忘れられない先生
教養学部もほぼ終了し、理学部数学科に進学した大学2年の秋、幾何の講義で突然先生
が下図のような立体を示され、この立体の体積を求めてみなさいと問題を出された。
それは、XY平面上の点(2,0)を中心とする半径1の円を、Y軸の周りに回転してできる 図形で、円環体(トーラス)と言われているものである。円環体の体積は、回転する円の面 |
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積とその中心の描く円周の長さとの 積に等しい、というパップス・ギュル ダンの定理を知っていれば、答は 4π×πとなる。この問題は、受験数 学では常識的な問題なので、2年 前ならば全員できたと思うが、教養 学部というモラトリアムの2年を過ご した者にとって、少しまごつくに丁度 いい問題であった。 |
思案顔の我々に向かって、先生は仰った。「大分苦労されていますね!2年前ならすぐでき
たことでしょう。忘れてしまったのかな。でも、それでいいのです。勉学の意欲は、忘れたこと
に対する憤り、恥ずかしさ、焦りから湧き上がるものです。忘れなければ、どこが大切だった
のかも分からないし、新しいアイデアも湧いてきません。」 この言葉を聞いて、これからの数
学に対する取り組みの姿勢が定まったように思う。その後、朝大学に早めに登校すると、先
生の研究室にお邪魔するようになった。一緒に熱いお茶を飲み、お煎餅をかじりながら、数
学の勉強方法とか今後の進路について相談にのってもらった。先生はお酒が好きで、いつも
赤ら顔であった。酔い覚ましに、きっと朝お茶を召し上がっていたのだろう。理学部のスポー
ツ大会でも、その巨体に関わらず、よく一緒にバレーボールを楽しんだ。ルールが分からず、
ボールを足で蹴ることもあったが、先生の人柄ゆえに許された。とても学生思いのいい先生
であった。でも、その先生はもう既にいない。私が大学を卒業した年の冬に逝ってしまったの
だ。私の心の中に「忘れることを恐れてはいけない。忘れた時を大切にして、常に前に進み
なさい」という言葉を遺して...。