えて今になって辞任を表明したのか、さっ
ぱりわからないのである。
 この辞職に対して「無責任だ」との批判が一気に上がった。私もそう思う。辞任の理由に
しろ時機にしろ、誰もが納得できないのだからそう批判されるのは当然だろう。4日前に安
倍首相の確約を得たばかりのブッシュ大統領にとっては、なおさら「無責任だ」と感じたの
ではないだろうか。安倍首相のもとで今まで頑張っていた人々にとっては、いきなり梯子を
外されたようなものだろう。たとえば北朝鮮による拉致被害者の家族会とその支援団体
「救う会」、教育再生会議のメンバーらがそうだろう。新しい首相が誕生し、安倍首相とは
異なる路線を打ち出せば、彼らが今まで活動してきたことはすべて水泡に帰することにな
るからだ。参議院議員選挙の大敗を受けて直ちに辞職していればまだしも、あれから1ヶ
月以上が経過している。そしてこれから新しい首相を選出するのだから、組閣されるのは
早くても10月上旬になるだろう。つまり2ヶ月以上政治の空白を作ったことになる。格差
社会や年金問題など緊急の課題が山積みという現状にあって、突然政権を放り出してか
くも長き空白を作るのは無責任どころか、国家や国民に対する犯罪に等しい行為と言わ
ざるを得ない。
 最後に、このような首相を選出し1年以上にわたって政権を担わせていた自民党の責任
も看過できない。閣僚の辞任劇ばかりが繰り返され、内閣への信用は失速する一方なの
に、惨敗した参議院議員選挙後もなお続投をさせていた。今度の総裁選は福田康夫氏と
麻生太郎氏とによる一騎打ちと言われているが、もう2度とこのような無責任な人物を選
出しないでもらいたいものだ。

    (塾長コメント: 安倍さんは、いかにも官房長官が首相を演じているようだった。ま〜それだけ
             の器にしか過ぎなかったということか。むしろ早く辞めてもらって日本にとっては
             良かったのではないか。これ以上政権にしがみつかれては「困った!」というの
             が大勢の意見だろう。教育再生会議も怪しい方向に提言が出そうなので、もうこ
             れ位で打ち切りにしてほしいですね!)

236「一度でいいから体験してみたい自然現象」(9月 9日)*****************************
 大地震・津波・噴火といったありがたくない自然現象もたくさんあるのだが、逆に一度でも
いいから体験ないしは観察してみたい自然現象もある。読者のみなさんの中には既に体験
されたものもあるかもしれないが、私は次の5つを挙げたい。
【台風の目】
 人から聞いた話なのだが、昼間台風が上陸して自分のいる地域を台風の目が通過する
と、台風が通過したわけでもないのに急に雨が止み雲一つない快晴になり風もぴたりと止
むという。しかし15分もすると今度はあっという間に雨雲が広がり、ものすごい風と雨が始
まるのだそうだ。先週は台風9号が関東地方を直撃した。私も、ひょっとしたら体験できる
かなという期待はしていたのだが、残念ながら通過が深夜だったのとその時点では台風の
目が失われていたので体験できなかった。
【蜃気楼】
 富山県の高岡から氷見に向かって進むと富山湾越しに見えるという。私も富山県には何
度か旅行したのだが、一度も見たことがない。職場の同僚に富山県出身の者がいるのだ
が、その人に言わせると天候・気温・湿度など条件がいくつか揃わないと見られないとのこ
と。それもほんの短い時間だそうだ。肉眼で見たことがないので目に映る光景も想像でき
ない。
【皆既日食】
 月食はわりとよく起こるが日食は滅多に起こらない。ましてや皆既日食はなおさらだ。世
界のどこかの地域で何十年に一度という程度の割合でしか起こらない。それほど稀な自然
現象だから、100年生きても自分の住む地域が皆既日食になることはまずないだろう。こ
れも体験した人の話では、白昼に突然暗くなり始めて完全に日食になると地上はまるで夜
のようになるという。しかし、数分もすると明るくなり始めてまたもとの白昼に戻るのだそう
だ。
【ダイヤモンドダスト】
 真冬の北海道、それも気温が氷点下20℃前後の晴れた日で見られるという。見た人に
言わせると、空気中できらきらと輝いてとてもきれいらしい。
【黄砂】
 現在の居住地である神奈川県はもちろんのこと、かつて住んでいた兵庫県西宮市でも見
たことはなかった。これは、体験した人すら身近にいないので、どんなものなのか全くわか
らない。

    (塾長コメント: 【台風の目】あまり体験したくないです...。【蜃気楼】「蜃気楼の見える街」
             として有名な魚津に行くと「埋没林博物館」があります。蜃気楼のことがよく分
             かります。蜃気楼liveカメラもどうぞ!【皆既日食】昨年トルコまで見に行った人
             がいますね!【ダイヤモンドダスト】ホントにキラキラですね!【黄砂】火山灰の
             ようで中国方面からの困った贈り物ですね!)

235「夜行列車で熟睡する秘訣」(9月 4日)*******************************************
 行楽の秋を迎え、読者の中にはそろそろ旅の計画を練ろうかという方もいらっしゃるであ
ろう。私は秋には旅行しないが、たいていは学年末と夏季・冬季の休業を利用して国内の
どこかに旅行している。そんなとき重宝するのが夜行列車だ。寝ながら目的地へ移動でき
るので、勤務した日の夜からそのまま旅に出発することができる。目的地にもよるが、前
夜に新幹線や航空機の最終便が出た後でも夜行列車に乗れば、休日の朝一番に家を出
発して始発便を利用するよりも、早く目的地へ着くことができる。時間もお金も贅沢に使え
る人ならいざ知らず、日々の仕事に追われて、わずかな休日しか取れない大多数の人に
とっては、「夜行」という移動手段は宿泊代や時間の節約にもなる。しかし、旅は好きだが
夜行は苦手という人は結構いるようだ。敬遠する理由を聞くと、なかなか寝つかれないか
らだという。今夏、『日記お知らせ』の231東北へ旅行します」にも夜行列車で青森〜札
幌を1往復すると書いたところ、当HPの塾長からも「列車を降りた後も耳元で『ガタンゴト
ン』と聞こえているようで、もう夜行には乗りたくないと思ったものです。熟睡できないと私
は思うのですが、(後略)」との「塾長コメント」をいただいた。しかし、これはちょっとした工
夫をすればどうということはない。今回は夜行列車で快適に移動する秘訣を紹介しよう。
1・乗車する日は朝早くから起きる
 これは入眠作用を速やかにするためには欠かせない。当日は朝早くから起床し昼寝を
せずに過ごす。もっと言えば前夜の睡眠時間を少し減らして出発当日は一日中なんとな
く眠たいぐらいにしておいたほうがよい。そうすれば夜行列車に乗る頃には間違いなく眠
くなるし、少々の環境の悪さをものともせずに入眠できるはずである。私も出発日の前夜
は0時過ぎに就寝し、当日は6時前に起きて出勤し、一日目いっぱい勤務した後に乗るよ
うにしている。
2・カフェインや刺激物を飲食しない
 コーヒーが大好きで一日に数杯は必ず飲むというほどのコーヒー党の人でも、乗車する
日のコーヒーだけは避けたい。理由はコーヒーに含まれているカフェインには精神状態を
興奮させる作用があるからだ。これは速やかな入眠を妨げるので禁忌である。コーヒー
以外にも緑茶などのお茶類もほどほどにしたい。どうしても飲むのなら薄くして飲むように。
少なくとも乗車の3時間前からは控えよう。飲んだら絶対に眠れなくなる。また刺激物は胃
腸の消化に負担をかける。夕食は消化の良い食事を腹7分目以内にとっておくのが良い。
暴飲暴食は乗り物酔いの原因にもなるから後でつらくなる。
3・窓側の席に座る
 寝台車なら問題ないが、座席に腰掛けたまま寝る場合は通路側の席ではなく窓側の席
が良い。したがって全席指定の列車なら窓側を予約しておく。理由は夜中でも通路を歩く
人は絶えないからだ。深夜でもトイレなどで席を立つ乗客はいるし、乗務員も冷暖房の温
度管理や防犯上の理由で車内を巡回している。通路側の席だと誰かが通るたびに身体の
一部が当たったり足音が気になったりすることにもなりかねない。窓側に座り窓際に身体
を寄せてしまえば、通路を誰が通ろうと気にせずに眠れる。ちなみに寝台車にするのなら
上段の方が落ち着ける。梯子で昇降しなければならないのは面倒だが、それでも上の方
が良い。それが嫌なら個室寝台を予約すればよいだろう。
4・耳栓とアイマスクを用意する
 寝られないという最大の理由は騒音と車内の照明である。こればかりは走行中の車内と
いうきわめて特殊な環境なので、自宅の寝室で寝るようにはいかない。前者は乗り物自体
から発する音が絶え間なく続く。その他、乗客が立てる音や会話もいやおうなく耳に入る。
後者はある程度は暗くなるが、真っ暗にはならない。これは防犯上の理由からだ。そこで
騒音に対しては耳栓で、照明に対してはアイマスクを装着して自分から遮断する。最近は
結構良質なものが市販されているから、旅行グッズのコーナーへ行ってあらかじめ購入し
ておきたい。
5・軽食を用意する
 寝られないときの手段として備えておけば憂いはない。理由は空腹になっても深夜の列
車では車内販売も食堂車もないからである。つまり食べ物は乗車前に用意しないと朝まで
空腹のまま過ごさなければならない。「腹が減っては戦はできぬ」とはよく言うが、同時に
「腹が減っては睡眠もできぬ」ということも科学的な事実である。ビスケットでも良いから何
か用意しておけばいざというときにも役立つ。
6・防寒着を用意する
 寝台ではなく座席利用の夜行列車を夏季に乗る場合について言えることだが、列車に
よっては冷房が効きすぎていることがある。寒くて寝られないということにならないように
あらかじめ長袖の防寒着を用意したほうがよい。逆に冬季は暖房が効きすぎているため
に暑くて寝られないこともあるので、上着を着たまま乗ってもすぐに薄着になれるような衣
服を着用するのが無難だ。
7・寝られない場合は逆の発想で
 寝られない。2時・3時と刻々と時刻は過ぎて周りの乗客がみな寝息を立てているのに
自分だけが寝られない。そういうときほど焦るものである。しかし、焦ると脳が興奮状態に
なるからますます寝られなくなる。そんなときは寝ようと努力しないほうが良い。むしろ「寝
てはならない」と思って起きているほうが良い。窓の外の夜景を一つも見逃すまいと、じっ
と目を凝らすのがお薦めである。そうすればやがて目が疲れてしまい、いつの間にか眠っ
ているものだ。これは、日頃から不眠症で悩める人にもお薦めである。「今は寝なければ
ならない」とか「寝られなかったらどうしよう」などと考えるから、ますます焦って寝られなく
なるのだ。そういうときは自分は何日間ずっと起きていられるかを試す絶好の機会だと受
け取って寝ないで過ごす努力をしてみよう。人間とは不思議なもので「今ここで眠ったらい
かん」というときに限って、睡魔に襲われてしまうものである。だから満員の通勤電車でも
座れたとたんにすぐにうとうととして眠りこけて、下車すべき駅を乗り過ごすという事態にな
るのである。あんな環境の悪い場所でも人間は眠れるのだから、普通に考えればあれよ
りははるかに条件の優れた夜行列車で寝られないはずはないのだ。

234「健康診断は義務か権利か」(8月26日)******************************************
 今年もまた憂鬱なものがやってきた。それは職員の健康診断である。私にとっては年間
の学校行事で最も恐怖でもあり憂鬱だ。健康診断があるということだけでストレスになる。
診断前日は眠れたためしがない。そして診断の最中は非常に緊張している。だから、良い
診断結果など望むべくもない。それだけならまだよいが、採血されると注射針を刺した側の
腕は数日間は違和感が残り、本など一定以上の重さがあるものを持ったり握ったりするこ
とができなくなる。だから受診後は日常の業務に非常にさしつかえる。健康診断の後まも
なく夏休みが終り授業が再開されるので、腕が使えなくなるのは私にとっては最も困ること
だ。そこで、受診の日の直後に用意しておかなければならない授業プリントなどは夏休み
中に出勤して受診前に作成・印刷して用意しておかなければならない。私の場合は特に採
血後に貧血になりがちなので、最悪の場合は授業を自習にせざるを得ない。そういう事態
になることも踏まえて自習用の課題プリントも印刷しておく。しかし、健康診断がなければそ
んなストレスを受けないから平穏な日々を過ごすことができるし、自習用の課題プリントも
不要だ。だいいち受診することでそれまでの健康な日々から不健康になるのだから、一体
何のための健康診断かわからない。「そんなに嫌なら受診しなければよいではないか」とい
う意見もあるかも知れないが、残念ながら受診しないという選択肢は私にはない。当該年
度に受診しないと「教員として勤務に耐えうる健康状態です」という証明を得たことにはなら
ないから、翌年度の雇用に関わってくる。
 健康診断があるからといって大騒ぎしているのは私だけではないようだ。同僚の中には
この日のために2,3週間前から食事制限をしたり、急に運動を始めたり、酒やタバコを控
えたりする者もいる。他の日に不摂生をしているのだから健康診断の日が近くなったとき
だけそういうことをしても本人の健康に関しては全く意味がない。健康診断が済んでしまえ
ば元通りの生活になるのだから当然受診時のデータより悪化するからだ。そんなことはわ
かっていても、少しでも悪い診断結果が出ないようにしたいというのが人間心理だろう。私
に言わせれば不毛な努力だ。しかしそれがいかに不毛なものであっても、そうでもしなけれ
ば来年度の雇用の可否が決まりかねないような人にとっては、命がけで取り組まざるを得
ない。妻子を含め一家の生計がかかっているからである。
 それにしても・・・・・・。一体何のために健康診断を受けるのだろう。どこの職場でも従業
員に健康診断を行なっている。これは使用者にとっては労働基準法で定められた義務だ
から当然だろうが、労働者すなわち被雇用者の側から考えれば健康診断の受診は権利
ではないのだろうか。権利ということは受診の可否も、どの診断項目を受診するかも個々
の従業員の任意になるということだ。持病をかかえているなどの理由で自分の健康に自
信のないと思う項目だけを受診するようなシステムにはできないものだろうか。個々人の
身体は一つとして同じものはなく個々人ごとに身体の弱点も異なるのだから、一律に同じ
受診項目を受けさせる意味はないと思う。もちろん毎年全ての項目を受診したいという人
は当然いるだろう。そういう人は徹底的に受診できるようにすべきである。しかし、健康診
断があるだけでストレスになるという私のような人もいるのだ。そういう人のことも考えても
らいたいものだ。

233「遠近感の妙」(8月19日)******************************************************
 ある場所を「近い」と感じるか「遠い」と感じるかは、その人の日頃の外出頻度と行動半
径によって決まるものだろう。頻繁に西洋諸国に出張や旅行をしている人にとってはハワ
イに行ったぐらいでは「遠い」と感じないだろうし、逆に家からほとんど出ない人にとっては、
たとえ隣の県へ温泉旅行に行っただけでも「遠い」と感じるだろう。私自身国内の旅行に
よく行くからいつも感じることなのだが、西日本の各地は、かなり遠くまで旅行してもさほど
遠くは感じられないのだが、北日本の各地は距離のわりには遠く感じられる。この錯覚は
国内各地の旅を始めた17年前も、今も、全く変わらない。
 東京を起点に考えると仙台が352km、盛岡が535km、青森が728km、函館が888
km、札幌が1200kmである。私にとっては、仙台でもかなり遠く感じられるくらいなので、
ましてや青森やその先の北海道だと非常に遠い場所にやって来たという感じがする。北海
道の北端の稚内や東端の知床・根室では外国のような感じさえする。しかし西はそうでも
ない。九州の鹿児島や宮崎あたりまで来れば、さすがに遠い場所にやって来たという感じ
がするが、広島や小倉くらいではなぜか遠くは感じられないのだ。しかし東京を起点にみる
と、名古屋で366km、大阪で556km、岡山で732km、広島で894km、博多で1174
kmである。それぞれ名古屋と仙台、大阪と盛岡、岡山と青森、広島と函館、博多と札幌が
ほぼ等距離になる。にもかかわらず、訪れたときに受ける遠近の実感は全然違う。それは
なぜなのだろうと以前から考えていた。
 第1の理由は、自分が兵庫県の西宮で育ったことによるだろう。現住所は神奈川県でも、
関西が一つの起点になっているのだ。大阪から西に350km行くと広島の少し先になる。
550kmなら九州の小倉になる。さらに、730kmなら熊本になる。つまり、私にとって東京
から青森へ旅行するということは、少年時代を過ごした西宮を起点にして730kmの距離
にある熊本へ旅行しているのと同じ間隔になるということである。だから北海道へ行くと本
当に遠い場所に来た感じがするのもうなづける。東京〜函館の距離の方が大阪〜鹿児島
よりも長いからだ。
 第2の理由として、東京から北には親類も知人も全くいないという事実が、たとえわずか
な距離でも北への旅は遠いという実感をより増幅させているのだろう。旅の途中に遊びに
寄ったり会いに行く相手が一人もいないのだ。これが西だと、近畿地方はもちろんのこと、
中国地方にも知人・友人・親類がいる。さすがに四国と九州にはいないが、本州は西端ま
で誰かしら住んでいるから一人旅をしていても、なぜか安心感がある。
 第3に、これは普通列車で旅をすればわかることだが、東京から北へ行くのと西へ行く
のとでは同じ距離でも所要時間が違うのだ。たとえば大阪を13時30分に出れば東京に
は22時40分に到着することができる。556kmの距離を移動するのに9時間10分だ。し
かし、盛岡を13時30分に出たのでは東京に22時40分に到着することはできない。(盛
岡13時17分発でも上野到着は23時38分になる)同じ時刻に着くようにするには12時
過ぎには出ていなければならないのだ。つまり大阪よりも20km短い535kmを移動する
のに10時間以上かかるというわけだ。これは東北本線には快速運転がほとんどなく大部
分が普通列車になること(東海道本線では米原以西と岐阜〜豊橋で快速列車を随時利用
できる)また、列車の本数が少ないため乗り継ぎによる待ち時間を長く取られることが主な
原因だ。これが北への旅をより遠く感じさせる要因にもなっている。もっともこれは新幹線
で移動してしまうと味わうことができない。理由は東海道山陽新幹線も東北新幹線も表定
速度がほぼ同じだからである。だから、鈍行列車にのんびりと揺られる旅をしない限り、決
してわかることのない感覚なのだ。
 みなさんもどこかへ移動した際に遠近感の妙を感じたことはないだろうか。

232「地デジ放送の全面移行は実現するか」(8月12日)*********************************
 地上波のテレビ放送が2011年7月25日から、それまでのアナログからデジタルに全面
的に移行する。これまで使用していたアナログ放送受信用の機種では、新たに地デジ対応
のテレビに買い換えるか、現在のアナログテレビにデジタルチューナーを接続しない限り、
視聴することはできなくなる。だから、どこの家電量販店でも地デジ対応テレビの販売に躍
起となっている。しかし、長引く不況の影響で依然として国民の懐が豊かにならない現在、
テレビの買い替えは当局の思うようには進んでいない。このままではデジタル化に移行で
きないのではないかとさえ懸念されている。
 現在、日本全国にあるテレビは1億台余りといわれている。しかし総務省が5月にまとめ
た地デジ対応のテレビの普及率は27%だという。地デジ対応のテレビの出荷量は、毎月
100万台程度なので、率にして1%でしかない。このままの買い替えペースでは全面移行
となる4年後の7月の時点でも47%、既に普及した27%分と合わせても74%にとどまる
計算になる。日本電子情報技術産業協会は買い替えペースが必ずしも月100万台ペー
スで進むとは限らないとし、全面移行の時点でも地デジ対応テレビの普及台数は6115
万台、なお4000万台近いテレビがアナログのまま残存するのではないかと予測している。
 また、地デジ対応のテレビを購入できる経済力のない視聴者も少なくないため、総務省
は現在のアナログテレビに接続して使えるデジタルチューナーを1台5000円程度で開発・
販売するという。5000円でも購入できないような生活保護世帯に対してはチューナーの
無料配布も検討しているという。しかし、現在このチューナーの販売価格は20000円であ
る。それが5000円では、メーカーにしても商売にならないだろう。差額を国費で負担すれ
ばメーカーは販売するだろうが、それでは赤字国債の発行や所得税の増税にもなりかね
ない。それに、メーカーは地デジ対応テレビの販売には熱心だが、このチューナーの販売
には消極的だ。圧倒的に利益率が高いのは地デジ対応テレビだからである。
 地デジへの全面移行に関する問題はこれだけではない。ゴミの問題もある。今後買い替
えがさらに進んで全世帯で地デジ対応テレビになると、現在7500万台はあるといわれる
アナログテレビをどうするのか。東南アジアなど非デジタル放送の諸国へ輸出し再利用す
るのならともかく、産業廃棄物になるとなるとゴミ処理の問題が浮上してくる。しかし、総務
省は「この問題の所管は経産省である」といい、経産省は「廃棄は総務省と環境省ですべ
きだ」とお互いが責任転嫁しているのが現状だ。つまりは縦割り行政の弊害もあって各行
政当局もやる気がないのである。
 結局のところ、国の政策として「2011年7月25日に地上デジタル放送に全面的に移行
させよう!」という掛け声ばかりで、具体的な政策は何一つないというのが実情だ。だから
現状では約束した4年後の夏に地上デジタル化への全面移行が実現するとは思えない。
我が国よりも早く地上デジタル放送化を実現させた韓国やアメリカでも、消費者の買い替
えが思うように進捗しなかったために全面移行期日を当初の発表より延期した経緯があ
る。我が国でも3000万台近いアナログテレビを残したまま強引に移行させることはでき
ないだろうから、結局は延期されるのではなかろうか。そうなると、今慌ててウン十万もす
る地デジ対応テレビを購入することは愚の骨頂ということになる。同様のことはパソコンに
ついても言えるだろう。デスクトップ型のものは今年のモデルから早くも地デジ対応テレビ
つきの機種が販売されている。しかし、全面移行が4年後に実現したと仮定しても、その
頃には現在の最新機種が過去の機種になることは目に見えている。Microsoft社は今
春1月にWindows XPに代わるOSとしてWindows Vista を販売したが、4年後には恐
らくその後継となる新OSを発売するはずだからだ。となると、パソコンにしても今慌てて
地デジテレビ付きの機種を買う必要はあるまい。地デジ放送全面移行の間際に販売され
る、新OS搭載の機種を購入すればよいという結論になる。こうして視聴者のみんなが静
観するとますます買い替えの進捗率が悪くなるから全面移行の期日も1年や2年はずれ
込むことになるだろう。結論として、拙速な移行を推進しているのは政府だけで、視聴者
は高い出費をしてまで地上デジタル放送を望んではいないのではなかろうか。

    (塾長コメント: 地上波デジタルを1回でも見たらもうアナログ放送には戻れないですね!そ
             れくらい映像が鮮明です。液晶やプラズマTVを何十万も出して買うよりも現在
             あるTVに1万円程度のチューナーを付けた方が絶対お得です。我が家では、
             2台目までは液晶TVにしましたが3台目はチューナー対応にしました。ただ既
             存のTVでも横と縦の比が16:9のワイドテレビがベストですね。)

231「競争原理は学校に必要か」(8月 5日)******************************************
 東京都足立区立のある小学校では、校長や教員が学力テストの試験監督中に誤答した
児童の答案に指さして本人に誤答を気づかせるという不正を行なっていた。また同じ足立
区内にある別の小学校では、保護者の了解もなしに成績不振の児童1人を採点対象から
除外していた。いずれも特定の教員が「魔がさして」やったという単発的・偶発的な行為で
はなく、管理職の指示による計画的・組織的な不正工作であった。また、大阪と静岡の私
立高校で大学合格の実績を水増ししていた事実が明るみに出た。大阪市住吉区にある大
阪学芸高校では1人で73もの学部・学科に合格していたのを合格者数にカウントしていた。
大阪学芸中等教育学校でも成績の優れた7人の生徒に223の学部・学科を受験させ186
の学部・学科に合格した実績を合格者数にカウントして公表していた。静岡県藤枝市内に
ある私立藤枝明誠高校でも、過去4年間にわたって生徒100人余りの受験料を学校で負
担して私大を受験させ大学入試の合格実績を水増ししていた。
 どれも今年度に入ってから明るみに出た事件である。では、なぜこのような事件が続発
するようになったのか。それは学校教育の現場に競争原理が導入され始めたからである。
今や公教育がサービス業と化している。地方公共団体によっては個々の学校間で教育活
動の成果を競わせて児童・生徒やその保護者が自分の入学する小・中学校を選択できる
ようにしている。また、その学校に勤務する教職員にも競争原理を導入し、児童・生徒・保
護者による授業評価や管理職による授業観察などを通して教員の力量を査定し、それを
給与に反映する動きが広まっている。こうして個々を競わせればそこには当然のことなが
ら「勝ち組」と「負け組」とが生じる。誰だって負け組にはなりたくない。個々の教員は児童・
生徒にも、その保護者からも、管理職からも、自分の実績を認めてもらいたいという心情
が働く。校長ら管理職は自分の学校が他より優位に立ち、それを広く世間から高く評価さ
れたいという心情が働く。特に私学の場合は競争に負ければ学園の経営にかかわる。受
験する生徒の質が下がったり生徒数の減少を招けば、学校の存亡に直結する。それはす
なわち学園に職を奉じる個々の教員の生活設計に関わってくる。どんな手段を講じてでも
世間に評価されようと画策し、不正を働いてまで「勝ち組」になろうとするようになるのは、
あまりにも当然すぎる帰結である。昨年、高校の必修科目である世界史を履修させずに
他の受験科目の授業に振り替えていた事実が多くの進学校で明るみに出たが、これも大
学の進学実績を少しでも良くしようとせんがための行為である。このように昨今の教育現
場から新聞の社会面を賑わせる事件が後を絶たないのは、競争原理を採り入れた結果
によるものばかりだ。
 競争原理を導入すると、良いことを誇大に宣伝するようになるだけではない。臭いもの
には蓋をし、悪いことは徹底的に隠蔽しようとするようになるからだ。そのため、児童・生
徒の小さな変化の兆候に対して真摯に取り組まず、後になってから重大な事件や悲惨な
結末を招くことになりかねない。たとえば近年教育問題になっている「いじめ」を考えてみ
よう。自分の学校にいじめがあるという評判が立ってしまっては、世間から高い評価は得
られなくなってしまう。だから「本校に限って生徒間のいじめは全くない」という既成事実を
捏造し、それを学校説明会などでアナウンスするようになるだろう。そして教員もいじめの
現場を見ても見ぬふりをするようになる。いじめられている生徒は学校に相談しても取り
あってくれないことに絶望し、自殺するということにもなりかねない。
 このように考えてみると、学校教育の現場に競争原理を導入することは、必ずしも生徒
のために寄与しているとは言いがたい。「お互いが切磋琢磨することで不適格な教員や
成果の上がらない学校を淘汰し、より質の高い教育環境を実現させるのが狙いだ」という
と聞こえは良いが、実際は「勝ち組」の仲間入りをしたいがために他を蹴落とすことを画策
し、自らの実績をごまかしては誇大に宣伝するようになるだけで、教育の受益者たる在校
生にとっても、その学校で指導する職員にとっても、何のメリットも生まないのではなかろ
うか。

    (塾長コメント: 全国津々浦々までどこに引っ越しても同等の教育が受けられるというのが昔
             の日本の公教育の目指す姿だったと思いますが、だいぶ公教育も変質してしま
             ったですね!進学実績、部活動などそれまで私学が学校の特色として取り組ん
             できたことを公教育も目指すようになってしまったことがそもそもの誤りですよね
             ...。)