菅ちゃんの呟き | ||||
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180「安倍新内閣に期待できるものは」(10月 1日)************************************
先月26日に自由民主党の安倍晋三総裁が第90代の首相に選ばれ、新しい内閣が発
足した。安倍首相はこの新内閣を「美しい国づくり内閣」と銘打ち、「日本を活力とチャンス
とやさしさに満ちあふれた国にしていく。」と公言した。首相就任の記者会見では小泉前首
相が推進した構造改革のさらなる「加速」と「補強」を打ち出した。また、教育改革を最重要
項目に掲げ、教育基本法の改正にも着手するとしている。その他北朝鮮による拉致被害
者全員の生還にも尽力することや集団的自衛権をめぐる憲法改正も含めた積極的な「戦
後体制からの脱却」を図ることも表明している。この新内閣発足直後の支持率は、新聞各
紙によるとおおむね60%強といったところである。それだけ支持されまた期待もされてい
るのだろうが、私は安倍新内閣になっても明るい展望は見出せないと思う。
第1に、構造改革の「補強」が実現できるかという問題を検討してみたい。小泉前首相が
就任当初の所信表明演説で「米百俵の精神」を出してまで「痛みに耐えなければならない」
と国民に訴えて、聖域なき構造改革が始まったのが今から5年半ほど前である。それから
現在に至るまで、国民は小泉首相の言うことを聞いてひたすら「痛みに耐え」てきた。その
結果、われわれの社会には経済上の格差が生じてしまった。ほぼ同一の勤務内容であり
ながら片や年収700万以上の正規雇用者――いわば「勝ち組」――と、片や300万未満
のフリーター・契約社員・派遣社員――いわば「負け組」――なる2群を生じさせ、主として
後者の群から17万人以上の自殺者を出してしまった。そこで安倍内閣はその「負け組」を
救済すべく、「再チャレンジ」できる社会を打ち出した。それが首相の定義する構造改革の
「補強」である。すなわち、正社員の雇用に関して新卒や経験者のみしか雇用しないという
企業の方針を是正させ、失敗しても何度でも挑戦できる機会を増やそうというものである。
しかし、肝心の景気が良くなり企業の業績が上がらないことには、正社員としての雇用の
拡大など望むべくもない。現状の格差社会が生じたのは不況があまりにも長く続いたため
である。だからどこの企業も正社員を可能な限り削減して社会保険も交通費も支払わずに
任意の期間だけ雇用できる契約社員などを使うことで生き残りをかけるしかなかったので
あった。かつてのバブル期に見られた「人手不足で会社が倒産」といった好況でも再来す
れば話は別だが、そんな状況は現状の経済を考えると空想すらできない。だから結局の
ところ格差社会はほとんど改善されることなく、今後も年間3万人以上のペースで自殺者
が出続けるのではないか。私はそう思う。首相は小泉前内閣が推進した構造改革をさら
に「加速」すると表明した。だから今後も国民は「痛みに耐え」ることを覚悟しなければなら
ないだろう。
第2に、首相が最重要課題と位置づけた教育についても検討してみよう。この分野も正
直なところ明るい材料は何ら期待できない。公立学校の現場では教職員の裁量でできる
部分が年々減りつつある。まず、教職員の主たる任務である授業がそうである。私が中
学や高校の生徒だった当時は、教科書を購入させていても全く使わず、その学校の生徒
の実情に合わせたオリジナルのプリントを用意して独自の授業をした先生も少なくなかっ
た。むしろそんな先生のほうが無味乾燥な教科書を律儀に進めている先生よりもずっと良
かったという経験もした。ところが今では「シラバス」といわれる年間の学習指導計画に基
づき、教科書のどこを何月に指導するかまできめ細かく決められ、教職員はそれに則った
授業をすることになっている。だから、教科書や「シラバス」にないことを教職員個人の裁
量で取扱うわけにはいかなくなった。つまりその先生の授業でなければ聴くことのできな
い授業というべきものは何一つなく、授業担当者が誰でも同じ授業内容になったというこ
とである。教育内容が公平になったと評価できなくもないが、換言すれば画一的になった
のである。また、職員会議にしてもその位置づけは大きく変わった。数年前はその学校の
教職員の総意で決議する機関であったが、今では教育委員会や校長といった「上意」を
現場の教職員に「下達」する場になっている。つまりそれだけ学校運営も画一化され、教
職員の創意工夫も自主性も独自性も失われてしまったのである。安倍首相の著書『美し
い国へ』では国の監査官による学校評価や全国統一テストの導入などが提言されている。
だから、今後はますます教育への国家の介入や管理が強まる恐れが高い。それで学力
低下やいじめなどの児童・生徒の抱える諸問題が解消され子どもたちが主体的に生き生
きと学ぶようになるのなら大いに結構な話だが、現場で生徒を見ている限りとてもそうな
るとは思えない。
最後に年金や消費税といった身近な問題についても検討しよう。結論から言うと、遠か
らぬうちに税率を上げることは目に見えている。国の借金は現在でもなお800兆円を超
えており、依然として高いままだからである。そして少子高齢化もますます加速される。
現状以上に医療・介護や年金にかかる費用が増大するのだから、財源を消費税や社会
保険料の上昇に求めるだろうということは容易に想像がつく。本来なら無駄な公共工事
や軍事防衛費を削減すべきなのだが、そういうことはしないだろう。政権与党が自民党で
同党から多数の閣僚が選出されている限り、建築業界とりわけ大手ゼネコンとの結びつ
きは根強いものがあるからだ。軍事防衛費にしてもそうである。憲法を改正してでも集団
的自衛権の行使ができるようにし、アメリカと同様に世界の各地に自衛隊が派遣できる
ようになるのだろうから、削減されるはずがない。結局のところ、税は徴収しやすいところ
から徴収するという小泉前政権と同様の方針が貫かれ、国民はさらなる「痛み」を強いら
れるということになるのではなかろうか。
このような状況でどうして「活力とチャンスとやさしさに満ちあふれた国」を実現できるの
だろうか。懐疑的にならざるを得ないのは私だけではあるまい。
179「私の好きな駅」(9月24日)****************************************************
大阪の梅田を起点とする阪急神戸線には夙川という駅がある。ここが私の育った街であ
る。毎年、暮れに帰省するから最近の夙川も見ているのだが、昔と変わらず上下それぞれ
の線路の外側にホームが設置された、いたって簡素なつくりだ。駅前にしても大規模な百
貨店や量販店が建ち並んでいるわけではない。隣の西宮北口に向かって阪急の高架線の
下に個人商店が軒を並べている程度だ。駅前から見る限り、全国的に店舗を構えるチェー
ン店といえば、マクドナルドと100円ショップのキャンドゥーくらいしかない。バスロータリー
も一応あることはあるが、非常に小じんまりとしていて乗り場も2箇所しかない。日中は普
通電車が10分間隔で発着するだけだ。大阪の梅田と神戸の三宮を直結する特急は西宮
北口と芦屋には停車するが、両駅の中間に位置するこの夙川は当然のことながら通過す
る。しかし、私はこの夙川駅が大好きだ。東京の新宿や大阪の梅田とは違い、その土地の
人しか利用しない感じのする駅だからだ。(実際には高校生の利用がかなり多い駅ではあ
るが・・・)そして梅田からそう離れてもいないのに何よりものどかな雰囲気が残っている。
神戸寄り右手には六甲の山並みが広がっている。ここから隣の芦屋にかけては山脈の東
端の麓に位置する。ホームの大阪寄りには駅名のとおり夙川という川が流れている。これ
も見るからに小川なのだが、両岸には松が植えられていて感じがいい。川はちょうどホー
ムの真下を流れている。だから電車を待つときホームから川の流れを見ることができる。
こんな駅も他にはあまりないだろう。上りホームには神戸線とほぼ直角に行き止まりにな
っている線路がある。これが甲陽園まで行く支線だ。とはいっても間に苦楽園という駅が
あるだけで終点までは2駅、距離にしてたった2.2kmしかない。昼間は15分間隔で3両
編成の列車が静かに発着している。
178「本当の教材研究とは」(9月17日)***********************************************
たいていの高校では3年生の必修科目に現代文が設定されている。その教科書に採録
された小林秀雄という評論家が著した文章を初めて授業で講読したのは今から10年以上
も前のことだった。その文章と自分がした授業の記憶は今でも苦い思い出として鮮明に脳
裏に残っている。なぜなら生徒から文章中の語句に関して質問をされて唯一私が全然答え
ることができなかったからである。まず、その教科書に掲載されていた小林秀雄氏の文章
を原文のままここに紹介する。
もう大分以前のことだ。丹後の宮津の宿で、朝食の折、習慣で、トーストと油漬けのサ
ーディンを所望したところ、出してくれたサーディンが非常においしかった。ひょっとする
と、これは世界一のサーディンではあるまいか、どうもただの鰯ではないと思えたので、
宿の人に聞くと、天橋立に抱かれた入り江にいるキンタル鰯という鰯だと言われ、送っ
てもらったことがある。先日、宮津に旅行して、それを思い出した。この辺の海に、キン
タル鰯というのがいるだろうと言うと、どういうわけか、近ごろは、取れなくなったので養
殖をしていると言われた。
私は、前に来たときと同じように、舟に乗り、橋立に沿うて、阿蘇の海を一の宮に向か
った。振り返ると、街には大規模なヘルス・センターができかかっているのが見える。や
がて、対岸までケーブルが吊られ、「股のぞき」に舟で行く労もいらなくなるという。そん
な説明を聞くともなく聞きながら、うち続く橋立の松をぼんやり眺めていた。それは、絶
え間なく往来するオートバイの爆音で慄えているように見えた。
教科書の文章はまだまだ続くのだが、生徒から出た質問は上記の第二段落にある「股の
ぞき」についてであった。教科書には難解な語句については適宜脚注がつけられているが、
この「股のぞき」に関しては次のような説明が書かれていた。
船で阿蘇の海を渡り成相山上で「股のぞき」をすると、橋立が逆になり空にかかる掛け橋
のように見える。
生徒がした質問は、「股のぞき」とは何かということと、「股のぞき」をするとなぜ橋立が逆
になり空にかかる掛け橋のように見えるのかという2点であった。当時はインターネットも普
及していなかったから、今のように天橋立観光協会にアクセスして、自分の知りたい情報を
素早く仕入れるというわけにはいかなかった。当時の私は授業に臨む前に一通りの教材研
究をし、「股のぞき」に関しても指導書の解説文を読んだが、何度読んでも下界の橋立がど
ういう光景になるのか教員の私にも理解できなかった。仕方がないので、そのまま授業に
出かけて特にこれといった説明もせずに進めようとしたら、生徒からさきのような質問が出
たというわけである。しかしわからないことは「わからない」と答えるしかない。恥ずかしいこ
とだが、正直に応じるしかないのだ。自分がわからないのだから、あの日の授業を受けた
生徒は誰もわからなかっただろう。
それが今月の2日に天橋立を観光し、成相山で実際に「股のぞき」を試みて、初めてわか
ったのである。「股のぞき」をするときのポーズも実際に見て、「これが股のぞき」という動作
なのかと感心した。成相山から普通に眺めれば、眼下に阿蘇の海が見えていて対岸に向
かって橋立が細長く伸び、その対岸には大江山がそびえているという像になる。ところが股
のぞきをすると阿蘇の海が青空に見え、橋立は大江山の山頂から大空に向かって高く突き
出している像になるのだ。私は現地に行って自ら股のぞきを試みて、初めて教科書の注釈
に書かれていることの意味がわかった。まさに「百聞は一見にしかず」ならぬ「百読は一見
にしかず」であった。こういうことを考えると天橋立などの名所・旧跡を自分の目で見て歩く
というのも、立派に「教材研究」や「研修」をしていることにならないだろうか。実際に現地に
行って見たことのある人が授業をするのと、そうでない人が授業をするのとでは、雲泥の差
があると思う。何も職員室の自席に着席して指導書・参考書・学術書を読むことだけが、「教
材研究」ではないのだとこのとき実感した。
177「メイド喫茶は要らない」(9月 3日)**********************************************
昔、東京の秋葉原といえば大阪の日本橋と並んで電気街であった。石丸電気をはじめ大
規模な家電専門店のビルが堂々とそびえるように建ち、その周囲にはアマチュア無線や電
気関連のパーツなどの専門店がいくつも軒を並べている、そんな街だった。しかし、今は違
う。大通りにはメイド姿の女の子がいて通行人に声をかけている。「可愛らしいメイドたちに
出迎えられ、愛くるしい妹や美しいお姉さまに癒される喫茶店」というコンセプトで「メイド喫
茶」なるものが登場したからである。それが新手の喫茶店としてたちまち広がり、ここ数年
間で一気に増えた。普通の喫茶店なら客を「いらっしゃいませ」という言葉で迎えるが、メイ
ド喫茶では客を「ご主人様(客が女性の場合は「お嬢様」)と呼び、入店した場合は「お帰り
なさいませ」という言葉で迎える。店員は全員メイド服を着ている。しかも、そのほとんどは
女子高校生のアルバイトだ。だから「メイド」の最低年齢は15歳になる。
私は喫茶店に求める条件としては、第1に注文したメニューがおいしいこと、第2に商品
が安いこと、第3に雰囲気が落ち着いていて長居ができることだ。私がよく行くミスタードー
ナツは上記のうち第3の条件に欠けるが、それでもおかわり自由のコーヒーが300円もし
ないで飲めるから僕は好んで行っている。ミスタードーナツでも店員にはアルバイトの女子
高校生が少なからずいるが、私は別に意に介さない。商品を注文して会計するだけなのだ
から、店員は男性でもおばさんでもかまわない。別に店員に愚痴を聞いてもらうつもりで行
くわけでもないし、ましてや癒してもらうつもりなど毛頭ない。そんなことよりもおいしいコー
ヒーを飲みたい。そして安ければなお良い。一級品の豆を自家焙煎する店だとコーヒーと
はいえ1000円近い値段のする店もあるが、落ち着いた雰囲気でおいしく味わうことがで
きれば、それはそれで良い。これが人が喫茶店に対して求める普通の感覚だと思う。
しかし、メイド喫茶に足を運ぶ客は違う。コーヒーやケーキを味わうことよりも女の子が目
的なのだから、はっきり言ってキャバレー・クラブの類と大同小異である。かつて京都で発
祥したノーパン喫茶と同じで、つまりは風俗業のようなものだ。そういう女の子が接客する
店に行き彼女らに癒されることに快感を覚えて、その店の常連客(メイド喫茶の言葉で表
せば「ご主人様」)となる中年男はいったい何なのだろう。会社ではそれなりの地位にある
ような男性が、中学を卒業したばかりの自分の娘ほどの年齢の女の子にあれこれとサー
ビスしてもらいに行くことを何とも思わないのだろうか。
さらにはメイド喫茶がそういう業務内容と承知した上でアルバイトに励む「メイド」本人の
意識も問題だろう。メイド喫茶に訪れる客の多くは30〜40代の所謂「オッサン」である。
彼女らの年齢なら自分の父親に相当する中年男性を最も疎ましい存在に感じて敬遠する
はずである。女子高校生にとって彼らに対するイメージは「臭い」「汚らしい」「いやらしい」
ものだからだ。それが仕事となればそんな疎ましい「オッサン」相手の業務内容でもいそい
そと勤め店内で笑顔をふりまく。それが不可解でならない。ましてや「自分が癒してあげた
客が晴れ晴れとした顔で店を出る姿を見ることに喜びを感じる」とまで答えるメイドがいたの
だから恐れ入る。カネさえ手に入れば自分はどんな仕事でも良いという発想なのだろうか。
鶏が先か卵が先かという論争があるが、私は売る人がいるから買う人が現れるのだと
思う。久しい以前に「ブルセラショップ」なるものが問題となり、自分が着用した下着を平然
と売る女子高生の実態がマスコミに取り上げられて報道されたことがあったが、あれも売
る人がいるから買う人が現れたのである。メイド喫茶がなければ女子高校生と中年の男
性がフレンドリーに接する機会は日常生活ではほとんどないはずなのに、これができたた
めに中年男性の彼女らに対する性的な興味を惹起してしまったとはいえないだろうか。そ
して「メイド喫茶」といういわば架空の空間と、店外すなわち現実世界との区別がつかなく
なって、結局は電車内で痴漢行為をしたり、下着泥棒を重ねたり、盗撮に走ったり、さらに
は女性を自宅に監禁して自分の思うままにしたりという犯罪を増やしてしまったのではない
だろうか。そういう意味では、メイド喫茶にアルバイトする彼女らの意識改革と、メイド喫茶
に通う行為は恥ずべきことという社会常識の醸成が必要だろう。
176「すいている神奈川の海水浴場」(8月27日)***************************************
夏と言うと海水浴。関東地方の人は神奈川県内の海岸に行く人が多い。いわゆる関東
1都6県のうち海に面していない栃木・群馬・埼玉を除けばどこかしらの海で泳げそうなも
のだが、東京は島嶼部を別にすると海水浴場そのものがないようだ。千葉県は房総半島
に、茨城県なら鹿島灘に行けばあるのだが、都内からの距離が遠く所要時間もかかる。
そこでどうしても海水浴というと神奈川県に殺到する。それは仕方がないとしても、問題は
その場所だ。大部分の人が江ノ島か三浦海岸に集中してしまう。だからここだけが非常に
混雑している。上空から撮影した映像をテレビで見ると、最も混雑する時期はまるで芋洗
いのようだ。しかし、ここだけが海水浴場ではない。少し知っている人は混んでいる江ノ島
を避けて東の鎌倉・逗子あるいは西に位置する茅ヶ崎・平塚に行くのだが、大磯から西へ
行く人は非常に少ない。しかし、国府津に行けば非常にすいている。しかもJR国府津駅か
ら国道1号線を渡るだけで5分も歩けばたどり着ける。西湘バイパスをくぐったところから
砂浜が広がっている。目の前に海があるだけで海の家もなければパラソルも見当たらな
い。あまりにも殺風景だが、逆に言えば海の家が商売にならないほど訪れる客がいない
のである。私は何回か行ったがあるが、地元の人しか知らないのではないかと思えるほ
どすいているのだ。もしかしたら海水浴場として紹介されていないのかも知れない。(しか
し現地に遊泳禁止の看板はないし、泳いでいても注意されない)国府津は小田原市だか
ら都内から出かけるとすると非常に遠く感じられるかもしれないが、じつは江ノ島とは20
km程度しか離れていない。国府津の他には御幸ヶ浜がある。これも小田原市だが小田
原駅から国道1号線を箱根方向に進む。バスで15分程度乗り、そこから10分ほど歩く。
どちらも江ノ島とは比べ物にならないほどすいている。せっかく行くのだからすいている場
所でのびのびと泳ぎたいという人にはお薦めである。
175「盗撮できる撮影機材を規制せよ」(8月20日)**************************************
パソコンが表計算や文書作成しかできない代物だった90年代初頭は、カメラといえばフィ
ルムを装填して撮影後は写真屋へ持っていき同時プリントを依頼して現像してもらうしかな
かった。その後、いちいちフィルムを装填しなくてもあらかじめ定められた枚数分のフィルム
が入っていて撮影後もフィルムを取り出さずカメラごと出せばよいという「使い捨てカメラ」と
いわれるものが登場したが、現像はあくまでも写真屋に持ち込んでやってもらうしかなかっ
た。しかし、デジタルカメラがこの世に登場してからは、撮影済みのフィルムを写真屋に現
像してもらう必要がなくなった。これが我々の社会を狂わせた第一歩だ。私はデジタルカメ
ラは開発すべきではなかったし、商品として世の中に出したのは誤りだったと今でも考えて
いる。デジタルカメラのせいで我々のプライバシーはなきに等しい状態になってしまったから
である。
写真屋に現像を依頼していたかつては「公序良俗に反する写真は現像をいたしかねます」
と注意書きがあった。つまり撮る分には何でも好き勝手に撮れるが、性器が露出した画像
などは、それを写真として手に入れることが不可能だったのである。だから猥褻な画像の盗
撮を考える人などはいなかった。いくら苦労して盗撮しても写真屋が現像してくれないからで
ある。だから犯人もせいぜい覗き見ぐらいしかできなかった。しかし、デジタルカメラが登場し
撮影した画像を個人のパソコンに取り込むことができるようになってからは、公序良俗に反
する写真も青天井になってしまった。これが盗撮しやすい状況を一気に悪化させてしまった
のである。その後携帯電話でもカメラ機能が標準装備としてつくようになったが、これはさら
にその動きを加速させてしまった。街中や海水浴場をデジタルカメラを持って撮影しながら歩
いていたら怪しまれるが、携帯電話ならみんなが持ち歩いて操作しているだけに怪しまれる
ことがないからである。あんなものも必要ない。むしろないほうがずっとよいだろう。カメラ機
能つき携帯電話はデジタルカメラ以上に気軽に盗撮できる環境を作ってしまっただけである。
盗撮を助長する技術革新はとどまることを知らない。今では赤外線カメラまで普通に手に入
る時代になってしまった。可視光線は物体の表面で反射するが、赤外線はさらにその奥で反
射するという特徴がある。そのため赤外線カメラで水着姿の人を撮ると、
水着の内側まで透けた映像を撮影できてしまうのである。
盗撮は猥褻な画像を蒐集するという性的目的で若い女性だけを狙うものだと一般に考えら
れがちだが、それだけではない。日常生活のあらゆる場所であらゆる目的で行なわれており、
しかも誰もが狙われているのが特徴だ。以前銀行の自動支払機のタッチパネルを操作する
瞬間を盗撮されて暗証番号を知られたために偽造カードで預貯金が盗み出される事件があ
ったが、あの程度の盗撮は技術的には朝飯前の犯罪だといわれている。これだけ技術が進
んだ今の時代は自分が何の目的で盗撮されているかもわからずに撮られていると考えたほ
うがよいだろう。外にいるときは勿論のこと、自宅にいてもどこかから盗撮されているかもしれ
ない。この手の犯罪が厄介なのは盗撮された事実を被害者が知ることが難しい点だ。目の前
でカメラを構えられればすぐにわかるだろうが、遠くから望遠で撮影されたり何らかの物品の
影にカメラを据えられていたら撮影されていてもわかるまい。そしてその映像を盗撮者個人が
楽しむだけでなく、インターネットのサイトに掲載されて不特定多数の人に見られてしまう恐れ
があるのだから、肖像権もプライバシーもあったものではない。
どこの地方公共団体も盗撮行為を迷惑防止条例に定めており、現行犯で逮捕した者に対
しては懲役や罰金などの罪が規定されている。また、一部の小中学校では体育祭を行なう
際にたとえ保護者であっても男性は一切入れないようにしている。しかし、そんなことよりも物
理的に盗撮できない環境にすることが先である。そのためにもデジタルカメラやカメラ機能つ
き携帯電話など、簡単に盗撮ができるような撮影機材を商品化させないよう法律で厳しく規
制すべきだ。ましてや赤外線カメラなどもってのほかである。いくらカーテンで窓の外から覗
かれないようにしても、カーテンの生地を突き抜けて撮影できてしまうのでは、家の風呂にす
ら入れない。そして、撮影した写真の現像は昔のようにすべて写真屋に依頼しなければでき
ないようにするシステムに戻すべきである。極端なことをいえば現像は最寄の警察署に依頼
するシステムにしてもいいかも知れない。何も後ろめたいところがなければ、できあがった写
真を警察署で堂々と受け取ることができるはずだからだ。とにかく盗撮してもその写真や映
像を物理的に入手できないような社会環境にすべきである。撮影機材がある以上はいつ盗
撮が行なわれるかわからないし、盗撮行為を100%検挙することも現実問題として不可能
だ。逆に撮影機材がなければ盗撮したくてもできないのだから、犯罪そのものを根絶できる
のである。
174「プール死亡事故は不況の犠牲」(8月19日)**************************************
先月31日、埼玉県ふじみの市の市営大井プールで小学2年生の戸丸瑛梨香ちゃん(7歳)
が、吸水口に吸い込まれて死亡するという、あってはならない事故が発生した。事件後の調
査が進むにつれて、我々にとって驚くべき実態がいくつも明らかになった。事故から半月以
上が経過した今、改めて総括してみたい。
第1に、吸水口に対する安全管理が杜撰きわまりないことだ。問題の吸水口には人間が
吸い込まれることのないように蓋が取り付けられていたが、本来はビスで固定されているべ
き蓋は、それよりも強度がはるかに劣る針金で縛りつけられていた。その針金は太さ1.8
ミリの軟鋼でできており、外側がプラスチックでコーティングされていた。しかし軟鋼は錆びて
ちぎれるなど経年劣化が進んでいて、吸水口の蓋の固定に使用するにはあまりにも危険な
状態になっていた。プール全体で吸水口は3箇所あり、1箇所に60cuの蓋が2枚ずつ設置
され、蓋1枚あたり4箇所、全体で24箇所をビスで固定するようになっていたが、ビスで留め
られていたのは全体の4分の1のわずか6箇所だけしかないことが判明した。女児が吸い込
まれた吸水口に関して、事故の前から蓋が外れていることに監視員が気づいていた。しかし
利用者に対して吸水口に近づかないよう呼びかけていただけで、利用を中止して休業にし、
補強工事をするなどの措置はとられなかった。
第2に、プールの所有者であるべきふじみ野市が、その管理を業者に委託していたことで
ある。しかも実際の管理は市が委託契約を締結した太陽管財ではなく、下請けの京明プラ
ンニングであった。我々が支払っている市民税で作られた市営プールなのだから、当然市
が直接管理すべきだろう。監視員にしても市で採用した正規職員であってしかるべきだ。
しかしそれでは監視員の人件費も含めて市の財政を圧迫するから、外部に委託しようとい
う発想になる。つまりは市はプール利用者の安全を犠牲にしてカネを優先したことになる。
安全管理は他の何よりも優先されるべきものなのに、業者に管理を委託した段階からそも
そも間違っている。
第3に、監視員の大半が高校生のアルバイトというのも論外だ。中には泳げない人もいた
というのだから呆れるばかりである。監視員はただプールを見ていればよいというものでは
ない。万が一利用者がプールで溺れたときには、その救命処置を迅速かつ適切に行わな
ければならないことが監視員の任務である。現場でそれだけの重責を担う以上は、本来な
らレスキュー隊並に訓練された専門家が監視員を務めるべきだろう。それを学生のアルバ
イトで済ませていたというのだから言語道断だ。非常事態に臨んで高校生や大学生がいっ
たいどれだけのことをできるというのだろうか。これも安全を犠牲にしてカネを優先した経
営方針でしかないと言わざるを得ない。所詮プールの監視員は夏季限定の短期間での雇
用契約であること、高校生なら最も安い人件費で済ませることができるといった考えで採用
していたのであろう。さらにはプールの監視員という仕事をバカにしていたと思えるふしがあ
る。プールで泳ぐ人々を上から見ているだけなのだから、誰にでもできる仕事だという発想
で監視員を雇っていたのではないのか。だから監視員を採用する際に泳げるか否かを調
べもしなかったのではないのか。監視員の責務をあまりにも軽視しており、非常時の任務
を全然想定していなかったと断じざるを得ない。
第4に、監視員に対して市が義務付けていた安全教育を受けさせなかった業者の態度
も論外だ。現場で監視していたアルバイトの高校生に対しても、講習を受けさせなかった
という。その理由は講習によって勤務時間を拘束すれば、その分の時給を支払わなけれ
ばならなくなるということだ。やはりここでも安全を犠牲にしてカネを優先していることがわ
かる。そんな業者だからプールの吸水口の蓋に関しても無頓着だったのだろう。プーの水
には消毒のために塩素を入れる。したがって針金にしてもビスにしても金属は通常以上に
早く劣化するのである。だからこそ蓋がしっかり固定され安全かどうかを日頃からきちっと
点検すべきなのは言うまでもない。しかしそれを上から見るだけで済ませていた。ビスが
ダメになっても針金で代用していた。監視員はこの針金に関して誰も関心を払わなかった
と報じられたが、仮に針金を問題にする声があったとしても、相手にされずに終わったこと
だろう。そもそも吸水口に人間が吸い込まれて死亡するという事故を想定すらしていなか
ったのだから話にならない。
最後に、委託管理契約を結んだ業者に対するふじみ野市の態度も問題だ。市は契約の
際に太陽管財に対して日本赤十字社などの安全講習を義務付けていたが、講習歴の報
告を受けていなかった。そこで市は監視員の講習歴の提出を3度にわたって求めたが、
太陽管財はこれに応じなかったので結局提出されずじまいだったという。そのように安全
に対する認識のない業者ならば市は即刻管理委託契約を解除すべきではなかったのか。
それをそのまま同社に管理委託をし続けていたというのでは、市の怠慢な姿勢を問われ
ても弁解の余地はあるまい。
しかし現場で管理していた業者やふじみ野市の責任だけに帰するのは誤っている。もと
をただせばこれも平成に入ってから久しく続いている不況が招いた悲劇といえるからだ。
ふじみ野市にしても市内にある企業からの税収入が潤わないから、プールの管理を安く
済ませるしかなくなったといえる。ねじがバカになっていてビスで固定できないのなら本来
はプールを休業にしてでもきちっと補修工事をすべきだが、そこまでする予算はなかった
のだろう。だから針金で代用することになったのではないか。業者にしてもそうだ。安全教
育を受講させなかったことにしても高校生のアルバイトに監視員をさせたことにしても、す
べてはそうしなければ会社の経営が成り立たなかったからではないのか。そういうことを
考えると最終的にはかくも長きに亘って経済の好転を実現できなかった政府に最も重大
な責任があるといえよう。
173「A級戦犯の合祀問題」(8月 6日)**********************************************
今日、8月6日は広島に原子爆弾が投下された日である。今から61年前の朝8時過ぎの
ことだ。この瞬間に我が国は世界唯一の被爆国になってしまった。爆心地近くの数万人は
一両日中に死亡し、25万人以上の人が被爆に伴う病気や後遺症に苦しめられることにな
った。満州事変にはじまり、広大なアジアへの侵略を計画・遂行し、あの第2次世界大戦を
主導した人間さえいなければ、8月6日に広島に原子爆弾が落とされることはなかったとい
うことは言うまでもない。今、あの戦争を主導した者をA級戦犯として靖国神社に合祀したこ
とが問題とされているが、昭和天皇も合祀に不快感を示されていたことが「昭和天皇の発言
メモ」という物証により明らかになった。
問題のメモは当時の宮内庁長官であった富田朝彦氏が書き記したもので、家族が保管し
ていたという。昭和天皇自身は戦後8回ほど靖国神社に参拝されていたが、1978年にA級
戦犯が合祀されてからは一度も参拝していなかった。合祀については側近が「昭和天皇は
合祀に不快感を示していた」と証言していたのだが、今回のメモには次のように記され、側
近の証言が物理的証拠として裏づけられた形になる。
私は 或る時に、A級が合祀され
その上 松岡、白鳥までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに
親の子子知らずと思っている
だから私あれ以来、参拝していない、
それが私の心だ
(以上、原文のまま)
このうち松岡とは松岡洋右元外相をさすといわれている。この人は日独伊三国軍事同盟
の締結を推進してA級戦犯として合祀されている。白鳥とは白鳥敏夫元駐伊大使を、筑波
とは筑波藤麿靖国神社宮司をさしているとみられている。昭和天皇の側近であった徳川元
侍従長によると、筑波藤麿靖国神社宮司は合祀に対して慎重に保留していたが、松平永
芳宮司に替わってからはすぐに合祀が決定されたという。徳川侍従長は昭和天皇の意を
受けて合祀に異論を唱えたが却下されたとのことだ。
今、小泉首相が「参拝はあくまでも心の問題であり、他人やよその国にとやかく言われて
やめるものではない」と公言し、アジア諸国から強い反感を買いながらも靖国神社参拝を
繰り返していることが、内外の問題となっている。だが、私に言わせれば参拝の是非以前
に、そもそも犯罪人をどうして国家の手で祀らなければならないのかが、そこからしておか
しいのだ。戦争犯罪人は国際社会における日本の針路を誤った道に歩ませただけでなく、
不特定多数の国民を徴兵し戦争の最前線に送り込み、戦死に至らしめた、いわば国民を
無差別に殺害した張本人である。さらにいえば戦争の遂行によって東京大空襲を初めとす
る各地の空襲や広島・長崎の原爆投下を招いたのだから、軍人でも何でもない無辜の一
般市民を殺した張本人でもある。そんな人間を、心ならずしてお亡くなりになった一般の戦
没者と共に祀るのなら、何らかの殺人事件を起こして死刑の判決が下されて処刑された過
去の殺人犯も一人残らず国家の手でどこかの神社に手厚く祀るべきだろう。しかし、数多く
の犯罪人の中で第2次世界大戦の戦争犯罪人だけを国家の予算で祀っている。そんな神
社に政府の責任ある立場の人間が参拝するのもどうかと思うが、それ以前に祀ることが私
には理解できない。
もうひとつ不思議なことがある。問題のメモであるが、なぜ今になって明らかになるのか。
そこが不可解だ。昭和天皇の発言は崩御の前年である1988年になされているのである
から、生前に明らかにしてもよさそうなものだ。何らかの事情でそれができなかったにして
も、平成になればすぐにでも明らかにできるはずだ。それが平成になって18年も経過した
今になってから明らかになるとはどういうことなのだろうか。何億年前もの化石が今になっ
て発見されたのとは次元の違う話であることは言うまでもない。「臭いものには蓋」というこ
とわざがあるが、「国家にとって不都合なことは隠し通す」という意図があるように感じられ
てならない。それが天皇の発言に対してまでもなされているのだから、なおさらである。昭
和天皇自らが「合祀に対する私の発言は絶対に他言しないでほしい」と側近に強く要請し
たのならともかく、そうでないとしたら憲法に「国家の象徴であり国民統合の象徴」と規定さ
れた天皇を冒涜した行為だとはいえないだろうか。
今回のメモの件と、かねてから首相の靖国神社参拝に対してアジア各国が強く遺憾の意
を表明していることもあって、今になってA級戦犯を分祀をしようという話が浮上している。
分祀さえしてしまえば首相も堂々と公式参拝ができるし、内外から参拝行為が問題視され
ることはあるまいというのが政府自民党の見方だ。しかし、それも変な話だと思う。昭和天
皇が不快感を示さなければ合祀して良いのか。諸外国が遺憾の意を表明しなければ合祀
して良いのか。今、何かと我々市民のモラルが問われているが、戦争犯罪人を国家の手
で祀るという行為そのものは、国際社会における国家のモラルに関する問題だ。それが良
い行為なのか悪い行為なのかは、天皇の発言や諸外国の意見を聞くまでもなく、おのずと
答えは出てくるはずだ。
172「どこまで温暖化の犠牲者を出すのか」(7月30日)***********************************
梅雨も後半に入ってから、集中豪雨による被害が全国各地で相次いでいる。特に、今年
は鹿児島・宮崎・熊本・長野・福井の各県ですさまじい被害が出た。昔は梅雨というと、来る
日も来る日も雨がしとしとと降ってじめじめとしたうっとうしい気候であったが、昭和が平成
になったころからの梅雨はそうではない。降らないところではカラ梅雨を思わせるような晴
天が続く一方、降るところでは一か月分に相当する大量の雨がわずか1日か2日で降って
しまう。昔は大雨洪水警報が発令されるような豪雨といえば8月中旬から9月にかけて襲
来する台風だけだったが、最近は梅雨でも秋雨前線でも警報レベルの大雨になることが
少なくない。考えてみれば、昔は「集中豪雨」という単語すらなかった。それが今や毎年発
生し、必ず犠牲者が出るようになり、ある地域全体が冠水し住民が避難生活を強いられて
いる。
一般に、この時期の大雨は梅雨前線上に湿った暖かい空気が流れ込んだ場合に生じる
が、最近の集中豪雨の原因はそれだけではない。地球温暖化現象により地表が暖まって
いるので、上空に寒気が流れると上昇気流が発生しすぐに大気の状態が不安定になり、
積乱雲を発生させてしまうのである。特に都市部とその郊外はヒートアイランド現象が起き
ている。ビルや道路のアスファルトのせいで太陽光の熱が吸収されずに地表に蓄積され
やすくなっており、そのうえ自動車や空調設備からの排熱や工場などの産業活動に伴う排
気物が加わり、地表の空気の温度を上昇させている。さらに樹木の減少によって起こるア
ーバンドーム化により、ヒートアイランド現象に拍車をかけている。これが首都圏や近畿圏
といった都市部とその郊外だけでなく、いまや日本列島全体に広がりつつある。そのため
大気の状態が不安定になりやすく、いつどこで集中豪雨が発生しても不思議ではない状態
になっているわけだ。
話は集中豪雨だけではない。冬は暖冬化し、夏の気温は上がる一方だ。昔は「日射病」
という言葉はあったが、「熱中症」という言葉はなかった。炎天下で激しい運動や労働を続
けたために日射病になる患者はいたが、今や自宅で安静にしていても熱中症による死者
まで出ている始末である。ヒートアイランド現象で夜になっても地表の温度が下がらないか
ら、真夏は熱帯夜が何日も続く。そして昼間は人間の体温を上回る気温になる。内陸部な
ど場所によっては40℃にも達する。それで多湿なのだから汗も蒸発しない。そのために
体力のない老人や子どもが熱中症で死んでしまうのである。
ではどうすればよいか。温暖化をストップさせるためにいろいろな案が出されているが、
結論を言えば特効薬はなく、もはやどうすることもできない状況になっているといわざるを
得ない。「夏の冷房は28℃以下に、冬の暖房は18℃以上には設定しないように」とか「使
わない時はこまめに電源を切ろう」と呼びかけているが、はっきり言ってその程度の努力
では地球温暖化を阻止することはできない。「このまま何もせずにいるよりはマシ」という
程度である。本当に温暖化が始まる前の地球に戻すには化石燃料を一切使用しなかっ
た時代、すなわち紫式部や兼好法師がいた当時の文化での生活を甘んじて受けるしかあ
るまい。ビルも工場も自動車も冷房も電気もガスもない文化である。それも日本だけがや
るのではない。世界の各国で取り組まなければ意味がない。しかも1年や2年だけではな
い。地球温暖化は20世紀以降、人々が大量にエネルギーを消費してきた結果徐々に悪
化してきたのである。だから、元に戻すのにも同じくらいの年数は要する。少なくとも50年
は必要だろう。今さら世界各国で中世の文化に戻して生活することなど、絶対に実現する
はずがない。だから、もうどうすることもできないのだ。
現実的には、先述した「何もしないよりはマシ」といった程度の対策をするしかないだろ
う。だが、その、せめてもの対策でさえ実現できていない。その証拠にJR山手線の車内
の冷房設定温度は今年からそれまでの24℃を25℃に改めたばかりという有様だ。商業
施設によっては冷房が効きすぎているところも少なくない。暑い戸外から入店した瞬間は
爽快だが、しばらく店内にいると寒くなってくるほどだ。そんなとき店員の服装を見ると、真
夏でも長袖シャツを着て接客している。逆に冬は暖房が効きすぎている。客は当然外の
気温に合わせてジャンバーやコートを着たまま入店するから、しばらく店内にいると暑くな
ってくる。しかし、店員は冬でも半袖のシャツ1枚で接客している。これほど矛盾した冷暖
房の使い方はあるまい。夏などは店舗の入口のところだけ特別に冷えた空間を設けてお
き、涼みたい人はそこで涼むようにして、あとはそこそこの温度に設定しておけば充分な
はずだ。冬も同様である。何も全館で冷暖房をガンガンに効かせる必要はないはずだ。
しかし、現状はほとんどの施設がサービス過剰なほど効かせている。
このような有様だから、地球の温暖化は進む一方である。恐らくこれからも集中豪雨は
発生し、真夏の気温は上昇し続けるだろう。土石流や熱射病による犠牲者は増えること
はあっても減ることはないだろう。異常気象が叫ばれて久しいが、今後はますますその程
度がすさまじくなり、今までの常識では考えられないような現象を呈することになるだろう。
そして、熱帯でしか見られなかった動物・植物も現れて生態系も壊れるに違いない。当然
のことながら熱帯でしか存在しなかったウイルスや細菌類が日本でも繁殖するようになる
から、それらに感染して命を落とす人も出てくるだろう。このままでは、今世紀中に地球は
終焉を迎え、人類は滅亡するに違いない。いったいどこまで温暖化の犠牲者を放置し続
けるのだろうか。政府は法的な強制力をもった温暖化対策を早急に講じるべきである。
171「サマータイム制度の功罪」(7月23日)*******************************************
夏場の始業・終業時刻を1時間ずつ早めるサマータイム制度の導入が北海道では活発
に進められている。北海道では緯度が高いために夏至の頃には午前3時30分には夜明
けになり、昼間の時間は首都圏よりも1時間以上長い。その利点を生かすべく、北海道で
は04年度からサマータイム制度が試行された。今年で3年目を迎えたが、参加する自治
体や企業などは試行1年目の04年度と比較して5倍に増えた。この制度の実施を主催し
ている札幌商工会議所では本格的な導入へ向けて意欲的である。だが、本当にサマータ
イム制度は良い事尽くめなのだろうか。その功罪を考えてみたい。
サマータイム制度を導入する利点の一つが経済効果の上昇であると指摘されている。会
社の終業時間が早まるわけだから、事業者側にとってはそのぶん日没後に要する照明な
どの電気代を節約できることになる。これは各会社の経費負担が減るだけではない。省エ
ネ効果、すなわち地球環境の悪化を阻止できるという大きなメリットがある。また従業員に
とっては退勤後の余暇を長く楽しむことができる。だから、明るい時間に退社し同僚・友人
と買い物や食事を楽しんだり、家族で団欒する時間を増やすことができる。これにより札幌
商工会議所は「時刻を日本標準時より2時間ずらした制度で半年間導入した場合、観光・
レジャー・娯楽・趣味に対して直接効果で900億円、その波及効果を含めると1100億円
もの新たな消費が誘発される」と試算している。
しかし、現実はそんなに甘いものではない。長引く不況でどこの会社でも最低限度の人員
で経営しているから、社員一人あたりの仕事量は増える一方だ。したがってサマータイム制
度を導入すれば、残業を強いられる時間も現状以上に伸びることになる。「始業時間は早
められたが明るい時間にはとても帰宅できる雰囲気ではない」ということになろう。仮に退
社時刻が多少早まったにしても、翌朝の出勤が早いのだからそう遅くまで遊ぶわけにもい
かない。だから試算するほどの経済効果は見込めそうにないと考えたほうが現実的だ。事
業者側にしてもそうである。社員を残業させれば照明など夜間の電気代も思ったほどは減
らないだろう。逆に始業時間が早められたぶん業務用パソコンなどが朝から稼動するのだ
から、省エネにはならない。サービス業では実質的に閉店時刻が遅くなることにもなりかね
ない。サマータイム制度で1時間ずれたとすると、現在10時に開店し20時に閉店している
店舗は実質的には19時に閉店になるはずだが、残業を終えた人々がどっと繁華街に繰り
出すのが19時前後になれば、客の多い時間帯に閉店するわけにもいくまい。結局20時に
閉店することになれば開店が9時になったぶん営業時間は1時間伸びることになる。つまり
はそれだけ光熱費も要するわけで、それで地球環境にどれだけ貢献できるのかは非常に
疑問である。
サマータイム制度が本格的に導入されれば、これに関与するのは事業者と従業員だけ
ではない。学校に通う児童・生徒もその影響を受けることになる。仮に夏場に標準時より
1時間早められた場合現在8時30分に始業時間となる多くの全日制の学校では7時30
分が始業時間となる。(時計の針は8時30分でも実質的には7時30分になる)その後、
50分の授業を午前に4コマ、午後に2コマ終えれば、14時過ぎには放課後になる。した
がって部活動などを終えた生徒の完全下校の時刻は17時〜18時になるはずだが、恐
らくそうはならないと思う。夏の18時はまだまだ明るいからだ。全国大会にも出場実績が
あるような部活動をもつ学校や、もともと部活動に心血を注いでいる私立の学校では18
時過ぎになっても生徒を下校させずに部活動の延長を考えるだろう。一方、難関大学へ
の進学率が高い高校では補習授業や補講の設定を考えるだろう。ただでさえ完全週休
2日制によって削減された土曜日の授業時間分を確保すべく躍起になっているのだから、
14時過ぎに生徒を放課にさせるはずがない。部活動にせよ補習授業にせよ、結局、生
徒の下校時刻は現状と変わらないだろう。ということは生徒も教員も負担が増えるだけと
いうことになりかねない。
以上の理由で全国的にサマータイム制度を本格導入することに対しては賛成できない。
現在試行している北海道でも官公庁や公共交通機関・学校は参加していない。それでも
試行によるメリットが出ているのは、高緯度という地理的事情に恵まれた北海道だからこ
そだと思う。低緯度地域である九州や沖縄地方では夏になっても夜明けが早まるわけで
はないから、早朝の電気代はむしろ省エネとは逆効果である。さらにはこれは全員につ
いて言えることだが、体調の管理も問題だ。人間の体には所謂「体内時計」なるものがあ
るが、これは24時間+何分かが一サイクルになっていて、24時間ちょうどではない。だ
から自然に任せた場合、起床・就寝の時刻はわずかずつ遅くなるのが人体の有する本来
のリズムである。したがって標準時からサマータイム導入の日を迎える場合は時差の早い
国に移動したのと同じことになり、非常につらいことになる。海外旅行で時差ぼけを体験し
た方は少なくないと思うが、病人も含めた国民全員にこれを強要するのは健康上好ましい
ものではない。
170「北朝鮮ミサイル問題」(7月16日)***********************************************
北朝鮮がミサイルを発射した。日本・アメリカ・イギリス・フランスの4国は国連安全保障
理事会に北朝鮮への制裁も可能にする決議案を出した。中国とロシアはこれに反対し、
独自の非難決議案を国連安全保障理事会に提示した。日本との交渉責任者である宋日
昊大使が日本の記者団に対して「日本とは最悪の関係を越え、対決局面に入っている」
と語った。日本は今回のミサイル発射に対して北朝鮮の貨客船「万景峰号」の入港禁止
という厳しい措置をとったが、宋大使はそれを言語道断と評し、「破局的な結果を招きか
ねない」と語った。北朝鮮外務省も「より強硬な物理的手段をとらざるを得ない」と表明し
ている。
横田めぐみさんをはじめとする拉致事件でも今回のミサイルでも、日本北朝鮮に対して
強硬な姿勢を崩していない。国連安全保障理事会の決議で拒否権を行使する恐れのあ
る中国・ロシアを説得し、何とかして北朝鮮に対する制裁決議案の成立をめざしている。
理不尽なのはあくまでも北朝鮮であって日本は当然のことを主張しているのだから、北朝
鮮がいくらミサイルで威嚇・挑発しても決してそれに屈してはならない。ただ、私が憂慮す
るのは日本が強硬な態度を取り続けたために、北朝鮮がかつての日本のような行動に
出ることだ。それだけは何としてでも避けなければならない。
1931年の満州事変以後、日本は中国の東北地方に進軍した。リットン調査団がこれ
を侵略行為と断定すると日本は国際連盟を脱退した。1939年にアメリカが日米通商条
約を破棄し日本への石油の供給を抑制すると、仏領インドシナ北部に進駐し、石油など
の資源が豊富な東南アジア方面に進出した。事態解決のために続けられていた日米交
渉もついに行き詰まり国際的に完全に孤立した日本は、1941年12月8日にハワイの
真珠湾を奇襲攻撃したのである。そして3年8ヶ月余りにも及ぶ太平洋戦争に突入してし
まった。
事態の打開に八方塞がりとなった北朝鮮が日本のどこかを奇襲攻撃しないとも限らな
い。仮に今回のミサイルが朝のラッシュ時の新宿駅に着弾すれば何十万人もの死傷者
が出ることは必至だ。そしてもし、全面的な戦争になってしまったら最悪の事態、すなわ
ち、1億2000万の日本人は一人残らず核兵器で抹殺されることも覚悟しなければなら
ない。北朝鮮の理不尽な要求を容認するわけにはいかないが、北朝鮮が宋大使の言う
とおり「より強硬な物理的手段」をとったために、日本が「破局的な結果」を招くことのない
よう、私たち国民の未来だけは何としてでも守ってもらいたい。
169「不自然なものを嫌う文化」(7月 9日)*******************************************
「JRより携帯電話をお持ちのお客様へのお願いです。優先席付近では電源をお切りくだ
さい。またその他の場所では着信音が鳴らないようマナーモードに設定し、車内での通話
はご遠慮下さいますようお客様のご理解とご協力をお願いします。」
これはどこの鉄道会社でも車内放送で必ず言う「決まり文句」である。私の印象では携
帯電話が急速に普及した2000年あたりからだろうか、特に言うようになった。では、なぜ
鉄道会社がこのようなお願いをするようになったかというと、利用者に対して「車内であな
たが迷惑に感じることは何か」という質問でアンケート調査をしたところ、最も多く指摘され
た行為が「車内における携帯電話の通話」だったからである。そこで鉄道会社はこれを「マ
ナー違反」と位置づけて、禁止する方針に動き出したのである。つまりそれだけ携帯電話
の通話を迷惑に思う乗客が多いということなのだ。
では、どうして車内での通話をこれほどまでに「迷惑」と感じるのか?これに対する考察
は、これまでほとんどなされていなかったように思う。車内で声を出したり喋ることが迷惑
だからか?いや、答えはそんな簡単なものではない。もし、そうだとしたら車内で知人や友
人と会っても会話すらできなくなるではないか。何人かで乗って車内でいろいろとお話をし
ながら過ごしても誰からも何も文句を言われることはないのだから、車内で声を出したり喋
ることが迷惑なのでは決してない。
では声の大小の問題なのだろうか?これも答えは「ノー」だ。実際に測定してみると携帯
電話で通話する際の声は、車内で知人や友人と会話する声の音量と比べるとはるかに小
さい。もし携帯電話の通話が「うるさい」のなら、車内での乗客の会話はとっくに全面禁止と
なっているはずである。
そこで考えられるのは「通話中の言葉は誰にも聞かせようとはしていない、つまりは独り
言のように感じられるからではないか」という仮説が成り立つ。車内での会話を迷惑に感じ
ないのは、それが独り言ではないことが誰の目にもわかるからである。しかし、これも残念
ながら違う。その証拠に運転士が発する声は乗客に聞いてもらうべく語っているわけでは
ない。電車の最前部に乗ると「出発進行!」「2分延!」「制限45」といった運転士の声が
聞えてくるが、これを「うるさい」と感じて「マナー違反だ」と訴える客はいないからだ。また、
脳性まひなどで知能障害をもった乗客が車内で独り言を発して騒いでいても、「うるさい」と
感じて「マナー違反だ」と訴える客はいないからだ。となると、本当の理由は何なのだろう?
私が大胆に推理して考えるには、私たち日本人には不自然なものを嫌う文化が根底に
あるからではないかということだ。たとえば次の話をみてみよう。
A「だいじょうぶ?毎日残業で疲れとるんとちゃうか?たまには休暇取ったらどや?」
B「いやぁ、取れるんならとっくに取ってるで。」
A「そない忙しいんか。ほないつもこのくらいの時間の電車かいな?」
B「これでも今日は早うあがった方やわ。普段は22時過ぎやねんから。」
A「へぇ〜。無理したらあかんがな。体壊したらどないすんねん?」
B「わてもほんまは阪神の試合始まる頃には」
A「家に帰っていたい?」
B「そこまでは言わんけど・・・」
A「退社はしたい・・・せやろ?」
B「まあな。」
A「そういえば茅野さんはどないなった?」
B「先月かな。神戸支店に転勤になったで。」
車内でA・Bの2人が上記のように会話している場合、周囲の乗客がその会話の内容を
聞こうと思えば話の中身を容易につかむことができる。つまり会話の内容が「不自然」では
ないのだ。また、列車の乗務員が「出発進行」などと発する言葉は「安全運転のための必
要な指差喚呼」であると理解されているから、誰にも聞かせる意図がない言葉であっても
「自然なもの」として納得できるのである。さらには、知的障害をもった乗客が大声で喚い
ても「病気なのだ」「障害者なのだ」と納得できるから、たとえその人が発する言葉がいか
に意味不明きわまりないものであっても、周囲の人はやはり「自然なもの」と認識して受け
入れることができるのである。
ところが、携帯電話だと、どうなるか。会話の片方が電話の向こうになるから、さきほどの
例でいうと次のようになる。
「いゃぁ、取れるんならとっくに取ってるで。・・・・・・
これでも今日は早うあがった方やわ。普段は22時過ぎやねんから。・・・・・・
わてもほんまは阪神の試合始まる頃には・・・・・・
そこまでは言わんけど・・・・・・・まあな・・・・・・・
先月かな。神戸支店に転勤になったで。」
これでわかるように電話の会話だと片方だけになるから脈絡がなくなり、周囲の乗客にと
っては何の話か全くわからなくなるのだ。まず「取れるんならとっくに取ってるで。」がそう
だ。誰が何を取るのかさっぱりわからない。次の「阪神の試合始まる頃には」にしてもそう
である。後にくるべき文が相手の発言に置き換わっているため、阪神の試合が始まる頃
には何がどうなっているのか、または何をどうするのか――がさっぱりわからないのであ
る。このように車内での携帯電話による通話は周囲の乗客にとっては不自然に感じられ
て、普通に受け入れることができないのである。これが鉄道会社に対して善処を促す苦情
となり、その結果鉄道会社が打ち出した案が「携帯電話によるメール操作・送受信などは
許可するが、車内の通話と着信音の鳴動は禁止する。」という姿勢に徹するようになった
のではなかろうか――と私は思うのだが・・・・・・・。読者のみなさんはこの仮説をどのよう
に感じられますか?
168「雨天中止にした試合の取り扱い」(7月 2日)**************************************
沖縄地方と九州の一部を除いて、今は全国的に梅雨の真っ只中だ。サッカーはかなり
の雨でも試合をやるがプロ野球の場合はそうはいかないので、この時期は予定していた
試合が雨天で中止されることもしばしば起こる。あるいは試合を開始したものの途中から
雨が強まったために、審判団により続行不能と判断されることがある。今回はそのような
場合のチケットの取り扱いに対する注文をしたい。
プロ野球の場合は規定により試合そのものを最初から中止した場合と、開始したもの
の5回裏までの終了を待たずに打ち切りを決定した場合は、チケットを全額払戻しするこ
とになっている。そして中止をした試合の代替試合が後日組まれるわけだが、そのチケッ
トはまた新たに購入し直すことになる。しかし、それはいかがなものだろうか。中止となっ
た試合が地方遠征の場合は致し方ないが、本拠地の球場で行なった場合は代替試合も
同じ球場で行なっているのである。それならば既に購入したチケットで代替試合も観戦で
きるようにすべきであろう。当初予定していた試合と代替試合とで球場が異なるのなら不
可能だが、同じなら観覧する席も同じで差し支えないはずだ。自宅や勤務先の近くにチケ
ットを購入できる場所がないために、交通費と時間をかけてやっとの思いでチケットを買っ
ているファンも少なくない。もちろん、何週間か何ヶ月も後の代替試合では都合がつかず
観覧できないという人もいるだろう。そういう人にはこれまでどおり払戻しの取り扱いをす
れば良い。しかし、せっかく入手したチケットが払戻しになったために、代替試合のチケッ
トを新たに買い直すのは手間だという人もいるのである。そういうファンのことも考えてい
ただきたい。
このような方式にすれば営業面でもプラスになるはずだ。現状では代替試合の多くが当
日券を主とした販売になるため、何万人も収容できる球場なのに当日の入場者がちらほ
らといった光景もみられる。しかし、代替試合を観覧希望する客が中止となった試合のチ
ケットを払戻ししなければ、その分の収入は既に確保されているわけだから、当日券の収
益に頼らなくても済むわけだ。したがって、新たに買い直すのならもう見に行くのはやめる
というファンによる興行収入減を食い止めることができるのではなかろうか。
167「エレベータ保守の恐るべき実態」(6月25日)**************************************
東京都港区にある公共住宅「シティハイツ竹芝」(23階建て)で今月3日、エレベータの
故障による人身事故が発生した。ドアが開いたまま突然エレベータの箱が上階へ動き出
したため、降りようとしていた都立高校2年生市川大輔君がエレベータに挟まれて死亡す
るという未曾有の事故である。大事故の前にはその予兆ともいえる小さなトラブルが発生
するといわれる。ご多分に漏れず今回の事故機でも利用者がエレベータ内に閉じ込めら
れたことが過去3年間に41件も発生していた。住民はさぞかし不安な思いで利用してい
たに違いない。当然そのような異常は住民から住宅公社を通じてメーカーにも伝えられて
いたはずである。事故機の保守点検を請け負っていたSECエレベータ社でも今年4月か
ら事故発生の6月3日までに4回の定期点検を実施し、ブレーキの不具合を知っていたと
いう。それにもかかわらず補修は一度もしていなかった。
今回の死亡事故は次の3つの点で常軌を逸している。第1に、事故機はシンドラー社の
製品であるのにもかかわらず、シンドラー社が保守点検をしていないことだ。つまりメーカ
ーと保守点検が別の会社だということである。しかもSECエレベータ社は独立した保守点
検・修理会社で、シンドラー社とは系列でも何でもない関係だ。我々の常識から考えれば、
メーカーと保守点検・修理は同一の会社、ないしは自社系列の会社がすべきものだろう。
たとえばトヨタの車で不具合が発生すればトヨタのディーラーに依頼するのが普通だろう。
東芝のビデオデッキが故障して録画ができなくなったら購入した店舗を通じて東芝に修理
をお願いする。そんな当然のことがなされていなかった。事故機のエレベータの保守点検
をメーカーとは無関係の会社が請け負っていた理由は、シンドラー社が保守点検する業
者を競争入札制度にしたからである。このエレベータについては05年は日本電力サービ
スが、06年度はSECエレベータ社が落札したという。落札価格は前年度比43万円減の
115万円だ。この価格は随意契約で請け負っていた3年前と比較して25%の価格でしか
ないという。「コストはパフォーマンスに比例する」とは必ずしも断言できないが、それだけ
安値であればメンテナンスの質の低下は不可避であろう。結果的に安全を犠牲にして利
潤を優先したことになる。
第2に、シンドラー社の閉鎖的体質を指摘したい。SECエレベータ社ではブレーキの不
具合を知っていながら補修は一度もしなかったのだが、その理由はメーカーからの製品
情報がなかったからであった。製品の情報は保守点検を行なう上で必要不可欠なことは
言うまでもない。私たちが普段使っている家電製品にしても、取扱説明書があるからこそ
正しい操作や点検ができるのであって、なければ途方に暮れることは自明である。ところ
が、シンドラー社から事故機のエレベータについてのマニュアルがSECエレベータ社に渡
されていなかった。毎日新聞社の取材に対してSECエレベータ社の技術系社員は「機械
を調整しようとしても的確な方法がわからず怖くて何もできなかった」と証言したが、マニュ
アルがないのだから点検も修理もできないのは当然である。他にも「修理に必要な交換部
品の発注をメーカーに依頼しても、あるはずの在庫がなかなか届かず待たされることがあ
る」との証言もある。保守点検を落札した会社に対し製品に関する情報を周知させないの
はなぜか。それは自社系列の保守点検会社とSECエレベータ社のような独立した保守点
検会社との激しい受注競争が背景にあるという。また、メーカーは自社系列ではない会社
には設計図や点検マニュアルを渡さないのが普通だという。
第3に、保守点検を請け負う業者間の連絡が行き届いていないことである。その主たる
原因はメンテナンスをする業者を競争入札制度にしたため、担当業者が毎年変わること
になってしまったからであろう。したがって去年に発生した不具合に関する情報が今年担
当した業者に引き継がれていないのである。勿論メーカーであるシンドラー社からも伝達
されていない。じつは、2年前にも事故機は急停止するトラブルを起こしていた。このとき
シンドラー社は「シティハイツ竹芝」を管理する港区住宅公社に対して「事故の原因はブレ
ーキの不具合」と指摘した報告書を提出していた。にもかかわらずメンテナンスを請け負
う会社にはその旨が伝達されていなかった。事故機があった「シティハイツ竹芝」の住人
は、不具合を放置されたままのエレベータとは知らずに毎日利用させられていたわけであ
る。
保守点検の業者とメーカーとの間に起きている内部事情を知悉しているエレベータ業界
の人の話では、「今回のような重大事故はいつどこのエレベータで発生しても不思議では
ない」という。まさに起こるべくして起きた事故、未必の故意と言える事故であった。「知ら
ぬが仏」で今回のような大事故さえ発生しなければ、私たちはエレベータは安全な乗り物
と信じて疑わなかったであろう。しかし、保守点検の実態はこのように恐るべき体制のもと
で漫然と行なわれ、まさしく形骸化していたのである。このような実態は恐らくシンドラー社
製のエレベータだけではあるまい。いまだに発覚していないから知らされずにいるだけの
話で、私たちが身近に利用しているもので安全を無視した恐るべき実態は他にもあると考
えたほうがよいだろう。三菱ふそうトラックのハブといい、今回のシンドラー社製のエレベ
ータといい、企業のやっていることは信頼できないことばかりである。シンドラーエレベータ
株式会社という名称は日本人にはなじみがないが、スイスのエビコンに本部を構え世界
110カ国に販売・サービスネットワーク、47箇所に生産拠点を有する世界第2位の規模
を誇る会社である。それだけの大会社であってもこの体たらくである。消費者・利用者が
心から信用できる企業は一体どこに存在するのだろうか。
166「『羅生門』の授業をするたびに思うこと」(6月18日)********************************
「ある日の暮れ方のことである。一人の下人が羅生門の下で雨やみを待っていた。」
と
いう書き出しで始まる芥川龍之介の小説『羅生門』は、高校1年生の必修科目「国語総
合」の教科書で採録されている定番の教材である。今まで雇われていた主人から暇を出
されてしまい真っ当な手段で生活する術を失った下人が「このまま飢え死にをするのか
それとも盗人になるのか」で悩み、とりあえず明日の朝までは羅生門の楼の上で過ごそ
うと決める。死体ばかりだと思っていた楼の上に登ってみると、そこには一人の老婆が
いて死人の頭から髪の毛を抜いている。下人が老婆を捕まえてその行為の理由を問い
詰めると老婆は「自分は死人の髪の毛で鬘を作るつもりだった。飢え死にを免れるため
に仕方がなくすることだから許されることだ」と弁解する。この老婆の言葉に感化された
下人は老婆の着物を奪い取って夜の闇に消え去る――というあらすじだ。
この作品は地震・飢饉など相次ぐ天災で街も人心も荒廃しきった平安時代の末期の京
都という設定である。普通に考えれば、これだけモノがあふれた現代の我が国の世相と
はおよそ無縁でなければならないはずだが、決してそうではないところが恐ろしい。たとえ
ば、最近の世の中で起きている次の現実はどうだろう。
例1・コストを少しでも下げるために違法な設計・工事をした
例2・借金を抱えて首が回らなくなったから一家心中した
例3・私は今月限りの雇用で、来月からの職場はまだ決まっていない
例1で想像がつくのは姉歯秀次元一級建築士の耐震偽装建築問題だろう。違法な建
築と知っていて客に物件を販売した不動産会社もそうだが、これは私利私欲を膨らます
ためというよりも、少しでも安い物件でないと売れない→つまり会社の経営が成り立たな
いためにしたことだろう。かつてのバブル期ならどんな高値でも売れたから法を犯してま
でしてコスト削減を図ろうなどは考えなかったはずだからだ。だからといって偽装物件な
どもちろん決してあってはならない悪には違いないが、『羅生門』に出てくる老婆の言葉
を借りるならば、会社を守るために「仕方がなくしたこと」という見方もできなくはない。こ
のような企業の例は枚挙にいとまがない。安全のための点検回数を故意に減らしたり、
過積載のトラックで長時間の運転をさせている運送業者、欠陥があることを知りつつリコ
ールなどの措置を講じずひた隠しにする業者など、とにかく自分の会社の利益を守るこ
としか考えていない。しかし、いずれにしても不況で厳しい経営を強いられているからそう
せざるを得ないのであって、何をやってもおもしろいほど儲かるご時世ならば、よほどの
悪徳業者でない限りありえないことかもしれない。
例2もそうである。会社が倒産したり自分がリストラされたりしたために自分が当てにし
ていた収入が絶たれ、そのためにかつて購入したマイホームのローンその他の返済が
不可能になり、サラ金などから借金を重ねるうちにどうにも身動きがとれなくなった結果
であろう。中には自殺することで妻子に保険金が下りるようにする夫もいる。『羅生門』に
登場する下人とは借金の有無の違いしかない。そして自殺する――つまり小説の言葉で
表せば「手段を選」んだために「飢え死に」をしたことになる。年間で3万人以上が自殺す
る状況がここ何年も続いているが、彼らは好き好んで自殺しているわけではなかろう。さ
んざん逡巡した揚げ句、もう死ぬしかないと判断し不本意ながらこの世を去っているはず
である。そういう意味では「自殺はその社会による他殺」という見方もできる。
例3は派遣社員・契約社員の類だ。いわゆる「フリーター」は全国に300万人も数える。
そのすべての人がとは言わないが、『羅生門』の下人のおかれた状況と同じ人、すなわち
貯蓄がないために職場を解雇されたら明日からの生活収入がなくて困るという人は決し
て少なくない。そこまで困窮していないにしても年金や健康保険を支払う余裕のない人は
大勢いる。いずれにしても正社員としての雇用を必要最小限度に抑えたために生じた悲
劇である。幸い「地震とか辻風とか火事とか飢饉とかいう災い」がないから働き続けられ
るだけの話で大規模な災害や経済恐慌が発生し街が「一通りならず衰微」すれば、まっ
先にその犠牲となるのはフリーターである。そういう意味では『羅生門』の下人と何ら変わ
らない。
今年も『羅生門』を講読する授業をしたが、老婆の主張の要点である「許される悪」の説
明を生徒にするたびに、今の時代も一面ではこの作品とたいして変わらないのではないか
とつくづく思ってしまう。資本主義・自由主義経済の下では景気には波があり、不況と好況
とが交互にやってくるとよく言われる。これが本当なら「平成不況」もそろそろ脱して良さそ
うなものだ。もう10年以上も続いているのである。しかし一向にその兆しすら見えない。も
うかつての高度経済成長の時代やバブル景気は2度とやってこないのだろうか。
165「歯止めがかからぬ少子化」(6月11日)*******************************************
我が国の女性一人が生涯に出産する平均を示す合計特殊出生率は、1.25になり過去
最低を更新した。02年の時点では、この数字は1.3程度で底を打つだろうと政府は予測
していたが、それをはるかに越える低い数字にさすがにショックを隠しきれないようだ。しか
し、こうなったのは小泉首相が就任以来今日まで強引に推進してきた「痛みを伴う構造改
革」の必然的結果であると私は見ている。なぜ少子化に歯止めがかからないのか。その原
因は次の4点に集約できる。
第1に、雇用が不安定では育児の資金など拠出できないからだ。かつての日本は会社が
倒産しない限りは終身雇用が当たり前であったし、賃金も年功序列であった。だから入社
間もない独身時代は安月給でも子育てにお金がかかる中堅以後の社員はそれなりに高収
入が保障されていた。しかし、現在はどうか。長引く不況でどこの企業でも人件費のかかる
正社員の雇用を極力減らしている。その結果、パート・派遣社員・契約社員・非常勤職員な
ど有期の雇用契約を結んでいる人が非常に増えた。彼らはいつ契約が切れて無収入にな
るかわからない身分だから、自分の預貯金でさえも思うようにできていないだろう。自分自
身が生活していくことだけで精一杯な状況で、どうして所帯を持って子どもまで育てられよう
か。
第2に、正社員といえども結婚・出産どころではない人が少なくないからだ。年功序列の
賃金が能率給に変わってしまったため、企業の要求する一定の成果を上げなければ勤続
年数に関わらず解雇されかねない状況に置かれているのである。その点では派遣社員以
上に悲惨な立場だと言える。また、リストラされて減った職員の分まで働かされているから
残業を強いられている社員も少なくない。一応9時出社の18時退社という契約でもそんな
ものは絵に描いた餅である。その証拠に終電車の客ダネが変わっている。昔は終電に乗
る客というと何軒もの飲み屋をハシゴしてすっかり酔っ払ったサラリーマンばかりだったが、
今は違うのだ。終電ぎりぎりの時刻まで会社に残って仕事しているのである。そんな状況
では職場結婚でもないかぎり異性と出会うチャンスはないだろうし、出会ったところで満足
に交際することもできまい。仮に結婚したところで、家庭生活を充実させることも無理であ
る。
第3に、育児や介護の休暇が有名無実化していることである。男女雇用機会均等法によ
り女性の社会進出が進んだが、問題は育児と仕事とを両立できる制度が全く整備されてい
ないことだ。その証拠に第1子が誕生すると70%の女性社員が辞めていくという現実があ
る。子どもが発熱しても会社を早退することすらできない状況に置かれているのだから、会
社に迷惑をかけたくなければ辞職するしかあるまい。子どもの命と会社のどちらが大切か
など改めて論じるまでもないことだが、そんな当然のことすら認めてもらえないのでは結局
のところ生涯独身を通して働き続けるか職場を去り家庭に入るかしか残された道はないの
である。平成に入ってからは介護休暇制度や男性の育児休暇も認められるようになったが、
これも同じである。制度だけ存在しても実際に休暇を取れないのだから、絵に描いた餅でし
かない。
第4に、人生観の変化である。特に女性について言えることだが、家庭で夫や子どもに縛
られる人生よりも自分の能力や適正を生かした仕事をやり続けたいと願う人が増えた。そ
の結果、結婚したがらない女性・子どもを欲しがらない女性が増えた。こればかりは個々人
の思想の自由であるから致し方あるまい。
結局のところ現状の雇用情勢が続く限り、今後も少子化に歯止めがかかることはあるま
い。したがって原因の大部分は不況を好転させることができない失政と、仕事と育児を両立
させることができない職場の労働環境にある。
第1に「カネ」の問題だが、もうこうなった以上は一人出産したら育児補助金として1000
万円を与えるぐらいのことをしなければ子どもは増えないだろう。お金欲しさに望まない出
産をする不埒な者も現れるだろうが、思い切った経済的支援をしない限りは出生率の好転
は期待できない。現行の制度では所得税が控除されるが、その程度では焼け石に水にも
なっていない。
第2に、昔のように生涯にわたって安定した収入が得られるような制度に戻すべきである。
このことは正社員でない人にとっては切実な問題である。今さらすべての労働者を正社員
として雇用することは不可能だから契約社員や派遣社員でもやむを得ないのだが、その場
合でもある会社との雇用契約が切れても直ちに次の会社との雇用が保障されるといった形
で途絶えることなく一定以上の収入を確保できる状況にしなければ話にならない。
第3に、労働時間の短縮も急務だ。ワークシェアリング制度を導入し、たとえ正社員であっ
ても、一日6時間前後の短時間勤務にすべきである。もちろん賃金は現状よりも下がること
になるが、それよりも独身者には異性と出会ったり交際する機会を増やすこと、既婚者には
家族団らんの時間を増やすことを優先すべきである。昭和30年代に欧米から「日本人はエ
コノミックアニマルである」と揶揄されたが、その状況は半世紀を経過した現代でも何ら変わ
りがない。残業して終電間際に退社する日々が続いたために、慢性的な疲労から過労死し
たり、うつ病になって自殺をする労働者が後を絶たないのが現状だからである。これでは会
社のために仕事をしているのか愛する家族のために仕事をしているのかがわからない。
最後に、急を要するときなどは誰にも気兼ねせずに会社を早退・遅刻できるような職場環
境にすべきだ。「介護休暇」だとか「育児休暇」だとか「療養休暇」だとか、いくら福利厚生の
制度が充実していても労働者がそれを行使できないのでは意味がない。会社によっては正
社員以外の人間には慶弔休暇も認められていないところが多い。ということはたとえ親が
死んでも葬儀に出られないわけである。これだけ人権が叫ばれているご時世なのに人間性
を無視した職場がいかに多いことか。このような問題に対して政府や雇用主が積極的に取
り組み誰もが安心して働ける社会を取り戻さない限り、少子化に歯止めがかかることは決し
てあるまい。
164「教育基本法の改正について」(6月 4日)*****************************************
戦後の教育の指針を定めた教育基本法を改正する動きが国会で本格化している。政府
与党案に対して民主党も独自の案を発表しているが、どちらにしても多くの問題を孕んでい
る。
第1に、改正する意義が見出せない。文部科学省は「子どものモラルや学ぶ意欲の低下、
家庭や地域の教育力の低下、若者の雇用問題」を挙げ、「環境が変わる中で根本的な改
革が求められている」と、改正の意義を打ち出した。この文部科学省の指摘した4つの問
題は紛れもなく由々しき事実ではあるが、その原因が果たして現行の教育基本法にあると
は思えない。第1の「子どものモラル」は基本的には家庭教育の低下と、暴力を是認するよ
うなゲームソフトや漫画、さらには低俗なバラエティー番組を氾濫させた社会環境に原因が
あると私は思う。第2の「学ぶ意欲の低下」にしてもそうだ。努力しなくても、お金さえあれば
何もかも手に入り思い通りになるといった至れり尽くせりの世の中にしてしまった社会にこ
そ原因がある。また、大企業でも倒産したり終身雇用制度そのものが崩壊する状況で、い
くら努力して高学歴を手にしても老後まで安泰な社会的地位と高収入を得られる保障がな
いという事実が、学ぶ意欲の低下に拍車をかけている。第3の「家庭や地域の教育力の低
下」も教育基本法のせいというよりも個人主義社会の弊害だろう。核家族化で子どもが祖
父母と接触する時間が乏しくなったことや、他所の子どもを叱ることができなくなった環境に
問題がある。最後の「若者の雇用問題」などは教育の問題以前に長引く不況が最大の原因
だ。誰もが正社員として雇用される求人状況が続いていれば、好き好んでフリーターやニー
トになろうとする若者など現れないからだ。つまり、現行の教育基本法がこれらの問題点を
招いた悪法だから改正が急務なのだという根拠はどこにもないのである。むしろ今日の我
が国を築き上げたのは現行の教育基本法の功績ではなかろうか。
第2に、改正内容の最大の問題点とされる「愛国心」に関する取り扱いだろう。そもそも
「心」の問題を法律で規定する自体、憲法19条に定める「思想と良心の自由」に抵触する。
これだけでも大いに問題があるのは言うまでもない。ましてや教育基本法に「愛国心」を明
文化すればいずれは全国の学校で一律に「以下に定める行動をとった者を日本を愛して
いると認める」といった形で学習指導要領に盛り込まれることにもなろう。しかし現場の学
校では外国籍の生徒も多数学んでいるのだ。彼らにも「日本の歴史や日本の伝統を大切
にし、日本を愛する心情を持ち、日本人としての自覚ある行動」を求めるのだろうか。まし
てやそれを評価するなど論外だろう。日本史の授業中の態度や試験の成績が悪かったか
ら「愛国心がない」と安易に評価したり外国人であることを理由に評価を下げるということ
にもなりかねない。小泉首相は「小中学生の愛国心を評価する必要はない」と明言したが、
現実には学習指導要領に愛国心の指導が定められており、既に一部の学校では愛国心
に関して観点別評価を下しているところもあるのだ。教育基本法に明文化すればこの動き
がより加速されることは目に見えている。
第3に、家庭教育にまで言及している点である。これは国家が「望ましい日本人像」を打
ち出して、それに従った人間を各家庭で育てろとほのめかしているような印象がある。90
年代から叫ばれてきた「一人一人の個性を重んじる」という人間育成の思想とは正反対だ。
国家が望ましい日本人像を打ち出すということ自体が、つまりは戦前の教育勅語と同じ発
想であり、歴史の歯車を逆転させる改悪と言わざるを得ない。
第4に、「教育は不当な支配に服してはならない」と規定した第10条の扱いである。これ
は、戦前「国家の定める日本人像」を作って大勢の教え子を戦場に送り出したことへの反
省から、官僚や政府の不当な圧力に服しないことを目指して設定され、教育の中立や自由
を謳ったものである。それが今回の改正で削除されようとしている。これも歴史の歯車を逆
転させる改悪と言えよう。第10条が削除されれば教育が国家権力の思うままに統制される
道を開いたことになるからだ。そうなると戦前の最重要科目とされた「修身」が復活すること
にもなりかねない。
結論として、教育基本法を改正しても現在叫ばれている教育に関する問題は何ら変わら
ないと思う。子どものモラルが高まるとは思えないし、学ぶ意欲が向上するとも思えない。
家庭や地域の教育力が復活するとも思えないし、ましてや若者の雇用が改善されるとは
思えない。本当に子どもの現状を改善するのなら子どもを取り巻く社会環境そのものを改
善すべきだ。最近の子どもがすぐにキレるのはスナック菓子などの食品に原因があると
指摘されているにもかかわらず、なぜ当該食品の製造・販売を許可しているのか?過激
なゲームソフトが現実と仮想との識別能力を喪失させ殺人などの重大な犯罪に直結する
ことがわかっているのに、なぜ規制されないのか?それが私には理解できない。さらに言
えばインターネットに関しては青天井である。子どもの健全な成長に悪影響を及ぼすサイ
トは無尽蔵にあり、子どもはいつでも自由にそういったサイトにアクセスできる状況に置か
れている。そのような子どもの心身の発達に悪影響のある環境を是正することを忘れて
教育基本法の改正で済ませようというのは、たばこの生産や販売を許可して肺がん患者
を増やしておきながら、その一方で肺がん撲滅のために胸部レントゲン撮影を集団健診
項目に入れて大勢の国民に放射線を被爆させている愚と同じではなかろうか。早急に小
手先の改革より子どもを取り巻く社会環境そのものにメスを入れるべきである。
163「運転免許証の顔写真に一言」(5月28日)****************************************
先々週のことだったが、この春に卒業したある生徒と偶然雑踏で出会った。「先生、春休
みに教習所の合宿に行って運転免許取った!」と喜んでいる。「へぇ〜お前でも運転免許
取れるんか?こりゃあ交通事故増えるわ」と冗談を言いながら私がわざと意外そうな表情
をしてみせると、生徒は「本当だよ。ほら!」と言って免許証を誇らしげに見せてくれた。過
去にもそういう会話のやり取りで教え子の運転免許証を見せてもらったことが何度かある
のだが、あの顔写真だけはどうにかならないものかといつも思ってしまう。というのは、まる
で警察庁で保管している前科者カードに登録された顔写真のように、いかにも人相の悪い
顔に写っているものばかりであるからだ。いくら本人確認の証明用写真とはいえ、もうすこ
しまともに写っていても良さそうなはずだ。卒業アルバムの写真くらいに可愛く写って欲しい
とまでは言わないけれど、他人が見たら「こりゃあ悪そうな顔しとるわ」と思われるような顔
に写るのだけはなんとかしてほしいものだ。ちなみに撮影の瞬間ににっこり微笑んだらどう
なるのだろうか?
162「恋愛が続かない原因も映像文化」(5月21日)*************************************
先週に引き続きまた新聞の記事で恐縮だが、去る4月26日・27日付の朝日新聞朝刊に
は高校生の恋愛の実態について連載された。それを見ると恐るべき事実がわかる。まずは
記事に紹介された文章をみてみよう。
今まで5人と付き合って、9ヶ月続いた彼女もいたけど、好きだったのは最初の3、4ヶ月。
だんだん会話がなくなって・・・・・・。6ヶ月で疲れました。
(高校を卒業したばかりの18歳男子)
周りから「付き合っちゃえよ」と言われ、雰囲気でOKすることってある。コクられて付き合
って気持ちが上がっていって。でも1ヶ月もすると、ヒューンって落ちていく。なんでだろ。付
き合い始めるとメールが適当になるとか、態度が変わるからかなぁ?弱いところがみえて
くるのもいやかも。ていうか一途になれない。6人と付き合って平均は2ヶ月間。好きになっ
た人を追いかけて振り向かせたとたんに達成感!満足してしまう。「もういいや」って。
(16歳高2女子)
上記の2つが26日の記事に掲載された現役高校生世代のナマの声である。次の3つは
27日の記事である。
高2の次女(16)がまた新しい男の子と付き合い始めたらしい。関東地方に住む男性会
社員(45)はそんな話を妻から何度も聞く。数ヶ月単位で相手が変わる。「いったいどんな
交際なんだ?」と思うが、踏み込めず、妻に任せている。
神奈川県内の高校の養護教諭は、女子生徒から携帯メールをよく見せられる。「絵文字
も何も入っていないでしょ。私のことなんて、どうでもいいんだ。」交際相手から届くメールの
内容が気に入らなかったり、返信がすぐに来なかっただけで別れてしまう。そんな生徒がた
くさんいる。
家でも外でも、離れている時間に何度も送り合う。ささいな言葉遣いや表現の違いで気持
ちがすれ違う。別れても友達でいることにこだわる生徒が多い。数日で相手が変わる生徒
もいて、気持ちの切り替えの早さにはびっくりする。出会った男子をすぐに好きになる女子、
性関係をもつと冷める男子。たまに割り切れない生徒が相手を追い求めてもめることもあ
る。
どの文章にも共通して言える現象は、交際を始めても非常に短期間で別れていることだ。
その原因は「会っていても会話がなくなる」と「相手からのメールに対する不満」の2つであ
る。前者は対人コミュニケーション能力のなさが招いた結果であり、後者は短絡的な思考し
かできない証拠だと私は思う。問題はなぜそうなるのかだ。これも私がたびたび槍玉に挙
げているゲームソフトをはじめとする映像文化が招いた悲劇だと思う。
今の高校生は映像文化にどっぷりと浸かって育っている。テレビ・DVD・漫画・絵文字メ
ール・インターネットなど、いずれも映像である。映像は非常に便利だ。何が書いてあるか
をいちいち読まなくても、見た瞬間に相手の言いたいことがわかるからである。たとえば、
(>_<)と表示されていれば「苦しい」「つらい」という意味だとわかる。しかし見た瞬間に意味
がわかる映像ばかりに囲まれていると、見た瞬間にはわからない文章を解読する能力は
育たない。それは軟らかい食品ばかり食べていると顎の筋肉が退化して固いものを噛む
力が失われるのと同じ理屈である。文章を解読する力が培われていないのだから、相手
と直接会って会話することなどなおさら不可能であろう。会話は相手の聞いたことをすぐに
理解しなければならない。文章なら何度も読み返して理解することもできるが、会話だと同
じことを何度も聞き返すわけにはいかないからだ。それだけではない。聞いた内容に応じ
てこちらも自分の言葉で的確に表現しなければならない。普段から絵文字メールでしか表
現していないのだから、自分の言葉で相手にものを的確に伝える機会は失われてしまう。
だからデートしてもすぐに話すことがなくなってしまい、間がもたなくなるのである。「だんだ
ん会話がなくなって・・・・・・。6ヶ月で疲れました」という文はまさしくその典型だ。
「絵文字も何も入っていないでしょ。私のことなんて、どうでもいいんだ」という文も映像文
化で短絡的な思考しかできなくなった証拠である。後の「私のことなんて、どうでもいいんだ」
という一文は「彼が真剣に愛してくれていない」という不満だと解釈できるが、「メールの文章
中に絵文字がない」という事実を「愛情がない」と即座に結びつけるのが短絡的だ。ただ単
に彼氏が絵文字をうっかり入れ忘れて送信しただけかも知れない。あるいは彼氏がたまた
ま絵文字を普段から使う習慣がないのかもしれない。しかし、そういった考えられる他の事
情をいっさい想像しようとせず確たる根拠もなしに「私のことなんて、どうでもいいんだ」と断
定する。「返信がすぐに来なかっただけでも別れてしまう」という現象も、「返信がない」と「愛
情がない」とを直結する短絡的な思考の結果だ。ひょっとしたら携帯電話を修理に出してい
るのかもしれない。あるいはどこかに置き忘れてしまったためにメールを出したくても出せな
い状況かもしれない。しかし、そんな状況を想像する力がないということは、ゲームソフトや
インターネットなどで「イエス」か「ノー」かの二者択一式の思考しかできなくなってしまったた
めではなかろうか。
このまま彼らが成人するとどういうことになるのだろう。恋愛しても平均して2、3ヶ月、長く
ても数ヶ月程度しか続かないということは、結婚にこぎつけることなどまず不可能だろう。た
とえ結婚できたとしても一生配偶者と連れ添うことなどは絶対にできないだろう。早晩離婚
することは目に見えている。
その一方で「性関係をもつまでの理想の交際期間は?」との問に高3男子の25%、高3
女子の28%が「3ヶ月」と回答し、「性関係を持ったことがありますか?」との問にもそれぞ
れ男子の30%、女子の39%が「ある」と回答している。つまり次々と相手を変えてはセッ
クスをしているわけだ。これも映像文化が招いた悲劇だろう。一つは言葉による対人コミュ
ニケーション能力がないからである。だから会話の必要があまり生じない性交渉に走るの
であろう。もう一つはセックスに対して何の抵抗感もなくなってしまっているからである。漫
画やインターネットの画像などで過激なセックスシーンが描かれた映像を日常的に目にし
ているのだから、特別なこととは思わなくなるのも当然である。
このように考えていくと、恋愛が長続きしないのも、複数の人と性関係をもったために性
感染症が蔓延するのも当事者である高校生だけを責めることはできまい。大人が作りあ
げた社会と科学技術の進歩とが招いた結果であるのだから、責任は大人の側にこそ大き
いものがあると思う。今さら携帯電話もインターネットもない時代に戻すことはできないだ
ろうが、絵文字や定型文などはすべての機種から削除しても良いかもしれない。どうすれ
ば彼らの対人コミュニケーション能力を高めることができるか、どうすれば彼らが短絡的な
思考をしないようにできるか。映像文化のあり方を再考すべきである。
161「病名の本人告知は進んでいない」(5月14日)*************************************
5月4日の朝日新聞朝刊を見て私は愕然とした。全国の中小規模の一般病院で、余命が
半年もないと推断される終末期の病を抱えた患者本人に病名を告知している割合は45.9
%、本人に延命処置の希望の有無を確認している割合は15.9%であることが厚生労働省
の研究班の調査で明らかになったからだ。一方、患者の家族に対する病名の告知は95.8
%であることも判明した。つまり、患者本人よりも家族の意向を重視する実態が相変わらず
続いているという状況である。「インフォームド・コンセント」という言葉がこの世に登場しても
う10年以上が経過している。それなのに本人に病名を告知している病院がまだ過半数にも
達していないのだ。これは私に言わせれば許すことのできない問題である。否、犯罪と言っ
ても過言ではないだろう。病名を本人に知らせないと何が問題になるのか?ここで理由を挙
げておきたい。
第1に、インフォームド・コンセントが実現できないことである。これは「説明と同意」という
概念である。患者が自分の病名を知り、医師から提示された治療法を吟味し患者が最終
的に選択し合意する。これが医療現場におけける「インフォームド・コンセント」である。しか
し、病名も余命も知らされていないのでは治療法を選択しようにもできない。嘘の病名が伝
えられて、「今はつらいけれど必ず治る」と騙されたまま患者本人の同意もなく一方的に治
療が続けられていくだけである。だから、これまでもたとえば末期の胃がん患者に対しては
「胃潰瘍」と、偽りの病名を告知したまま延命治療をしてきた。それで本当に治るのならとも
かく、現実はどんどん病状が悪化して死ぬ運命にあるのだから、これほど非人道的な医療
行為はあるまい。人間にはどんなことにせよ「知る権利」がある。ここで言えば患者が本当
の病名と余命を知る権利だ。そして「自己決定権」もある。自分で治療方法を吟味・選択す
る権利である。それらを行使する機会が失われたまま死を迎えているのは人権問題である。
医師・看護師など医療に従事する者には患者に対する人権への意識があまりにもなさすぎ
る。だからこれほど人権が叫ばれている今日の社会においても、本人への病名告知がいま
だに過半数にも達していないのである。
第2に、患者本人に告知しないということは家族には知らせていることになるのだが、それ
はとりもなおさず患者本人に対するプライバシーの侵害である点だ。最近登場する言葉を借
りれば「個人情報の漏洩行為」にあたるだろう。病名にしろ余命にしろ、患者本人の個人情
報である。家族に対してなら漏洩してもかまわないという問題ではない。個人情報である限
りは患者本人に限り伝え、家族など患者以外の者には知らせないのが筋だ。そして患者本
人から「家族に知らせてもかまわない」という承諾が得られた場合に限って家族にも知らせ
るべきであろう。しかし現実の医療現場は逆である。まず家族に事実ありのままを伝え、そ
の後「本人にはどうしますか?」と尋ねる医師が多い。そうすると家族は『患者が本当のこと
を知って生きる希望を失っては可哀想だ』と思いやるから、「本人には知らせないで欲しい」
と依頼することになる。特に患者が高齢だったり年少の場合はそうなりがちだ。これでは本
末転倒である。
第3に、患者自身が残された人生を自分の思うままに全うできないことである。余命を有
意義に生きる権利の侵害といえよう。死ぬことがわかっていれば身辺の整理もできるし遺
言を伝えることもできるが、病名の告知がなされていないとその機会も逸してしまう。本当
のことを知ると患者が生きる希望を失って自殺するかもしれないという危惧が医師にあり、
これが本人への告知を躊躇する最大の要因になっているのだが、たとえ自殺したとしても
それは患者本人の選択した結果である。治る見込みもない病状を「必ず治る」と騙された
まま死を迎えるよりははるかに良いと思う。もう助かることのない命なら自殺という形で自ら
人生の幕を下ろすのも、私は人生における一つの選択と考える。昔の武士も勝つ見込み
がないと観念した時点で合戦場で潔く自害したのだから、不治の病を理由に死を選ぶこと
は決して悪いことではない。人生はあくまでも量よりも質だからである。たとえ生きる時間
が何ヶ月か長くなったとしても本人にとって有意義なものでなければ意味がない。もちろん
あらゆる治療を受けて一分でも一秒でも長く生き続けたいと願う患者もいるだろう。それは
それで良い。しかし延命治療をされた結果、苦しむ日々が伸びるだけなら死んだほうがず
っと良いと考える患者もいるはずだ。そういう人の自己決定権を奪う行為が問題なのであ
る。
第4に、病名が家族に対してだけ告知されている状況では治療法も本人との相談もなく
家族の意思で決定されてしまうことだ。しかし、家族は医学に関しては素人である。だから
家族としては「不治の病でもできる限りのことをして下さい。全て先生にお任せします」と頼
むしかないだろう。結果的に医師の一存で治療法が決められてしまうわけだが、そのため
患者の5人に1人が副作用で死ぬような強力な治療方法が敢行されたり、まだ海のものと
も山のものともわからないような厚生労働省認可前の新薬の実験台にされて思わぬ副作
用で死んだりすることになる。本人の告知や治療への同意がないとこのようにモルモット同
然の扱いを受けることにもなるのである。
第5に、家族との大切な時間を有意義に過ごすことができないことである。患者に本当の
病名が告げられていないのだから、家族は患者に対して最期まで嘘をつき続ければならな
い。本人に対してはあくまでも治る病気だということになっているのだから、たとえどんなに
病状が悪化しても、たとえ患者本人から疑われようと嘘をつき通さなければならない。これ
は死期が迫るほどつらいものになる。涙を見せることもできないし、言葉を選んで話さなけ
ればならなくなるからだ。そして患者が死亡した後は「あれで良かったのだろうか?」「本当
のことを知らせてあげるべきではなかったのか?」とずっと後悔し続けることになるのであ
る。
私はこれだけ人権への意識が高揚した現代社会にあっては、病名の本人告知ももっとも
っと進んでいるものと期待していた。しかし、現実はまだまだ低く、患者への人権は依然とし
てないがしろにされたままである。これでは何か異常を感じても病院を受診しようという気に
ならない。重大な病気ほど本当のことを告知してもらえないのだから、医師を信頼できなくな
るのも当然だろう。まずは医療に携わる者一人一人が患者への人権意識を高めることが急
務だ。しかし医療者のモラルの名の下に各病院任せにしていくのでは今後も改善されないだ
ろう。本人への告知をしなければ処罰の対象となるような法律を制定し、いかなる病気であ
っても患者の知る権利・自己決定の権利を100%行使できる医療現場に変身してもらいた
いものである。
160「憲法第9条を変えるべきか」(5月 7日)******************************************
今年もまた憲法記念日を迎えた。毎年のことだが、憲法記念日になると必ず改憲か護憲
かが議論され平行線となっている。特に問題となるのは第2章にある9条だ。同条には「国
権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段とし
ては、永久にこれを放棄する。」という第1項の条文と、「陸海空軍その他の戦力は、これを
保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」と定めた第2項の条文とがある。しかし、昭
和29年に自衛隊が組織された。以後、第2次防・第3次防・第4次防と防衛整備計画が進
捗していく中、自衛隊が「陸海空軍その他の戦力」に該当するか否かでさまざまな解釈が
なされてきた。平成に入ってからカンボジアやイラクへ自衛隊が派遣された。2003年6月
には有事三法が国会で成立している。こうして憲法の条文と現実の自衛隊の活動とがどん
どん乖離していった。自衛隊は憲法9条第1項に規定する「陸海空軍その他の戦力」にあ
たるのか?歴代の首相の誰もがこの問に対して曖昧にしてきた中で、小泉首相は「自衛
隊は実質的に軍隊だ。」と公言し現職の首相として初めてそれを認めた。そして今度は憲
法9条そのものを変えようとしている。自民党が発表した草案によると、日本国憲法第2章
のタイトル「戦争の放棄」を「安全保障」に、第9条第2項の「戦力の保持と国の交戦権はこ
れを認めない」を「自衛軍」として軍隊保持を明確に打ち出した。
これは対外戦争への道を開いた条文だと言わざるを得ない。特に中国をはじめとするア
ジア諸国からは強く抗議されると思う。そうでなくても靖国神社参拝問題でアジア外交を悪
化させているのが現状だ。これで憲法9条の改悪ともなれば、もはやアジア各国に対して
理解してもらうどころか永久に解決できないのではなかろうか。それが果たして我が国の
国益になるのだろうか?そもそも「自衛隊」の語義を考えてもらいたい。あくまでも日本本
土が他国あるいはテロ組織などから攻撃・侵略・破壊され、国内に居住する日本国民が
何らかの被害を受けた場合、もしくは被害を受ける恐れが高い場合に、日本国民を「自
衛」するための組織でなければならないはずだ。北朝鮮の工作員による日本人拉致から
日本国民を「自衛」するというのなら合点できる。しかし、何ら攻撃されていない相手、たと
えばイラクに対して自衛隊を派遣するのは、「自衛」ではないと言わざるを得ない。この草
案どおりに憲法が改悪されると今後はアメリカの要請を受ければ中東だろうがアフリカだ
ろうがどこへでも派兵することになろう。そして派遣先の現場ではPKOでも後方支援でも
なく、最前線に立たされて多くの戦死者を出すということにもなりかねない。
朝日新聞社が行なった全国世論調査によると憲法9条の条文に関して、「第1項のみ変
えるべき」が9%、「第2項のみ変えるべき」が16%、「第1項・第2項どちらも変えるべき」
が18%で、これらの合計は43%だったという。一方、「第1項・第2項とも変えるべきでは
ない」が42%であった。トータルの数字だけを見れば43%と42%なので拮抗しているこ
とになるが、「第1項のみ変えるべき」の9%に対して「第2項のみ変えるべき」が16%も
あったことに注目しなければならない。「戦力の不保持」は変えるにしても「戦争と武力に
よる威嚇とその行使」は否定的なのだ。つまり戦力そのものは持っていても良いが、その
戦力をどこかの現場で発揮することに対しては改憲派でも多くが反対なのである。また、
「自衛隊の存在を憲法に明記する必要がある」と回答した人は62%であったが、自衛隊
を軍隊と位置づけることに対しては「明記が必要」と回答した者でも54%が反対し、賛成
は38%にとどまっている。つまりあくまでも自衛隊は日本を「自衛」するための組織であり
たいということだ。換言すれば、他国に派兵するための軍隊に改称することに対しては抵
抗感があるということである。
小泉首相をはじめとする我が国の為政者は何を考えているのか?私には理解に苦しむ。
首相就任以来5度も靖国神社に参拝し続けてアジア各国の心証を悪化させ、自民党の出
した9条の草案で今後ますます亀裂が深まってもアメリカのご機嫌さえとっていれば良いと
いうのだろうか?そんなことよりも先の全国世論調査で「憲法の内容をほとんど知らない」
と回答した者が全体の半数にものぼっていることを問題にすべきだろう。これは日本国憲
法の成立事情も含めて公民科教育が充分になされていなかった証拠である。我が国の天
皇がなぜ象徴としての存在なのか、なぜ戦争放棄を掲げているのか。久しく日中間で問題
になっている歴史認識も含めて我が国の過去の真実をきちっと国民に教えるべきである。
そうしないと今後はどんな内容の改憲に対しても安易に賛成する人や何の関心ももたない
人が増えて、我が国の将来が時の権力者の思うままに歪曲しかねない。
159「何が本質かを見極めよ」(4月25日)*********************************************
またまた少年の凶悪犯罪が発生してしまった。今度は岐阜県中津川市である。被害者は
同市内の中学校に通う2年生の女子生徒だ。犯人も同じ中学の卒業生で被害者とは2年先
輩の高校1年生男子。加害者・被害者とも10代の前半である。被害者には兄がおり、彼と
加害生徒とは同級生で仲が良かったという。加害生徒は被害者とも面識があり、殺害の原
因は交友関係のトラブルではないかとのことだ。
新聞の見出しを見ると例によって「なぜ」という文句が連ねてある。「殺人など考えられない
明るい生徒だったのに」「犯罪とは無縁な静かな街なのに」といった衝撃だ。しかし、私に言
わせれば不思議でもなんでもない。むしろ起こるべくして起きた事件だと思う。そして、世間
の人々が抱く事実認識のあり方にもいくつかの問題があることをこの際に指摘しておきたい。
第1に、事件の当事者の性格や人間性などは何の参考にもならないということだ。今回の
事件にしてもそうである。被害者は中学校でソフトテニス部に所属し、明るく社交的であいさ
つもきちんとできる子だったという。つまり、人から恨みを買うような性格ではなかった、まし
てや殺されるような子では決してないということになる。だが、現実は殺されてしまっている。
一方の加害生徒も同級生の証言によると、一緒にいると楽しく明るくて感じの良い生徒で女
の子にももてるタイプだったという。だから殺害という凶行などは考えられないという立論に
なるのだろうが、現実には殺害しているのだ。しかも、被害者の頭には殴打された跡が数箇
所もあり首には布が巻きつけられていたというから、殺害方法としては相当念入りな殺し方
である。凶器に使われたとみられる棒状の物が犯行現場にあったことからも、二度と被害者
が生き返ることがないよう息の根を断ち切ろうとする意図さえ感じられる。したがって、人か
ら恨みを買うような子ではないから絶対に殺されることはあり得ないという認識も、明るくて
感じが良いから人を殺めるということはあり得ないという認識も改めなければならないのであ
る。
第2に、凶悪犯罪は地域を選ばないということだ。今回の殺人事件後も「こんな静かな街な
のに」「ローカルな場所なのに」という地元中津川市民の声があった。私も岐阜県中津川市
は訪れたことがある。たまたま乗り換え列車の待ち時間が長かったため、いったん改札口を
出て街を散策したのだ。周囲を山に囲まれており、市内には小川が流れている。確かに地
元の住民の談話どおり静かでのどかな街だ。この東隣は長野県で馬籠→妻籠→福島→奈
良井と木曽川に沿って進む木曽路が始まる。JR中央本線の中津川駅から名古屋に向かう
列車はそれなりに設定されているが、下りの南木曽・松本方面に向かう普通列車は一日に
わずか20本。「本線」とは名ばかりの閑散路線である。中津川市の人口は8万6千人。はっ
きり言って小都市だ。しかし、そんな場所でも事件は起きた。つまり凶悪な犯罪は大都市で
は起きても地方のローカルな場所では起こらないという認識も改めなければならないという
ことだ。確かに発生件数だけを見ると圧倒的に大都市の方が多い。だが、それはただ単に
人口が多いから件数も増えているに過ぎない。ある犯罪が年間に100件も発生している人
口100万人の市と年間1件しか発生しない人口1万人の市とを比較すれば前者を犯罪の多
い街と認識しがちだが、単位人口当たりの犯罪件数は同じなのである。
第3に、廃屋を放置したことを問題にするのも正しい認識ではないと言いたい。確かに犯
行現場は5年前に経営破綻した元パチンコ店であった。店は閉鎖されたものの建物はその
ままの状態で放置されていた。中には盗まれるような物もないので自由に出入りできた。こ
のため窓ガラスなども割られ、若者のたまり場所にもなっていたという。そして犯罪の温床
にもなっていたことは事実だ。しかし、このような廃屋は全国いたるところにある。それも今
に始まったことではない。いつの時代でもあった。それでも昔は廃屋に若者が集まりシンナ
ーを吸うことはあっても、殺人事件までは起きなかったのである。
結論を言うと当事者の性格・土地柄・廃屋の放置などは、いずれも事件の本質ではない。
だからそれを俎上に載せて論じるのは事件を誤った方向に導いてしまう。本質はゲーム機
で遊びながら育った彼らの環境にあると私は考えている。今の中学生・高校生でゲームセ
ンターに入った経験のない者はほとんどいないだろう。たとえゲームセンターには行かない
としても、ゲーム機を触ったこともない者は皆無だろう。それだけゲーム機が子どもの遊び
道具としてすっかり定着しているのだ。さらに今やゲーム機を買わなくても携帯電話にゲー
ムソフトをダウンロードして遊べる時代なのだ。以前、048「凶悪な少年犯罪を防ぐには」
でも詳述したので繰り返さないが、次々と画面に現れて行く手を塞ぐ相手を拳銃や刀など
で殺して得点を稼いでいく殺人バトルゲームソフトの氾濫が諸悪の根源なのだ。これが彼
らの遊び道具から消え去らない限り、同種の事件は今後も後を絶たないであろう。どんな
性格だろうが、こういうゲーム機で遊びながら育てば現実と仮想との区別がつかなくなり「殺
人」を特別なことと思わなくなるのは自明である。加害者は事件後も普段どおりに高校へ登
校し授業を受けていた。それはとりもなおさず加害者が女子中学生の殺害という自らの行
為に何ら重大性を認識していない証拠である。もし衝撃を受けていれば平然と登校して授
業を受けることなどできるはずがないからだ。また、ゲーム機は大都市だろうと地方だろう
と全国津々浦々で同じものが販売されている。だから静かな土地柄でも事件が起きたので
ある。さらに、今回の事件を契機に廃屋を撤去しても、結果は変わらない。人目の届かない
ところは何も廃屋だけではないからだ。中津川市のような山間の地なら廃屋がなくなれば
山林に連れ込んで殺害するに違いない。つまり、犯行現場が変わるだけのことで、凶行を
撲滅できるわけではないのである。
小学生を対象としたあるアンケート調査で「死んだらリセットすれば生き返ることができる」
と答えた子が半数近くにも上ったという。だから人の命が亡くなること、人の命を奪うことに
対して特に何とも思わない・・・・・・。これが今の小学生の「命」に対する認識である。死んで
しまった人の命は二度と生き返らない。このあまりにも当然過ぎる科学的な事実が子どもた
ちの間ではもはや常識ではなくなっている。過激なゲームソフトが子どもたちの「命」に対す
る認識を変えてしまった現実を、政府もゲームソフトの製造会社も何とも思わないのだろう
か。
158「列車のダイヤも春に乱れる」(4月23日)*****************************************
年度始めは毎年私の心身も不調なのだが、鉄道もどうやら不調のようだ。その証拠に、
列車ダイヤがよく乱れるのも4月だ。駅やホームには列車の乗客に列車の運転情報を知
らせる表示機があるのだが、4月のそれを見ると毎日必ずどこかの線区でダイヤが乱れ
ている。その主な原因は次の4つだ。
まず、なんと言っても人身事故が目立つ。入学試験や入社試験にめでたく合格し夢や希
望を抱いて新しい生活を始めたものの、現実との格差に幻滅しその挙句に鉄道自殺を選
ぶのだろう。ここ数年は年間で3万人余りが自殺するから月の平均にすれば2500人だ
が、4月はそれより上回る。その全てが列車に身を投げているわけではないが、それでも
かなりの数にのぼる。鉄道自殺の場合、自殺の直後から列車の運転が中止され、警察の
現場検証が済むまで最低30分はかかる。だから運転再開されても各列車は30分以上の
遅れとなってしまう。乗客に与える損害も大きいので人身事故は可能な限り防ぐべきだろ
う。そのためには防犯カメラではなく人間の目による監視が大切だ。自殺者の多くはホー
ムや踏切から身を投げるから、4月だけでも監視員を増員して自殺の抑止力となるよう鉄
道各社は努めてもらいたい。
次に多いのが故障である。これは大きく2つに分けられる。一つは車両故障である。ある
特定の列車が運転不能になる。車両の整備が行き届いていないことが主因なので、まず
故障を未然に防ぐ体制を強化してもらいたい。もう一つは信号故障である。発車時刻にな
っても青信号に切り替わらず列車が出発できないといったケースだ。信号故障は特に春が
多い。それは3月にダイヤ改正をする会社が多いことと密接な関係にある。新しいダイヤ
情報を入力したコンピュータに不具合が発生しやすいからだ。車両故障の場合は問題の
列車が後続の列車に牽引されて本線上から離れれば運転再開が可能だが、信号故障の
場合はコンピュータのトラブルによるものだけに、これが解決しない限りは運転再開の目
途が立たず厄介である。ひどいと早朝に発生した信号故障なのに終電までダイヤが正常
に復旧しないこともある。
第3に、天候によるものだ。特に春は強い風の吹く日が多い。したがって強風による運
転規制がしかれ、ダイヤが乱れる。鉄道各社では「風速何メートル以上の風が観測された
ら列車は時速何キロ以下での走行をする」といった運転規則を定めている。乗客の安全を
図るためなのでこればかりは致し方ない。
最後に最近になって増えたものとして「線路内に人が立ち入った」という理由で遅延する
ことがある。酔っ払いなのか不審者なのかどんな人が何の目的で線路内に侵入するのか
はわからないが、いずれにしても迷惑な話である。
157「電子図書の時代に突入か」(4月20日)******************************************
高校の国語の授業に必要な図書というと、教科書・漢字の問題集・古典文法の解説本・
国語便覧、そして辞書である。このうち前四者は学校で指定したものを入学前に購入させ
ている。ところが辞書は違う。4月に入り、授業が始まってから各自に購入させているのが
普通だ。国語で必要な辞書というと国語辞典・漢和辞典・古語辞典の3つである。このうち
古文・漢文の学習が本格的に始まる高校においては、まず古語辞典を購入させている。
毎年、新入生を対象にそれぞれの学校の実情に見合った適切なものを教員が推薦し「来
週までに購入するように」などと指示していたのだが、最近は「電子辞書を持っているんだ
けど、それではダメですか?」と質問してくる生徒がいる。それだけ電子辞書を持っている
生徒が増えてきたのだ。特に03年以後はその傾向が著しい。今や生徒の学習図書にも
電子化の波が押し寄せていることを痛感する。電子辞書を買えば、一台で国語・英和・和
英・古語・漢和など各種の辞書機能が網羅されている。だからいちいち個別に辞書を何冊
も購入する必要はない。それに何よりも小さくて軽いから学校や塾・予備校に携帯するに
も非常に便利だ。少し前までは英語の授業があれば英和辞典、古典があれば古語辞典
という具合に、重いのを我慢して学校へ辞書を持参していたが、もうそれも過去の話にな
りつつある。やがては教科書をはじめ古典文法や漢字問題集などの副教材も電子図書
になるのだろうか。
156「地上波デジタル放送対応型はまだ高い」(4月18日)********************************
今月初めのことだ。我が家のテレビが突然映らなくなった。電源を入れると数秒間は普
通に映るのだが、すぐに色が薄くなり画像が消えてしまう。1996年から約10年も使い続
けてきたのでもう寿命なのだろう。さっそく廃棄処分にして新しいテレビを購入することにし
た。家電量販店に行ってみたのだが、値段の差には驚いた。ご存知の通り、2011年7月
から地上波のテレビ放送はすべてデジタルに切り替わる。したがって現行のアナログ方式
の機種を購入してしまうと5年間しか使えない。ということは今から新規購入するのならデ
ジタル放送切り替え後も使える機種にしないと損だという理屈になる。だからどこの家電量
販店でもデジタル対応テレビを売り場の目立つところに置いてあり客に買わせるように仕
向けている。しかし、値段はどれも高い。26インチ程度だとどこのメーカーの商品も20万
前後はしている。一方、従来品は2万円台から売っている。その差はじつに10倍だ。もち
ろん20万円の中身はデジタルチューナーを装備しているという理由だけではない。液晶や
プラズマ方式で縦横比16:9というワイドな画面だからということもあるだろう。2万円の従
来品はブラウン管方式であるし、縦横比4:3だからワイドな画面でもない。それに「在庫処
分一掃セール」と銘打ってある。店としてはさっさと売りつくしてしまいたいに違いない。
それにしても、2万円と20万円だ。同一メーカーで同一のサイズのテレビにしては、あま
りにも差がありすぎる。いずれ切り替え時が目前に迫ってみんなが買い換えることになれ
ば、デジタルチューナー装備のテレビを大量に生産するわけだから、量産に伴うコスト減
で価格は安くなるだろう。となれば、たとえ今ここで従来品を2万円で購入しても5年後に
現在と同じ20万円のテレビを買わされるということにはならないだろう。半額とまではいか
なくても5年後の新製品を13万程度で買えれば、両方で15万円で済む。だから今から20
万も出して買うのは損なのではなかろうか。私はそう判断し、4:3のブラウン管方式による
21インチのテレビを購入した。5年間しか使えないが2万円なら安いものだ。年間4000
円しかかかっていないことになる。
しかし、家電量販店の営業姿勢はえげつない。量産すれば今後は価格がどんどん低下
することなどおくびにも出さず、とにかく地上デジタル放送対応の新機種を今のうちに買わ
せようと躍起になっている。20万という高価な値札を掲げておきながら「今がお買い得!」
などと宣伝している。だが今そんな大金を支払って買ったとしてもせいぜい9年後の2015
年頃で寿命を迎えることになるだろう。そうなると、デジタル放送の開始後はわずか4年間
しか楽しめないことになるのだ。その後は新機種の購入を迫られる。当然10万程度の出
費になるだろう。そう考えると消費者は見事に家電量販店の営業政策に乗せられている
ように思われてならない。
155「年度始め特有の現象」(4月17日)**********************************************
年度始めの4月が苦手ということはたびたびこのコーナーで私は書いてきたが、それは
ただ単に体調不良が続くだけではない。他の月ではあり得ないことがあれこれと起こるか
らだ。たとえば次のようなことなのだが、読者のみなさんはいかがだろうか。
忘れ物
傘を電車に置き忘れることをはじめ、買ったばかりの定期券を自宅に置きっぱなしにし
て出勤してしまったために交通機関で実費を支払わされたり、携帯電話の充電を忘れた
ために外で全然使えなくなるといったこと。明日、学校に持参しなければならない物品を
忘れることもしばしば。自分の机の鍵を自宅に置いてきてしまったため出勤しても開ける
ことができず机の中のものを何も取り出せないという経験も過去にはあった。
連絡の不徹底
授業で予告しなければならない事柄を言い忘れてしまうこともある。たとえば「次回の授
業から漢字の小テストを授業開始時の5分で行なう。試験範囲は○ページから」といった
ようなことだ。そのためただでさえ計画通りにいかない授業がますます行き当たりばった
り的なものになってしまう。
いくら寝ても眠い
「春眠暁を覚えず」といわれるくらいだから私だけではないのかもしれないが、とにかく
眠い。4月は一日出勤したたげで非常に疲れるので他の月の2倍は必ず眠るのだがそれ
でも眠気が取れない。ちなみに他の月は平日で4時間、休日でも6時間程度で週35時間
程度しか寝ていない。それでも眠気を感じることはないし、朝もすっきり起きられる。しかし
4月はいくら寝てもダメだ。
夜中に妙な夢を見る
肉体は寝ていても精神は一晩中起きているのではないかと思われるほど夢を見る。そ
れも高熱にうなされたときにしか見ないような奇妙な内容の夢ばかりだ。おそらく睡眠その
ものが浅いからだろう。
下車駅を乗り過ごす
一日の仕事を終えて退勤途中の電車・バスで睡魔に襲われる。そこまでは他の月でも
同じなのだが、そのまま下車すべき駅を気づかずに過ぎてしまうことは4月特有の現象だ。
たぶん夜きちんと眠れていないためなのだろう。普段なら車内で眠ってしまっても、心の一
部分は起きていて車内アナウンスを聞いているから下車駅を過ぎることはないのだが・・・。
勘違い
授業に行くクラスを間違えたり、人の名前を間違えたり、よく行く店の閉店時刻を間違え
たり、挙げれば際限がない。勘違いすることを恐れるから4月はどうしても何をするにも行
動が消極的になる。
錯乱
仕事が山積しているときにどれから手をつけていいのかに逡巡し、結果何もできずに時
間が空しく過ぎてしまったりする。また、やるべき仕事の順序を誤ることも多い。遅くても良
い仕事を先に済ませてしまってから、すぐにやらなければならない仕事を後回しにしたこと
に気づきパニックになったりする。
いずれにしても年度始めは体調だけではなく精神状態も不安定なのだろう。5月の連休
も過ぎて新しい環境にすっかり順応すると決して起こらないのだが・・・・・。
154「携帯を持つ手は利き腕?」(4月14日)*******************************************
ある品物を取り扱う際にどちらの手でするかということは、たいてい品物ごとに決まってい
る。日本人に多い右利きの人の場合、たとえば箸は右手で持ち茶碗は左手で持つ。筆記
用具は右手で持ち、紙は左手で押さえる。しかし、時代の変化で今まで利き腕ではない側
の手で扱っていたのが逆になったという品物がひとつだけある。それは携帯電話だ。この
世に携帯電話が始めて登場した当時、右利きの人は左手でこれを持っていた。それは固
定電話や公衆電話の受話器と同じ取り扱い方でもあった。これらの受話器をどちらの手で
持つかというと、利き腕ではない側にするのが普通だからだ。それは通話中に相手が話し
たことをメモする際に利き腕が塞がっていたのでは文字が書けないためという必然的かつ
合理的な事情による。だから出先で通話ができるPHSが流行したときも、右利きの人は左
手でこれを持っていた。自動車電話が登場した当時も同じで、ハンドルは右手で電話機は
左手だった。携帯電話がこの世に登場した当時もそうである。
しかし今は違う。右利きの人は右手で持つようになった。いつから変わったのかと私も不
思議に思ったが、答えは携帯電話でメールの送受信ができるようになってからだ。メール
を作成する際、利き手でする方が好都合だということなのだろう。というわけで、かつては
利き腕ではない側の手で取り扱っていたのだが、今では利き腕の手で持つようになったの
である。通話するときも右手に持ち右側の耳に当てている人が増えた。右利きなら受話器
を左手で持ち左側の耳に当てていたはずだが、それが逆になったのである。このように時
代の変化で扱う際の手が逆になったという品物は珍しい。たぶん携帯電話の他にはないの
ではなかろうか。
ちなみに、私は右利きなのにもかかわらず、いまだに左手で携帯電話を持ち、メールの
作成も左手でやっている。もちろん通話も今までの固定電話と同様に左手に持って左耳に
当てている。それで別に不自由はないし、かえって右手では携帯電話の操作がやりにくい。
こういう人は私だけかな?
153「世界一の男・金本知憲選手」(4月11日)*****************************************
一昨日の4月9日、阪神タイガースの金本知憲選手が904試合連続フルイニング出場と
いう世界新記録を達成した。年間140余試合、その全てに出場するだけでもなかなかでき
ないことである。怪我やスランプで戦力として認められなければ当然2軍落ちを命じられる
し、1軍に残ることができたとしてもベンチを暖めるだけで出場機会を与えられずに終わっ
てしまう。ましてや初回から試合終了までの全イニングに出場するというのは並大抵のこと
ではない。野球は走・攻・守といわれるがその3拍子すべてに一定以上の成果が出なけれ
ば監督から試合途中に交代を命じられてしまうのである。金本選手はその厳しい条件をク
リアして全てのイニングに出場を果たしたのだ。そうして積み上げてきた連続フルイニング
出場が4月9日で904試合目になり、世界新記録を塗り替えたのである。広島東洋カープ
に所属していた1999年7月21日以来、じつに足掛け8年かけての偉業達成である。それ
だけではない。彼が偉業を達成した年齢にも賞賛すべき価値がある。これまでの記録はカ
ル・リプケン選手の903試合だったが、彼は20代の若さで達成した。しかし金本選手は体
力的に衰えて当然といわれる30代からのチャレンジで達成している。世界一になった4月
9日現在で38歳。普通なら体力・気力の限界を感じ現役の引退を考えてもおかしくない年
齢だ。しかし、彼は今なお世界新記録を更新し続けている。この偉業に対してはもうどんな
言葉をもってしても評価できないほどだ。心から「おめでとう」と祝福したい。
152「ローカルな小駅を見直そう」(4月 7日)******************************************
毎回ローカル線で旅をすると、地方は心温まる駅が多いことに気づく。地方といっても金
沢とか熊本とかそれなりの乗降客がある大規模な駅ではなく、一日に何本かの普通列車
しか発着しないような小駅だ。そんな小駅は合理化による人員削減のため駅舎があっても
既に無人化されてしまっている。だから当然駅舎もホームも古びている。しかし、そんなホ
ームにもかかわらず手入れの行き届いた花壇があったりする。無人駅なのだから最初か
ら花壇があるはずはない。誰かが駅に持ち込んで花の世話をしているのである。それだけ
ではない。毎日こまめに水をやったり雑草を刈り取ったりしなければ、きれいな花を咲かせ
ることはできないだろう。そんな花壇があるだけでも、駅を利用する人や私のような旅行者
の心を和ませてくれる。花壇だけではない。待合所に設置されたベンチには座布団があっ
たりする。これも誰かが置いてくれたのだろう。木製にしろプラスチック製にしてもベンチは
硬い。そんな硬いベンチに座って列車の到着を長い時間待つのは疲れる。特にお年寄り
の方にはこたえると思う。だから少しでも疲れないようにと地元の人が提供したのだろう。
また、駅を出発する列車や踏切を通り過ぎる列車に対して手を振って見送るのも、こうい
うローカルな場所ならではの風景だ。別に列車に自分の知人や友人が乗っているわけで
はない。それでも乗客に手を振っている。じつに人間味あふれる、心温まる光景だ。
それに比べて大都市の駅はどこも無味乾燥なものになっていく一方だ。自動改札機・自
動精算機をはじめ、自動洗浄器つき便器・人を感知してから稼動する自動のエスカレータ
など、何もかも自動化されている。そして乗客の挙動は四六時中監視カメラで撮影されて
いる。だから駅係員も非常に少ない。ホームで目を光らせているのは不審物の有無をチェ
ックするための巡回要員だ。テロ対策だから仕方がないのだが、こういう有様だから座布
団でもベンチに置いたら落し物か忘れ物と見なされてしまうだろう。ひょっとしたら不審物と
みなされて警備員に撤去されてしまうかもしれない。また、大都市の駅では花壇も置けない。
乗降客が多いから通行の邪魔になるだけだ。ましてや列車に乗る目的もなく花壇を勝手に
駅構内に持ち込んだら、建造物不法侵入で不審者扱いされかねない。だから善意でベンチ
に座布団を提供する人もいないし、花壇を持ち込んで世話をしようとする人もいない。
同じ日本でも大都市とローカルな小駅とではこれだけの違いがあるのだ。しかし、「人を見
たら犯人と思え」と言わんばかりに防犯カメラで監視しベンチに座布団も置けないのではあ
まりにも情けないと思う。他人のことなど我関せずとする風潮が著しい大都市に最も必要な
のは、ローカル線の小駅にみられるような人間味のある暖かさではないだろうか。旅を終え
ていつも自分が利用する首都圏の駅へ戻るたびにそう思う。
151「議員辞職勧告決議をする意義は」(3月29日)*************************************
2002年当時新党大地の代表であった鈴木宗男に引き続き、またしても議員辞職勧告
決議を突きつけられた者が出た。民主党から除名処分を受けた西村真吾である。既に報
じられているので詳しくは述べないが、弁護士の名義を他人に貸し実際の示談交渉を丸
投げして報酬だけをもらっていたことが発覚し、弁護士法違反の容疑で逮捕されたのであ
る。衆院本会議では与野党から議員辞職勧告決議が可決された。しかし、本人は勧告に
は従わず議員を辞職しないことを表明している。今回の決議によって過去に辞職勧告決
議を突きつけられた議員は両院あわせて4人目となる。しかし、これまでの3人も辞職を拒
否した。そして西村真吾も拒んでいる。つまり、勧告に応じて潔く辞めた者は誰一人いない
ことになる。
しかし、こういう結果になるのは目に見えている。理由は議員辞職勧告決議に法的な拘
束力が何一つないからだ。だから、辞職勧告が決議されても進退は本人に一任されてしま
う。誰もが国会議員の身分にしがみつこうとするから、勧告が無視されるのは自明である。
潔く身を引こうとしない西村真吾のふてぶてしい態度にも呆れるが、こんな法的拘束力の
ないバカバカしい決議を大真面目にやり続けている国会にも開いた口が塞がらない。これ
では辞職勧告決議を出しても出さなくても結果は同じではないか。直ちに法的拘束力を持
ったものに改めるべきであろう。そうでないといくら勧告が出されても無視されて終わりであ
る。当該議員を強制的に辞職させ補欠選挙を行なうのが理想だが、たとえ議員として残れ
る道を作るにしても報酬全額カットとか、以後の選挙では10年間は立候補の資格を喪失さ
せるとか、犯した罪に見合う社会的制裁を受けるようにすべきである。
それにしても永田町の非常識ぶりには今回も呆れた。弁護士の名義を貸して報酬だけを
得るという悪徳弁護士同然の罪を犯しているにもかかわらず、辞職勧告決議に賛成しなか
った議員がいたのである。その一人は鈴木宗男である。「有権者が選択した代表者を国会
で排除するのは民主主義になじまない」という理由だ。しかし、有権者が候補者を選択し代
表として国会へ送り出したのは、当該候補を厚く信頼しているという大前提があってのこと
だ。今回のように信用失墜行為が明るみに出て逮捕された今となっては、もはや有権者の
信頼も失われたと考えるのが常識であろう。その候補者が犯罪人と最初からわかっていれ
ば、有権者にしても代表に選びはしないに決まっているからだ。今回のように信用失墜行
為をした議員には当然辞めてもらうべきだし、後任候補を補欠選挙で選ぶのが筋だ。西村
真吾と同じ民主党の山田正彦議員も辞職勧告決議に反対した。理由は「北朝鮮の拉致問
題に対する西村真吾の政治姿勢を高く評価しているから」だそうだ。いくら政治活動に素晴
らしい実績があったとしても、それを評価できるのはあくまでも信用失墜行為がなければの
話である。いくら一流大学への合格者を大勢出すような指導力ある教諭だとしても、教え子
にわいせつ行為をしていたら懲戒免職処分になるのと同じ理屈である。そういう世間の常
識がいまだに永田町には通用していないことこそ問題だ。私も含めて有権者はこのことを
厳しく批判しなければなるまい。
150「暇なのも良し悪し」(3月26日)*************************************************
『日記とお知らせ』に「やっと休息できるときがきた」というタイトルで、今年度の業務の大
部分が終わり暇になった旨を書いてからもう2週間余りが経過した。あと一週間、4月の始
業式まではのんびり過ごせるのだが、正直言うとありがたくない。理由は新年度がスタート
した途端に忙しくなるからだ。今のうちにゴールデンウイークまでの授業の準備ぐらいは済
ませておきたいのが本音だ。しかし現時点では時間割も決まっていない。だから自分が何
学年のどのクラスを受け持つのかもわからない。したがって使用する教科書もわからない
し、もちろんどの教材から始めるのかもわからない。これが数学なら学年や担当するクラス
がわからなくてもどうということはないだろう。授業で扱う学習指導内容は毎年同じなのだか
ら、教科書のどこから手をつけるにしてもすぐに授業ができるはずだ。教科書に載っている
問題の解き方がわかれば問題ないわけだし、教員が問題を解けないということはありえな
いからだ。しかし、国語は授業で扱う学習指導内容そのものが変わる。それは教材が変わ
るからだ。同一科目でも教科書の出版社が異なれば収録されている教材は異なるし、同一
の出版社でも改訂されればやはり中身の作品のいくつかは変わる。変わるということはつ
まり新たに当該作品の教材研究をしなければ授業ができないということだ。だから早め早
めに準備をしたいのである。私は毎年、2学期の授業の準備なら夏休み中に、3学期の準
備は冬休み中にしている。しかし1学期の準備はやりようがない。結局、始業式後になって
しまう。
しかも年度首の業務はこれだけではない。教務手帳の作成(担当するクラスの生徒の名
表を貼付したりすること)や、選択科目を担当すればその講座の座席表を作成したりと、授
業の準備は教材研究以外にもいろいろとある。そして最初の授業に臨むわけだが、それが
終わると生徒が春休みの課題を提出してくる。したがってそれも提出の有無と内容をチェッ
クしなければならない。そして間もなく各教科部会で作成された県下一斉テストをするから、
それの採点と集計もある。そんな慌しい合間に生徒の健康診断があって授業が中断された
り最初からなかったりする。だから授業の進度も予測がつかず、指導計画も立てられない。
こういういわば「行き当たりばったり」的な日々が、安定した環境でしか本領を発揮できない
私にとっては非常なストレスとなる。私は毎年4月に心身の不調を来たすのだが、その最大
の原因はこれなのだ。せめて自分が担当する科目と、年度首に扱う教材だけでもわかって
いれば助かるのだが、本当に何とかならないものだろうか。
149「個人情報保護の究極の手段は」(3月21日)**************************************
今月に入ってから、ファイル交換ソフトWinnyをダウンロードしたためにパソコン内に記録
してあった情報が流出するという被害が報じられた。これを受けて安倍官房長官は今月15
日「最も確実な対策はWinnyを使わないことだ。」と記者会見で発表したが、「Winnyさえ使
わなければ安全とは言い切れない。」という専門家の意見も出た。最近は官公庁や企業が
個人情報を流出させてしまうという不祥事が目立つ。フジテレビではイベント「お台場冒険王
2005」でタイ旅行に当選した46人分の個人情報が流出したし、製薬メーカー日本ケミファ
では大分県内に勤務する医師2910人分の個人情報が流出した。このように不祥事が後
を絶たないのは、根本的にパソコンで個人情報を管理する方法に問題があるからだ。
第1に、個人情報を管理しているパソコンにはネット回線を接続しないことである。スパイ
ウェアにしろウイルスにしろ、パソコン内に侵入してくるのはすべてネット経由である。したが
って個人情報を管理したパソコンでは最初からネットにつながないことが必須条件だ。逆に
言えばネットにつなぎさえしなければウイルス対策ソフトも不要だし、個人情報が外部に漏
れる心配もない。そして個人情報を管理しているパソコンには、他人から受け取ったMOや
CD−Rなどを使わない。つまり内臓ハードディスク以外の記憶装置はいっさい使わないよ
うにする。そうすれば万全である。将来は電源コンセントから侵入する新種のウイルスソフ
トが出現するかもしれないが、そういう事態にならない限りは上述の手段を講じていれば問
題ない。私も職業上個人情報を管理しなければならないので、そのためにパソコンを2台所
有している。1台はADSL回線に常時接続してインターネットを利用したり、メールの送受信
をしている。これはいわば娯楽用だ。もう1台は業務用にしている。こちらは、電話回線にも
LAN回線にもつないでいない。外部につないでいるものは電源コンセントとプリンタだけであ
る。主にワードで試験問題を作成したりエクセルで生徒の成績を算出・管理する目的で使っ
ているのだが、購入以来一度もネットにつないでいないのだから、ウイルスが侵入すること
もありえない。
第2に、万が一個人情報が流出しても困らないような形で管理すべきである。いくらネット
に接続しなくてもパソコンごと盗難に遭ってしまえばやはり危険である。絶対に個人情報が
流出しないという保障はないのだから、被害に遭ってもかまわないように予め外部の人に
わからない形で情報を入力しておくのである。たとえば、生徒の成績を管理する場合でいう
と、生徒の実名と得点をそのまま入力するから問題が生じるのである。私は決してそんな方
法はとっていない。まず、生徒の実名は入力しない。出席番号という便利な数字があるのだ
から、それを使う。但し、例えば2年4組16番を2416とそのまま入力したのでは個人が特
定されるから数字にした意味がない。B17D55638hと複雑なパスワード状に表記し、どこ
に学年・クラス・出席番号が入っているのかが自分以外の人にはわからないようにする。種
を明かすとBが2年をDが4組を、Bの次の数字が出席番号の上一桁を、Dから3つ目の数
字が出席番号の下一桁を表しているわけだが、このように説明をしない限りはわからない
ようにすべきである。たとえば26点なら812654と入力する。33点なら593341と入力す
る。真ん中の二桁を得点と決めて、その他は適当な数字を入れておく。そうすると万一流出
したとしても、6桁の数字ばかりが並んだデータを見ることになるから私以外の人間には何
の数字だかわからないはずだ。
パソコンに情報を管理する以上は、最低でもこの程度のことはすべきであろう。ネットに
つなげば丸裸にされているのも同然なのだから、いつどんな形でハードディスク内の情報
が漏れるかわからないのである。市販のウイルス対策ソフトを入れていれば安心だという
意見もあるが、それも疑問だ。理由は常に新種のウイルスが登場してから対策ソフトが用
意されるわけで、つまりは後手に回っていることになるからだ。対策ソフトをダウンロードす
る前に被害に遭ったらそれで終わりである。究極の防犯対策は最初から被害に遭わない
パソコン環境にしておくこと、すなわちネットや外部の記憶媒体に接続しないことが一番で
ある。そして流出してもかまわないように、自分にしかわからない形でデータを管理する。
官公庁も企業もこのくらいの厳しさで情報の管理に臨んでもらいたいものだ。
148「矛盾した命名」(3月16日)*****************************************************
兵庫県西宮から転居して「神奈川県民」になってだいぶ年月が経過したが、関東地方の
地名に関する命名で矛盾したものがいくつかあることに私は気づいた。前から気になって
いたので、この機会に挙げてみよう。読者のみなさんはどう思われるだろうか。
東京ディズニーランド
所在地は千葉県浦安市である。だから「TDL」ではなく「CDL」ではないのか?この疑問
を口にしたら「千葉ではイメージが悪いから入場者が減ってしまう」という答えが返ってきた
ことがある。しかし本当にそんな理由で「東京」を冠したとしたら、千葉県民を侮辱した非常
に失礼な行為だと思う。堂々と「千葉ディズニーランド」と命名すべきであろう。
新東京国際空港
成田空港の正式名称であるが、これも「千葉国際空港」と言うべきであろう。東京ディズ
ニーランドは都県境に近いからまだマシだが、成田空港の所在地は東京から直線距離で
も70km以上離れており、歴然とした「千葉県」である。しかも県都の千葉からでさえ東、
つまり東京とは逆方向に40kmも離れている。大阪府内に所在する関西空港でさえ口の
悪い人は「和歌山空港」と言うくらいだから(理由は関西空港から梅田や難波へ出るより
は和歌山市内に行くほうが近いから)、成田空港に「東京」を冠するのはなおさら不自然で
ある。
荒川区
東京には「荒川」という名称の河川が流れているのだが、荒川区が接している河川は隅
田川であって荒川ではない。区内のどこにも荒川に面していないのに区名が「荒川区」で
は違和感がある。当の荒川区民や区議会議員は何とも思っていないのだろうか。
草加せんべい
東京観光の土産品の一つである。客の目の前でせんべいを焼いている店舗が都内各所
に散在しており、お土産品としては有名な部類に入るだろう。しかし名称の「草加」は東京
都内の地名ではなく埼玉県である。
厚木駅/厚木飛行場(厚木基地)
厚木駅はJR東日本鉄道相模線と小田急電鉄小田原線の駅。神奈川の県央を相模川と
いう河川が流れており、厚木市はこの川の西側にある市だが、厚木駅は相模川の東岸に
位置するため、海老名市に所在し厚木市ではない。厚木市には「本厚木」という駅がある
のだが、これでは本厚木がホンモノで厚木駅がニセモノみたいに聞こえる。厚木飛行場も
相模川の東に位置しているためこれも厚木市ではなく、綾瀬市に所在している。どちらも
「厚木」を冠するべきではないだろう。
東白楽駅
神奈川県横浜市神奈川区内に所在する東急電鉄東横線の駅。特急や急行が停車する
ほどの大きな駅ではないので、横浜市民でもそういう名前の駅があることをご存じないかも
しれない。同じ東横線で同じ神奈川区内に「白楽」という駅があるのだが、その駅から東白
楽を見ると明らかに南に位置している。したがって「南白楽」とすべきであろう。「白楽」駅か
ら東でもないのに「東白楽」駅では妙だ。
147「巣立つ生徒は跡を濁さずに」(3月12日)*****************************************
3月の第1週〜第2週は卒業式シーズンである。これまで接してきた生徒が卒業証書を
胸に学校を巣立っていく日を迎えるのは感慨深いものがある。ただ、最近の卒業生を見て
残念に思うことは、物を大切にしないことと打算的に行動する傾向にあることだ。たとえば、
今まで体育で使ったジャージや柔道着・体育館履きなどを学校のゴミ箱に捨てたり教室の
ロッカーや下駄箱に置き去ったままにする生徒が少なからずいる。ジャージにしろ体育館
履きにしろ、確かに学校を卒業をしてしまえば要らないものだ。しかし、だからといって学校
に捨て去るのはいただけない。各家庭で処分できないものではないのだから、やはり家に
持ち帰って欲しい。中には教科書・参考書・辞書・ノートといった学習用具を捨てていく生徒
もいる。もう勉強することはないから彼らにとっては要らないのだろう。しかし、教科書はと
もかくノートは自分のこれまでの勉強の足跡でもある。そんな大切なものを捨て去っていく
のを見るのは、卒業生を送り出す側としてはやはり悲しい。家庭に持ち帰ってもいつかは
捨てるのだから、どこで捨てようが一緒だという理屈なのだろう。しかし、今は「生涯学習」
の時代である。卒業後しばらくたってから、過去の学習したことを振り返ることもないわけ
ではないのだから、教科書にしてもノートにしても何年かは保管してもらいたい。さらに驚く
のは、卒業式当日に卒業証書を置いて帰る生徒がいることだ。式が終わってすぐに担任
の先生が教室で証書の入れ物と一緒に渡すのだが、それを教室の机の中に置いたまま
帰ってしまうのだ。読者のみなさんは卒業証書を大切に保管しているのだろうか?自分が
過ごした学校に対して良い思い出がなかったとか、保管していても役に立つものではない
とかいう理由で粗末にしてはいないだろうか。なくなったらまた買えるものではないので、
これだけは生涯大切に保管してほしい。
いずれにしろ、最近は卒業式が済むと教員は卒業生の出したゴミの後始末をしなけれ
ばならないのだ。机やロッカーの中や、下駄箱などに捨てられた卒業生の置き土産?を
一つ一つ拾い集めて一箇所にまとめみると「こんなに捨てられていたのか」と愕然とさせ
られるほどの量である。その「置き土産」も毎年増えているような気がしてならない。自分
が生徒だったときは私自身も同級生もそんなことはしなかった。「要る」「要らない」の問題
ではなく、マナーの問題だと認識していたから、学校に何一つ残さずに卒業していくのが
当然だと思っていた。「立つ鳥跡を濁さず」という言葉がある。卒業生も「跡を濁さず」に巣
立ってもらいたいものだ。
146「地球環境を考えたクルマを」(3月 9日)******************************************
最近の路線バスは非常に進歩したと思う。まず高齢者でも容易に乗降できるよう、車内
に入るためのステップが減らされている。昔は車内に入ってからも2段のステップがあるの
が普通だったが、最近はワンステップバス・ノンステップバスが当たり前になっている。同時
に車椅子の方でも乗降できるよう乗降口にリフトが格納されたバスもある。さらにはニーリ
ング機能といって、客用扉を開けると車体が乗降口側に傾いて乗客が乗り降りしやすいよ
うに工夫されたものもある。いずれにしてもバリアフリーを考慮したもので、公共交通機関
に頼らざるを得ないいわゆる「交通弱者」に歓迎されている。
それだけではない。停車するとその瞬間にエンジンが自動的に停止するバスも珍しくなく
なった。そういうバスに乗ると停車した途端に会話も憚られるほど車内は静かになる。特に
路線バスは赤信号や踏切による停車のほか停留所への停車が加わるため、停車時の無
駄なアイドリングをなくすことが急務だった。このエンジン停止バスはいちいち運転手がキ
ーを抜かなくても停車と同時にエンジンが自動停止する。こうして排気ガスの排出量を少し
でも減らすことで地球環境に優しい乗り物になったわけで、これは高く評価すべきであろう。
しかし、同じことが自家用車やトラックなど路線バス以外の車両にはなぜ普及しないのだ
ろうか。一般の車両は停留所には停車しないものの、赤信号や遮断機が下りた踏切では
当然停車する。したがってその間は無駄なアイドリングをしているわけだし、台数にしても
路線バスよりはるかに多いのだから、これらの車両も停車時にエンジンが自動的に停止す
るようにすべきであろう。現状では赤信号や渋滞による停車時、また遮断機が下りた踏切
の近辺で全てのクルマ・トラックがアイドリングさせたまま発進を待っている。これでは環境
悪化を促進するばかりか、石油という限られた地球資源の無駄遣いにもなっている。エン
ジンの自動停止機能はバスで実用化しているのだから、それ以外の車両で技術的に不可
能なはずはない。早急に実用化すべきである。
さらにはハイブリッドカーや太陽電池で走るシステムなど、もうそろそろ化石燃料に頼らな
いクルマが実用化されても良いのではなかろうか。「電気自動車」という言葉が十数年も前
から出ているのに、いまだに普及しないのは地球環境を考える上で大いに問題である。い
まさらクルマのない社会など実現するはずがない。むしろ、今後の我が国は一人が一台の
クルマを所有する時代になりつつある。したがって、もっと真剣に地球環境を考えたクルマ
を普及させるべきであるし、将来的にはガソリンスタンドをなくす方向にもっていくべきであ
る。
145「官僚の天下りを禁止せよ」(3月 6日)*******************************************
防衛施設庁の官製談合事件が明るみに出て、空調設備工事の競売入札妨害罪で元技
術審議官ら3人が起訴されてからもう2週間が経過した。東京地検特捜部は引き続き山口
県岩国市にある岩国米軍基地の滑走路移設工事などに関する官業癒着の捜査に入って
いる。時代が昭和から平成に代わっても、そして20世紀から21世紀に代わっても、「官」と
「業」との癒着は一向に減らない。時代劇で「お代官様、些少ではございますが・・・これを」
といって悪商人が恭しく代官に金を差し出すシーンがあるが、その頃から癒着は連綿と引
き継がれてきてしまったのだろう。以後、官僚・企業・政治家らは不正経理・裏金作り・二重
帳簿・水増し請求・カラ出張・接待・贈収賄・虚偽報告・不正利益供与・税金の無駄遣い・政
治献金・丸投げ・天の声といった形でさまざまな不祥事を性懲りもなく繰り返してきた。事件
が明るみに出るたびに全容解明と再発防止が声高に叫ばれるが、何週間か過ぎると特捜
部の捜査もうやむやになり新聞もベタ記事になってしまう。そしてその頃には国民も「人の
噂も七十五日」という言葉の如く、事件を忘れてしまっている。だから再発防止がいつまで
たっても実効しない。
私が思うに、諸悪の根源は「天下り」であろう。特に「官」と「業」との癒着に関しては、これ
がなくならない限りは後を絶たないと思う。「天下り」とは退職した官僚が関連企業に「再就
職」することだが、これがそもそも癒着の第一歩である。なぜなら、天下りの見返りに何らか
の利益を供与することになるからだ。今回の防衛施設庁の官製談合でもそうである。天下
りしたOBに各企業が支給する給与に比例して工事を配分していた。国家公務員法や自衛
隊法では密接に関係する企業への天下りを退職後2年間禁じているが、2年では無意味だ。
今回の防衛施設庁の件にしても防衛庁幹部らは公益法人「防衛施設技術協会」に2年間入
った後、企業に天下っていたからである。これは防衛施設庁に限ったことではなく、他の官
庁でもこれと大同小異であるといわれる。こうしてそれぞれの官庁から毎年何百人という単
位で関連企業・公益法人・特殊法人等に天下っているのが我が国の現状だ。
どうすれば天下りがなくなるのか。第1に、官僚の定年を一般の会社員と同様に60歳な
り65歳と定め、それまでは退職させないことだ。現状では大部分が50代後半で、早い人
では40代後半で退職しているが、これでは再就職を促しているのと同じである。第2に、天
下りができないような法改正をすべきだ。民主党は関連企業や公益法人への天下りを5年
に延ばす旨を提案したが、50代や60代で退職した人間は5年や6年では死にやしないか
ら結局は数年後に天下ることになるだけで無意味である。だから延長させるのなら事実上
天下りが不可能になる年数、たとえば50年くらいにすれば良い。いくらなんでもあの世に逝
った元官僚をも雇用することはあるまい。
第3に、第1の案が不可能な場合、つまりどうしても天下りをさせざるを得ないというのなら、
天下った人を現場の労働者と同じ身分で雇用すべきである。たとえば日本道路公団なら各
有料道路の料金収受員として雇うのである。もちろん、待遇は他の料金収受員と同一であ
る。一般の労働者と同じ身分なら取締役が出席するような会議に顔を出すこともありえない
から、利益供与などの不正を働くことも不可能になる。
そもそも「天下り」というシステムがあること自体、不健全である。企業にしても自社が落札
したいとか受注したいといった自己中心的発想しかないから、天下る人を受け入れて「官」と
のパイプをつないでおこうというあさましい行為に出るのである。予定価格を事前に漏洩する
のだから、競争入札が形骸化するのは目に見えている。こうして官製談合が行なわれてい
るわけだが、これは官僚と企業とが国民の血税を山分けした行為にほかならない。自分た
ちで稼いだお金でなく国民からいただいた貴重な税金なのだから、本来ならなおさら大切
に使うべきお金でなければならないはずだ。それを自分たちで分配するとはどういう神経な
のだろうか?それに天下る本人にも罪悪感がないというのも私には理解ではない。再就職
した後も現場の最前線に立って汗水流して働いているのならともかく、実情は天下り先では
高給取りにもかかわらずたいした仕事もせず、数年後に辞めて法外な退職金をもらってい
るだけである。これでは残飯にたかるハエと同じで企業にたかっているだけではないか。そ
んな生活に何の罪悪感も持たず、仕事もせずに高い報酬をもらうことを当然と考えているの
だとしたら、現在社会問題となっているニートよりもタチが悪いと言わざるを得ない。そんな
人間の良心も麻痺したとしか思えぬ行為を何の規制も罰則も設けずに、これまでずっと黙
認(もしかしたら公認?)してきた立法府も何をかいわんやである。直ちに天下りを全面禁
止とする法案作成に着手してもらいたい。
144「防犯ブザーは無意味」(2月26日)**********************************************
昨年、登下校中の児童を無差別に襲う事件が相次いだためか、今年から私の住む街で
も子どもを守ろうという動きが本格化した。私は神奈川県在住だが、横浜・川崎といった都
市化された場所ではなく、まだまだ手付かずの自然が残るローカルな地域に住んでいる。
だから、子どもが襲われる危険性は都市部以上に高いかもしれない。住民の往来のない
通学路も散在し、何らかの犯行があっても目撃者が現れにくいからだ。付近には立派な山
もあるので、犯人の立場からすれば犯行に都合が良い条件が揃っていると言えよう。連れ
去る場所にも、殺した死体を遺棄する場所にも困らないからだ。そういう土地の実情を考
慮したのだろうか、今年に入って市内の小学校に通学する全児童に防犯ブザーを配布し
た。学校では校長や各クラス担任が「何かあったらすぐに鳴らしなさい。」と指導しているの
であろう。一方、地域住民に対しては「ブザーの鳴動音を聞いたらすぐに現場に駆けつけ
るように。」と、掲示物等で呼びかけている。
しかし、この試みははっきりいって無意味だ。理由は相手は子どもだからである。何事に
も好奇心をむき出しにする年齢なのである。私が当初から予想していた通り、子どもたち
はけたたましく鳴るブザーの音に興味を示し登下校の途中で面白半分に鳴らすようになっ
た。それだけではない。下校後や休日に公園などの遊び場で友達が集まっては鳴らしまく
っているから、一日に最低でも30回はブザーが鳴っている。するとどういうことになるか。
これだけ頻繁に鳴ると地域の住民も「どうせ子どもの遊びだろう。」と判断するようになる。
したがって当然の帰結ではあるが、音を聞いても何の反応も示さなくなった。だから、いつ
か本当に犯人に襲われたときに子どもがブザーを鳴動させたとしても、誰からも信じてもら
えず、その子どもの命が救われることはないだろう。これではまさにイソップ物語の「狼と少
年」そのものではないか。
それにしても行政のやることはあまりにもお粗末だ。本当に子どもを守りたいのならスク
ールバスを購入し、それで子どもの送迎をする程度のことはすべきだろう。防犯ブザーを
配布して事足れりとしているのでは片手落ちもいいところだし、結局子どもの遊び道具に
され何の役にも立たなかったのだから、何万個も購入しただけ税金のムダづかいに堕し
ている。
143「現場の社員の心中を察する」(2月23日)*****************************************
ライブドア・ヒューザー・イーホームズ・東横イン・・・・・・・。どれもここ2ヶ月で世間を騒がせ
た企業名だ。こういう不祥事が明るみに出てその企業の社会的信用が失われたとき、私は
いつも思うことがある。それはその企業に就職した社員たちの心中だ。多くの場合、彼らは
何も悪いことはしていない。たぶん学生時代に「我が社は将来性あります。」とか「健全な運
営を幅広く展開しています。」といった会社案内の文言を見て、それを信用し受験を決意し
たのだろう。そして晴れて入社試験に合格し、今まで現場で働いてきたのである。一連の不
法行為に手を染めるどころか、そうした事情すら知らされずに働いてきた人の方が多いは
ずだ。だから、彼らには何の罪はない。悪いのはあくまでも会社のトップだ。
しかし、それにもかかわらず外部や上司から叩かれるのも経営が傾いたときに首を切ら
れるのもまず現場の人間だという矛盾した現実がある。東横インで例えれば、フロントに勤
めている社員が真っ先に叩かれる。彼らはホテルに出入りする客や四六時中かかってくる
電話に対応しなければならないからだ。その中には誹謗中傷の電話も少なからずあるに
違いない。国が指定した民間検査機関の立入検査の合格後に違法改造をしてまで会社の
利益を優先したことはれっきとした事実だから、その件に関しては平身低頭して謝罪しなけ
ればならない。ホテルと今まで契約を結んでいた取引先に出向く営業マンも恐らく叩かれる
だろう。場合によっては取引先から今後の契約を一方的に打ち切られることにもなろう。も
し、これからも信用回復に成功せず宿泊客が激減しホテルとしての経営が成り立たない店
舗が出るという事態にでもなったら、いずれは統廃合や閉鎖も余儀なくされるだろう。それ
はとりもなおさず現場の人員が削減されることを意味する。首を切られた人間は勿論だが、
削減対象から免れた社員にしても良いことは何一つない。サービス残業の増加や報酬の
据え置き・引き下げといった不利益を被るのは不可避だからだ。そしてトップからは「会社
の信用回復に君たちが全力で努めてくれ」という命令だけが出され、勤務成績の芳しくない
社員は上司から叩かれ続ける。
これほど理不尽なことはあるまい。自分の犯した職務上の罪や失敗の責を取らされ不利
益な扱いを受けるのなら因果応報・自業自得ということで納得できるだろうが、会社のトッ
プが悪いことをしたために第一線で働く下っ端の人間がその尻拭いをさせられるのである。
その尻拭いの努力が報われれるかどうかという見込みもわからないまま上司からは葉っぱ
をかけられ続け、一定以上の成果が出ないと人件費削減の対象とされるのだ。そんな社員
の心中はいかばかりのものだろうか。
142「未成年者の喫煙をなくすには」(2月19日)***************************************
私がたびたび話題にするモーニング娘。の元メンバーで、現在辻希美さんとともに「W(ダ
ブルユー)」として活躍中の加護亜依さん(18歳)が 喫煙していた現場が今月10日発売の
週刊誌『フライデー』に掲載された。この事実を受けて所属事務所は9日に事実確認の上、
本人を当分の間謹慎処分とした。所属事務所であるアップフロントエージェンシーは「いか
なる状況であれ、未成年者の喫煙は法に触れることであり、決して許されることではない。
さらにエンターテイメントの世界で活躍している以上、健全な行動を常とするのが責任であ
り、(今回の喫煙は)自覚のない行動。」とのコメントを発表し、未成年者を預かる事務所も
指導・管理の不行き届きを謝罪した。この処分の結果、3月8日発売予定のニューシングル
の発売が延期となったほか、及び当面の間決まっていた番組の出演やイベントへの参加も
中止となった。まあ処分の内容としては妥当だろう。しかし、こうやって発覚した有名人をも
ぐらたたきのように処分していれば事足れりという問題ではない。街に出れば喫煙している
中学生や高校生など大勢いる。逆ギレを恐れて周囲の大人も何も言わないから彼らも吸い
たい放題吸っている。未成年者の喫煙は本人の自覚に委ねて済むことではないのである。
大人が未成年者に禁煙を説くとき、何を根拠にするか?それを考える必要がある。という
のは現状の禁煙教育では矛盾した点を孕んでいるからだ。まず未成年であることを理由に
する手があるが、19歳11ヶ月だと許されないが20歳なら喫煙しても良いというのは、あく
までも法律上の根拠である。たまたま現在の我が国の法律が20歳で線引きしたからそう
なっているだけの話だ。海外には18歳で線引きしている国家もあるわけで、つまるところ
20歳で線引きする生物学的・医学的根拠はどこにもないのである。19歳11ヶ月の人体と
20歳の人体とで、タバコの与える害悪に差が現れるわけではないからだ。20歳を越えて
いてもやはり喫煙が有害であることに変わりはない。現に喫煙者の肺がん発生率は非喫
煙者のそれよりも高いことなど、タバコが人体に及ぼす害悪は既に科学的に証明されてい
る。だからこそ我が国でも健康増進法によって公共の場での喫煙も禁じられるようになった
のである。学校でも「喫煙防止教育」と銘打って毎年外部から専門家を講師として招いて全
校ないしは学年ごとに生徒を集めて禁煙の啓蒙活動を行なっているが、そのとき講師はほ
ぼ全員が医学的・生物学的根拠を挙げてタバコの害悪を説き喫煙を批判している。
だが、このような根拠を持ち出すと、大人の喫煙も取り締まるべきではないのかという議
論になる。「未成年だろうと成年だろうと同じように有害なのだから、未成年だけを規制する
のは理不尽だ。」という理屈である。現に生徒の中には「職員室に訪ねても不在でタバコ部
屋で喫煙している先生もいるではないか。あれはいいのか?」という疑問を投げかける者も
いる。しかし現状では成人の喫煙は公認されているから大人は公然と吸っているし、未成
年者の教育に携わる学校の教員もやはり喫煙している。これでは生徒も納得はしまい。
ここに未成年者に対する禁煙教育の難しさがある。タバコの害悪が今日ほど声高に叫ば
れることのなかった昔は「未成年者は法律で禁じられているからダメだ。」と諭せばそれで
片付いた。私自身の体験でもそうだ。かつて小学生の頃は「タバコは大人になってから吸
うもん(=物)や。子どもはあかん!」と親をはじめとする周囲の大人は言っていたし、言わ
れた子どももみんな納得していた。ところが現在は副流煙が非喫煙者に及ぼす影響も含め
て科学的にタバコの害悪が立証されたから、「タバコは自分の健康ばかりか他人の健康を
も害するからダメだ。」と言わざるを得なくなった。「法律でダメ」という説明では説得力がな
くなってきたのである。したがって未成年者だけを取り締まることはもう無理なのである。ど
う説明したところで理屈が通らないからだ。
では、どうすれば良いのか?麻薬や覚せい剤といった薬物と同様に、タバコも国民の全
員を法律で禁じることだ。もうこれしか決定的な方策はないと私は考える。当然、学校の教
員は禁煙できる人材だけを採用しなければならなくなるだろうし、万一喫煙が発覚したらわ
いせつ行為などと同様に懲戒免職処分としなければならなくなるだろう。しかし、そのくらい
のことをしない限り、中学生・高校生の喫煙を撲滅することはできないと思う。麻薬に手を
出す未成年者がタバコと比べて非常に少ないのは、麻薬が国民全員に禁じられていて医
療現場における疼痛治療といった特殊な事情以外では合法的に入手・使用することができ
ないからだ。結局のところ喫煙させないためにはタバコを入手できない環境にするしかない
ということである。
141「アホらしくなるバレンタインデー」(2月14日)**************************************
今日・2月14日といえば聖バレンタインデー。日本では毎年チョコレートが売れに売れる
日だ。しかし、そもそもこの日はイタリアの司教であった聖バレンティヌスが殉教した日で、
女性が恋人に贈り物をする習慣とは何の関係もない。それを我が国では洋菓子のメーカ
ーが「思いを寄せている男性に対して女性がチョコレートを贈る日」として宣伝して広めてし
まったから現在のような風習ができたのである。その端緒は神戸の洋菓子店「モロゾフ」だ
そうだ。「バレンタインにモロゾフのチョコレートを贈りましょう。」という広告を新聞に出した
のである。60年代から「愛を告白する日」として広まり、世の女性がチョコレートを買って好
きな男性に贈るようになった。
これだけでも菓子屋の商魂に乗せられたアホらしい話だと思うのだが、80年代からは愛
を告白する相手に贈る「本命のチョコ」と、職場の男性社員などに配る「義理チョコ」とに分
けて販売されるようになった。これははっきり言って人をばかにしている。義理チョコなども
らっても嬉しくも何ともない。もらった側は自分が心からは愛されていないことを否応にも告
知されたようなものだから屈辱感を覚えるだろう。「義理チョコ」などどこの誰の発想かは知
らないが、とにかく「バレンタインデー」はその本質とはさらにかけ離れ、アホらしさばかりが
増したわけだ。
ところがこれが最近になって一変してきた。なんと、買ったチョコレートを女性が自分で食
べているというのである。それも1粒500円もする超高級のブランド品を買うらしい。新宿の
ある百貨店で、ヨーロッパ各国からの有名ショコラ店が出店するチョコレートフェアという催
しを3年前から始めたところ、毎年堅調に売り上げを伸ばし、長引く不況とは裏腹に今年は
期間中の6日間で約2億円を売り上げたという。お客さんは40歳前後が中心で一人平均1
万円程度は買うという。私の勤める職場の同僚(男性教諭)は毎日のように200円でお釣
がくるようなカップ麺をすすって、それで昼食を済ませているというのに、世の女性は1万円
のチョコレートを自分用に買って食べているとは・・・。いったい「バレンタインデー」はどこま
でアホらしくなっていくのだろうか。