菅ちゃんの呟き | ||||
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300「平成21年を振り返って」(12月31日)********************************************
今年はアメリカではオバマ政権が、日本では鳩山政権が発足するという歴史的な年にな
った。それだけに日米両国とも国民の期待は大きく膨らんだ。しかし鳩山政権に関しては早
くも支持率が低下しはじめ、朝日新聞社の世論調査によると5割を割り込んだ。政権奪取を
果たした瞬間から政治・経済・社会の全てを一変できるわけではないことは国民の誰もが承
知している。しかし今月24日で政権取得から100日を経過した現在になっても、いまだに社
会に明るい兆しが見えないのでは、支持率の低下もやむなしといったところだろう。
鳩山首相は就任時に「日本の歴史が変わるという身震いするような感激」を語った。しかし
現在の国民一人ひとりに「歴史が変わった」というほど政治・経済・社会が変革した実感はあ
るだろうか。私は残念ながらないのではないかと思う。「友愛の精神」「透明な政治」「説明
責任を果たす政治」「官から政治家主導への政治」「コンクリートから人への政治」など目指
すべき理想像は数多く打ち出したが、現実に動き出したのは「事業仕分け」による無駄ガネ
の削減ぐらいで、他は掛け声だけに終わっている。そして選挙公約をすんなり果たせないこ
とも最大の問題だ。子ども手当にしろガソリンの暫定税率にしろ高速道路料金にしろ、さら
には普天間基地の移設問題にしろ、対策や方針が二転三転している。あまりにも周囲の声
に敏感に反応しすぎており、「誰が何と言おうと俺は公約通り●●を実行する」という初志貫
徹の態度が見られない。民主党だけで単独過半数を確保できなかったため社民党などとの
連立政権になり、鳩山内閣は与党間での意志統一にも苦慮しているのも一因だ。そのため、
なかなか決断できないまま月日を費やしているという結果になってしまった。そして鳩山首
相自身にも偽装献金疑惑が浮上し、当時の公設秘書が逮捕・起訴される事態となってしま
った。じつは鳩山首相は政治献金についてはもともと厳しい立場をとっていた政治家であっ
た。当選直後の1988年にリクルート事件が起きたのを契機に、氏は「ユートピア政治研究
会」を創設したからである。これは自民党の1年生代議士の有志らと政治とカネのあり方を
考える会で、メンバーに加入していた各議員は当時から政治資金の全体像を公表していた。
その後、鳩山氏は自民党を離党して野党の政治家になったのだが、与党の議員に政治献
金の疑いが出るたびに厳しい姿勢で責任追及をしていた。その彼自身が実母から億単位
の金を譲り受けていた。そして献金の疑惑が明るみに出てからはその事実を「全く知らなか
った」とコメントしている。これでは国民に対する裏切り行為だと評されても弁解の余地はあ
るまい。そして、この偽装献金疑惑で「カネを一銭も受け取っていない政治家は我が国には
存在しないのではないか」という疑いさえ国民に抱かせてしまった。その意味で鳩山氏の責
任は重大であると思う。
政治がそんな状況だから社会の変革も進んでいない。その証拠の一つとして雇用情勢も
何ら好転していない。昨年は年の瀬に「年越し派遣村」という今まで聞いたこともない新語
が誕生したが、今年も住まいのない求職者を対象に来月4日まで宿泊場所や食事を無償
で提供する施設が定員500名で東京都に開設された。これと似たような施設は全国136
の自治体で設置されるという。総務省が発表した先月の完全失業率も10月を0.1%上回
る5.2%となり、悪化している。人数にすると331万人で前年の11月より75万人も増えた。
その影響であろう、首都圏の1都3県では鉄道の輸送障害の45%が人身事故、つまり、自
殺であった。件数にして679件中307件にも達している。04年度のそれは686件中183
件であったから、5年前に比べて20%近く増加している。自殺はその社会による他殺であ
るともいえる。307件の全ての原因が派遣切りに伴う生活苦ではないものの、これだけ列
車に身を投げる人が増加したのは雇用も含めた社会情勢がなかなか好転しないことが最
大の要因であろう。
今年はまた、新型インフルエンザの流行で政府の危機管理体制を問われた年でもあっ
た。私は江戸時代と同様に海外渡航や貿易を全面的に禁止する鎖国制度にでもしない限
りは国内への感染は防止できないと考えていたが、案の定空港での水際作戦も失敗に終
わり、18歳未満の児童・生徒を中心に多数の感染者を出し、多くの学校で休校・学級閉鎖
という事態を招いてしまった。幸い感染者の多くは軽症で結果としては大事には至らなかっ
たが、これがもし発病者の大多数が死亡する毒性の強いウイルスであったらと思うとぞっと
する。インフルエンザのみならずウイルスや細菌は日々進化しているから今後も次々と新
型が発生する。その中には人体を死に至らしめる強毒な種類も現れるであろう。海外で新
型インフルエンザの死者が報じられた当時、我が国は島国であるから簡単には感染者が
出ないだろうという油断は政府になかったのだろうか。我が国の人口密度は国際的にみて
も高い。今回の豚インフルエンザの教訓を生かして政府はウイルスや細菌から国民を防御
する体制を構築しないと、重大な感染症が流行した場合は日本国民の存亡の危機に瀕す
ることにもなりかねない。
そんなこんなで今年も明るいニュースはなかった。強いて挙げるとすればゴルフの石川遼
選手が史上最年少で賞金王に輝いたことぐらいであろう。本来なら政権交代による脱官僚
の政治が最も明るいニュースになるはずだったのだが、現時点ではその取り組みが結実し
ていない。何よりも景気の回復と雇用の安定が果たせていないので、国民の消費も冷え込
んだままである。来年はいよいよ鳩山政権の成果が問われる年になるだろう。「日本の政
治は自民党がやっても民主党がやっても五十歩百歩だ」と有権者から冷評を浴びないため
にも、まずは国民の誰もが安心して暮らせる社会に回復させてほしいものである。
299「防犯カメラを痴漢対策以外にも生かせ」(12月31日)*******************************
JR東日本の埼京線に防犯カメラが設置されることになった。どこの鉄道会社でも駅構内
には設置しているが、電車の車内に設置した例はこれまでにはなかった。しかし同線は混
雑が激しいこともあって車内での痴漢行為が後を絶たず、かねてから警視庁が同社に防
犯カメラの設置を要請していたという。そこで当面の間は試行ということで一部の車両にだ
けカメラを設けることにした。来年の3月までにその効果を検証し、来年度から本格的な導
入に踏み切るという構えである。
痴漢対策の防犯カメラについて、通勤電車の車内への設置をめぐっては賛否両論ある。
しかし、現実には車内で痴漢による被害に遭う女性がいること、逆に痴漢行為をしていない
にもかかわらず冤罪となる男性も生じる恐れがあることを考慮すると、防犯カメラの設置は
致し方あるまい。公共浴場と同様に電車も車内では男女別々に乗ることを義務づける法律
にしてしまえば車内の痴漢は撲滅できるだろうが、さすがにそこまではできないからだ。た
だ、車内のどこで痴漢があっても確実に撮影できるようにし、犯罪の物証として機能しなけ
ればならない。満員の車内で果たしてそれが可能かという疑問は残る。だから、この問題
は今後の試行期間中で問題点を洗い出し解決策を打ち出す必要があろう。賛否両論のう
ち「否」の意見としては、痴漢対策のためにそこまでする必要があるのかという声だ。これ
については私は痴漢対策に特化しない目的に使うことを提案したい。防犯カメラなのである
から、文字取り「防犯」すなわち痴漢以外の犯罪に対しても大いに使うべきだと考える。そう
でなければカメラを設置する価値も減殺されてしまう。
たとえば不正乗車対策だ。地方の普通列車を利用すればすぐにわかることだが、どこの
線区でもワンマン運転がなされている。人員削減による合理化が進んだため、駅員も車掌
も配置されていない。列車は1両か2両しかなく、たいていは1両目のドアのうち運転席側が
降車口、その反対側が乗車口になっている。乗客は、バスと同様に車内に設置された整理
券発行機から整理券を受け取り、降車時に運転席横に設置された運賃箱に支払うシステム
である。ところが、このシステムのために不正乗車が後を絶たないのが現実だ。その最たる
ものは駅に到着したときに降車口になっている運転席側のドアには進まず、逆方向の乗車
口からホームへ下りてしまうことだ。走って逃げられてしまうと、乗務員が運転席から飛び出
して彼らを追いかけることはまず不可能だ。先日も私はこれを目にした。関西本線の三重県
亀山市にある関西本線の井田川駅に到着したとき、東南アジアと思われる外国籍の乗客が
集団で後ろのドアへ進んで降りた。そのときはたまたま運転士とは別に所用で便乗していた
乗務員がいて、すぐに彼らのもとへ駆け寄り運賃を徴収していた。おとなしく支払っていたの
で、私には彼らが日本語による案内がわからずワンマン運転のシステムを理解していなか
ったように見えた。だから運賃の支払いを免れようという犯意はなかったようだが、ワンマン
運転で他の乗客の対応に追われてしまうとこういった不正乗車は見逃されることになる。ま
た、運賃箱に運賃を支払う場合でも整理券を誤魔化す不正もある。件数としてはむしろこの
方が多い。各駅に停車するたびに整理券発行機から乗車駅を証明する整理券が出される
ので、自分の降りたい駅の一つ手前となる駅に到着した際に整理券を取ってしまえば、その
一駅間の運賃だけを支払って下車することができてしまう。これはコンビニへ行って、3つ分
の商品を支払うべきところ、2つを万引きして鞄に隠し入れておき、1つ分の代金を支払う行
為に匹敵する犯罪である。その駅から乗った人だけがその整理券を手にすることができな
いシステムにするには、やはり車掌の乗務は不可欠だ。しかし人件費の削減でそれができ
ないというのであれば、やはり防犯カメラの設置をした方がよい。不正が行われた瞬間に
道路のオービスのように「バシャ!」と光るようにすれば理想的である。
防犯カメラによる撮影は潜伏した犯人や逃走中の犯人の逮捕にも役立てることができる
だろう。現実には過去に犯罪を犯しながらいまだに逮捕されていない者が潜伏している。懸
賞金を出して一般の協力を求めるのも結構だが、電車の車内にも防犯カメラを設置すれば
潜伏や逃走にも役立てることができるのではなかろうか。新幹線のグリーン車など、全席指
定席で痴漢が行われることが想定されない車両にも私は防犯カメラを設置して良いと思う。
駅や空港などの構内や繁華街の路上からスーパーやコンビニなどの店内まで、今の我が国
は公共の場では至る所に防犯カメラが設置されている。撮影した映像が正当な目的に利用
されている限り、やましいところがなければ乗り物の車内で自分が撮影されても何の問題は
ないはずだ。それよりも犯罪抑止力を高める方が先決である。
298「乗り物の窓ガラスに一言」(12月31日)*******************************************
今年、私は広島県の福山と愛媛県の今治とを結ぶ高速路線バス「しまなみライナー」に乗
ってみた。バスは、本州から四国へ架けられた第3番目のルートであるしまなみ海道を走り、
福山〜今治を1時間25分で結んでいる。車両は観光バスタイプのエアサス車で乗り心地も
素晴らしかった。両駅付近の市街地では一般道を走るが、それ以外は大部分が自動車専
用道路である。地上よりもかなり高い場所を走る区間が多くある。横風でバスが横転しやし
ないかと心配になるほどだ。このため車窓からの景色も非常に素晴らしい。それを裏書きす
るかのように、途中の来島大橋を渡るときには「ここからの車窓の風景はしまなみ海道の中
でも最も美しい場所です」との案内放送が流されていた。しかし、私は前方の景色には感動
したが、側面からの景色には感動できなかった。理由はバスの客室部分にはめ込まれてい
る側面の窓ガラスは全て青く着色されていたからである。
久しい以前に、この『言わせて頂戴』で、私は乗用車のウィンドウがサイドもリアもが黒くな
っていることを取り上げた。その時点ではまだ他の乗り物はさほどでもなかったが、最近は
電車でもバスでも窓ガラスに何らかの着色がなされているのが当たり前になり、無着色の
乗り物を探すほうが難しくなっている。駅と郊外の住宅地とをピストン輸送する路線バスで
はまだ普及していないが、それでも私の住む地域を走る路線バスではもう最新の車両は深
緑色のガラスがはめ込まれている。
この「着色されたガラス」とは、いわゆるUVカットガラスで紫外線対策の一つである。従来
は日光が眩しく感じられた場合は乗客はカーテンを引いて光線を遮っていた。しかし最近の
乗り物はカーテンを撤去し、その代わりに光線透過率を下げる処理が窓ガラスになされるよ
うになったのだ。その方がカーテンを設置するよりもコストが下がるうえ、カーテンの撤去は
車両火災の予防上も好都合だ。私もその趣旨は理解できるのだが、観光地を走る乗り物に
までUVカットガラスを導入することには異議がある。遠路はるばる訪れて乗り込んでも、窓
ガラスが着色されているのではせっかくの景色も台無しになるからだ。晴れていても曇って
見えるし、海にしろ空にしろ山にしろすべてが暗く見えてしまう。私がしまなみライナーに乗っ
た日も時刻は午前11時で快晴であったが、バスの側面から見る海や空は、まるで日没直
後のそれを思わせるような色だった。これでは景色を見る気にもならないし、ましてや写真
を撮影しようという気にはとてもならない。
輸送業者の側にも乗客の側にも「乗り物は目的地への移動手段に過ぎないのであるか
ら、途中の景色はどうでも良い」という考えがあるのかもしれない。快適かつ安全に、そして
適正な運賃でできるだけ短い所要時間で輸送できれば、それで乗り物の使命は果たしてい
るということなのだろう。JR山手線をはじめとする通勤路線などではそれでも良いだろうが、
観光地を走る乗り物の場合はそれだけでは失格だと思う。なぜなら目的地に到着するまで
に見える景色も、観光資源として売り出す必要があるからだ。その景色を乗客に見せて感
動させるには、やはり原色で見えるようにしなければ意味がない。青い海は青く、白い雲は
白く、黄色の花は黄色に見えなければ感動も半減する。せっかく訪れたのに好天に恵まれ
ずに青い海が灰色に見えたのは仕方がない。しかし青く見える日に訪れたのにわざわざ灰
色に見えるようにするほど愚行なものはない。光線対策は、昔の乗り物と同様に窓にカーテ
ンを設置しておけば良い。そうすれば眩しく感じられたときだけカーテンを引いて遮ることが
できる。
297「数字で示される『%』に惑わされるな」(12月 8日)**********************************
私は毎日次のことを試みている。それは確率で1/2とされているものが果たして実際に
1/2になるかという実験である。具体的には次のような方法で試みている。それはスーツ
のポケットの中に2つの鍵が入ったキーホルダーを入れておく。この2つの鍵とは、一方は
職員室の机の鍵で他方は研究室の机の鍵だ。外見でも手に触れたときの感触でも、その
どちらなのかを全く判断できないほど、この2つの鍵は寸分違わぬものである。毎朝出勤し
たときに私はスーツのポケットに手指を入れ、たまたま触れた方の鍵を職員室の机の鍵穴
に挿入する。そしてその鍵で開錠できたか否かを調べて記録をつけ、総試行回数に対して
開錠できた回数の比率を調べるという試みである。実験を開始したのは今年の9月1日か
らであった。もともと勤務日ではない土曜日や日曜日にも出勤したので、先月末までで91
日のうち出勤したのは74日である。鍵の開錠も74回試みたことになるが、実際に開錠で
きたのは29回であった。成功率は39%でしかない。AB2つの鍵のうち一方だけを取り出
して開錠を試みる実験であるから、開錠成功率は50%になるはずだ。しかしそれはあくま
でも統計学上の話である。だから確率が1/2と言われているものでも現実の結果が1/2に
なるとは限らない。さいころでもそうだ。1回振ったとき6の目が出る確率は1/6に決まって
いる。だからといって6回連続して振ったとき必ず6の目が1度出ることは保証していない。
もしかしたら60回連続して振っても6の目が一度も出てこないかもしれない。逆に6回しか
振っていないのに6度ともすべて6の目が出るかもしれない。今まさに振ろうとしているその
1回のチャンスにおいて、6の目が出る確率が1/6あるに過ぎない。だから2度目に振る際
は、1度目に出た目の数が何であろうとまたその1回のチャンスにおいて6の目の出る確率
は1/6なのだ。
この現象は医者から生存率という言葉を聞かされたときに注意すべきだと思う。たとえぱ
人間ドックを受診してがんが発見されたとする。担当の医師から、現状と予後に対するイン
フォームド・コンセントがなされると思うが、次の5通りの言葉を聞いたときみなさんはどのよ
うな印象を受けるだろうか。
A.非常に早期のがんです。治療した場合の生存率は95%です。
B.まだ早期の段階にとどまっているがんです。治療した場合の生存率は75%です。
C.早期の段階を過ぎてやや大きくなっています。治療した場合の生存率は50%です。
D.残念ながら進行がんでした。治療した場合の生存率は25%です。
E.完全に手遅れの状態です。治療した場合の生存率は5%です。
個々人の性格と「がんに対する価値観」が異なるから一概には断定できないが、たぶんA
やBのように告知されたら「今のうちに発見されて良かった。自分はきっと助かるだろう」と
思う人が多いのではななかろうか。逆にDやEのように告知されたら、「そう遠からぬうちに
死を迎えるのだろう」と覚悟するのではなかろうか。Cのように告知されたときに前者・後者
のどちらに感じるかは二分されるであろう。しかし、これらの「生存率」という数字は、それぞ
れの病期に該当する患者におけるこれまでの治療実績を基に算出した統計に過ぎず、自
分が生死のどちらになるかは全くわからないのである。だから5%の生存率に賭けて果敢
に治療する道を選ぶという選択肢があっても良いだろう。たとえそういう選択肢を選んで過
酷な治療を始めたとしても、家族・友人など周囲の人は「無謀な選択だ」と非難してはなら
ない。もしかしたらそれで助かるかもしれないからだ。しかし5%の死亡率を理由に治療す
る道を拒否する選択肢があってもしかるべきだ。たとえそういう選択肢を選んでがんを放置
し社会生活を続行したとしても、家族・友人など周囲の人は「非常識だ」と非難してはならな
い。また、逆に95%の生存率を信じて治療に臨んで助からなかった場合でも、遺族は生存
率を告知した医師に対して「嘘つきだ」と非難してはならない。「生存率95%」とは、換言す
れば「100人のうち5人は必ず死ぬ」という意味である。だから自分の家族であった故人が
その5人に入る確率も確実に存在するのである。統計はあくまでも統計であり、確率はあく
までも確率である。「統計や確率は現実と乖離している」と評するのは過言だが、現実と必
ず一致しているわけではないことだけは確かだ。だから私たちは数字に惑わされてはなら
ない。医師から生存率が何%だと告知されようとも、自分がそのどちらに転ぶかはつねに
1/2だと思った方が良いのではなかろうか。
296「イルミネーションは必要不可欠か?」(11月30日)**********************************
今年もあと1ヶ月になった。だいたいこの時期になると、どこの繁華街でも街路樹やアーケ
ードなどに電線を這わせて夜間はきらきらと電球が輝くようにイルミネーションを設置してい
る。そのイルミネーションも不景気にもかかわらず年々派手になっている傾向があり、点灯
する時間や日数も開始した当初よりも伸びている。きれいなことは確かだし、往来する人々
の心を和ませるアイテムであることは認めるが、何か昨今の時世に矛盾しているように思
われてならない。
京都議定書の調印などがなされ、地球温暖化防止への取り組みが国際的規模でなされ
るようになってからは、我が国においても「不要な電気はこまめに消灯せよ」とか「冷房は
28℃に下がったら、暖房は18℃まで上がったら消す」「マイカーを使わず公共交通機関を
利用せよ」「交差点などにおける停車時はアイドリングストップを」などと、極力エネルギーを
消費しないように呼びかけている。それだけ二酸化炭素排出量の削減が全世界にとって危
急の課題になっているのである。
これら日常生活に必要不可欠な電気などにさえも政府は節約を求めておきながら、決し
て生活必需品でも何でもない街頭のイルミネーションに対して不問のままというのは理解し
かねる。また、これらのイルミネーションにどれだけの電気代がかかっているかについて報
道すらもなされないのも不可解だ。日没となる夕刻17時前後から翌日の日の出の時刻ま
で間断なく点灯した状態で、期間にしても11月上旬〜2月下旬までの約4ヶ月間も続けた
ら相当な電気代になるはずだ。もう一つ疑問なのは、電気代のみならず設置時や撤収時
の工事費用や電球代なども含めたイルミネーションに要する総経費をどこの誰が負担して
いるのかということだ。夏の夜空を彩る花火と同様に、観光地などで地元の旅館組合や商
店会が客を誘致させるためにやっているのなら致し方ないが、もし地方公共団体がいくらか
でも拠出しているとしたら、それこそ税金の無駄遣いである。
295「月刊誌の刊行月について一言」(11月22日)**************************************
今回は定期刊行されている月刊誌に関して、以前から気になっていたことを1点指摘した
い。それは刊行年月日の「月」と、その雑誌の表紙に銘打ってある「※月号」の「※」とが一
致していないものがあることである。給料日を月の下旬に設定している事業所が多いため
か、雑誌の刊行日も下旬が目立つ。たとえば今月なら21日以降に刊行されるのだが、そ
の場合、決して「11月号」にはならない。あと1週間程度で12月になるからという理由で、
「12月号」とするのならまだわかる。しかし、実際は2010年の「1月号」として発売する月
刊誌がある。私はこれが非常に不自然に感じてならない。
このような、いわば「早出し」の刊行をされると、その雑誌の読者も不自由な思いをするこ
とになる。たとえば、ある月刊誌が毎月22日の発売だとする。そして先月、つまり2009年
10月15日にどこかで新しい橋が開通し、これをその月刊誌で特集する場合のことを想定
してみよう。雑誌記者が現場へ行って開通初日の様子やその後1週間程度の利用状況な
どを取材し、それを原稿にまとめるまでにはどうしてもある程度の日数がかかる。だから新
しい橋のトピックは10月22日刊行の「号」には間に合わず、11月22日に刊行される「号」
に掲載ということになる。ここまでは致し方ない。問題はその11月22日に刊行される「号」
を「2010年1月号」としてしまうことだ。何年か経過して「そういえばあの橋の開通の記事は
いつの号だったかな?」と思ってバックナンバーを検索する際、橋の開通が2009年の10
月だという記憶があるからどうしても2009年の10月号や11月号を探してしまうだろう。し
かしそれには載っておらず12月号も飛び越して翌年の1月号を見なければならない。つま
り11月22日刊行の月刊誌を1月号としてしまうと、雑誌は「1月」なのに掲載されている記
事は前年の秋の話題になり、銘打ってある月とは季節までずれてしまうことになる。これで
は違和感をおぼえるのみならず実際問題として不都合である。
こういう「早出し」の刊行方法は今に始まったことではない。ずっと久しい以前からこの状
態が続いている。それにもかかわらず、出版業界がいまだに改善しようとしないのは理解
に苦しむ。しかもこういう早出しは月刊誌だけである。日刊誌に位置づけることができる新
聞は朝・夕刊ともその日の日付で刊行される。すなわち11月22日の朝・夕刊は11月22
日の発売であり、決して11月20日に発売されることはない。週刊誌にしても同じである。
しかしなぜか月刊誌だけは11月下旬に新年の1月号が発売される。だからなおさら不自
然さを感じてしまう。
やはりその月の記事はその月の号に掲載させるのが単純明快だ。原稿締め切りの関係
で取材した月が発売月とずれてしまうにしても、1ヶ月以内にすべきであろう。そういう意味
で、11月22日に刊行する「号」は「11月号」と銘打つのが妥当である。そうすれば10月の
半ばのトピックが1ヶ月後の「号」に特集されることになり、不自然ではなくなる。しかしそれ
以上ずれるのは好ましくない。まだ元日まで1ヶ月以上もあるのに、今から来春の1月号を
刊行するのはいかがなものかと思う。
294「ゴミの分別に一言」(11月15日)************************************************
地球温暖化や資源の再利用が叫ばれたため、近年どこの市区町村でもゴミの分別が細
分化している。昔は可燃物か不燃物かでしか分けていなかったが、今では可燃物でも紙類
・ビニール・ペットボトルは別にするようになった。したがって宛先の部分だけがビニールに
なっていて外から見えるようになっている封筒の場合、ビニールの部分を鋏で切らなければ
ならないことになる。ペットボトルにいたってはキャップ・ラベルを取り外し容器の部分だけを
別にしなければならない。不燃物の場合は缶・瓶・ガラス類・電球・乾電池などに分別するよ
う指示している市区町村が多い。そしてこれらとは別に冷蔵庫や洗濯機などは粗大ゴミとし
て廃棄するための代金を支払った上で出すようになっている。しかし、市民にこれだけの分
別を強いるのは問題がある。理由は次の3点だ。
第1に、分別を細かくすればするほどルールを守らずに出す人が増えるからだ。自分の居
住する地域にある所定のゴミ収集場に捨てたら分別して捨てていないことが近隣の人に発
覚するという理由で、家庭で出たゴミをわざわざ公園のゴミ箱に持って行って捨てたり、通勤
途中の駅やバス停付近に捨てる人も出てくる。他地区のゴミ収集場に捨てる人も少なくない。
一応分別すよう心がけている人でも「このくらいはいいだろう」と面倒くさがる人も出てくる。こ
うしていい加減に分別してゴミを出されたら、収集したゴミを処理する現場で職員が再分別を
強いられる。どこの地方公共団体も人員を削減しているから、ゴミの再分別は大変な負担と
なる。
第2に、個々のゴミがどのカテゴリーに該当するのかがわからなくなる場合が生じる。たと
えばボールペンはどうなのか。たぶん燃えるゴミと判断する人が多いかと思うが、よく見ると
先端の部分は金属がになっている。ズボンに装着するベルトも皮の部分と金属の部分があ
る。結局わからないから個々人の判断で捨てざるを得ないのだが、これもやはりゴミの処理
をする現場での負担となる。
第3に、職場では分別の作業をするだけ本業とは無関係な「余計な業務」が増えてしまう。
ビニール窓のついた封筒が届くたびにビニールの部分だけ鋏を入れていたら捗る仕事も捗
らなくなる。風雨の強い日、通勤途中にビニール傘がダメになってしまうことはよくあるが、こ
れを職場で廃棄処分にするとなるとビニールの部分と骨の部分と柄の部分とに分けなけれ
ばならない。真面目に分別していたら大変な労力だ。
この問題を解消するために次の提案をしたい。
第1に、市民の分別作業は可燃物・不燃物・粗大ゴミの3つに分けるだけにする。即ち昔
の方法に戻すことである。これなら誰にでも短時間でできるからルールを徹底させることが
できる。
第2に、それ以上の分別は収集後の処理過程で行なうことである。現状では作業員が不
足するだろうから、そのための要員を各地方公共団体が新規に雇用すればよい。不況で
失業者が増えている時代だから、ゴミの分別作業員の大量採用は新たな雇用の創出に貢
献する。市民にゴミの分別をさせないというこの提案は、一見、市民に環境問題への取り組
みを実践させる現代の考え方に逆行する。しかし、そういうことはゴミの分別以外の局面で
実践すれば充分である。たとえば
1.冷暖房の設定温度を必要最小限にする
2.不要な電気はこまめに消す
3.レジ袋をもらわず買い物袋を持参する
4.マイカーには乗らず公共交通機関を利用する
5.使い捨ての商品はなるべく買わないようにする
というように、いくらでも取り組める事柄はある。それよりも正しく分別しない人が増えてしま
うために、ゴミ処理の現場で再分別を強いられていることこそ問題だ。
餅は餅屋という言葉がある。素人が手を出さず、その道の専門家に委ねることの功利性
を説いた言葉である。なまじ市民にいい加減に分別して捨てるために最終理場に携わる職
員が悲鳴をあげるよりも、研修を受けた分別作業員が手際よく分別したほうがはるかに効
率が良い。分別を細分化となければ市民が他の場所へ運んで捨てるといった悪質なケース
もなくなるだろうし、オフィスなどの職場では職員が分別作業に関わらないで済む分、本来
の業務に専念できる時間が増える。
293「ノンアルコール飲料を普及させよう」(11月 9日)**********************************
飲酒運転が原因とされる重大かつ悪質な交通事故が依然として後を絶たないため、飲食
店ではドライバー向けとして「ノンアルコール」を謳ったビール・日本酒・ワインを提供するよ
うになった。出された飲料はどこから見てもこれまでのビール・日本酒・ワインと同じである
が、アルコール分が0%なのでいくら飲んでも酔わないというものである。本稿ではこれらを
「ノンアルコール飲料」とする。私はこれが登場したことを高く評価し、今後の普及を大いに
期待している。そして従来から販売されているアルコール飲料を、すべてこれに代えること
を提案したい。その理由は次の3点である。
第1に、飲酒運転を皆無にできるからである。現状ではドライバーの全員がノンアルコー
ル飲料を飲んでいるわけではないので、まだまだ飲酒運転は多い。そしてそれは大都市よ
りも過疎地ほど顕著である。理由は公共交通機関が廃れてしまっていて日常の移動はす
べてクルマに依存しているからだ。ある程度の人口がある地方や大都市では飲酒運転の
取り締まりもそれなりに行なわれてはいるが、過疎地ではそれもない。また、大都市にして
も取り締まりで捕まるのは氷山の一角であって、事故を起こさない限り大半のクルマが発
覚を免れている。そして事故を起こすクルマの多くは法定速度以上のスピードで走行して
いることも事実だ。これでは飲酒運転による交通事故を撲滅させることはできない。
第2に、アルコール依存症の患者をなくすことができるからである。我が国の総人口は1
億2000万人余り、そのうち半数の6000万人が飲酒人口とされており、このうちアルコー
ル依存症の患者は230万人いると推定されている。つまり26人に1人の割合でアルコー
ル依存症になっていることになる。彼らは生まれつきアルコール依存症だったわけではな
い。健常な大人と同様に最初は歓送迎会など何らかの機会にときどき飲むだけという行動
に過ぎない。それがいつのまにか毎日飲むという習慣的な飲酒行動に移行した結果、依
存的な傾向が現れるようになったのである。そして同じ酒量では今までと同様に酩酊する
ことができず、自然とアルコールを増量するようになる。そうするうちに最後は覚醒している
限り常にアルコールを渇望するようになり、断酒すると禁断症状が起こるようになる。ここま
でくると患者本人の健康が蝕まれるだけでなく、家族に迷惑をかけたり、アルコールの作用
が主因となる事件や不祥事を起こして社会的信用を失墜させたりする。こうした依存症も完
全にノンアルコールの飲料しかなくなれば今後は新たな患者を生み出さないようにすること
ができる。
第3に、急性アルコール中毒もなくすことができるからである。深夜から早朝にかけての繁
華街や駅でみかける吐瀉物の大半は急性アルコール中毒によるものである。最近は不況
だからさほどではないが、バブル期は歓送迎会や忘・新年会などでどこの事業所でも盛大
に酒宴を開いていたから道端の吐瀉物も多く見られた。本人が自ら過剰に飲んだ結果そう
なったというケースが大半だろうが、中には上司や先輩に強要されて飲まされてそうなった
ケースもある。何年か前からか職場でのアルコールハラスメントも問題になっているが、居
酒屋へ行ってもノンアルコール飲料しか出されないようになれば、これもなくすことができる。
楽しいはずの酒宴の席で上司や先輩から無理やり酒を強要されることほど不快なものはな
いだろう。毎年春になると大学では新入生歓迎コンパがどこも行なわれるが、一気飲みを強
要されて死んだ学生も過去にはいた。アルコールがなければそういう悲惨な死もなくすことが
できる。
問題は現代の技術でどこまで従来のアルコール飲料に酷似させることができるかである。
ノンアルコール飲料の製法としては、一旦ホンモノのビールなり日本酒なりを製造してそこか
らアルコール分だけを抜くという手段をとるのが一般的だ。しかし、そうすることによって消費
者にノンアルコール飲料であることが見破られしまっては意味がない。従来のビールや日本
酒などと並べてもわからないように外見は勿論のこと、味も香りも喉ごしも、すべてが寸分も
違わぬように造らなければならない。そして飲んだ時だけではない。その後の作用も酷似さ
せなければならない。すなわち自覚的には酩酊した状態を体感できるが、客観的には精神
状態に変化がみられないようにしなければならない。そこまで酷似した飲料を商品化するに
は前途多難であろうが、アルコールによる害悪をなくすためにもぜひ開発・普及させてもらい
たいものである。
292「私の作成したサイトが紹介されるとは」(11月 1日)********************************
今日は嬉しい報告を一つ。先週の木曜日、私はインターネットエクスプローラーを起動し、
「古典文法」で検索を試みた。私自身が作成した古典文法講座『こてんこてん』もさることな
がら、同業の方々が開設されたサイトに関心があったからである。私が『こてんこてん』を開
設したのは2003年の春であるが、その当時よりもサイトは爆発的に増えた。古典文法・現
代語文法は言うに及ばず、干支などの古典文化・古典常識を扱ったサイトや古語辞典のサ
イトもあった。また同じ古典文法を取り扱ったものでも、いわゆる難関私大対策や大学入試
センター試験対策に特化したものもあった。そんな中、私が執筆した『こてんこてん』を紹介
しているサイトがあったのにはびっくりした。『古文と古語辞典』という名称のホームページで、
「資料集サイト」と題された項目には他の古典文法サイトとともに私の作成したサイトが紹介
され、しかも、直接アクセスできるようになっていた。紹介文は、「菅ちゃんさんの古典文法オ
ンライン講座。高校レベルの古文文法の項目を全て網羅。問題集も用意されている。」と、
簡潔ながらもじつに的を射たものとなっており、私としては嬉しいかぎりである。ほぼ同様の
紹介文が『子育て(学習)7/8』という名称のホームページにも載っていた。私自身はそれほ
ど『こてんこてん』を宣伝してはいないのだが、私の知らないてころでかなりの方々がアクセ
スなさっているようだ。現在は忙しくてなかなか手が回らないのだが、機会があれば『こてん
こてん』もコンテンツを増やしてますます充実した内容に改築し、こうした紹介文を読んでア
クセスされた方々の期待を裏切ることがないようにしたい
291「オプション販売方式によるパソコンを普及させよう」(10月26日)**********************
先日、Windows7の登場を機に、これがインストールされたパソコンも各社から一斉に発
売された。しかし私は既製品ではなくSONY製VAIOのowner−maidシステムを利用した。
これは本体とOS・メモリーなど動作に必要最低限のものだけの価格で販売し、あとは客の
裁量で適宜加えていくという方式である。
私が選んだのはデスクトップパソコンでVAIOのLシリーズである。OSはWindows7、ディ
スプレーは24インチワイドでありながら最低価格は119800円である。何も付加価値を足
さなければこれだけでも購入できる。しかし客によって要・不要の中身が違うので、以下の
14項目はカスタマイズできるようになっている。
1・プロセッサー
2・グラフィック アクセラレーター
3・メモリー
4・ハードディスク
5・DVD/BDドライブ
6・内臓テレビチューナー
7・タッチパネル
8・AVCトランスコーダー
9・Office
10・インターネットセキュリティーソフト
11・動画/静止画/音楽編集ソフト
12・日本語入力システムATOK
13・3年間保証サービス
14・本体部分の色
このうち1〜5は最低価格で購入しても既設されているので、『これでは私の要求する性能
を満たせない』とユーザーが判断した場合に限り追設することになる。たとえば3のメモリー
は4GB、4のハードディスクは320GBが元の仕様である。もしメモリーを4GB増設して8GB
にしたければ10000円、8GB増設して12GBにというのなら39000円の追加で仕様変更
をすることができる。同様にハードディスクも500GBにしたければ4000円、1TBなら7000
円、2TBなら22000円の追加で容量のアップを図ることができる。5のドライブについては最
低の仕様ではDVDの読み書きのみができることになっている。もしブルーレイディスクでの視
聴も希望するのなら10000円、さらにブルーレイディスクへの書き込みもしたいというのであ
れば20000円の追加となる。だからたとえば動画のエンコードをするのならプロセッサーも
メモリーも仕様変更した方が快適性が増すだろうし、テレビ番組の録画を想定するのならハ
ードディスクの容量を増設しておいたほうが良いということになる。録画した番組を編集して
ブルーレイに焼付けをしたいのなら、ブルーレイディスクドライブの書き込み機能も必要だ。
逆にそういった用途では使わない人にとっては元の仕様のままでも不自由はしないだろうか
ら追加料金なしで良いことになる。6〜13項目は最低仕様では一切付加されていないので、
個々の客が必要に応じて注文する形になる。14は3色のうち任意の1色を選択できる。
これまでのパソコンはあらゆるユーザーの用途や嗜好に対応するよう欲張り志向であった。
そのため予めインストールされている大量のプログラムによって、ハードディスクの容量を浪
費しWindowsの動作や快適性を損ねていた部分もあった。たとえばパソコンでは表計算も
文書作成もしないのならOfficeは全く不要だ。日常的にOfficeのソフトを使っている人にとっ
ては「いまどきそんな人はいるのか?」と思われるかもしれない。しかし、たとえ少数であって
も現実に存在する以上は、彼らのニーズにも応えないと無駄な投資を強いることになる。ゲ
ームにしても麻雀・囲碁・将棋・トランプといろいろプリインストールされているが、遊ばない人
にとっては無用の長物である。何よりも一度もクリックする機会のないアプリケーションのため
に対価を支払わされることほど馬鹿げた話はあるまい。これに対して客がカスタマイズできる
方式は無駄がない。そういう意味で本体とOSなど必要最小限の部分のみ販売するSONY
製VAIOのowner−maidシステムを高く評価したい。これからは個を大切にする社会にしな
ければならない。最近はカレーライスでも辛さやご飯の量、さらにはトッピングする具まで自
由に選択させて個々の客の嗜好に合わせるようにしている時代である。たかだか1000円
もしないようなカレーライスでさえカスタマイズできるのだから、何万何十万も支払うパソコン
ならなおさら必要である。同様のことはクルマについてもいえるだろう。大衆志向に走り、な
んでもかんでも標準仕様にすれば良いという時代はもう終焉を迎えたのである。
290「差別用語よりも差別意識の根絶を」(10月18日)***********************************
芥川龍之介の作品の一つに『羅生門』がある。主人から暇を出された下人が行き場所を
失って羅生門の下で雨やみを待っている場面から話が始まる。下人は『一晩だけでも雨風
の凌げる場所を』と思って門の上に上がったところ、死人から髪を抜き取る老婆を見つける。
「自分が生きるためなら悪事をするのも仕方がない」という老婆の理屈を聞いて、下人は老
婆の着ていた衣服を奪い取って夜の闇に消える。高等学校の国語の教科書には必ずとい
っていいほど掲載されている小説であるから、知らない人はいないであろう。さて、この小説
には次の段落がある。楼の上に捨てられた死体について描写している部分である。
見ると、楼の内には、噂に聞いたとおり、幾つかの屍骸が、無造作に棄ててあるが、火
の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。唯、おぼろげながら、
知れるのは、その中に裸の屍骸と、着物を着た屍骸とがあると云う事である。勿論、中に
は女も男もまじっているらしい。そうして、その屍骸は皆、それが、嘗、生きていた人間だ
と云う事実さえ疑われる程、土を捏ねて造った人形のように、口を開いたり手を延ばした
りして、ごろごろと床の上にころがっていた。しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、
ぼんやりとした火の光をうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖の
如く黙っていた。
この段落の末尾の一文に「唖」という語句が使われている。高校の国語の教科書では「唖」
が当用漢字外であるため、平仮名で「おし」と表記されている。何らかの身体的事由で発語・
発声ができない人のことを指すのだが、これは差別用語であるとして現代の使用語彙から
は除外されている。したがってメディアにおいては放送禁止用語として扱われている。最近、
こうした差別用語が使われている文章には生徒の目には触れさせないようにしようとする動
きが一部にある。授業で日常的に使う教科書のみならず、入試問題の問題文として使用す
る際にも、差別用語が一切使われていない作品に限定しようという動きである。しかしこうい
うことをすると名作に触れる機会は現状以上に減ってしまう。作品が書かれた当時にはそも
そも「差別用語」なる概念すらなかったのであるから、作家が差別用語と認識した上で意図
的に書いたわけではない。あくまでもその文中にはその語彙が必要と判断したから使った
に過ぎないし、当時はそれが他の語彙と共にごく普通に使われていたのである。それを「現
代では差別用語に当たる」という理由で教材の対象から削除してしまったら、かなりの作品
が読めなくなってしまう。ただでさえ生徒の読書離れ・活字離れが深刻な問題となっているの
に読める図書が減ってしまうのは好ましいことだとは思えない。
これと似た最近の潮流に民主党政権が漢字を意図的に平仮名に換えたのが気になる。
たとえば「子供」を「子ども」、「障害者」を「障がい者」と表記しているのだ。しかし、このよう
な「わざと漢字と仮名とを混ぜた語彙」を使用することに対し、10月12日付の産経新聞に
は「漢字が悪いわけではない」という理由で異議を唱えている。私も同感である。言葉をど
う変えたところで差別意識が残存する以上は何の解決にもなっていないからだ。もし言葉
を変えさえすれば解決するのなら、差別用語と思われる語彙は、いっそのこと漢字も平仮
名も使わずにアルファベッドでよいはずだ。たとえば「障害者」なら「S」にしてしまえばよい。
しかし「あいつは障害者だからうちの職場では使い物にならない」という代わりに「あいつは
Sだからうちの職場では使い物にならない」と言い換えたところで、本質は何も変わってい
ないではないか。
「唖」にしろ「障害者」にしろ、要は言葉を使う側が持つ意識の問題なのだ。「精神分裂病」
を「統合失調症」と言い換えてから久しくなったが、それで精神病患者に対する差別がなくな
ったわけでは決してない。「ブラインドタッチ」が「タッチタイピング」という言葉に代わったが、
それで目の不自由な人に対する差別がなくなったわけではない。言葉はある事物や概念を
指したり思想・感情を表明す場合に必要不可欠であるから、負の側面を指す場合にも使わ
ざるをえない。「低所得者」「要介護認定」「落選」「留年」「被災民」など、負の側面を表す語
句は数多く存在する。そういった言葉を逐一平仮名混じりにしたり別の語彙に置換すること
で本質を隠すことはやめて、差別意識の根絶を推進してもらいたいものである。そのために
はマスコミ、とりわけテレビ番組の制作者や雑誌編集者の意識改革が必要だろう。少なくと
もある一定の基準で人の顔の良し悪しを「イケメン」と「ブサイク」に判定・分類し、前者をもて
はやす一方で後者を蔑むような態度は厳に慎むべきである。
289「速やかに教員免許更新制度を廃止せよ」(10月11日)******************************
民主党の輿石東参議院議員会長が教員免許更新制度の廃止を急ぐ見解を表明した。来
年1月の通常国会に改正法案を提出し、2011年度から実施しようという計画である。
教員免許更新制度は1983年に自民党の文教制度調査会の「教員の養成、免許に冠す
る提言」において「教員免許状に有効期限を設け、更新のための研修を義務付けるべきだ」
との提言がなされたことに端を発する。これはすぐには実行されなかったが、教育の再生を
目玉にした自民党安倍内閣が誕生してから教育再生会議が教員免許更新制度を提言し、
これを受けて2007年6月に教育職員免許法が改正され、今年度からの導入が決定した。
これまでは免許状の効力は終生有効であったが、この改正により有効期限が設定された。
すなわち免許状を授与された日の翌日から起算して10年を経過する日が属する年度末ま
でを有効とし、これを経過した者は免許状更新のための講習を受講し所定の課程を修了し
なければ免許状が無効となることになった。既に教員免許状を取得し10年以上を経過して
いる者は免許更新のための講習を受けなければならないことになるが、受講すべき年度は
生年月日によって振り分けられた。このうち昭和30年度・40年度・50年度(いずれも4月1
日生まれの人は除く)に生まれた人と昭和31年・41年・51年のそれぞれ4月1日に生まれ
た人は、今年度と翌年度の2年間に免許状更新のための講習を受講しなければならないこ
とになっている。これはただ受講すれば良いというものではなく、講習後の認定試験にも合
格しなければならない。万一不合格となった場合は2年以内に再試験で合格しないと教員
免許状そのものもが失効する。こうすることで不適格な教員を排除するのがこの制度の目
的にもなっているという。免許状の更新講習は大学、その他文部科学省令で定める者が文
部科学大臣の認定を受けて行なうことになっており、受講する者は大学等で「最新の教育
事情」など所要の科目を30時間以上受けなければならない。そのための受講料は3万円
を要するが、これは公費ではなく個人で負担することになっている。
この制度は導入当初から問題だらけであった。学期中は無理でも夏休みなら受講できる
だろうという発想であったが、これこそが現場知らずの人間による発案であることを証明し
ている。現場に勤務する教員はたとえ夏季休業期間中であっても部活動や補習授業など
で忙殺されているので大学へ通い30時間も受講している時間などないのが実情だ。免許
状の更新講習のために現職の教員が職場を離れれば、その教員が分担していた業務を
他の教員が代行しなければならなくなるし、質の高い授業を提供するために必要な教材研
究や校務・生徒指導・保護者への対応に割く時間が減り、教育のサービスレベルが低下す
る。また受講生を受け入れる大学側にしても、いくら学生への講義がない夏季休業期間中
とはいえ大変な手間と労力を要する。さらに教員免許を取得したものの民間企業に就職し
たために教育現場を離れている人材を完全に無視していることも問題だ。教育職員免許法
第9条第3項によると更新講習を受講することのできる資格が「教育職員」と「教育職員に任
命され雇用されることになっている者」に限定されている。前者は現職の教員を指す。後者
は採用試験に合格して任用名簿に登載された者や講師や臨時任用職員の登録をしている
者が該当する。つまり大学で教員免許状を取得したものの民間企業などに就職した者にと
っては講習を受ける機会も与えられないまま、もっといえば講習の受講すべき年度に該当し
ている事実さえ知らされないままに年月が過ぎてしまい、免許状そのものが完全に失効して
しまうことになる。「民間企業に勤めているのなら教員免許は不要だろう」という安直な発想
しか持たない人間がこういう制度を作ったとしか思えない。各地方公共団体の教育委員会
は教員採用試験を実施するにあたり社会人採用枠まで設けて広く民間からも人材を登用し
ようとしているのに、その方針と完全に矛盾している点も大きな問題である。結果として現職
以外の有為な人材を自動的に排除してしまうことになる。
これだけ多くの問題点があるにもかかわらず、現場の声に耳を傾けることもなく安倍政権
の下で可決されてしまった。だから今回の政権交代で更新制度そのものを廃止する方針を
打ち出したのであるが民主党の法改正案は来年の1月とし実施は2011年度からというこ
とになると、2010年度末までは現行の法律に従わなければならない。したがって、昭和30
年度・40年度・50年度(いずれも4月1日生まれの人は除く)に生まれた人と昭和31年・41
年・51年のそれぞれ4月1日に生まれた人は、民主党の提出する法案が可決されても必ず
更新講習を受講しなければならないことになる。法律は施行された日から効力を有するので、
施行以前の講習に対しては不問とせざるを得ないのだが、今さら更新講習を受けるのも理
不尽な話である。既に講習を受けてしまった時間についてはもう取り返しのしようがないが、
せめて費用だけは返還するぐらいの措置を講じるべきであろう。また改正法案の提出を来
年1月にするにしても、3月までには可決できるのだから、施行は2010年度からにすべき
である。そうすれば2010年度に受講することになっていた人は免れることができる。政府
が「意味がない」と判断したのであるなら、直ちに法律を失効させ制度そのものを撤廃して
もらいたい。
288「強い日本人力士の育成を」(10月 4日)******************************************
一週間前、大相撲秋場所が終った。朝青龍は本割りでは白鵬に敗れたものの優勝決定
戦では白鵬をすくい投げで下し4場所ぶり24度目となる優勝をおさめた。ただ、勝った瞬間
に出たガッツポーズに対して「いかがなものか」と是非が問われている。横綱審議委員会も
「勝てば良いというものではない」と手厳しい。
なぜ力士がガッツポーズをすると物議を醸すのか。理由は相撲は他のスポーツとは性質
を異にするからだ。野球など投手が満塁のピンチを凌いだ場合にマウンドでガッツポーズを
したり、バッターがホームランやタイムリーヒットを打った瞬間にガッツポーズをしたまま1塁
へ走ったりする行為に対して何も非難されることはない。バレーボールやサッカーでも、マラ
ソンでもゴルフでもガッツポーズの是非は問われない。しかし相撲は問われる。それは相撲
はスポーツではないからである。そもそも相撲は我が国固有の宗教である神道に基づいた
神事である。古くからその地域の祭りとして位置づけられ、奉納相撲が当該地域の住民に
よって行なわれてきた。健康で体力のある身体を授かったことに対して畏敬の念をもって感
謝し神前でその力を捧げるものである。新しい横綱が誕生したときに明治神宮の境内で土
俵入りを奉納するのも、男女平等が常識の今日においてもなお土俵に女性が上がることが
許されないのも、相撲が技術と力を競う単なるスポーツではないゆえんである。行司は土俵
上で勝負の判定をするが、これは神主に相当するものであって、プロレスのレフリーとは本
質的に異なる。朝青龍の出身であるモンゴルにも「モンゴル相撲」と言われる相撲はある。
しかしそれは我が国の相撲と似た武道であるというだけの話で、神道に基づく神事で行なわ
れているのではない。
角界に入門する者は我が国の相撲の精神を会得しなければならない。しかし、そういった
我が国固有の事情を外国人に理解しろというのは酷だという意見もある。朝青龍はモンゴル
の出身で我が国とは文化も違う地で生まれ育ってきたのだから「横綱の品格」を問う方こそ
おかしいというわけだ。しかしそれならば外国籍の人にも角界に入門する資格を与えた日本
相撲協会の対応を問題にすべきだ。入門させた以上は相撲教習所をはじめとする教育機
関やそれぞれの部屋で責任をもって相撲道の精神を教育すべきであろう。それが十分にな
されないまま単に成績が優秀であるという理由だけで十両→平幕→三役と昇進させたこと
にも問題がある。そして角界の最高位に君臨する地位に朝青龍の昇進を認めた横綱審議
委員会にも責任もあるのではなかろうか。
最近の星取表を見ると外国人力士の多さに驚かずにいられない。しかし久しい以前に露
鵬の大麻吸引の問題も起きて外国人力士の暗い話題に事欠かない。やはり原点に返って
強い日本人力士を育てるのが本筋であろう。
287「疲れが溜らない休日配置を」(9月27日)******************************************
毎年4月下旬から5月上旬にかけての連休である「ゴールデンウィーク」に対して、今年は
耳慣れない言葉である「シルバーウィーク」があった。つい先週がその「シルバーウィーク」
にあたったのだが、これは敬老の日を毎年9月の第3月曜日に定めた関係で今年は敬老
の日が秋分の日に近接したためである。その結果今年は9月19日の土曜日から秋分の日
である23日までが連休となったわけだが、こういう方法で休日を集中させることよりも、私は
むしろ逆に分散させた方が良いのではないかと思う。以下の4点が私案である。
1・毎週土曜日を平日とし、代わりに水曜日を休日とする。
2・毎週日曜日は従来どおり休日とする。
3・年間15日存在する祝祭日はこれまでどおり制定するが、週に2つ以上は設けない。
4・年末年始の休日とお盆の休みを除いて3連休以上にはしない。
一年は週単位にすれば52週となる。一週間は7日なので、52週×7日で364日。原則と
してこれに1日を加えて1年となる。閏年にあたる場合は2日を加えるので、366日で一年と
なる。完全週休2日制度の場合、土曜日と日曜日が休日となるので、52週×2日で104日、
これに年間15日存在する祝祭日を加算するので休日の総和は119日である。したがって
365日から119日を引いた246日が平日となる。実際にはお盆と年末年始にも休日があ
るから、単純に計算すれば240日が平日で120日が休日と考えて良いだろう。比で言えば
2:1だ。つまり3日に1日の割合で休日が入ることになる。現在の暦では月曜日から金曜日
まで5日連続で平日となるので、週末に近づくにつれて疲労度が大きくなる。そこで週の中
央である水曜日を休日にするのである。その代わり土曜日を平日にする。2〜3日出勤すれ
ば1日が休日となる暦にした方が、5日間連続して働かされる現在の暦よりも身体の疲れは
溜らないのではなかろうか。祝日は必ず1つずつ、つまり複数の祝祭日を同一の週に入れ
ずに、それぞれ異なる週の木〜土のどこかに入れるようにすれば良い。連休はせいぜい3
日もあれば充分だ。たまに大型連休が入るより3日以内の連休が時々挟まっている方が身
体はラクだと思う。
この私案では海外旅行や帰省ができないと考える人もいるだろうが、私は何も特定の時
期にみんなが一斉に海外旅行や帰省をする必要はないと思う。各自に与えられた有給休
暇を適宜消化すれば良い。たとえば、ある週の木曜日〜土曜日の3日間を休暇届けを出し
ておく。そうすれば前日の水曜日から5連休ができあがる。つまり火曜日の勤務後に出発
すれば5泊6日の旅もできる。これなら海外旅行にも行けるはずだ。お盆や年末年始の休
業日も各企業ごとに設定すれば良い。何もすべての事業主が一斉に休みにする必要はな
い。もっといえば社員各自が勤務先の事業所で定められた日数分の休みを「お盆休み」
「年末年始休暇」という名目で申請すればよいではないか。たとえばお盆休みなら「7月1日
〜8月31日の62日間に※日とって休むように」という指示を従業員に出しておくのだ。そう
すれば混雑が分散できるから、特定の日に限って航空機や新幹線が満席で他の日はがら
がらという事態は回避できる。USJや東京ディズニーランドといった観光地もその方が良い
だろう。来場者にとっても、客を捌く従業員にとっても、適度な混雑度の方が快適なのは言
うまでもないからだ。
286「鳩山新内閣に望むこと」(9月20日)**********************************************
先月31日に行なわれた衆議院議員選挙で自民党は歴史的ともいえる惨敗を喫し、長らく
続いた自民党の政権から民主党を中心とする連立政権に代わった。16年前に細川政権が
誕生した際に自民党は政権を譲ったが、総選挙で野党が単独過半数の議席を獲得し政権
が交代したのは戦後初めてのことである。それだけ自民党に対して国民の厳しい審判が下
されたことになったわけだが、このことは同時に民主党に対する要求が高いことを示してい
るとも言える。政権交代しても自民党時代と何ら変わらない政治をしたのでは、有権者も遠
からず失望し「誰がやっても日本の政治は良くならない」と評価され、政治に対する関心も失
われ投票率の低下を招く。期待が大きいほど裏切られたときの幻滅は大きいから、鳩山内
閣は目に見える形で現状の社会情勢を良くしなければならない。特に次の3点は早急に取
り組まなければならない課題である。
まず国民全体の生活に関わるテーマとしては不況から脱出させることだ。自殺者の全て
が経済苦ではないことは確かだが、年間3万人を越える人が自殺する状況が10年以上も
続き、毎日日本の鉄道のどこかで人身事故(その大半は自殺)による列車運行障害が発生
しているのは、どう考えても健全とは評価できない。バブル時代の好景気を再現しろとまで
は言わないが、少なくとも雇用情勢だけは改善し誰もが安心して働くことができるような社会
に戻さなければならない。「派遣労働」という形で労働者である「人間」を「簡単に補充・交換
の利く消耗品」と同然に扱い、使用者の必要な期間だけ雇用し不都合になったら直ちに解
雇するのでは、労働者が安定した収入を確保できないばかりか、近い将来に大量の無年金
者・無保険者を生むことになる。
第2に、年金問題・医療保険問題である。舛添前厚生労働大臣が取り組んだ「消えた年金」
問題は最近ニュースで話題にもならないが、じつはいまだに解決されていない。75歳以上を
後期高齢者と区分して75歳未満の人とは制度上分離する政策も、多々問題がある。先ほど
の雇用情勢の悪化や年金制度そのものに対する不信感から、年金を支払えない人や不払い
の者が増えている問題にも取り組まなければならない。さらには厚生年金保険と国民年金保
険との支給額の格差の問題もある。医療保険についても同様だ。患者が支払う医療費の負
担率は昔に比べると上がっているが、負担率を上げれば上げるほど「お金がないから医者に
かかれない」という層を生み出すことになる。選挙期間中に民主党は高速道路料金を完全に
無料化するという公約していたが、そのために必要な財源は1兆3000億円にも上るといわ
れている。そんなお金があるのなら子どもと高齢者の医療費を無料にすることもできるし、高
校教育の無償化や就学援助・児童扶養手当の拡充などで経済的に苦しい世帯の子どもを救
うこともできる。高速道路料金の無料化による経済効果よりも、医療・福祉・教育こそ優先し
なければならない。
第3に、大企業や財界の利害を優先した政治も正さなければならない。第2次世界大戦に
無条件降伏し、焦土と化した国土から今日に至るまでの経済成長を成し遂げてきたのは、あ
る意味大企業ではなくその下請けや孫請けといわれる中小企業である。大企業への法人税
率を97年度の水準に戻すとともに、中小企業への法人税を減税するなど手厚く保護し違法
な「下請け切り」も根絶させなければならない。政党への企業献金も官僚の天下りも例外なく
廃止すべきであるし、「族議員」と言われる議員が暗躍し特定の業界に無駄なお金が流れる
ようなシステムも即刻なくすべきである。さらには各種の審議会のメンバーの構成も見直すべ
きであろう。大企業や財界の利害だけを代弁するようなものであってはならないからだ。長く
続いた自民党時代においてすっかり根付いてしまった政・官・財の癒着を根絶しなければ目
に見えた「変革」にはならない。
どこの国にも「政治家」といわれる「職業」が存在し、古代から現代に至るまで連綿と政治
がなされてきたが、なぜ政治というものが必要なのか、今ここでその原点に帰る必要がある。
政治が必要な理由は、強者の横暴を阻止するためである。もしこの世に「政治」がなければ
間違いなく弱肉強食の社会になるであろう。大企業や資産家といった「強者」は居丈高な態
度になり、やりたい放題にやるだろう。その結果、中小・零細企業や庶民といった「弱者」は
泣き寝入りを強いられることになる。そういった「強者」の横暴から「弱者」を保護するのが政
治の本来の姿である。強者には経済力があるのだから、国家権力による保護が何もなくて
もその時代を生き抜くことができる。一方、弱者にはその活力がないから保護を必要とする
のである。そういう観点で考えると、大企業に優遇するのは本末転倒の政治である。新政権
には弱者を救済するための政治をしてもらいたい。そして多くの市民が「政権交代して社会が
安定した。暮らしが楽になった。」と評価してもらえるようにしなければならない。かつて小泉
政権のとき不良債権処理をするにあたって「国民にも痛みに耐えてもらわなければならない」
と首相自ら言っていたが、その「痛み」にはもう国民は充分過ぎるほど長い期間「耐え」たの
である。もうこれ以上、「痛み」を国民に強いてはならない。
285「クレジットカードの決済時の対応に一言」(9月13日)********************************
店頭で商品を購入する際、現金ではなくクレジットカードで決済する人も多いと思う。現金
を持ち歩かずに済むのは安全面でも有利だ。また、ご利用金額に応じたポイントがつくとい
う利点もある。キャッシング機能もある。使い勝手もいいのだが、短所も当然ある。その中
でも今回はカード決済時における店員の対応について一言したいことがある。
客からカードを受け取った店員は、まず機械にカードを通し決済金額を入力する。その後、
暗証番号の入力を求める店舗もあるが出てきた伝票を提示して客にサインを求める店舗も
ある。前者は最近になって多用されている方式だ。クレジットカードというものが世に出て以
来、長らくカード所有者本人による直筆のサインで確認していた。問題はカードを機械に通
した直後に客にカードを返却し、サインした文字とカード裏面の文字とを照合しない店員が
いることである。カードの裏面には本人の自筆でサインを記入する欄がある。決済する際に
は客がこれと同じサインをすることで、店員はカード所有者本人が利用していることを確認
する。逆に言えばサインの照合が本人確認の唯一の手段なのである。ところが、サインさ
せる前にカードを客に返してしまうと、果たしてカード所有者本人がサインしたものか否かを
確かめることができない。盗み出したカードを悪用している場合もありうるのだから、そうし
た犯罪も想定して対応すべきである。
暗証番号で本人確認を行なう店舗なら問題はないかというとそうではない。この場合は店
員は手のひらサイズの端末を客に渡して入力させるのだか、入力の瞬間を盗撮される恐れ
があるからだ。久しい以前に銀行のATMに盗撮用のカメラが据えつけられていたことがあ
ったが、店頭での暗証番号でもこれと同様のことが起こる恐れがある。盗撮機材がレジの
近辺にないか。また暗証番号の入力時に不審な動きをしている人が付近にいないか。店員
はそういうことに対して神経をとがらせる必要がある。しかし、ただじっとしていたり、他の業
務をしながら客の入力を待っている店員も多い。
これらの問題が改善されないと、カードを利用する側としては安心できない。いずれは本
人確認の方法に生体認証方式が導入されるのであろうが、全ての店舗に普及するのはま
だ先の話である。それまでは現行の方法でカードの不正利用を阻止しなければならない。
特に店員の対応で改善できることは、今すぐにでも取り組めば効果が出る。警察は各店舗
に対して早急に指導してもらいたい。
284「勤務医の恐るべき勤務環境」(9月 7日)*****************************************
9月3日付け朝日新聞朝刊に恐るべきアンケート結果が掲載されていた。それは日本医
師会が勤務医を対象に実施した、勤務環境と本人の心の健康状態に関するアンケートで
ある。以下、新聞の記事を原文のまま紹介する。
寝つきの悪さや、食欲の有無、集中力の低下など、精神的な疲れをみる16項目の
回答を点数化した。その結果、9%が中程度以上の深刻な状態にあり、メンタルヘル
スの支援が必要と判定された。5%は1週間に何回も数分以上、自殺や死を考えてい
た。1%は「具体的な計画を立てたり、実際に死のうとしたりした」という。
1ヶ月の休日は4日以下が46%。8日以上は男性が18%、女性で32%。病院の規
模が大きいほど睡眠時間が短く休日も少ない傾向だった。
53%は、自分の体調不良を「他人に相談しない」と答えた。理由として、「自分で対
応できる」という自信や、「同僚に知られたくない」「自分が弱いと思われそう」と、孤立
しがちな状況もうかがわせた。また、医師の半数は、半年以内に1回以上、患者から
不当なクレームを受けているとも答えた。
この記事からは、いかに勤務医が劣悪な職場環境に置かれているかがわかる。休日が
1ヶ月に4日以下ということは週1日の休日すら取れていないということを意味する。労働
契約上はもっと有給休暇があるはずだが、実際はほとんど取れず、まさに「絵に書いた餅」
と化しているのである。また、せっかく取れた休日でも急な患者が入ったり同僚と勤務を交
代させられたりして潰されることも少なくないという話を聞いたこともある。病院は24時間
365日休みのない職場であるから、たとえ非番の日であっても患者の容態によっては病
院からいつ呼び出されるかわからないという。また、医師自身の体調が悪くても他の医師
に相談しないというのも、正確に言えば「相談できない」のであろう。自分の頭の上のハエ
も追えないようでは、医師としてのプライドが許さないという心理もあるに違いない。仮に誰
かに相談したいと思っても、同僚もみな多忙を極めていて各自の業務で手一杯なので、と
てもゆっくり相談にのってもらえる状況ではないのであろう。
ここまで勤務医が深刻な精神状態に追い込まれている原因ははっきりしている。一言で
言えば人員不足なのだ。これはなにも医療に限ったことではない。看護も介護も、医療事
務担当の職員も含めて、現場の人員は最小限になってしまっている。しかし、医師にしろ
看護士にしろ、人命を預かる立場にある。ここが他の職業とは違う点だ。学校の教員が授
業中に間違えたことを教えてしまっても次の日に訂正すれば済む。商店の店員が客にお釣
りを多く渡してしまっても金銭的な損を被るだけで済む。しかし医師が間違った医療行為を
してしまったら取り返しがつかない結果になる恐れがあるのだ。個々の勤務医が自らの知
識と技量を十二分に発揮できるような職場環境を提供することは勤務医を雇用する側の職
責であると思う。特に勤務医は職場の上司・同僚のみならず患者やその家族との人間関係
にも悩まされる職業であるから、少なくとも労働時間ぐらいは労働基準法に抵触しないよう
にしなければならない。そして入院患者の主治医は複数人にして休日はプライベートな時間
が確保されていなければならない。携帯電話で呼び出されて病院に戻らなければならない
ような状況では「休暇を取っている」とは言えない。また看護士も含めて医療従事者はただ
でさえ夜勤で生活が不規則になりがちなのであるから、職員の健康状態をより悪化させる
ような労働を強いることはあってはならないはずだ。そのためには増員することが急務であ
る。たとえ一人当たりの年収を減らしてでも職員の増員はすべきである。一人当たりの年収
を半額に下げれば職員の数を現在の2倍に増やすことができる。半額は現実的ではないに
しても、2/3に落とせばば1.5倍の増員ができる。そうすれば約半数の勤務医が「週4日
以下しか休日が取れない」ということにはならないはずだ。ましてや週に何度も自殺を考え
なければならないほど心が疲弊していることなど論外である。いくら高級車を買うほどの年
収があっても、こんな勤務環境では話にならない。
このアンケート結果は、いつ患者になるかもしれない生身の我々にとってじつに恐ろしい
ことである。実際に病院を訪れた場合、ほぼ1/10の確率で深刻な心の疲労を抱えた医
師の診察を受ける恐れがあるということだからである。当然、そんな医師にかかれば医療
ミスによる事故に遭うリスクも高まる。最悪の場合は自分や家族がその犠牲者となるかも
しれない。そんな勤務医の診察など受けたくないに決まっているが、誰が心を病んでいるか
はわからないから、患者の立場からしたらどうすることもできない。最善の医療を受けたに
もかかわらず病気や怪我が重くて助からないのは仕方がない。しかし、医師の職場環境が
劣悪なために患者の命が犠牲になるのでは被害者も浮かばれない。折りしも自民党から
民主党に政権交代となったが、新政権にはこういった現場の声にもっと耳を傾けた施策を
期待したい。
菅ちゃんからの返信です.....
私も「ワークシェアリング」という言葉は好きではありません。「仕事の質と量に見
合った給料が確保されるべき」というご意見も当然のことと思います。使用者は人
員を削減せず、労働の対価に見合う報酬を支払うのが筋です。しかし、個人病院
にしろ公立の病院にしろ、職員の人件費に充当できる金額が以前より減ってしま
っているのが現状です。従前の給与を確保するためには人員を削減するしかあり
ません。たとえば職員が30人で人件費の総額が900あったのが今までとしましょ
う。一人当たりの給与は30になります。しかし人件費の総額が600に減った現在
は、職員を20人に減じて30の給与を確保する。これが今までのやり方です。しか
し患者の数は以前と変わりません。2/3に減ったわけではありませんから、病院
全体の業務量は同じです。したがって退職した10人の分は残りの20人が負担し
なければなりません。つまり一人当たり1.5倍の労働を強いられることになります。
病院でこういうことをすれば当然夜勤や準夜勤の当直回数が増え、職員の労働を
過重なものにするだろうということは想像に難くありません。そういうことをして9%
もの勤務医がメンタルヘルスの支援が必要なほどの深刻な状態に陥るのなら30
人の職員はそのままにして600を分配した方がまだマシだと思います。(私も「最
善」とは言いません。あくまでも次善の策です。)給与は20に減りますが、少なくと
も労働時間が増えたりして勤務環境が苛酷なものになることはありません。心身
の健康を蝕まれて注意力が散漫になり医療事故を招く恐れに関しては、現状より
は低くなるのではないでしょうか。つまりそれだけ患者は安心して医師にかかるこ
とができるだろうというのが今回の主張です。
283「現行の衆議院議員選挙制度に関して一言」(9月 3日)******************************
前回に引き続き今回も衆議院議員総選挙に関連する事柄を取り上げたい。今回は現行
の選挙制度に関する問題点である。かつては中選挙区制度であった。1つの選挙区から
5〜10名程度が立候補し得票数の上位3〜5名程度が当選するシステムである。この制
度の良い点は複数の候補者が当選するため死票を少なくすることができる点である。した
がって社会党を筆頭に野党各党もそれなりに議席を獲得することができた。ただ1つの選
挙区が広大になるため選挙資金がかかることが難点であった。そこで現在は全国の選挙
区を300に細分化し、小選挙区制になった。1つの選挙区から得票数が最高となった者1
名だけが当選するシステムである。しかしこの制度では次点以下の票が議席に全く反映さ
れないのが欠点である。複数の対抗馬が擁立したために票割れすると、場合によっては有
効票の40%も占めていない候補者が最高得票数を獲得する可能性もある。そこで衆議院
議員の定数480のうち37.5%にあたる180議席に関しては支持政党名を記入し、その
得票数に応じて議席を配分する拘束名簿式比例代表制とした。これによって少数意見もあ
る程度議席に反映させることができるという仕組みである。これでそれぞれの制度の難点
はある程度解消されたように見えるが、まだまだ解決すべき課題が残っているように思う。
第1の問題は選挙区選挙で立候補した者が比例区の名簿に名を連ねることができる点
である。したがって選挙区選挙で落選した候補者が比例区で復活当選してしまう現象が起
こり得る。これはいかがなものか。選挙区選挙において落選という結果になるのは、言うま
でもなく当該選挙区の有権者がその候補者に対して不信任の審判を下したからである。そ
んな人物が比例区に当選し国会議員として登院するのでは、当該選挙区の有権者の意志
をふみにじる行為になりはしないだろうか。やはり、選挙区選挙に出馬した者は比例区選
挙の名簿には絶対に登載できない規則にするべきであろう。たとえその政党にとって重要
な人物だとしても、土地の有権者が不信任と審判した人が当選するのでは筋が通らないし、
比例区の名簿に登載されていない候補者で選挙区選挙に立候補して落選した者に対して
不平等である。どうしても当該政党にとって不可欠な人物なら比例区の名簿のトップに登載
すれば良い。そうすれば自動的に当選できるのだから選挙区選挙で多額の資金を浪費す
ることもなくなる。また、選挙区選挙で立候補した者が比例区の名簿に名を連ねることがで
きるため、今回のように選挙区制度で圧勝した民主党は比例区において一部のブロックで
候補者が不足し本来民主党が獲得する権利を有する議席が他党に流れる現象も無視でき
ない。このような議席の譲渡も有権者の意志をふみにじっている。
第2の問題点は自分の支持政党の候補者名を選挙区選挙に記入できない恐れが生じる
点である。中選挙区制度であった当時は自民・社会・民社・公明・共産の各党がすべての
選挙区に候補者を擁立していた。だから結果として落選したため死票になるか否かはとも
かく、少なくとも有権者は各自の支持政党の候補者に投票することができた。ところが現行
の制度では勝算のない選挙区では初めから候補者の擁立を見送ることになる。したがって
たとえば支持政党が公明党の有権者の場合、比例区で「公明党」と書きながらも選挙区選
挙では自民党の候補者名を書くことになる。これなどはまだ解散前の時点では連立政権与
党であったからさほどの抵抗はないが、支持政党が日本共産党の有権者だとどういうこと
になるか。比例区では「共産党」と書きながら、選挙区選挙では決して連立政権として与す
ることのない民主党の候補者名を書かなければならない事態が生じる。いくら自公政権を
退場させるためとはいえ、他党の候補者に一票を投じるのは相当な違和感があるはずで
ある。これは小選挙区制度である限りは決して解決されることのない課題であろう。
第3の問題は同一候補者が総選挙の都度選挙区を自由に鞍替えすることができるシス
テムになっていることである。前回出馬した選挙区から別の選挙区からでも、その土地とは
何の縁もゆかりもない選挙区からでも、出馬することができる。だから初当選した当時は愛
知から出たかと思ったら前回は岩手から出たり今回は福岡から出たりと神出鬼没になるの
である。これもいかがなものかと思う。代議士の選挙というものは基本的に自分の利害を代
弁してくれる人物を代表として国会に送り出すものである。この原理に照らせば、自分を育
ててくれた出身地や現住所のある選挙区、ないしは自分が多大な貢献をして有権者から厚
く支持されている土地の選挙区から出馬するのが普通だろう。選挙の都度、ころころと立候
補する選挙区を変更する行為は禁止してもらいたい。
282「選挙公約だけで終らせるな」(8月30日)******************************************
今日は衆議院議員総選挙の投票日である。この2週間近くはどこの駅も候補者や各党代
表による街頭演説、選挙カーでの連呼で賑やかだった。「高校教育の無償化」「高速道路の
無料化」「道州制の導入」「完了の天下りを全面禁止」「税金の無駄を根絶」「消費税の増税
を凍結」などと、どの政党も選挙公約を掲げ有権者の支持を集めようとしていた。それぞれ
の公約内容の是非については言及するつもりはない。私が言いたいのは、公約が単なる口
約束では何もならないということである。選挙期間中だけ有権者のウケを狙うような言辞を
並べ、政権を取った後に手のひらを返すような態度に出て見事に有権者を裏切ったことも過
去に何度かあった。だから今度の総選挙にしても「こんな公約を本当に実現できるのか」と
懐疑的にならざるを得ない。
私がいつも思うのは国会が召集され新内閣が発足した直後に行なわれる首相の所信表
明演説が全く心に響かないことである。歴代の首相のそれも「官僚の作成した原稿を読ん
でいるだけ」といった印象を拭えなかった。政治家自身の言葉や主張というものがまるでな
い。だから感情もこもっていないし聞く側に対して心に訴えるものがないのである。選挙期
間中はあれだけ気持ちをこめた言葉で演説できるのに、組閣後の所信表明はいったい何
なのだろうと思われてならない。この国は官僚が政治をしているのであって、政治家は官僚
の言いなりになっているのだとすると、何のために480人もの衆議院議員を選出し何のた
めに国務大臣を任命しているのだろうと思ってしまう。街頭の有権者に対するインタビュー
でも「私は投票には行かない。どの党が政権をとろうがどうせ何も変わりやしない」と冷めた
見方をしていた人がいた。そういう意見が出てくる一因は官僚主導の政治でしかないから
でもある。選挙公約がいくら立派でも当選後の所信表明演説が官僚の作文では何もならな
い。
選挙公約だけなら何とでも言うことができる。問題は当選後に政治家自身が官僚の力を
封じるだけの政治力を発揮して有権者の望む公約をきちっと実現できるかである。現状で
は「俺がこのどん底から日本を救ってみせる!」と胸を張って所信表明のできそうな人がい
ない。「官僚主導ではなく政治家主導の政治への転換を」と言われて久しいが、それには誰
の原稿も見ずに自分の言葉で所信表明をすることから始めなければならない。そして財務
省の力を借りずに自分で予算案を作り、それを官僚に従わせることだ。そのくらいのことが
できないと政治家主導の政治にはならないし選挙公約も単なるリップサービスに堕してしま
う。
281「夏の高校野球の代表校数は49で公平か」(8月26日)******************************
今年の夏も全国高校野球選手権大会が行われ、無事に全日程を終え24日閉幕した。今
大会、見事に日本一の座を射止めたのは愛知県代表の中京大中京高校であった。惜しくも
準優勝になってしまった新潟県代表の日本文理高校も9回の土壇場で5点を取って1点差
に詰め寄るなど、今大会の決勝戦はまさに歴史に残る打撃戦であった。毎年この甲子園で
熱戦が繰り広げられ、お茶の間で観戦しているファンにも勇気と感動を与えてくれるのだが、
一つだけ注文したいことがある。それは出場できる代表校の数だ。
夏の大会は全国から49の代表校が選出される。決勝となる試合の開始前は当然2校だ
けが残ることになる。ここから時間を逆に辿れば準決勝の時点で4校、準々決勝の時点で
8校、3回戦の時点で16校、2回戦の時点で32校が出揃うことになる。全ての学校が1回
戦から戦うとすると開会式の時点で64校が出場していなければならない。トーナメント戦と
いうものは2の累乗でないと数が合わないからである。しかし甲子園に出場できるのは49
校である。1回戦から出場しているのは34校だが、あとの15校は2回戦からの出場となっ
ている。後者となった代表校はそれまでの戦績を高く評価されシード権が与えられているの
なら1回戦免除の特典も納得できる。しかし、実際はそうではない。初戦の対戦相手を決め
る組み合わせ抽選会は全校ともくじ引きで臨むから1回戦が免除されるか否かはくじを引い
てみるまではわからないのである。これで15/49の確率で5試合に勝てば優勝できるので
は公平さを欠くのではなかろうか。それぞれの都道府県大会を制して甲子園の切符を手に
することも大変だが、甲子園で1つ勝つことはさらに大変なことである。やはり全ての代表
校が同じ数を戦って日本一に輝くことができるよう代表校数を64にしてほしいものである。
そうすれば全てのチームが6試合に勝って優勝することができる。
280「整備新幹線は地元のためになるのか」(8月25日)**********************************
奥羽本線を青森へ向かって乗ると、青森に着く5分前に新青森という駅を過ぎる。一日上
下合わせて30本程度の普通列車しか発着しない小駅だが、今夏北海道への往路にここを
通り過ぎたときは、以前見た光景との違いに唖然とした。それは細々と伸びる奥羽線の真
上を立派な橋脚と建造物が直行していたからである。現在青森県の八戸まで開通している
東北新幹線が来年県都の青森まで延伸するのだが、それがこの新青森駅である。東北新
幹線は最終的には北海道都札幌までの開業を予定しているので青函トンネルに最短距離
で接続できるようここに駅が設置されたのであるが、周りは山の中といってもいいような場
所でコンビニエンスストア一軒も見あたらない。何も事情を知らない人が見たら、「こんなと
ころに新幹線の駅を作ってどうしようというのか」と思わずにはいられないような場所である。
本来なら現在の青森駅に追設する形で新幹線のホームを建設するべきである。そうすれ
ば在来線との乗り換えも容易であるし、何よりも現在の青森駅前に広がる繁華街もますま
す潤う。八戸も長野も鹿児島中央も、最近開業した新幹線の駅はどれも在来線の駅に併
設される形になっている。しかし青森は異なる。現在の駅から4kmも離れた場所にできて
いる。東海道新幹線の新横浜駅が在来線の横浜駅から7kmも離れた場所にできた前例
があるから、それよりはマシだが、それでも不便な場所にできたことは否めない。この東北
新幹線の延伸部分には青森・函館・八雲・長万部・倶知安・小樽・札幌に駅を設置すること
が計画されている。しかし、在来線に併設する形で駅ができるのは長万部・倶知安・札幌だ
けである。他は離れた場所に建設されることになっていて仮称の駅名も「新函館」「新小樽」
などと「新」を冠している。地形上の問題で東京〜札幌をできるだけ短時間で結び航空機と
の競争に参入するためには致し方ないのであるが、問題は新幹線が開業した後の在来線
とその街が衰退することだ。
新幹線が開業したもののあまりにも不便な場所なので乗降客がほんどいないという事態
になるのも問題だが、逆に新幹線の駅の方に都市機能が移転し在来線の駅に広がってい
た繁華街がすっかり寂れてしまうのはさらに問題である。新幹線が開業しても地元の人に
とって利用頻度の高い公共交通機関はあくまでも在来線だからである。新幹線は毎日利用
する乗り物ではない。一方在来線は今後も利便性の高い公共交通機関として機能しなけれ
ばならないのだが、現実はそうはならない。東北新幹線が開通すると在来線を走る特急列
車も寝台特急も廃止されるから現在の青森駅には野辺地(東北本線)・弘前(奥羽本線)・
蟹田(津軽線)の3方向に2〜3両編成の普通列車がのんびりと発着するだけの駅になって
しまう恐れが高い。首都圏に本社があって青森に支店をおく各企業も新青森駅から至近の
場所に支店を移転するようになると、次第に商店なども移転するようになるだろう。行政機
能は従来の青森に残っても経済の中心が新青森に取って代わり、青森の街そのものが相
対的に地盤沈下する。あとは毎年夏に行なわれるねぶた祭りで賑わうだけになるが、それ
もあまり期待できない。理由は新幹線が開業するとねぶた祭りの観光客も日帰りが可能に
なるからだ。したがって観光客の絶対数は増えるものの青森の街に入るお金は現状以上
に少なくなると懸念されている。
新幹線が開通すると平行する在来線がJRから切り離されてしまうのも問題だ。東北新幹
線が盛岡から八戸まで開業したとき、それまでJR東日本が経営していた東北本線は岩手
県側になる盛岡〜目時がIGRいわて銀河鉄道の経営に、青森県側になる目時〜八戸は
青い森鉄道の経営にそれぞれ移譲された。開業当初、JR時代よりも列車の本数を少しば
かり増やして利便性を高めたのだが、それでも両社とも利用実績は伸び悩み開業前の予
想を大きく下回ってしまった。盛岡〜八戸はもともと人口の少ない地域を結んでいるうえ、昨
今は少子高齢化社会で鉄道の主たる利用者である中学生・高校生の絶対数が減っている
からなおさらである。私も何度か利用したことがあるが、立席もそれなりに出て比較的混雑
しているのは盛岡に着く手前の数駅程度で、あとは2両編成でも15人程度の乗客でしかな
かった。結局、列車本数を削減したりJR時代よりも運賃を値上げせざるを得なくなるのだが、
そうすると乗客離れに拍車がかかり、ますます経常収支は悪化する。盛岡〜八戸で途中駅
は22あるが、二戸・いわて沼宮内以外の駅はすべて新幹線の恩恵を受けない。かつては
特急も停車していた好摩・一戸・三戸も今では2両編成の普通列車だけが発着する小駅に
転落してしまった。現在JR東日本が経営している八戸〜青森も新幹線の開業後は盛岡〜
八戸と同様な状況になるから今は特急が停車していても新幹線の恩恵を受けなくなった途
端に乗降客も減って街も衰退してしまう。
こういう実情を考えると新幹線の開業による負の側面は無視できないものがある。「全国
津々浦々に新幹線・空港・高速道路の3点セットを完備し、地方に住んでも東京と短時間で
結べるようにしよう」というと聞こえはいいが、本当に必要なのかを考え直さなければならな
い時期にきているのではないだろうか。今夏青森で見たねぶたの中には「2010年東北新
幹線開通」と大書したものもあった。まるでそれが青森県民の長年の悲願であるかのよう
に誇らしげに飾り立てられていたが、青森から東京へ3時間余りで行けるようになったから
といって、青森県民の日常生活が一変するわけではない。勤務先が東京になるわけでもな
いし所得が倍増するわけでもないからだ。大多数の県民にとっては、新幹線が開業しようが
しまいが何も変わらない。むしろ在来線が廃れることで生活環境が悪くなる恐れの方が高い。
ねぶた祭りの会場で見物していたときに「ここには新幹線なんか要らね」という地元の方々
の声を聞くにつけ、私はいったい誰のために開業するのかと考えさせられてしまった。
279「エコカー推進政策はエコとは言えない」(8月23日)*********************************
今、トヨタやニッサンなどクルマのディーラーにはエコカーに関する看板・ポスター・のぼり
が目立つ。2009年度補正予算で盛り込まれたエコカー購入補助金制度の受付が始まっ
たからだ。既に実施されているエコカー減税とともに「今、エコカーを購入すれば得をする」
と宣伝し、何としてでもエコカーに買い換えさせようとして躍起になっている。この制度の影
響で200万円もするプリウスに注文が殺到し、納車が今年度中に間に合わないという有様
である。麻生太郎首相は「厳しい経済情勢下、環境性能に優れた自動車に思い切った減
税を講じる」と述べ、その趣旨を説明した。一見すると国をあげて地球環境に取り組む素晴
らしい政策のようだが、内実はむしろ逆である。
第1に、燃費値と減税率とが比例していないことである。燃費値とは燃料1リットルあたり
の走行距離を示される値である。数値が大きいほど燃費が優れている経済的なクルマと解
釈できる。一方、エコカー減税とは国土交通省が定めた排気ガスと燃費の基準値を満たし
たクルマの自動車重量税や自動車取得税を50%〜100%減税する制度である。というこ
とは車両重量が軽く燃費値の高いクルマほど減税率が高くなければ理屈に合わない。とこ
ろが燃費値24.5kmのアルトが減税率50%であるのに対し、燃費値12.2kmしかないレ
クサスは減税率100%になっている。エスティマに至っては後から取り付けた音響装置や
サンルーフで車体重量が増えて燃費値が12.4kmから11.8kmに悪化するにもかかわ
らず、減税率は50%から75%に高くなっている。国土交通省は9段階に分けた車体重量
ごとに燃費基準を設定したのだが、車体重量の重いクルマほど燃費基準を甘くしたため、
結果的には車体重量が重く排気量が多いクルマほど減税率が高くなっている。だからバス
やトラックなど、誰が見ても車両重量が重く燃費も悪いと想像できるような大型車にも減税
対象車が堂々とラインナップされている。また、カローラなど人気のある車種は車両重量に
関係なく減税対象車になっていたり、車両重量が重くてもハイブリッドシステム搭載車だとい
うだけで減税対象車になっている。その一方で軽自動車なのに対象外になっている車種も
少なくない。
第2に、エコカーへの買い換えが進むほどクルマの総量が増えてしまい排気ガスは減少し
ないという点である。理由は、エコカーを購入するユーザーの全てが、それまでのクルマを
13年以上使用して廃車にするわけではないからだ。今買い換えないと――つまり2009年
3月中にエコカーの納車が間に合わないと―― 「減税+補助金」の特典を享受できないの
だから、まだまだ乗れる非エコカーを買い換えるケースの方が圧倒的に多いはずだ。その
場合はエコカー購入希望者が手放した非エコカーは当然中古市場に出回ることになる。景
気がすっかり冷え込んでしまっている現在は、いくら補助金制度があって減税されようが「と
てもエコカーを購入できない」という経済事情が苦しい人々の方が圧倒的に多いのが現実
であろう。買い替えによって非エコカーが中古市場に増えれば需要と供給との関係で当然
非エコカーの価格は下落する。エコカーどころかもともとクルマを購入・所持できない経済事
情に置かれた人にとっては安価な中古の非エコカーを購入して乗り回すことができるように
なる。こうして結果的には国内を走行する自動車の総量が増えるだけである。CO2の削減
にはつながらないのである。
第3に、プリウスなどのハイブリッドカーの場合は、インバータや駆動用のバッテリーは車
両やエンジン本体の寿命よりも短い期間で交換を要することになる点だ。これは、クルマが
走行することで発生する熱や電圧、さらには充電や放電によって当然インバータもバッテリ
ーも劣化・消耗するからである。こうしたハイブリッドシステムの部品は当然廃棄処分になる
のだが、その際に生じる有害物質の排出量は、従来のガソリン車よりも明らかに多いと専
門家から指摘されている。結局、納車から廃車後までのトータルで見た場合、排気ガスも
含めた有害物質の総量は従来のクルマと五十歩百歩である。これで「地球環境に優しいク
ルマ」と宣伝するのは矛盾している。
最後に、現在実施しているエコカー減税や補助金制度のつけは、近い将来全ての国民に
回ってくるということである。政府は2009年度予算に環境対応車普及促進税制(いわゆエ
コカー減税制度)として2100億円、さらに同年度の補正予算にエコカー購入補助金制度と
して3700億円を盛り込んだのだが、これらはいずれも高速道路料金の「1000円乗り放題
制度」と同じく、すべて国民からの借金で賄っているからだ。ということはいずれは赤字分を
補填させられることになる。それもエコカーを購入した人や高速道路を利用している受益者
のみによる負担ではない。消費税率や基礎控除額などを改悪されることで、エコカーや高速
道路とは無縁の国民も負担させられることなる。本来なら公共交通機関や自転車の利用者
にこそ補助金を出し、所得税や県市民税の減税・免税をするのが筋であろう。同じ排気ガス
を出す車両であっても大型の路線バスなら一台で70人は乗れる。ほとんどのクルマは5人
乗りでも1人しか乗っていないのだから、単純に計算すれば1台のバスで69台分ものクルマ
を減らすことができるのだ。市街地などではそれだけ渋滞が緩和されることになるし、排気ガ
スの総量もぐっと減る。ところが現状ではがらがの路線バスがマイカーで渋滞した道路を走
らされている。路線バスの利用者は本数が少なくなったりバスが定刻に来なくなったりといっ
た不便な状況にもかかわらず利用しつづけ地球環境に貢献しているのだが、それにもかか
わらずエコカー推進政策や高速道路料金のつけを支払わさせられるのだ。これほど人をバ
カにした政策はない。
結論として、現状のエコカー推進政策では何らエコになっていない。そもそもエコカー以前
に、地球温暖化問題がこれだけ声高に叫ばれているこの期に及んで、国民に対して新たに
クルマを購入させようとしていることこそエコとは逆行している。我が国のCO2総排出量の
20%をクルマが占めているという現実を考えれば、公共交通機関が衰退してしまった地方
を中心に公共交通機関を充実させ、それまでのクルマ利用からシフトさせて一台でも多くの
クルマを減らすことこそ緊急に取り組むべきエコ政策である。その意味では高速道路料金
「1000円乗り放題制度」も、わざわざ渋滞を招き排気ガスを増加させただけで、愚策の最
たるものであった。これでは目先の衆議院議員総選挙における国民へのご機嫌取りでしか
ないと言われても仕方あるまい。それもクルマの運転免許を持っている人でなおかつクルマ
を所有できる、いわゆる「交通強者」に対するご機嫌取りだ。国民の全てが「交通強者」なら
それでも結構だろう。だが、現実には運転能力のない高齢者や障害者、さらには運転免許
の取得を禁じられている18歳未満の人などの「交通弱者」も確実に存在するのである。本
来弱者を救済するために存在するのが政治のあり方であるにもかかわらず、彼らに対する
政府の配慮といったものが微塵も感じられない。
「ゴミを出す際は分別して資源回収に努めろ」だの「冷房の温度を28℃に設定しろ」だの
「スーパーに行くときは買い物袋を持参してレジ袋を受け取るな」などと、日頃から市民にも
事業者にもエコに取り組むよう政府は協力させているが、その一方で排気ガスをわざわざ
増加させるようなことをしているのでは何にもならない。本当にエコを推進する気があるの
なら、エコカー・非エコカーの別を問わず、クルマそのものを買わせないように高額の自動
車税・自動車取得税を課すべきである。そして高速道路料金を「上限1000円乗り放題」に
するくらいなら、新幹線や航空機、高速バスといった公共交通機関の運賃・料金こそ「上限
1000円乗り放題」にするべきである。こうして国民に少しでもクルマを購入・利用させない
ようにすること、購入させるにしても車両重量が軽く燃費の優れた小型車ほど減税する。こ
れがエコのあり方だ。
278「ハイブリッドカーは問題ばかり」(8月22日)****************************************
地球環境に優しいクルマということで、最近はハイブリッドカーがもてはやされている。ガソ
リンスタンドで燃料を補給するだけで電気自動車のもつ長所を受けることができる。低速域
ではモーターの動力だけで駆動できるので効率的に発進・加速が可能である。減速時も運
動エネルギーをモーターで発電して回収できる回生ブレーキを使うことができる。このため
CO2排出量を大幅に減らし燃費を抑えることができるというのが売り文句になっている。だ
からエコカーと言われているのだが本当にいいことずくめかというとそうではない。特に、次
の4点は問題である。
第1に低速域での走行音が非常に小さいことである。理由は低速時はエンジンが停止し
モーターによる走行となるからだ。交通量の多い道路の沿道に住む住民にとっては日々騒
音に悩まされているだろうから、静かな走行音を歓迎するかもしれない。しかしクルマに関
して言うと、音がしないということは非常に危険なことである。聴力の劣る人はもちろんだが、
音だけを頼りに行動する視覚障害者にとっては最も危険である。特に昼間の住宅地ではお
年寄りの方々も視覚障害者も出歩いている。低速走行だから死亡事故を招く恐れは低いが、
音のしないクルマが走ることが危険であることには変わりがない。ドライバーの立場からみ
ればそれだけ交通事故の加害者となるリスクを負うことになる。
第2に、何らかの理由でハイブリッドカーが事故を起こした場合、感電する恐れがあること
だ。メーカーは事故を起こしたクルマに触れる場合はサービスプラグを抜くことを推奨してい
るが、その際に感電する危険もゼロではない。自分で救助する際は絶縁物で絶縁するなり
して適切な処置をしてから行なう必要がある。しかし基本的に専門的知識を持った人が救
助に当たらなければならないとなると、当事者としてはレスキューが来るまで待つしかない。
それだけ救助が遅れることになるから助かるはずの命も助からなくなることにもなりかねな
い。
第3に、インバータや駆動用のバッテリーは車両やエンジン本体の寿命よりも短い期間で
交換を要することになる点だ。これは、クルマが走行することで発生する熱や電圧、さらに
は充電や放電によって当然インバータもバッテリーも劣化・消耗するからである。つまり、タ
イヤと同じく消耗品なのであるが、問題はインバータやバッテリーの交換にはかなりの金額
がかかることだ。しかも、これらハイブリッド部品の寿命に対する設定やメーカーの保証につ
いてはメーカー側の体制が確立されていない。したがって交換が必要になった場合ユーザ
ーの自己負担になるのかメーカーによる無償交換となるのかも決まっていない。ちなみに、
たとえば初代のプリウスでこれらを有償で交換した場合、インバータで40万、バッテリーで
11万程度の出費になる。メーカーは5年または走行距離100000kmの保証期間を設定
しているが、5年経過した時点で有償交換となるのではユーザーにとっては痛い出費となる。
最後に、ハイブリッド車が従来のクルマに比べて燃費の面で優っているのは、加速・減速・
停止を頻繁に繰り返す走り方、つまり都市部の渋滞しがちな市街地での走行に限られると
いうことだ。坂道が連続する山間部や、エンジン停止があり得ない高速道路などでは燃費
は伸びないのである。上り坂が長く続けば、使い切った後のバッテリーやモーターは余分な
積載物となって車両重量を増してしまう。さらに補充電のためにガソリンを消費するから結
果的には従来のガソリン車よりも燃費が悪くなる。逆に下り坂ではバッテリーの保護のため
に充電の率も量も抑制され、完全に充電されている場合だと回生が失効しエンジンブレーキ
の比重が高まる。ガソリンエンジンの効率が悪いのはアイドリング時や低速走行時の低回
転域だけであるから、地方在住者で信号による停止や渋滞がほとんどない道路ばかりを走
るような使い方では、高価なハイブリッドカーに買い換える意味がない。それにもかかわらず
大都市・地方都市を問わず全国各地でハイブリッドカーを宣伝し販売している。
ハイブリッドシステムは停止と発進とを頻繁に繰り返したり低速走行をする限りでは燃費の
面で高い経済性を発揮するものの、車両本体の価格が高くつくため燃費で購入価格を相殺
するまでには相当な距離を走らなければならない。市街地を走る路線バスなら車両は終日
稼動するからすぐに相殺できるだろうが、一般のユーザーは一日中クルマを運転しているわ
けではない。平日に20〜30kmの距離を通勤し、休日にときどき200〜300km程度の距
離をドライブする程度ではとても届かないだろう。エコカーの減税と補助金制度の導入でトヨ
タのプリウスに至っては今年度中の納車が間に合わないほどの人気ぶりだが、果たしてど
れだけのユーザーが購入価格を燃費で相殺できるかは疑問だ。単なる見栄で高価なクル
マを購入するのだとしたらじつに不毛な話である。
277「地方の商店街にこそ活気を」(8月19日)******************************************
今月上旬、私は北海道へ旅行した。乗り換え時間が長かったので苫小牧と滝川では一度
改札口を出て駅付近をぶらぶらと散歩したのだが、駅前の大規模小売店が閑散としていた。
店に客がいなかったという意味だけではない。10年前に訪れたときははほぼ全てのテナン
トが入居していたのに、今夏は過半数のテナントが空いていたのである。その影響で開店し
ているお店にも客がまばらで見ていて気の毒でならなかった。苫小牧は室蘭本線の、滝川
は函館本線の途中駅だが、いずれも全ての特急列車が停車する主要駅で駅名は市の名
前にもなっている。苫小牧市の人口は17万人余り、滝川市は4万人余り。滝川はともかく苫
小牧は地方の小都市として決して少ない部類ではない。それにもかかわらず、寂れ方は一
通りではなかった。
全国各地へ旅行すると、経済格差や不況の影響は地方の小都市ほど著しいことが目で見
て実感できる。どこの駅にも駅前から歩道つきの道路が延びていて、個人商店が軒を連ね
るという光景が見られるのは今も昔も同じだ。商店街の歩道の部分には雨に濡れないよう
屋根がついていて、夜は照明が点るようになっている。しかし、今は肝心の商店はシャッター
が下りているところが少なくない。屋根にしてもぼろぼろに朽ち果てているところもある。照明
にしても蛍光灯が暗い。たぶん商店街ができた当時から何十年もの間、手入れひとつなされ
ていないのであろう。屋根にしろ照明にしろ改築すれば立派なものに生まれ変わるはずだが、
そんな予算は商店街全体にないからやりたくてもできないのである。そんな商店街だから歩
いている人もまばらである。そのまばらな通行人も個々の商店に用事があって歩いている人
はさらに少ない。大多数は店先をそそくさと通過し駅への通路としてしか利用していないので
ある。そんな中、屋根の上からは流れている音楽や商店街の宣伝が間断なく聞こえてくるの
だが、シャッターの下りた閑散とした商店街なだけに、なんとも虚しく聞こえてくる。
ある程度人口があると苫小牧駅前のように大規模小売店形式のビルが建っている。しかし、
かつては華々しく開店しても売り上げが下がりテナント料金が支払えなくなると撤退するしか
ない。大都市なら「テナント募集」の広告を出せば間もなく別のテナントが入居するから、ビル
の管理という点ではさほど問題にはならない。しかし地方の小都市は深刻である。空いた店
舗はそのままになってしまうからだ。どの階も開店している店とがらんとしたスペースとが混
在し、まるで歯が抜けたような状態になる。さらに深刻になると上の階にあった店舗が下の
階に移動し、エスカレーターやエレベータが使用停止になる。たとえば、もともと5階建てのビ
ルだったのが、実際には1階と2階だけしか営業せず3階から上は立ち入り禁止となるといっ
た具合だ。すべての階に照明を点し、冷暖房・エスカレーター・エレベーターを常時稼動させ
ていたら電気代や維持費がばかにならないからだ。そんな状況になってくると、公衆電話や
トイレなどの付帯設備もおざなりになる。使用停止になっていたり、そうでなくても紙が備え
付けられていなかったり水が満足に流れなかったりする。管理者もテナントからの収入がな
いのだから建物全体の管理もままならない。非常時の防災設備もおざなりになるだろうから、
安全面でも問題が出てくる。そして最後は全ての店舗が撤退し、建物全体が閉鎖となる。大
都市なら取り壊されてすぐに新しい建物が建つだろう。しかし、不動産価値の目減りした地方
の小都市はそのままである。放置された建物にはいつの間にかスプレーで落書きされ、長く
無残な姿を晒すことになる。
以上が地方の小都市に見られる商店の姿だ。もちろん全ての地方都市がそうなってしまっ
たわけではないが、不況や経済格差の影響を大都市以上に深刻に受けていることは否めな
い。全国的に有名な産業があれば話は別だが、そうでない地域は街全体が寂れてしまう。商
店も少なくなり、公共交通機関や医療・介護といったサービスも満足に受けられなくなってくる
と、もう生活自体が成立しなるから、北海道夕張市の例が示すように市民は他の都市へ流出
してしまう。こうして激減すれば、駅前も廃屋ばかりになり駅の乗降客も皆無に等しくなる。そ
して駅に停車する列車の本数が減り、(現在のJR線区でも一日で上下1本ずつしか列車が
停車しない駅がある)さらには駅あるいは路線全体が廃止になりレールが剥がされてしまう。
このままの経済情勢が続くと、地方の小都市は凋落する一途であろう。なんとか歯止めをか
けなければならないのだが、それは茨の道である。折りしも衆議院議員総選挙が告示された。
それぞれの地元に帰って舌戦を繰り広げている議員は、こうした地方都市の凋落ぶりを見て
どのように感じているのだろうか?
276「特急券払戻しの規定に異議あり」(8月16日)**************************************
今年もお盆の帰省シーズンとなり、東海道新幹線を筆頭に、大都市圏と故郷とを結ぶJR
の特急列車はどこも満員になっている。JR各社ではこれらの特急列車について、「何らか
の事情で運休した場合、及び所定の時刻より2時間以上の遅延が発生した場合は特急券
の全額を払戻す」と規定している。これは国鉄時代から変わっていないのだが、これに対し
て私は一言したい。そもそも「特急料金」というものは、何かということを考えなければなら
ないからである。
「特急料金」とは、乗車券だけで利用できる普通列車を利用した場合に対して、目的地に
より早く到着することへの対価として支払うものである。このことは換言すれば、何らかの事
情で遅延し、普通列車で移動した場合と同じ所要時間を費やした場合は、もうその時点で
特急料金を支払う価値はないということである。たとえば、常磐線で上野から水戸へ移動す
る(117.5km)場合を考えてみたい。
普通列車でも乗り換えなしで水戸まで行くことはできるが、出張などのビジネス客はほぼ
全員が「スーパーひたち号」ないし「フレッシュひたち号」という特急列車を利用している。前
者は上野〜水戸をノンストップで1時間5分で、後者は我孫子・土浦などの途中駅に3〜5
箇所停車し1時間14分程度で結んでいる。普通車自由席の特急料金はどちらの特急を利
用しても1300円である。これに対して上野から水戸まで全区間を普通列車で移動すると、
列車によって多少の差はあるものの概ね2時間10分程度である。つまり1300円の特急
料金は普通列車を利用した場合に対して「スーパーひたち号」では1時間5分、「フレッシュ
ひたち号」では56分の所要時間短縮を図る対価として支払っていることになる。しかし、何
らかの事情で「スーパーひたち号」に乗ったものの水戸まで2時間40分かかった場合でも
これだと2時間未満の遅延だから規定で特急料金の払戻しは行なわれないことになる。こ
れでは利用者としては納得しがたい。
つまり一口に「2時間の遅延」といっても、その意味は利用する区間によってまるで異なる
点を重視しなければならない。例えば大阪から富山(湖西線・北陸本線利用。距離327km)
へ特急を利用して行くと所要時間は2時間50分である。一方、普通列車で移動すると6時間
30分程度かかる。(直行する普通列車はなし。敦賀・福井・金沢などでの乗り換え時間も含
める)だからこの区間で特急を利用してたとえ2時間10分遅れたとしても、収受した特急料
金の60%は払い戻すべきだろうが、全額払戻す必要はないとも言える。しかし、大阪から
敦賀(湖西線・北陸本線利用。距離136.9km)へ移動する場合は事情は異なる。この区
間は特急利用で1時間20分、乗車券だけで乗れる新快速では2時間である。つまり特急を
利用すれば40分早く到着できる計算になるが、逆に言えば40分以上遅れたらもう特急料
金を全額払戻すのが筋であろう。
また、在来線の特急と新幹線とを同じ取扱いにしているのも解せない。運転最高速度も表
定速度(当該区間の距離を途中駅での停車時間も含めた所要時分で除した値)も全く異な
るからである。たとえば小倉〜博多(67.2km)を例に考えてみよう。新幹線の場合「のぞ
み号」の利用でわずか16分しかかからない。一方、在来線の特急では40分〜45分を要
する。だから普通車自由席の特急料金は新幹線の場合は940円に対して在来線の特急
利用では500円と、それなりに差がついている。しかし、新幹線に乗っても何らかの事情で
30分遅延したら、在来線の特急を利用した場合と変わらないことになってしまう。そういう場
合はやはり半額は払い戻すべきではなかろうか。ちみなに新幹線で2時間遅れるということ
は、小倉から博多まで2時間16分かかることになる。しかし、この区間を乗車券だけで利用
できる快速を利用しても1時間10分程度しかかからない。ということは、新幹線に乗っても
55分以上遅れたらもう特急料金を支払う意味がなくなるということである。
結論としてそれぞれの区間ごとに特急料金を支払う意味が異なるので、払戻し規定は全
国一律ではなく柔軟に設定していただきたいものである。その規定は乗車券だけで利用で
きる列車に乗って移動した場合に要する所要時間から算定するのが妥当だろう。A駅から
B駅までの移動で普通列車が4時間、特急なら2時間なら、2時間の遅延で全額払戻しとす
る。そして2時間未満の場合でも払戻しの額に段階を設けることが必要だ。1時間59分なら
0円で、2時間なら全額というのは理屈に合わないからである。もし遅延が30分なら収受し
た特急料金の25%、1時間なら50%、1時間30分なら75%を払戻す。また、A駅からB駅
までの移動で普通列車が1時間、特急なら30分なら、30分の遅延で全額払戻しとする。逆
にA駅からB駅までの移動で普通列車が6時間、特急なら2時間なら、4時間の遅延で全額
払戻しとする。「特急料金」とはあくまでも「特」に「急」ぐために支払う「料金」なのであるから、
遅延が生じた場合の取扱いは当該区間を料金不要の列車で移動した場合との時間的損失
に見合ったものにするべきである。
275「教室に冷房は必要か?」(7月27日)*********************************************
高校では全館ないしは一部の教室に冷房が設置されたところもだいぶ増えてきたのだが、
小・中学校での普及率はまだまだである。7月18日付朝日新聞の夕刊では「学校の教室に
エアコン必要?」というテーマで読者から投稿を募り、その一部を掲載している。賛否両論で
それぞれの理由をまとめると次のようになっていた。
(投稿者の個人名はアルファベッドに直してある)
【賛成派の理由】
Aさん・昔とは違って気温が高くなっている。
Bさん・教育は未来への投資。高速道路料金の値下げでCO2排出量を増やすよりもずっ
と良い。
Cさん・エコとは無駄をなくすこと。学校で子どもが快適に過ごせるようにすることは無駄
ではない。
Dさん・教師が適正な温度設定をすれば問題なし。
Eさん・夏休みをなくし、ゆとりをもって授業時間の増加を図ることができる。
【反対派の理由】
Vさん・暑さに耐える体験も子どもには必要。
Wさん・エコに逆行することを教育の場ですべきでない。
Xさん・休み時間になっても子どもは戸外へ遊びに出なくなる。
Yさん・電気代がかさむ。
Zさん・夏休みがあるのだからエアコンは不要。
投稿からは地球温暖化と省エネルギーの問題、学力低下と夏休み削減の問題が背景に
あることがうかがえる。確かに7月21日からの42日間をすべてを休みとするのなら、Zさん
の指摘どおりエアコンは不要ともいえる。Aさんが指摘した「昔よりも気温は高くなっている」
ことは確かだが、だからといって夏休みの前後2週間程度に行なわれる授業に使うだけの
目的でエアコンを完備するのでは「もったいない」と批判されそうだ。しかし、現実は42日間
全てを休みにしているわけではない。学校週5日制度の導入に伴う授業時間数削減や、そ
の結果として生じた学力低下が深刻な問題になっている。それを少しでも食い止めるべく夏
期講習や補習を実施している学校も少なくない。真夏に児童・生徒を登校させて授業をする
のであれば、エアコンが必要不可欠なのは言うまでもない。そしてそれはCさんの指摘どお
り、無駄なことではない。学習活動を効果的なものにするには、集中力を保てる学習環境を
整備することも必要だからだ。但し、28℃になったら電源を切ることを児童・生徒に教える。
Dさんは「教師が適正な温度を管理すれば」と述べたが、児童・生徒に「ストーブ係り」と同じ
く「エアコン係」を与え、適切な温度を体感させて管理させることこそエコ教育になる。教育は
将来の日本を担う人材を育てる場。Bさんの指摘どおり教育は未来への投資であるから、エ
アコンの導入は無駄な投資にはならない。むしろ目先の景気対策や政党への人気回復策
でETC搭載車に対する高速道路料金を値下げすることこそ、交通量をいたずらに増やしW
さんの指摘する「エコに逆行」する愚策ではないだろうか。
しかし、私はいずれの意見に対しても同意できる点はあるものの全面的には賛成できな
い。教室に冷房を設置したり夏休みを減らすことよりも先にすべきことがあると思うからだ。
それは土曜日の授業を復活させることである。昔は土曜日も小学校では1時限45分、中
学・高校では1時限50分の授業が4つ組まれていた。したがって国語にしろ数学にしろ英
語にしろ、少なくとも現在よりも1単位ずつは多くなっていた。(実際には「総合的な学習の
時間」もなかったから、もっと各教科の時間数は増えていた)しかし、「詰め込み教育」への
批判が高まり「ゆとり教育」に転じてからは、授業時間が削減される一途となってしまった。
基礎・基本のみが精選される方向に走ったため、学校で教えてもらえない受験対策は塾・
予備校頼りになってしまった。一方、毎週休みとなった土曜日を教科の学習活動以上に有
効に活用しているとは言いがたい。地域の図書館や博物館などで過ごしている児童・生徒
はごくわずかでしかないからだ。エアコンを完備したうえで土曜日を休みにした分を夏休み
に補填する案そのものは良いのだが、あまりにも非現実的である。エアコンを完備するだ
けの予算がない地方公共団体の方が圧倒的に多いからだ。まずは土曜日を復活させ、各
教科の授業時間数を以前に戻す。ハッピーマンデー法も施行されたのだから、何週間か一
度は日・月と2連休になる。そのうえに土曜日まで休みにすることはないだろう。土曜日を復
活させた上でなお夏季に補講する必要があるのなら、ごく一部の教室だけ冷房を設置して
希望者を募って授業をすればよい。そうすればXさんの指摘するような事態にはならないし、
電気代の問題もなくなる。
274「様変わりした出身大学の図書館」(7月 5日)**************************************
先週の土曜日、出身大学の図書館に行った。用件は私の恩師の論文を読みたかったか
らである。残念ながら恩師は十年ほど前に亡くなってしまったので、今となっては研究室に
訪問するわけにはいかない。市販されている著作物でもあれば書店に取り寄せてもらって
購入することもできるのだが、残念ながらなかった。既に絶版になっている恐れも高いので、
一応東京の神保町にある古書街にも行ってみた。国語学・国文学の専門書を扱っている店
が3軒あって私もときどき行くのだが、問題の論文はそこにも見当たらなかった。どうやら著
作物を出版されていないようである。そうなると、あとは論文を掲載した学会誌か紀要しか
ない。前者はどの雑誌のどのバックナンバーかを検索しなければならないから大変だ。紀
要なら学生時代に読んだ記憶がある。当時はさほど興味も感じなかったので文字通り「目
を通した」だけで済ませてしまったが、今になってもう一度、今度は「目を通す」といった読み
方ではなくじっくり時間をかけて「精読」したくなった。そこで大学に電話をし開館日を確認し
て訪れてみた。
行ってびっくりしたのは図書館が建て替えられたことである。まあ築数十年も経過したのだ
から普通に考えれば建て替えるのも当たり前なのだが、まるで県民ホールや市民ホールを
思わせるような堂々たる建物になっていたのには驚かされた。入口にはJRの自動改札機と
同様のゲートがある。在籍している学生・院生や教職員は非接触式の磁気カードをかざして
ゲートを通過している。もちろん私はそんな近代的なカードを持っていないので、ゲートの前
で係員を呼び出した。本学の卒業生である旨を告げ、卒業証明書を提示し必要事項を記入
して入館を許可された。館内はもちろん開架式で資料は全て自由に手にとって閲覧すること
ができる。『図書館であるならそんなことは当たり前ではないか』と、読者のみなさんはお思
いだろう。しかし、私が学生だった当時は閉架式だったので、資料は全て係員しか立ち入り
を許されていない書庫に収められていたのである。だから閲覧ないし借りたい資料がある場
合はまず目録をチェックしなければならない。そして所蔵されていることを確認したら、備え
付けの用紙に著書名・著者・出版社名を記入する。それを受付の係員に渡して現物の資料
を持って来てもらう方式であった。だから現物の外観だけ記憶していて著書名・著者・出版
社名がわからない場合は、もう閲覧も貸し出しも諦めるしかなかった。また、せっかく係員が
資料を持って来てくれても自分の見たい事柄がそれに載っていない場合もある。その場合
は、また受付で備え付けの用紙を書き直して渡さなければならなかった。何度か繰り返すと
係員に嫌な顔をされるから、用紙に記入する際は誤りのないよう慎重にしなければならなか
った。当時は発想が官僚的だったのだろうか。それとも封建的だったのだろうか。どうやら
『資料はどれも貴重なのだから、たとえ本学の者であっても必要最小限しか触らせないぞ!』
という発想があったようだ。
驚かされたことはまだ他にもある。館内には何十台もパソコンが置かれ、資料の検索も容
易にできるようになっている。また、閲覧用の机や大型テーブルにも電源コンセントとLANケ
ーブルがついていて、各自が館内に持ち込んだノートパソコンでの作業も自由にできるよう
になっている。今や学生が資料を脇に広げておいて自分のノートパソコンでレポートや論文
を作成する時代になったのだ。夜遅くまで開館していることも驚きである。さすがに日曜日は
授業のないので休館だが、土曜日でも17時まで、平日は21時30分まで開館しているとい
う。さらに、大学が試験期間中の場合は22時まで延長される。私が在籍していたときは土曜
日は昼過ぎで終りだった。平日でも19時までだったから隔世の感がある。係員の応対も非常
に腰が低い。私の探している紀要のある書架まで案内していただいた。一部の書架はボタン
で動くようになっていることも驚いた。自分が見たい資料が収められている書架があった場合、
その書架と隣の書架との間に身体が入れるよう書架自体を電気で移動させて適当な空間を
作るシステムである。これを電動式書架という。私も話には聞いていたが、実物を見たのは
生まれて初めてである。「十年一昔」とはよくいったものだが、まさに出身大学の図書館に行
って、その凄まじい変貌ぶりに私は驚くばかりであった。
273「問題点山積のカスタマーセンター」(6月22日)*************************************
まだインターネットの黎明期、「パソコン」という機械がこの世に普及しはじめた頃、「パソコ
ンのカスタマーセンターへはいつかけても電話がつながりにくい」とよく言われていた。当時
はパソコン自体当時は故障しやすい代物であったうえ、不慣れなユーザーの誤操作や勘違
いでカスタマーセンターへ文句を言うケースも多々あったから、電話がつながりにくくなるの
は仕方がなかったのかもしれない。幸い、私自身はカスタマーセンターのお世話になるよう
な事態に今まで遭遇しなかった。しかし、先週、4企業体のカスタマーセンターに電話をかけ
て初めていろいろな問題点を知った。単に電話がつながりにくいだけではない。まず事実経
過を箇条書きにしてここに記してみる。
1・冷蔵庫の購入
事の始まりは大手家電量販店Aで冷蔵庫を購入したことに始まる。売場の付近にいた女
性の店員Bに購入の旨を告げたところ、「では、お会計の前に配送伝票をご記入下さい」と
言われた。必要事項を記入し店員Bに渡したのだが、肝心の会計の順番がなかなか来ない。
かといって帰るわけにもいかず店員Bの指定する場所でじっと待ち続けていた。
2・電話回線変更の勧誘
20分は経過しただろうか。今度は店員Cが現れた。店員Bとは異なる制服を着た男性で
ある。「たいへんお待たせしました」と非常に丁重に応対していたのは結構なことだが、店員
Cは会計の前に「今、電話回線はどこと契約なさっていますか?」と尋ねてきた。「X社のひ
かり電話ですが」と返事すると「それならこの冷蔵庫はさらに30000円お安くなります」と言
う。何がどういう仕組みになっているのかは皆目わからないが、とにかくX社の電話回線を
Y社のひかり電話回線に切り替えれば30000円安く購入できるらしい。購入した冷蔵庫は
89335円だったがそれが59335円になるのならかなり得だ。そこで電話回線をY社に切
り替える手続きをし、59335円で決済して帰った。
3・機器到着。されど工事の延期
そして翌日に冷蔵庫が、さらにその9日後にはY社のレンタル用モデムとホームゲイトウェ
イが届いた。冷蔵庫はもちろんすぐに使用開始できた。しかし電話の方は新しい機器に接
続した瞬間に回線が使えるようになるわけではない。X社のひかり電話をY社のひかり電話
に切り替えなければならないからである。Y社のモデムが届く2日前に回線切り替えの工事
を担当するZ社から電話が入り、工事日を18日に決めた。しかし、当日になってZ社の職員
が「これでは工事ができません」と言って帰ってしまったらしい。「らしい」と書いたのは当日
私が不在で家族が応対したからなのだが、このままでは困るので購入した店舗Aに問い合
わせてみた。
4・購入店舗AとX社の対応
電話では店員Cの上司にあたる店員Dが応対した。「工事前にX社のひかり回線を一旦ア
ナログ回線に戻してもらうよう、お客様ご自身からX社にお申し出ください。そしてアナログ回
線に戻したという通知をX社から受け取ってから工事日を決めてください」と言う。そこでX社
に電話したところ、私の依頼内容は了承してもらえたのだが、「電話回線一時休止のハガキ
がお手元にございますか?弊社のひかり電話にしたときにお受け取りになっているはずです
が」と尋ねてきた。そのハガキに書いてある番号がわからないとアナログに戻す工事ができ
ないのだという。決して自慢するつもりはないが、私はこれでも部屋は整理整頓に努めてい
るから新たに何かを契約したときにいただいた書類はしっかり管理しているほうである。そん
なハガキがあればすぐにわかるはずだが、X社のひかり電話を契約したときにいただいた書
類にそんなハガキはなかった。ただ、万が一どこかから出てきたらまずいので、とりあえず電
話を一旦切って、その晩は遅くまで部屋の中を探した。
5・また異なるX社の対応
問題のハガキはやはり見当たらなかった。翌日X社に電話してその旨を告げたところ、「ひ
かり電話になっている時点で休止されていますから、そんなハガキは必要ありません」と言う。
またアナログ回線への変更についても、「弊社のひかり回線をY社にするだけなら、わざわざ
アナログに戻す必要はないのです。現にY社から弊社に切り替えたお客様はいちいちアナロ
グに戻してはいませんから」と説明された。さらに「アナログに戻すのに2100円、またY社の
ひかり回線にするときに2100円、計4200円かかって損ですよ」とも言う。
6・Z社の対応
話が食い違っていることに訝しく思っていると、タイミングよく、Z社から「工事日はいつにし
ますか?」と、また連絡が来た。そこでここまでの経緯を一応Z社にも話しておいた。すると
「回線がアナログに戻っていなくてもうちでは工事はできますよ。ただその際は確認作業が
入るため1週間ほど電話が使えなくなってしまいますが。それでもよろしければすぐに工事
いたします」と言う。まあ電話が1週間不通でも携帯電話があるのだからさほど不自由はし
ないだろうと思ったので、「それならとりあえず最も早くできる日にお願いします」と依頼した。
そこで工事日は6月25日木曜日に決まった。
7・Y社の対応
しかし、話が店舗A・X社・Z社とも三者三様なので、これからお世話になるY社に問い合わ
せてみた。すると「一戸建ての場合はアナログに戻さなくても工事はできるんですが、マンシ
ョンタイプの場合は絶対に工事はできません。X社のオペレーターはアルバイトが多いらしく
て、うちのひかり電話の事情をよく知らないでものを言っているようなのです。とにかくアナロ
グに戻してもらってください。一週間不通になることを我慢すればアナログに戻さなくても工
事ができるということも有り得ません」と言われてしまった。
8・またまたX・Y・Zの3社へ
三たびX社へ電話すると、今度は「Bフレッツはどうなさいますか?」と尋ねられてしまった。
『既に新しいモデムが到着しているのに、今さらBフレッツもなにもないだろう』と思ったので、
「もちろんそれもやめますよ」と言ったところ、「1〜2週間ほどインターネットができなくなりま
すが、それでもよろしいですか?」と確認してきた。そんな情報は聞いていないので、とりあ
えずX社への依頼は保留にして再びY社にかけてみた。すると、「電話だけアナログにしてB
フレッツはそのまま残すように」と言われた。理由はひかり回線が開通しても1週間程度経過
しないとインターネットはできないからだという。BフレッツはY社のインターネットが開通してか
らX社に改めて電話して中止する旨を連絡するのだという。四たびX社に電話して「電話だけ
アナログにしてください」と依頼し、そのための工事日を決めた。最短で6月26日金曜日だと
いうのでその日に決めたのだが、それではZ社の工事日より後になってしまうので、再度Z社
に電話をかけて工事日を変更してもらうことにした。
ここまでが一昨日までの経緯である。何が問題なのか整理すると次の5点に集約できる。
1・同一社内のオペレーターでも説明が矛盾している。
上記の4と5の赤文字部分は同じX社のオペレーターの発言である。上記4の発言のため
に私は電話回線一時休止のハガキを探すために時間を割くことになった。しかし翌日の説
明ではそれは必要ないと言われる。これでは社員の共通認識がないと言われても仕方ある
まい。ましてや上記7の赤文字部分が事実だとしたら、大問題である。たとえカスタマーセン
ターの電話回線を増やしてお客様の待ち時間を解消したとしても、大量に雇ったアルバイト
に電話の対応を命じ、しかもその従業員が短期間に次々と変わるような状況だとしたら、客
への説明責任は果たせないはずだ。同一社内のオペーレーター間でさえ発言内容に矛盾が
生じるのは、恐らくこれが原因ではなかろうか。これではお客様を混乱させるばかりで、真の
カスタマーセンターとは言えない。
2・同業社の商品を知悉していない。
前者は上記5・7の青文字の部分、後者は上記6・7の緑文字の部分である。こういった矛
盾があるため、私は一昨日の土曜日とその前日の金曜日だけで、購入店Aへ1度、X社に
4度、Y社に2度、Z社に2度通話をさせられるはめになった。原因ははっきりしている。オペ
レーターがいずれも自社の商品についてしか知悉していないからである。つまり同業者のそ
れについての知識は全くないのだ。だから説明内容が相互に矛盾してしまう。私が「★社で
は●●との話でした」といくら報告しても、そもそも話が矛盾しているからどうにもならない。
ある質問をしても妙な答えが返ってくる。びっくりして、また別の会社へ電話をかけ直して確
認すると矛盾した回答を聞かされて堂々巡りになる。これほどアホらしいことはない。
3・契約時には聞いていない情報を小出しに出される
上記6の緑文字の部分と、8の赤文字の部分がそれである。こういう情報は本来なら購入
店Aにおいて回線切り替えの契約をする時点で受けるべき説明であろう。しかし実際は、冷
蔵庫が30000円安くなること、回線がつながった月から3ヶ月プロバイダーの料金が無料
になること、回線切り替えの工事費用などの初期費用が発生することを説明されただけであ
る。オペーレーターと会話するたびに契約時には聞かされていない情報を新たに知らされて
翻弄することになる。そのたびに一旦交渉を保留にせざるを得なくなる。だから話が全然前
へ進まない。
4・担当オペレーターを客が選べない
同一の用件で再度同じ会社のカスタマーセンターへ電話する場合、前と同じオペレーター
と会話できれば話が早いに決まっている。ましてやそれが30分程度前に話した相手なら、
なおさらだ。しかし、こういう巨大企業では電話するたびに異なるオペレーターが応対するの
が常だ。さきほどのオペレーターの名前を告げても、その人はもう別のお客様と対応してい
るから、電話口に呼び出すことはできないらしい。毎回違うオペレーターが応対するから、私
は最初からの経緯をいちいち説明しなければならない。これも時間と労力の無駄である。
5・請負いの構図
何度もいろいろな人と電話しているうちにわかったのだが、購入店Aで私に対応した店員
Bと店員Cとでは、雇用主が異なっている。店員Bは購入店Aに雇用された職員(正規か臨
時かは不明だが)であるが、店員CはY社の契約社員で店舗Aに入店許可を得て販売活動
を行なっている職員である。つまり勤務先は店舗Aだがそこの職員ではないのである。だか
ら店員Bとは異なる制服を着用していたのである。また、工事業者ZはY社から委託された、
いわば請負業者である。Y社から命じられたことだけを実行する会社なので、その他の業務、
たとえば私とは逆に、Y社のひかり電話をX社のひかり電話に変更するといったことはしない
のである。つまり、すべてが請負いや契約の構図になっているから、業者間の連絡が全く行
き届いていない。長引く不況のため人件費節減の結果こうなっているのだろうが、これが客
を翻弄させる原因になっていることだけは間違いないだろう。
272「修飾語句と助詞の使い方にはご注意」(6月14日)**********************************
街を歩くといろいろな看板・ポスター・電光掲示板のメッセージなどが目に入る。また、館内
放送などで耳からメッセージが入ってくることも多い。商品の宣伝文句だったり、官公庁から
市民への呼びかけだったり、あるいは通行中の人への注意だったりと、その中身はさまざま
だが、メッセージを発信する側として注意しなければならないことが一つだけある。それは修
飾語句と助詞の使い方だ。これらの用法を誤ると発信者側の意図とは異なる解釈をされて
しまう恐れがあるからだ。しかも、当の発信者は誤った使い方をしている事実に気づいてい
ないことが多い。だから意外に盲点なのだ。さっそく実例を見てみよう。まず修飾語句の使
い方である。
例1・発車間際の無理な駆け込み乗車は危険です。次の電車をご利用下さい。
駅の案内放送で、電車が発車しようとするたびに鉄道会社が利用者に対して訴えている
メッセージである。発信者たる鉄道会社の意図は「駆け込み乗車をしないように」というお願
いであることは言うまでもない。しかし、このメッセージの何が悪いのかというと、「駆け込み
乗車」に対して「発車間際の」と「無理な」という2つの修飾語句がついていることである。こ
れらの語句があることで
ア・発車間際でなければ駆け込み乗車をしてもかまわない。
イ・たとえ発車間際であっても「無理」と判断しなかったら、
(つまり「乗れそうだ」という判断がついたら)駆け込み乗車をしてもかまわない。
という解釈が可能になってしまうからである。換言すれば、このメッセージだと時刻がもはや
「発車間際」に迫っていて、なおかつ今から階段やホームを全速力で走って車内に身体を滑
り込ませるのは、どう考えても「無理」だろうと判断される場合における「駆け込み乗車」だけ
を「危険」と訴えて「次の電車をご利用下さい。」と指示していることになる。しかし発車間際
であるか否かを問わず、そもそも階段やホームを走って車内に滑り込む行為自体が転倒し
たり他の乗客にぶつかる恐れがあって「危険」なのであるから、駆け込み乗車そのものをし
ないよう促す表現にしなければならない。だから正解は「発車間際の」「無理な」という2つの
修飾語句を削除し、
駆け込み乗車は危険です。発車間際になりましたら次の電車をご利用下さい。
とすべきであろう。
こんなことをいちいち指摘するのは屁理屈だと言われそうだが、この類のものはかなりあ
る。朝日新聞社の記者として長年活躍された本多勝一さんは著書『実戦・日本語の作文技
術』(朝日文庫刊)の「たかが立て札の文句だが……」の項で著者が北海道大学の構内を
歩いていたときに目にとまった立て札の文言を取り上げて考察している。そこには
「芝生をいためる球技等の行為は厳禁する」
と書かれてあったのだが、この表現だと「芝生をいためない球技」ならやってもかまわない
という解釈が生じるからである。私も一言つけ加えると、大学側が「芝生をいためる行為」を
「厳禁し」ているのか、それとも「球技等の行為」を「厳禁し」ているのかが、この立て札の文
言からでは明確になっていないのである。著者は誤解が生じる恐れのない表現として
「球技など芝生をいためる行為を禁止する」
を提示している。
助詞の用法で特に注意したいのは係助詞「は」の使い方である。「は」は文中において題
目を提示する用法と同時に、ある題目を他とは区別して叙述する用法がある。したがって
場合によっては発信者側が述べていない事柄にもかかわらず、そちらの方が一人歩きす
る恐れがある。たとえば、次の文である。
例2 私は駐車違反はしたことがない。
こう述べると「駐車違反」という行為に関して「私はしていない」というメッセージは確実に
相手に伝わる。しかしその一方で「駐車違反以外の交通違反はしたことがある」と解釈され
る恐れもあるのだ。つまり「駐車違反はしたことがないが、スピード違反や酒気帯び運転な
らしたことがある」と相手に受け取られる表現になってしまうのである。就職の面接試験や
書類選考で、こんな解釈を採用担当者にされてしまったら非常に不利になってしまうから、
たかが助詞「は」一つでも油断はできないと思ったほうがよい。このような例は他にもいろ
いろある。( )内は述べていない事柄で解釈される恐れのある内容である。
例3・彼は整数の計算はよくできます。
(小数・分数の計算はできない)
例4・私は事件当時は犯人の姿を見ていません。
(事件の前ないし後では犯人の姿を見た)
例5・大学入試センター試験で足切りは免れたので、二次試験に出願することはで
きます。
(ただし受験しても、大学入試センター試験がこの成績では合格は保証できない)
例6・通話料金には家族割引など各種の割引がすべて適用されます。
(通信料金には割引の適用が何もない)
例7・バラの茎には棘がある。
(他の植物の茎には棘がない/バラでも茎以外の部分には棘がない)
なぜ書いていない事柄まで相手に解釈されてしまうのか。それは対照となる事柄が存在
する場合に係助詞「は」を使うからである。これは次の例を見ればわかる。
例8・雨天の場合は15日に延期します。
「雨天の場合は延期」というメッセージは、「雨天」でない天候、すなわち「曇天や晴天なら
決行します」というメッセージになる。理由は、天候には「晴天」「曇天」「雨天」の3種類があ
って、前2者が「雨天」の対照語として考えられるからである。主催者は「雨天でなければ実
施」と解釈をしてもらいたいのだろうから、この場合はこう表現した方がよい。
しかし、例2の場合は「スピード違反」や「酒気帯び運転」が「駐車違反」の対照語として考え
られるため、「駐車違反以外の交通違反はしたことがある」と解釈される恐れが生じ、駐車
違反がないことよりも、スピード違反や酒気帯び運転の方が一人歩きしてしまう。したがって
例2の場合は
「私は駐車違反をしたことがない。」
と改めるべきであろう。これならば「駐車違反」以外の違反については「した」とも「していな
い」とも述べていない。つまり述べた内容だけが相手に正しく伝わり、述べていない内容が
一人歩きすることはない。では、例3〜例7はどう改めれば誤解が解消するか。お時間のあ
る方は考えてみてください。
271「タバコの箱にある注意書きはもっと過激に」(6月 7日)******************************
ある日レストランに入ったところテーブルの隅にタバコの箱が置いてあった。開封済みだっ
たので最初はマナーの悪い客が空き箱を捨てたのかと思ったが、中には数本以上のタバコ
が入っていた。たぶん前にこの席を利用した客が置き忘れたのであろう。そのタバコの箱を
見ると、”CABIN MILD”と書かれた商品名の下に、喫煙についての注意書きが次のよう
に印刷されてあった。
喫煙はあなたにとって肺気腫を悪化させる危険性を高めます。
(詳細については厚生労働省のホーム・ページ
www.mhlw.go.jp/tobacco/main.htmlをご参照ください。)
私が思うのは前段の一文である。肺気腫という病名は、ほとんど知られていない。何が原
因でどんな症状が出るのかを尋ねてみても、医療関係者を除くと満足に答えることのできる
人はほぼ皆無である。だから、肺気腫がどれだけ恐ろしい病気かもわかっていない。これで
は健康を促す効果も半減してしまう。一般の人が最も恐れている病気は、やはり国民三大
死因のトップであるがんであろう。喫煙することで肺がん・食道がん・喉頭がん・舌がんなど
紫煙の通り道となる粘膜に癌が非喫煙者よりも高率で発生しているという事実、そしてタバ
コに発癌物質が含まれていることは、今や科学的に証明されている。だから、健康に対する
注意書きはもっと直截に書くべきではないだろうか。たとえば次のように改めてみればだい
ぶ印象が変わるはずだ。
タバコは発癌物質です。喫煙しますと肺がんをはじめとする各種のがんを発症させ、
あなたの生命を奪います。あなたはタバコで死にたいですか?
正確に表現するならば「タバコには発癌物質が含まれています。」である。だが、敢えてそ
うは書かずに「タバコは発癌物質です」と、100%発癌物質であるかのように断言する。そし
て実際にはタバコが発生因子とならないがん(たとえば子宮がんや膵臓がん)も多々あるの
だが、敢えて「各種のがんを発生させ」と書き、全てのがんにタバコが関与しているかのよう
な印象を与える。さらに、その後の文言も正確に表現するならば「生命を奪う危険性が高ま
ります」とすべきところだが、ここもそうは書かず、喫煙が死に直結する行為であると解釈さ
れるように表現する。最後に「タバコで死にたいのか」とダメ押しの語句を入れる。タバコの
箱に書くのならこのくらい過激な表現をして禁煙を訴えないと健康促進効果はない。そして
タバコの自動販売機にも同様な文言を大書すべきであろう。喫煙のために真っ黒になった
肺の写真も掲示していいと思う。
健康増進法が施行され、航空機や飲食店など公共の場での喫煙が禁止となるなど、愛煙
家にとっては喫煙が許される場がどんどんなくなっているのだが、タバコそのものは安価に
購入できるし、未成年者による購入も現実的には可能になっている。(taspoを自販機にか
ざせば誰でも購入できてしまうため)タバコの箱には健康に対する注意書きや未成年者の
喫煙の害悪が表記されるようになったが、この程度の書き方しかしていないところをみると、
相変わらずタバコによる税収入を減らしたくないという本音が見え隠れしている。つまり、本
気で紫煙から国民の生命を守ろうという気持ちはないのだ。その一方で、肺がんの早期発
見と銘打って胸部レントゲン撮影を集団検診の必須検査項目に入れて、莫大な予算をつぎ
こむばかりか有害無益な放射線被爆を放置している。真の健康増進とはタバコそのものを
買わせないようにすることであろう。そのための注意書きなのだから、喫煙すれば確実に早
死にするかのように書かなければ意味をなさない。
270「角界の暴行傷害致死事件の判決に思うこと」(5月31日)****************************
時津風部屋の序の口力士時太山(本名・斉藤俊さん/当時17歳)に対する暴行死事件
で、傷害致死罪に問われた前時津風親方山本順一被告に、名古屋地裁から懲役6年の実
刑判決が出た。芦沢政治裁判長は量刑の理由について
1.部屋の親方という、力士を預かる保護者的な立場にいながら自ら率先して暴行を加え
た
2.犯行後も兄弟子らと口裏合わせをするなど反省の態度がみられない
とし、「刑事責任は極めて重い」と述べた。しかし、その割りには懲役7年の求刑に対して、1
年短くなっており、求刑通りの判決ではない。だいたい、人が死んでいるのにたかだか6年
か7年の懲役刑で済むのかということからして、私は納得できない。被告は殺人罪で起訴さ
れたわけではないが、遺族の立場からしたら被害者が殺されたのも同然である。被害者の
父斉藤正人さんは判決に対して「たとえ懲役何十年でも納得できない」というコメントを出し
たが、遺族の心情として至極当然であろう。それなのに判決は懲役6年でしかない。しかも
それでも判決を不服とし被告の弁護側は控訴するという反省のなさで、遺族の心情をふみ
にじっているのだから呆れるばかりだ。
問題となった暴行は2日間にわたって行なわれた。初日の夜は兄弟子の眼前で前親方が
ビール瓶で被害者を殴打している。そして「お前らも教えてやれ」と命じて兄弟子に対しても
被害者への暴行をけしかけている。弁護側はこれを「親方から殴る蹴るなどの明確な指示
はなく、暴行はあくまでも兄弟子らが勝手にやっていたことだ」と主張していた。百歩譲って
それが事実だとしても、親方には兄弟子に対する監督責任があるはずだ。たとえ事件当日
に親方が出張などして自身が暴行に全く関与していないとしても、免責を容認できるもので
はないと思う。2日目の朝は「ぶつかりげいこ」という名のもとに暴行があった。通常のぶつ
かりげいこよりもはるかに長時間にわたって執拗かつ激しく行なわれた。それだけでなく、
けいこ中に木の棒で尻などを殴打していた。弁護側はこれを「技能向上を目的とした通常
のけいこであり、適法な業務行為だ」と主張していた。しかし、このぶつかりげいこにはけい
こを逃げ出そうとした被害者に対する制裁の意図も含まれていて、地裁は「正当なけいこか
ら明らかに逸脱した違法な暴行だ」と認定した。
さらに問題なのはけいこの末に倒れてその場から動かなくなった被害者に対して、親方は
救急車を呼ぶまでに20分以上放置していたことである。倒れた時点で速やかに119番通
報をしていれば果たして救命し得たか否かは別にして、少なくとも被害者に対して積極的に
救命しようという努力を怠ったことだけは間違いない。そして、被害者が死亡した後になって
から、警察やマスコミに証言する内容について兄弟子らと口裏合わせを指示した。さらに、
全身が痣だらけとなった被害者の遺体を遺族に見せずに済ませるため、親方の側から火
葬を行なうことを遺族に打診していた。口裏合わせといい火葬の打診といい、まさに暴行の
隠蔽工作としか思えない行為があったのだから、親方は愛弟子の死に対して何とも思って
いなかったのだろう。
これだけ悪質な犯行だったにもかかわらず、判決は懲役6年の量刑でしかない。確かに
親方自らが直接凶器などを使って殺害したわけではなかった。ビール瓶で殴打したのは事
実と認定されたが、それが致命傷となったわけでもない。また、2日目のぶつかりげいこに
しても直接被害者の相手をしたのは兄弟子であって親方ではなかった。しかもそのけいこ
は被害者に対する殺意があって行なわれたわけでもなかった。だから、親方は殺人罪には
問えない。しかし、結果として親方の監督下におかれていた弟子の人命が失われている。
そしてぶつかりげいこにしても、親方の制止をふりきって兄弟子が強行していたわけではな
く、むしろ親方の命令で兄弟子らにぶつかりげいこをさせていた。そして事件後の反省なき
態度。そう考えると6年の懲役刑というのは、あまりにも軽すぎるのではなかろうか。「死刑
にしろ」とまでは言わないが、もし自分が裁判員としてこの事件を担当したら被告の量刑に
ついてどんな意見を述べただろうかと、つくづく考えさせられた判決であった。
269「新型インフルエンザから得た教訓」(5月24日)*************************************
今月はインフルエンザの話題が絶え間ない。メキシコで発症した豚インフルエンザウイル
スは、ついに渡航経験のない日本国民にも広がってしまった。関西地方ではマスクや消毒
液が品切れ状態となり、修学旅行の中止やイベントの延期が相次いでいる。幸いこれまで
の季節性インフルエンザと同程度の毒性であることがわかったので、一般病院でも診療し
たり重症でなければ在宅での治療という方針に変わった。ただちに隔離・入院を要するほ
どの臨床症状ではないからだ。しかし、だからといって「良かった」と安心して済む話ではな
い。政府は当初から強い毒性を有するウイルスであるという前提で検疫をはじめとする対
策を講じたのである。それにもかかわらず、渡航経験のない人にも発病者を出してしまっ
た。この事実は極めて憂慮すべきことである。なぜ感染を防げなかったのか。問題点を挙
げておこう。
第1に、空港での検疫では機内発病した乗客とその周囲に搭乗した乗客しか隔離の対象
としなかったことである。空港ではメキシコ・アメリカなど感染が疑われる外国からの到着し
た航空機の乗客に対して、体調に関する質問票を配布して記入させたり、体温を測定する
センサーを設置するなどして体調不良を訴えている乗客や発熱のセンサーに引っかかった
乗客に対しては本人の周囲に搭乗していた乗客も含めて隔離するという「水際作戦」を展開
した。しかし、発熱していない人を直ちに「感染の疑いなし」と判定したことがそもそも誤って
いる。インフルエンザウイルスには潜伏期間というものがあるからだ。通常の季節性インフ
ルエンザでも1〜4日程度の潜伏期がある。この間は本人は健康であるから空港での検疫
をパスしてしまう。空港を出て国内各地に散ってから発病するから、ウイルスが渡航経験の
ない国民にばら撒かれるのは必至である。
第2に、既に発病し機内で発熱した乗客である人をも検疫でパスさせてしまったことである。
今月14〜16日の模擬国連に出席するためにニューヨークを訪れた洗足学園高校の女子
生徒は帰国途中の機内で既に39℃の熱を出している。39℃なら発熱でも「高熱」の部類
である。どうみても健康な状態ではない。本人もさぞつらい思いをしたことだろう。それにも
かかわらず空港での検疫は「陰性」と判定してしまった。この女子生徒は八王子市市内の
自宅までリムジンバスと電車を乗り継ぎ帰宅した。翌日20日になってから体温は40℃を越
えたので、母親が発熱相談センターへ連絡し市内の医療機関に搬送され入院した。豚イン
フルエンザと確認されたのはそれからである。つまり「立派に」発病していた患者だったにも
かかわらず、その時点で隔離することができなかった。その理由は、発症初期や回復期で
はウイルスの量が少ないため陰性と判定される恐れがあるからだというが、それでは「水際
作戦で感染は防げる」とアナウンスする資格はない。厚生労働省はこの女子生徒の付近に
着席していた乗客を特定する調査を始めたが、「対策がすべて後手後手に回っている」と言
われても仕方あるまい。
第3に、厚生労働省が当初、「感染国への渡航経験がない人は発熱相談センターに相談
する必要なし」と宣伝してしまったことである。これは感染国からの到着便に対する検疫体
制を過信したためであろう。しかし、空港は不特定多数の人々が常に出入りする場所なの
である。その中には感染国から別の非感染国を経由してから日本に到着した乗客もいる。
こういう場合、感染国からの便ではないから厳重な検疫は行なわれていない。既に機内で
発病していてもそのまま空港を出てしまう。もっといえば海外に用がなくても空港へ行く人も
いる。たとえば空港で働く従業員がそうである。彼らは不特定多数の空港利用者を相手に
日々の業務をこなしている。海外から到着する知人を迎えに空港へ行く人もいる。当然、感
染国から到着する便に乗っていた乗客を迎えに行った人もいることだろう。このような人々
だけでも膨大な人数である。当然、彼らにも感染する恐れはあったのだが、政府は「渡航経
験の有無」だけを物差しにしてしまった。飛沫感染に対する認識が足りなかったと言わざる
を得ない。
今回のインフルエンザは最初の発症国メキシコで多数の死者が出たこともあって、我が国
の政府は当初から「強毒性のウイルスである」との認識で国内での感染防止に取り組んだ
はずである。しかしそれなのに何百人もの国内感染者を出している。5月23日の時点で国
内感染者は326人と報じられていたが、もし本当に感染者の過半数が死ぬほどの強毒性
のウイルスだとしたら、この時点で160人以上の死者を出していた計算になる。天然痘や
ペストなど、「死病」といわれて恐れられていた伝染病はとうの昔に撲滅されて久しいが、ウ
イルスとか菌というものは日々突然変異し進化を遂げているのである。このような未知の伝
染病が海外で蔓延しそうな兆候が現れたら、全ての空港や港湾を閉鎖し渡航を全面的に禁
止する。この措置以外に、国内への感染を防ぐ手はないだろう。そして、もう一つ見落として
はならない感染ルートがある。日本には米軍施設が多数あり、在日駐留軍は成田や関西新
空港などの国際空港を利用せずに日本に出入りしているからだ。このことも念頭に置いて、
今後生じるかもしれない未知の伝染病に対する検疫体制を講じてもらいたい。
268「電車が立ち往生したら乗客の避難を最優先に」(5月17日)***************************
今月7日午前6時50分ごろ、JR横須賀線の横浜〜新川崎において、上り普通電車でブ
レーキの故障が発生し、横浜市鶴見区の線路上に立ち往生する事故が起きた。故障した
電車の後を走っていた電車2本も横浜〜新川崎の線路上に立ち往生した。後続の列車の
乗客約6000人は長時間車内に閉じ込められた末、線路上を1kmほど歩かされて鶴見駅
まで避難させられた。線路伝いの避難を安全に行なうため、横須賀線の線路に隣接した東
海道本線と京浜東北線も運転を一時見合わせた。事故の発生が連休明けの朝ラッシュ時
であったため、110本が運休、73本に最大3時間21分の遅れが出て、357000人の乗
客に影響が出た。故障した電車の乗客は横浜〜新川崎の高架線上で停止したため、線路
上に降ろして最寄り駅まで徒歩で移動させるわけにはいかなかった。そのため現場でブレ
ーキを修理したのだが、修理を終えたのは9時25分ごろだったので、乗客は2時間30分も
の長時間、満員の車内で缶詰になった。このため気分が悪くなった乗客が続出し、車内に
設置されたトイレには長蛇の列ができたという。また鶴見駅では救急車で病院に搬送され
る乗客も出た。
こういう事故が起きた場合、JRは故障を直して一刻も早く運転再開することよりも、車内
に閉じ込められた乗客の苦痛を取り去ることを最優先にすべきであろう。原因や状況が何
であれ、満員の車内で2時間30分も缶詰にするのは、乗客の健康、もっといえば乗客一人
ひとりの人生に対する配慮がなさすぎる。昼間のすいた電車ならまだしも、朝の通勤時間帯
である。乗車率200%(座っている乗客1人に対して7人が立っている状態)もの満員電車
であるから、ただでさえ乗客は窮屈な思いに耐えているのである。そこへ走行中に突然ブレ
ーキがかかり現場に停止したままになったら、その瞬間から乗客のストレスはどんどん高ま
り苦痛が倍加するのは目に見えている。ましてや出勤途中である。1分でも貴重な時間帯に
窮屈な思いで乗っているのであるから、「動かないのならすぐに降ろしてほしい」「缶詰状態
から解放してほしい」と誰もが思うはずだ。
電車が立ち往生したとき、安全に避難する経路があるのならば、10分以内に乗客の避難
誘導を開始すべきである。今回の事故車両のように、もし乗客を線路上に避難させることが
できない場所に立ち往生しているのなら、まず後続の電車の乗客を直ちに降ろすべきであろ
う。そして空になった電車を事故現場まで走らせて、事故を起こした電車の乗客を後続の電
車に乗せかえるのである。そして安全な場所まで後戻りする。そうすれば降ろして線路伝い
に最寄り駅まで誘導することができる。この場合、信号に従った通常の運転方法では事故
現場にいる列車に接近することはできない(鉄道は1閉塞ごとに信号機があり、信号機と信
号機の間には1本の列車しか走行できない)ため、後続の電車と事故現場との間の信号を
使用停止にし、後続の電車は信号の現示によらない方法で事故現場まで運転するのである。
事故が起きた直後に後続の電車を止めて乗客を下車させれば、今回の事故の場合でも30
分以内に事故現場へ向かうことができるはずである。
「拘束恐怖症」という病気がある。初耳の人も多いと思われるが、「高所恐怖症」「閉所恐怖
症」などと同じ類の神経症で、ある限られた空間に一定以上の時間を過ごすことに耐えられ
なくなる病気である。満員電車の車内に2時間30分も閉じ込められたら、乗客はこの体験が
トラウマとなって拘束恐怖症になる恐れがある。最悪の場合は事故後は乗り物にも乗れなく
なるし出勤もできなくなる。少々遅れながらも電車が動いている場合ならともかく、事故が起
きて現場に立ち往生してしまった場合、200%という乗車率のもとで車内での缶詰に耐えら
れる時間は30分が限度である。そういう心理的な負担も考えてJRは閉じ込められた乗客の
救出を最優先に迅速な対応をしてもらいたい。
267「裁判員制度は現実的に機能するか」(2009年5月10日)****************************
いよいよ今月21日から裁判員制度が始まる。市民が裁判に参加することで裁判に市民
の視点や感覚が反映され、裁判が市民にとってよりわかりやすく身近なものになることを狙
っているわけだが、果たして現実問題として考えた場合、制度がすんなり市民に受け入れ
られ、審理の進行に際して機能するだろうか。問題点と思われる事柄をいくつか検討してみ
よう。
第1に、公判回数と結審までに要する期間の問題がある。98年7月25日、和歌山県のあ
る自治会で開かれた夏祭りでカレー鍋にヒ素が入れられて4人が死亡したいわゆる「和歌山
毒カレー事件」の一審では、99年5月の初公判から02年12月の判決まで3年7ヶ月を要し、
その間に95回もの公判が開かれている。日数にして1304日間に95回だから、単純に計
算すると約2週間に1度の割合で公判が行なわれたことになる。2週間に1度裁判所に足を
運ぶだけなら、さほどの負担にはならないかもしれない。しかし、問題は3年7ヶ月という期
間である。途中で海外に転勤など命じられたらそうそう帰国して裁判所へ行くことはできま
い。つまり、それだけの長期に亘ってそれぞれの職業に就いて社会生活を営んでいる裁判
員が裁判所へ足を運ぶことができるとは考えにくいのである。そうした事情を考慮したのだ
ろうか、市民の過剰な負担を避けるために初公判から結審までの期間を大幅に短縮して集
中的に審理をすることが提案されているが、公判回数がそのままなら和歌山毒カレー事件
の場合は95日間裁判所へ行くことになる。さすがにそれでは無理なので、裁判員裁判で審
理する場合は公判前手続きを行なったり、法廷に提出する証拠を厳選することで公判回数
を1/3に減らし、期間も7週間程度に短縮できると試算されている。それでも7週間で31回
だから、毎週4〜5回は裁判所へ行かなければならない。その間、裁判員に選ばれた人は
仕事をかなりの期間にわたって頻繁に休むことになるわけだが、それが現実的に可能とは
思えない。現時点では、裁判員本人やその人を雇用する側に生じる不利益に対する実効的
な提案は何も公表されていないからだ。
第2に、裁判員に選出された人物の安全確保の問題がある。確かに、裁判員に選ばれた
人物の氏名や住所は公表されないことになっている。また過去の凶悪事件でも裁判官や検
事などが事件関係者によって審理期間中に殺害された例はなかった。しかし、法廷は公開
であるからどんな人物が傍聴しているのかはわからない。そして裁判員は公開の裁判に出
席するのである。当然、被告にも傍聴人に対しても裁判員は顔を晒すことになる。たとえば、
ある犯罪組織に属する人物Aが事件を起こして警察に逮捕され、その容疑者Aに対する裁
判が進められている場合を想定してみよう。その犯罪組織に所属する人間で逮捕されてい
ない人物Bが傍聴に来ていたとする。そして裁判員Cは不特定多数の人と接する職業に従
事していたとしよう。傍聴していた人物Bが裁判員Cの姿を認め、法廷の外で組織ぐるみと
なって裁判員に危害を加えたりする危険は絶無と言い切れるのか。89年11月4日未明に
オウム真理教の信者によって坂本弁護士一家殺人事件が起きたが、あれと類似した虐殺
事件から裁判員の身を守ることは果たしてできるのか。それも要人の身辺警護を担うSPも
ない状態でである。裁判員に選ばれた人物に関する個人情報を厳正に管理するとはいって
も、漏洩の恐れは絶対ないと保障できるのか。また、裁判のため勤め先の勤務を休む場合、
休暇申請の事由として裁判員に選出された旨を上司に申告することになるであろうが、その
結果、裁判員に選ばれた事実が社内に知られることになって、そこから情報が社外へ漏れ
ることは絶対にないのか。はなはだ疑問である。
第3に、審理する事件に関してマスコミによる情報の影響を受ける恐れがある。たとえば
94年6月27日の夜に起きた松本サリン事件では、最初、長野県警が「被疑者不詳の殺人
容疑」としながらも、会社員の河野義行さんの家宅捜索を行い、同宅から薬品類などを押収
した。その後、事件当夜に噴霧された物質がサリンと推断され、それが河野さん宅を含む6
箇所から検出されたことから、長野県警は河野さんへの事情聴取を進めた。そして河野さん
が逮捕されたわけでも送検されたわけでもないのに、7月になってからは河野さんを犯人扱
いする報道が始まった。その中には河野さんに対して「妻殺しを画策し保険金を取ろうと目
論んだ極悪非道な人物」といった書き方をしたものまであった。一般市民は事件に関する情
報の大部分はテレビ・新聞・週刊誌といったマスコミから得るので、裁判員に選出された人
々がマスコミによる「誤った情報」ないし「意図的に操作された偏向的な情報」で事件に対し
て何らかの先入観を持つ恐れは否定できない。ましてや短期間でスピーディーに裁く方針に
したら、真実を見る目のみならず真実にたどり着くために必要な時間も奪われる恐れもある。
上記の3点だけを取り上げても、結局、制度は作ったものの中身は何一つ整備されていな
い。だから実際に裁判員制度を運用して審理を開始した場合、どんな問題が生じるのかも未
知数である。そして何よりも問題なのは裁判員制度自体が、われわれ市民の悲願によって
叶えられた制度ではないという点である。裁判の記事が載るたびに「難しい法律用語や判決
文などをもっとわかりやすくして欲しい」という声は確かにあった。「10年裁判」と揶揄される
ように、あまりにも長期に亘る裁判に対する批判も高まってはいた。しかし、市民が各自の生
活を犠牲にしてまで法廷に「出勤」し、重大な事件の審理を担当し容疑者を自ら裁きたいとい
う世論までは形成されていなかったはずである。だからアンケート調査をみても「自分は裁判
員に選出されたくない」とか「選出されても拒否できるのなら拒否する」と回答する人が多いの
である。
この事実は裁判員制度に限ったことではない。たとえばアメリカの大統領選挙の演説にお
ける聴衆の熱狂ぶりと比べると、我が国の衆議院議員選挙の際に行なわれる首相や各党
党首の演説に対する聴衆の態度は恐ろしいほどしらけている。そのせいか総選挙でさえ投
票率も我が国の場合は低迷している。この差異については、我が国の民主主義の成立過
程に関する問題として捉える必要があるように思う。62年前に日本国憲法が施行されてか
ら我が国は民主主義国家に変貌したが、歴史的にみるとイギリスやフランスが歩んだ道と
同じ過程でそうなったわけではない。イギリスやフランスの場合は、長らく続いた国王の専
制政治に対して市民が結集して血を流して革命を起こし国王の軍隊と戦った末に得た、い
わば「市民が勝ち取った民主主義」である。我が国の場合は第2次世界大戦に無条件降伏
した結果、GHQの草案に基づいて現憲法が公布されたに過ぎず、いわば「アメリカを中心と
する連合軍に押しつけられた民主主義」である。そういう国家であるから、戦後60余年を経
過した現代に至っても「真の民主主義」は市民にも施政者にも根付いていないといえよう。
だから選挙権にしても「市民が勝ち取って得た貴重な権利」という思想がない。そういう事情
を考えず、アメリカの陪審員制度と類似した制度を考案し実行しようとするから、市民に歓迎
されないのではなかろうか。
266「姨捨山と揶揄される後期高齢者医療制度」(4月30日)******************************
いよいよ「平成の姨捨山」と揶揄される後期高齢者医療制度がスタートした。昔の我が国
では、貧乏に喘ぐ一家では、息子が年老いた親を息子が背負い山へ捨てることで、残った
家族が飢えずに暮らすことができるよう食糧を確保し、年寄りには山中で餓死してもらうと
いう悲しい時代があった。しかし、それと同じようなことが行なわれようとしている。
最大の問題点は75歳以上の人は全員、それまで加入していた医療保険を強制的に脱
退させられ、新たに後期高齢者だけの医療保険に組み入れられ、高額な保険料を徴収さ
れるという点だ。
政府は当初、全国の平均で年間74000円程度と説明したが、実際の都道府県の試算で
は9〜10万円のところもあり、かなりの負担になることは間違いない。今までサラリーマン
の被扶養者として健康保険に加入していた人でも、75歳以上の人は新たに保険料を支払
うことになる。しかも本年9月までは負担はなしだが10月から翌年3月までは1割、2009
年度は半額負担と、段階的に増額され、2010年度以降は全額負担になってしまう。しか
も、医療保険料は2年ごとに改定されるということだ。こういう文言がある以上、最初が、い
かに低額であっても安心はできない。「改定」とはつねに「現行よりも高額になる」こと意味
するからだ。
第2に、保険料を支払わないと保険証そのものを没収されてしまう点だ。従来は国家の
公費医療負担を受けている被爆者や障害者と同様に、75歳以上の高齢者に対する保険
証の没収は禁止されていた。医療にかかる権利の剥奪は「死」に直結するという理屈から
である。しかし、後期高齢者医療制度では滞納者に対しては保険証を強制的に取り上げ
ることになっている。取り上げられると病気をした場合の医療費は、たとえ保険適用の範
囲におさまった場合でも全額実費での負担になる。このことは、医療には実質的にかかれ
ないことを意味する。頑健そのもので全く医療の世話になっていなければ、保険証が取り
上げられてもどうということはないだろうが、75歳以上の高齢者では何一つ医療の世話に
なっていない人の方が圧倒的に少ないのだから、保険証の取り上げはまさに致命的だ。
最後に、診療報酬も75歳以上の場合は74歳以下のそれとは別になるという点だ。後期
高齢者の診療報酬を月額6000円の定額制としているからである。つまり、保険適用とな
る診療に上限を設定しているのである。たとえば高血圧や糖尿病といった慢性疾患の場
合、投薬の他にも経過観察するための定期的な画像診断など、いろいろと必要な診療が
ある。しかし定額制になってしまうと、その上限を超えた診療をしても医療保険組合から病
院に支払われなくなる。したがって、病院側としては受診回数を減らし、手厚い治療をしな
い方向に動かざるを得ない。そうしないと病院側が赤字経営になってしまうからだ。過剰診
療や薬漬け、無駄な延命治療がなされなくなる方向に医療が改善されることは確かだが、
同時に、後期高齢者に対しては必要な診療も受けられなくなる恐れが出てくる。たとえば
人工透析が必要な患者の場合でも、ひと月あたりの回数が減らされてしまう。減らしたくな
ければ上限を超えた分は自己負担で賄わなければならなくなる。それが支払えなければ、
どんなに苦しかろうが死ぬことになろうがもうどうしようもない。結果的には「カネがなけれ
ば医療にはかかれない」ということになるわけで、それが「平成の姨捨山」と揶揄される所
以でもある。
昔は高齢者の医療は全額無料というありがたい時代があった。それは国民の多くが高
齢者にならないうちに病に倒れて死亡してしまったため、全人口に対する高齢者の絶対数
が非常に少なかったためである。それが衛生状態の向上で伝染病が激減し、集団検診の
普及で成人病を早期発見・早期治療ができるようになり、さらには医療の進歩で昔なら処
置なしとされていた状態の患者に対しても、手術ができたり延命治療を施すことができたり
して、たとえ余生が寝たきりでも命だけは助かるというケースが増えていった。その結果、
我が国は世界有数の長寿国に伸し上がった。しかし、そのために同時に人口に対する高
齢者の絶対数が爆発的に増えてしまい、従前の市町村単位で運営されている年金制度や
医療保険制度が完全に破綻してしまった。そこで、消費税だの介護保険料だの後期高齢
者医療保険だのと、財源を確保するために、次々と国民から徴収するための制度を新設
することになったのである。そう考えると、「人生50年」と言われ、多くの人が介護を必要と
される年齢に達しないうちに亡くなっていった昔の方が良かったのではないだろうか?人
は誰にでも「死」は平等に訪れるが、同じ病死するにしても、医療技術がないために死んで
いくのと、治療するカネがないから死ぬしかないのとでは意味がまるで違う。後期高齢者医
療保険制度を継続すれば、文字通り、金の切れ目が医療との縁の切れ目になるから、今
後、手遅れになる患者もお年寄りの孤独死も、増加するばかりであろう。
265「迂回時の振替輸送に一言」(4月22日)******************************************
4月は鉄道会社にとって受難の月である。新車の投入やダイヤ改正も概ね3月に行なわ
れるため、3月から5月にかけては初期故障ともいえる信号機や車両の故障が発生しやす
くなるのが一因だ。また、鉄道を利用するお客さんが原因となるダイヤ乱れも多発する。急
病人が出たり線路への転落事故が起きたり、さらには投身自殺を図ったりするからだ。環
境の激変で人々が最もストレスを受けるのはやはり4月なので、こればかりはどうしようも
ない。また、強風や大雨など天候不順な日々が多いのも、この季節の特徴だ。安全運転の
ために列車の速度を落とさざるを得ず、その結果、ダイヤの乱れが生じる。問題はこうした
事情で列車を時刻どおりに運行できなくなった場合の対応である。大幅な遅延や運転見合
わせに対しては、他社の鉄道会社線を経由する振替輸送が行なわれる。今回はこれに対
して問題点を2点指摘したい。
第1に、定期券の利用者に対しては振替輸送の措置がなされても、普通乗車券(当日駅
の自動券売機で購入するきっぷ)に対しては適用外となることだ。たとえばA駅からB駅に
行くのに、本来の鉄道会社の運賃ならば290円で移動できるのに対し、迂回するルートで
は520円を要するといったケースはよくある。距離が長くなるばかりか、複数の鉄道会社
線を利用するために各鉄道会社線の初乗り運賃が加算されるため、迂回した場合の運賃
は本来のルートの場合より高くなるのが常である。定期券の場合は、振替乗車証明書を所
持することで迂回ルートを無賃で利用することができるのだが、この取扱いは普通乗車券
に対しても、本来の経路によるきっぷを購入させた上で適用すべきであろう。そうでないと、
利用者に何の過失もないのに法外な運賃を支払わされることになるし、定期券利用者との
差別が生じる。
第2に、同じ公共交通機関である路線バスも、振替輸送の対象に含めるべきである。関
数の座標でたとえるとこんな感じになるだろう。X軸上にA駅として(3,0)を、Y軸上にB駅
(0,8)を取る。両軸の交点である原点(0,0)をO駅とする。そしてX,Yの両軸を鉄道会
社線と仮定し、X軸をX線、Y軸をY線とする。A駅からB駅へ移動する場合、通常はX線を
O駅まで乗り、ここでY線に乗り換えてB駅まで乗るものとする。問題はX線が何らかの事
情で不通となった場合だ。A駅からY線のC駅へ行く鉄道会社線があれば、それを振替輸
送として乗客に案内するわけだが、その場合、C駅の位置が問題になる。B駅に比較的近
い駅、たとえば(0,15)あたりなら、迂回乗車の候補になりうる。しかし、たとえば、C駅が
(0,−25)といった場合はどうだろう。O駅からB駅へ向かう方向とは逆方向になり、非常
な遠回りを強いられることになってしまう。しかし、Y線のP駅がO駅とB駅との途中(0,1)
にあって、A駅とP駅とを結ぶ路線バスがあった場合はどうだろう。わざわざ逆方向のC駅
まで迂回するよりも短時間で移動できるのだから、そのバス路線も振替輸送の対象の一
つにすべきではないのか。路線バスも公共交通機関だが、大量輸送と定時運転の点では
鉄道に劣るため、振替輸送の対象外としている場合が多い。しかし、このようなケースでは
選択肢の一つとして案内すべきであるし、当然無賃で利用できるようにすべきである。
振替輸送は必要悪である。迂回ルートを無賃で利用できるにしても、利用者に貴重な時
間の浪費を強いるわけだから、しないで済むのなら当然それにこしたことはない。しかし、
何らかの事情でせざるを得ない状況ならば、やむを得まい。その際、それぞれの利用者に
対して最も速く移動できる手段を提示し、誰もが利用できるように案内していただきたいも
のだ。
264「それぞれの学校の実情に即した古典教育を」(4月15日)****************************
国語教育の一つに古典がある。中学校から作品に触れるようになり、高校では原文を
自分で解釈できるように指導している。ただ、その指導のあり方については千差万別で、
それぞれの先生が独自の方法で指導している。中には「古典教育に文法は一切必要が
ない!」と言い切る教員さえいる。しかし、私に言わせれば非常に乱暴な意見だ。確かに
「文法は一切触れる必要がない」といえる学校もあるが、「文法こそ最も必要」な学校もあ
るからだ。つまり、その学校における生徒の実情に即した指導に徹するべきなのである。
それを考慮せず、どこの高校に着任しても同様の指導しかしないことにこそ問題がある。
古典文法に関しては、私も当HP『こてんこてん』で掲載しているが、現状ではどこの高校
でも一律に歴史的仮名遣いから入り、単語と文節の区別をさせ、11の品詞を紹介した後、
動詞の活用から順に進めていく。中には動詞の活用を理解させるだけで3年間が終ってし
まうような高校もあるが、そもそも動詞の活用を教えるのは、その後に扱う付属語の承接
関係が問題になるからだ。付属語を教授指導しないような高校なら、動詞の活用を扱う必
要はないわけで、それを「カ行四段活用はカキククケケ」などと生徒に暗誦させていること
ほど不毛なものはない。
定時制高校や、工業高校など各種の職業課程の高校、さらには、全日制の普通課程で
もいわゆる「教育課題校」とされる高校では、卒業生の進路は大半が就職や専門学校で
ある。そういう高校の生徒は入学試験に古典が課されるような大学へは受験しない。とい
うことは、入試に対応できる学力を養成する必要もないわけである。また、大学受験に挑
む生徒がいるような高校であっても、その中身はまちまちだ。当HPの塾長の在籍された
高校のように入学時から理系の教育課程で学ぶ高校では、生徒が古典を受験する可能
性は非常に低くなる。ということは、文法や単語のテストを繰り返して、ひたすら入試に対
応する学力を培う必要性は低くなる。そういう教育現場で重箱の隅をつつくような文法を
講義するのは古典の授業を無味乾燥なものにさせるだけで、生徒も退屈な思いをするの
は当然だ。教科書の作品を扱うにしても、たとえば物語なら配役を決めて班ごとに劇をさ
せてみたり、作品や作者について自由に調べさせたりと、いくらでも指導の方法はある。
百人一首に興じるのも悪くない。文法を中心に進めて文の中身ばかり分析するよりも、い
ろいろと古典の教材を使って楽しいことを企画しようと思えばできるのだ。現に、塾長は私
のブログの記事に対し、ご自身の受けた古典の授業については「文法中心に読み下す授
業でとてもつまらなかった思い出があります」とコメントをされていた。「文法なんか気にし
ないで、その時代の人になったつもりで、朗々と古文を読んでくれたら、さぞ楽しい授業に
なったろうな!」とも述懐されていた。全く、もっともな感想である。
しかし、中堅校以上、さらには「進学校」と言われる高校の現場で教鞭をとるのなら、事
情は一変する。原典の文章を初見で、しかも入試という極めて制約された時間内に、精緻
かつ的確に解釈する力が求められるからである。そういう試験に対応できるようになるた
めには、外国語の学習と同様に一から確実に学習し理解すべきことはしっかり理解すべ
きである。ちなみに古典は外国語と思ったほうがよい。なまじ平仮名や漢字で書かれてい
るから、日本語にしか見えないが、完全に外国語の勉強と同じ物だと思って取り組むべき
である。なぜなら、現代の日本語とは語彙も文法も大きく異なるからだ。外国語を学ぶの
に語彙力と文法力が求められるのは言うまでもない。次の英文で考えてみよう。
I am a teacher.
この文を「私は先生です」と和訳するだけなら
(ア)”T”が「私」という意味を表す代名詞であること。
(イ)”teacher”が「先生」という意味を表す名詞であること。
という語彙力があれば何とかなるだろう。しかし、入試において他の文にも応用できるよう
になるためには
(ウ)”T”が一人称単数の場合に用いる主格を表す代名詞で文の主語となること。
(エ)”teacher”がこの文では補語となること。
(オ)”am”が一人称単数の場合に限って使われるbe動詞で述語となること。
(カ)したがって”teacher”の手前に”a”という冠詞を伴うこと。
(キ)文の構成要素として主語→述語→補語の順に配列されること。
という5つの文法事項を知っていなければならない。つまり、乳幼児から当該国の言語環境
に育った場合を除き、外国語の習得に際しては語彙と文法がその両輪となるのである。従
って、語彙も文法も現代語と大きく異なる古典教育に関しても、これらは必要不可欠なもの
となる。これを曖昧にして解釈するのは、公式を知らずに我流で方程式を解くようなもので
ある。だから「雨降りぬ」と「雨ぞ降らぬ」との区別ができず、「雨降りぬ」と書かれた文を、い
つまでたっても「雨が降らない」と現代語訳する愚を犯すことになるのである。
私は進学校に勤めているときは、教科書の作品講読とは別に、毎時間文法事項を扱い、
その理解度を見る目的として、授業の冒頭に確認テストを実施している。また単語に関して
も試験範囲を決めて毎回出題している。そうやって繰りかえし指導することで定着を図って
いる。教科書の作品講読にしても、なぜそういう現代語訳になるのかがわかるよう、理論的
に指導していかなければならない。そして最終的には使われている語彙も文法も全て生徒
に調べてもらい、調べたことを生徒に教壇で発表させる形態を採っている。これは、数学の
授業で先生が黒板に問題を記し、それを生徒に解いてもらうのと同じである。泳ぎ方を説明
されるだけではダメで、やはり自ら水に入り身体を動かさなければ泳ぎ方を習得できないの
と同じ理屈である。授業で生徒が古文の解釈を人に説明できる段階にまでもっていかない
と、難関とされる私大や国公立に通用する学力には到達できない。当然、文章ではなく、個
々の文を単語レベルで分析する能力が求められる。
要はそうした指導が必要な学校と不要な学校があるということである。教育というものは、
何でもかんでも一律にすれば良いというものではない。特に高校は学校ごとにその実情は
千差万別である。自分の教授スタイルを一定にせず、受益者たる当該校の生徒の多数が
満足できるような指導を展開することを教員はつねに心がけるべきであろう。
263「3年目を迎えた我が家のバラ」(4月 6日)****************************************
久しぶりに自宅で栽培している鉢植えのバラの話題をしよう。今年の正月、私は関西か
ら戻ったときにかなり大胆に剪定した。前年に枝は株元から90cm以上伸びていたのだが、
それを1/3にまで切り落とした。いわゆる「強剪定」にして芽を少数精鋭にしようという狙い
である。芽の数を増やしてしまうと、それぞれの芽に養分が分散されてしまう、いわゆる「バ
ラ撒き財政」になってしまうからだ。それでは個々の枝葉も花も貧弱なものになってしまう。
だから思い切って剪定したのだが、バラの方がびっくりしたのだろうか、3月になって芽が
出始めると、この1ヶ月間で25個も数えるほどになった。それも、1ヶ月前、まだ真冬同様
の低い気温にもかかわらず、枝からわずかに赤く膨れていた芽が出てきたのには驚いた。
それらの芽を全部伸長させるわけにはいかないので、葉や枝が出る前に芽そのものをい
くつか摘み取る必要がある。これを「芽欠き」という。バラの栽培にとっては欠かすことので
きない作業だ。基本的に次の3点が芽欠きの対象となる。
(ア)株の下部に出たもの
(イ)内側へ向けて伸びる恐れのあるもの
(ウ)同じ枝から出た芽が異常に多い場合
まず、(ア)について。植物にとって日当たりが大切なことは言うまでもないが、バラの場合
は、特に枝や葉への日照以上に、株元への日照が重要になる。株元に近い場所に葉が
茂ってしまうと株元への日当たりが悪くなってしまうので、上部の芽だけ伸びるようにして、
残りは切り落としたほうが良い。次に(イ)についてだが、内側へ伸びる芽も好ましくない。
枝や葉が込みいることで、葉への風通しが悪くなるからだ。それは病気のもとになる。バ
ラの葉にとっては日照以上に風通しは非常に重要な生育条件になるので、できるだけ風
通しを良くするためにも、外側へ向かっている芽だけを伸ばすようにする。最後に(ウ)に
ついてはだが、同一の枝からの芽は多くても3つ以内にしたい。多いとそれだけ養分が分
散されてしまうからである。
というわけで、バラ栽培の本やインターネットから得た情報をもとに、芽欠きをやっている
わけだか、いざ、枝を眼前にすると、「さて、どの芽を切り落とそうか」と結構迷うものだ。優
柔不断な私の性格も災いし、芽を前にして30分くらいはすぐに経ってしまう。「もう少し様子
を見てから切るか」などと悠長なことを考えていると、あっという間に伸びてしまうので一刻
の猶予も許されない。だから迷いながらも、明らかに悪影響を及ぼしそうなものだけを芽欠
きしたのだが、さて、どうなることだろうか。
それにしても、3年目の今年の株は昨年以上に元気な感じがする。25個も芽が出てきた
のがその証拠だと思う。ゴールデンウィークに突入する1ヶ月後には、第1番花が咲くことだ
ろう。環境が劇的に変化する4月、「今年度は無事に務まるだろうか」という不安が100%
で、始業式を迎えることが非常に憂鬱な今、バラの開花だけが楽しみである。
262「都知事と都議会は誰のため?」(4月 2日)***************************************
2004年、都知事2期目の選挙公約で「新銀行東京」が設立された。中小企業の振興を
目的とし、都が1000億円を出資してスタートした。しかし2007年には累積赤字が1000
億円になり、今や破綻寸前だという。もうこれ以上被害を拡大させないためには、清算する
という手段しかないはずだ。だが、石原都知事は新たに400億円の追加出資に踏み切る
ことを決意した。都民の多くがこれに反対し石原都知事の責任を指摘しているにもかかわ
らず、ついに与党の賛成多数で可決させてしまった。当然、都民の税金から賄われるので、
結果として1世帯当たり6520円を負担することになる。
この一件で私が最も許せないのは、昨年の都知事選では新銀行の実情を一言も都民に
報告していなかったことである。自ら提唱して設立した銀行なのであるから、「私は『新銀行
東京』の経営が危機的な状況になっていることなど知らなかった」では、知事として済まされ
ないはずだ。それにもかかわらず、選挙期間中はおくびにも出さずに、当選してから巨額の
累積赤字を発表して都民にさらなる税負担を求める。これでは都民への裏切り行為以外の
何物でもない。こういうことは何も石原都知事に限ったことではないが、選挙が近づくと自分
に都合の悪い情報をひた隠しにし、当選してから堂々と公表するという態度は、いつまでも
政権にしがみついていたいという政治家の常套手段のように思われてならない。新銀行東
京が杜撰な融資を繰り返したために赤字が膨らんだという事実を知っていて隠したのなら、
当然石原都知事は引責辞任すべきだし、本当に経営状況の実態を知らなかったのだとし
たら、都の管理責任を問われてしかるべきであり、これも引責辞任すべきだろう。都知事は
今まで新銀行の経営悪化について自分が任命した元経営陣を都議会に召喚して、証人喚
問することすらしてこなかった。ここまで放任してきたことにする責任を当然取らなければな
らない。
問題は都知事だけではない。議会、とりわけ自民・公明の両党の議員まで、なぜ追加出
資の賛成に加担したのか。それも不可解だ。都議会議員は都民の代表である。都民の70
%以上が追加出資に反対しているというのだから都民の代表たる議員ならば全員が反対
し、都知事を孤立無援にするくらいの強硬な態度に出ても良さそうなものだ。それなのに、
あっさりと可決させてしまっている。都民に対して安易に税金の負担を求める側に回ったこ
とに対する責任も決して軽くはあるまい。自分が負担するわけではないからどうでも良いと
いう態度で賛成に回ったとしたら、これも都民に対する背信行為以外の何物でもあるまい。
都議会は都知事の行政を常に監視し、少しでも納得できない点は厳しく追及するという都
政のチェック機能をも任されている。石原都知事の言いなりでは、都政に対する都議会の
機能も完全に喪失しているとしか思えない。
400億円の追加出資に関して具体的な説明が何一つないことも問題にしなければなる
まい。いわゆる「説明責任」が果たされていないからだ。そもそも「400億」という数字がど
こからでてきたのか。これすら知らされていない。だから、350億円ではダメで、400億円
なら経営を再建できるという根拠も何も示されていない。金融業界の専門家に言わせると、
もともと新銀行の設立そのものに無理があったという。だから遠からぬうちに経営破綻に
陥ることは自明だったともいう。さらには、400億円追加出資で再建が果たせる可能性も
ほとんどないという指摘までなされている。金融の専門家がそのように指摘するにもかか
わらず、そんな意見も聞かずに「やってみなければわからない」とばかりに追加出資に踏
み切るのでは博打と同じではあるまいか。これで累積赤字が解消できなかったら今度は
どうするのか。さらなる追加出資で600億などと言い出すだろうことは目に見えている。そ
んなものに税金を投入するくらいなら、介護なり福祉なり、弱者を救済する用途に回すべ
きであることは言うまでもあるまい。そもそも、都知事や都議会は都民の利益を最優先に
考える機関ではないのか。いつまでも知事室の椅子に座り続けていようとする石原都知事
と、追加出資に賛成した議員は直ちに辞めて政治の原点に帰るべきであろう。
261「taspoは無意味」(3月30日)***************************************************
今年度からたばこの自動販売機では”taspo”と呼ばれる成人識別カードを所持していな
いと購入できないことになる。既に鹿児島・宮崎の両県では先行的に導入されている。今後
は
第1次導入エリア――北海道・東北・中国・四国の全域と、
鹿児島県・宮崎県以外の九州地方
第2次導入エリア――近畿・東海・北陸地方の全域
第3時導入エリア――関東地方の全域
という計画が立てられている。導入の開始時期は第1次導入エリアが5月で、以後1ヶ月ご
とにずらしていくので、最終的には7月の時点で日本全国の自動販売機で taspo が必要と
なる。未成年者に対してたばこを買わせないようにするための措置だが、果たして実効性は
あるのだろうか。
システムの概要と手続きを解説するとこうなる。愛煙家はまず taspo を発行してもらわな
ければならない。そのためにはホームページでダウンロードするか、あるいはたばこの販売
店に置かれている申込用紙を入手し、それに必要事項を記入する。そして海外旅行の時に
必要になるパスポートと同様に証明写真を用意し、運転免許証など公的機関が発行した身
分証明書類の複写を添付して社団法人 taspo 運営センターへ郵送して申請する。すると
2週間後に taspo が届く。たばこの購入時はこれまでどおり、現金を投入し商品を選択し
てから、カードの読み取り部分に taspo をタッチすることを求められる。taspo
のタッチが
なされないと、たとえ現金を投入しても商品は決して出てこないというシステムだ。
しかし、このシステムは何の意味もなさないと思う。理由は、taspo を所持しているか否か
しか問題にしていないからだ。 taspo を持っていれば未成年でも購入できることになってし
まうからである。逆に、たとえ成人でも taspo を持っていないと購入することができないとい
うのも不毛な話だ。結局、自動販売機で購入できるというシステムそのものを改めない限り、
どうすることもできないのである。これは鉄道各社が導入している自動券売機と自動改札機
についても同じことが言える。東京や大阪の大都市の鉄道では、どこも自動券売機で乗車
券を購入し自動改札機を通過するという方式になって久しいが、小児運賃のきっぷを購入し
それを大人が投入しても、購入した区間さえ正しければ改札機のゲートが開いてしまう。つ
まり、機械は大人か子どもかまでは識別できず、あくまでも監視している駅員の判断に委ね
られているということだ。したがって駅員の監視が不十分だと、小児運賃で大人が乗るとい
う不正乗車はいくらでもできることになってしまう。酒類やたばこの自動販売機についても同
様の愚を犯している。 taspo を他人に貸してしまえば誰でも購入できるのだから、未成年
者に買わせないようにする実効性は全くないと言ってよい。もちろん taspo
の貸与は当然
禁止されている。だが、全国の警察官が貸与した瞬間を逮捕することなどできないのだか
ら、いくら禁止と明記しても何の意味もなさない。 taspo に貼付された顔写真と実際に買い
に来た人物の顔とを機械が照合するシステムにでもすれば話は別だろう。だが、そんな精
巧な識別システムにすることが現実的ではないことは明らかだ。全国に何千万台と存在す
る自動販売機のコストが、非常に高騰してしまうからである。
本当に未成年者に買わせないようにしたければ、対面販売に限る。それも民間の店舗で
はなく、交番・派出所・警察署でしか購入できないようにするのが良い。警察が窓口となっ
ていれば、もし年齢を偽るなどの不正な購入をしようとしたら、その瞬間に現行犯逮捕がで
きる利点がある。この方式をたばこのみならずアルコール類と、ナイフ・包丁などの凶器の
販売に対しても適用すべきだ。購入しようとしている人物を警察官が厳正に見極めてから
販売する。そうすれば、どこかの量販店でナイフや包丁を購入してそのまま街頭で無差別
殺人を犯すといった凶悪な犯罪も、少しは予防できるのではなかろうか。