菅ちゃんの呟き
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230「2007年参議院議員選挙の結果をみて」(7月31日)*******************************
 一昨日、2007年参議院議員選挙が投開票され、その日の深夜に結果が判明した。自
民・公明の与党2党は惨敗に終り、代わりに民主党が圧勝した。このため121の非改選
議席も含めた参議院における与野党の勢力は完全に逆転した。それだけ「怒りの一票」が
民主党に流れたというのが各党や政治評論家の共通した見解である。だが、それにしても
私にとってはまだまだ物足りない選挙結果であった。感じたままをここで列挙してみたい。
 第1に、民主党以外の野党各党の得票数が全く伸びなかったことだ。だから民主党が当
選した1人区の次点は全て自民党の候補者であり、2人区の全てで自民・民主が1人ずつ
当選してしまった。たとえば4人が立候補した1人区の青森県を例にみると、当選した平山
幸司氏(民主)の得票が305642票。これに対し、次点となった山崎力氏(自民)のそれは
248782票である。次点とはいえ、わずか約57000票の差でしかない。ちなみに、3位の
渡辺英彦氏(社民)は37370票、4位の高柳博明氏(共産)は32014票で、次点の山崎
氏とは比べ物にならない。同じく4人が立候補した2人区の宮城県を例にみると、トップ当
選が岡崎トミ子氏(民主)で549183票、2位は愛知治郎氏(自民)の359099票である。
愛知氏は当選したとはいうものの岡崎氏に19万票余り水をあけられたことになるが、次
点となった加藤幹夫氏(共産)は71689票、4位は岸田清実氏(社民)は61349票だか
ら、やはり落選した2氏とは比較にならない得票数である。こういった傾向は例に出した青
森と宮城以外の選挙区でも大同小異であった。この事実はこれからの日本の政治は自民
と民社による二大政党になりつつあるという見方もできる。だが、本当に安倍政権に対す
る「怒りの一票」になるのなら、2位以下も社民党なり共産党といった野党の得票が伸びて
自民党の候補者こそわずかな得票で最下位に転落といった結果になって良さそうなものだ。
しかし、そうはならなかった。これには正直に言って呆れた。「惨敗」とはいえ、選挙区だけ
でみても23人、比例区を合わせると36人もの自民党公認候補者が当選している。決して
1人や2人しか当選できなかったというほどの「惨敗」ではない。1人区でも和歌山・山口・
鹿児島・大分では逆風にもかかわらず自民が当選しているくらいだから、あれだけの悪政
にもかかわらず自民党を支持して投票する有権者がまだまだ少なくないということである。
どうしてそんなに支持する気持になれるのか、私には理解に苦しむばかりだ。
 第2に、有権者の関心が高かった選挙であったという割には、投票率が58.66%でしか
なかったことだ。当日の投票が不都合な有権者にも配慮して期日前投票を行ないやすい
環境にしたにもかかわらず、この数字でしかない。私の投票所にいたっては午後7時の時
点でも40%そこそこしかなかった。本当に安倍政権の施政に対する怒りが沸点に達して
いるのなら投票率が80%・90%と跳ね上がってしかるべきだが、そうはならなかった。有
権者の心中に「安倍内閣が失脚したところで、民主党も信頼できない。所詮誰がやっても
世の中は良くはならない」という政治不信があったからなのか、それとも「自分が怒りの一
票を投じたところで政治は変わりやしない」という諦観からなのか、とにかく投票率は私の
想像したほどは向上しなかった。これはいったいどういうことなのだろう。
 第3に、安倍政権に対する国民の審判が下った選挙にもかかわらず、当の安倍首相が
続投を表明したことだ。選挙報道番組では「厳しい選挙結果になった」とは言っていたが、
心底から「惨敗した」とは思っていないのだろう。第1の点でも述べたように1人区の次点
はほとんどが自民、2人区では民社と自民とで1人ずつ当選を果たしたから、「自分の政
策も一定の信任を得られた」とでも思っているのかも知れない。これが「選挙区で誰一人
当選しなかった」という結果にでもなれば、さすがの安倍首相も心から惨敗したと感じるの
だろうが、そうはならなかったからだ。私としては改選前の全議席を失うぐらいの惨敗にな
り、その日のうちに辞意を決意することを予想していたのだが、比例区でも民主党の787
万4566票に対して自民党も567万7881票も獲得したのだから、安倍首相としても「こ
れなら辞意を決意するほど深刻な数字ではない」という認識なのだろう。
 だが、今回の選挙結果は事実上安倍政権に対する不信任以外の何物でもないと思う。
安倍内閣が発足してからというもの、評価できる政策はほとんどなかったように思う。むし
ろ心証を悪くするものばかりであったといっても良かろう。自分の同志だけで組閣した内
閣のためか、各閣僚には緊張感がなく問題発言やカネの不祥事による辞任(1人は自殺)
が後を絶たなかった。年金問題では納付記録の消失や徴収した年金の流用が発覚し、多
くの国民を不安に陥れ反感を買った。憲法改悪にも道筋をつけるような重要法案に対して
も充実した審議もせず、数にものを言わせて次々と強行採決した。税源の移譲で住民税
が3倍前後に跳ね上がったが、所得税を減税しても定率減税を全廃したために実質的に
は多くの国民にとって厳しい増税となった。「ネットカフェ難民」や「年金難民」といった言葉
に代表されるように、弱者切捨ての政治は依然として改まっていない。農家にも厳しい政
策で臨んだため、東北・北陸・山陰・四国などの有権者には「地方切捨ての政治」としか映
らなかった。そういった数々の悪政の結果が今回の獲得議席になったのである。東北や
四国などの1人区でこれまで自民党以外の議員の当選がなかった選挙区ですら民主党に
奪われたのは、まさに有権者が「怒りの一票」を投じたからである。それにもかかわらず、
「私の国造りはスタートしたばかりで、 総理としての責任を果たしていかなければならない」
と憚ることなく公言して続投の意志を表明するとは、いったいどういう神経なのか。「私の国
造り」に対して「不信任」という有権者の厳しい審判が下ったにもかかわらず、それを「不信
任」とも思わずに続投すのは、ただ単に総理大臣の椅子にしがみついていたいという私利
私欲でしかあるまい。

    (塾長コメント: 菅ちゃんと同意見です。安倍政権に対する国民の審判が下りたのに全く意に
             介さないというのは国会議員という資格すらないですね。国民の付託を受けて
             政治をやっている以上国民の民意に忠実に従うべきです。「しばらくは痛みに耐
             えて...」とか「美しい日本をつくる...」とか美辞麗句を並べても、それが通
             用したのは小泉政権まで。もうその言葉の裏の意味を国民みんなが知ってしま
             った以上は潔く政権から退陣すべきです。安倍さんに、このまま日本を託すこと
             は非常に心配です。当初の安倍さんの清新なイメージに国民みんながだまされ
             ました。結局は国民不在、企業丸儲けというこれまでの自民党の体質に復古し
             ただけだったんですね!しかも、自らの責を問わないで人心を一新するために内
             閣の改造を行うとか。これではまさに「トカゲの尻尾切り」。一生懸命取り組んで
             いる方は、やり切れないですね!安倍さんそのものに退陣して欲しいのですが。)

229「原子力に代わる発電所を作れ」(7月24日)***************************************
 「あなたの家のすぐ近くに原子力発電所を建設します」――こう言われて喜ぶ人や賛成す
る人はまずいないだろう。それは原子力発電所では常時核燃料を使用しており、ひとたび
事故が発生すれば近隣の住民に対して未曾有の重篤な被害をもたらすことが容易に想像
されるからだ。そのことをきわめて現実的に教えてくれたのが今回の新潟県の中越地方で
起きた大地震であると思う。
 被災地となった新潟県柏崎市には柏崎刈羽原子力発電所がある。地震直後、3号機の
建屋の脇にある変圧器から火災が発生した。出火原因は変圧器周辺の地盤が沈下して
変圧器内の電気を流す銅帯が周辺の金属と接触したことによる。同時に、この地震で地下
の消火施設も損壊したため消火活動もできなくなってしまった。さらに放射能を含んだ水が
原子炉建屋から外部に漏出していることが判明しており、IAEA(国際原子力機関)の調査
を受け入れる事態にまでなってしまった。こちらの方が地震よりもはるかに恐ろしい。
 この柏崎刈羽原子力発電所は今回の事故のみならず以前からトラブルの連続であった。
90年代にはトラブルを発見していたにもかかわらず検査結果や修理記録を改ざんし、県や
市に対して虚偽の報告をしていた。01年には使用済みの核燃料を再利用するプルサーマ
ル計画が出され、近隣住民と激しく対立した。04年10月には新潟県中越地震が発生した
が、その当時も使用済みの燃料プールから放射性物質を含有した水が漏出していたことが
後日になって判明した。さらに今年の3月にも原子炉の故障を隠蔽していた事実が発覚して
いる。そして今度の地震による変圧器の火災と放射能の漏出事故だ。これだけ事故や不祥
事が相次げば近隣の市民の不信感が高まるのは当然である。会田洋柏崎市長は、柏崎刈
羽原発に対して緊急使用停止命令を出したが、市民の代表として選出された市長の立場と
しては至極当然の決断と言える。
 安全より利潤を優先してきた柏崎刈羽原子力発電所の企業体質を直ちに改めてもらわな
ければならないのは言うまでもない。しかし、それだけでは事態の解決にはならない。いか
に柏崎刈羽原子力発電所が誠意ある対応をし不祥事が根絶できたところで、地震という天
災の前では人知の及ばない部分がまだまだあるからだ。日本列島は環太平洋火山帯にあ
って、まさしく「地震王国」ともいえる国である。活断層は無数といってよいほど存在するし、
列島のどこでも大地震が発生する恐れがある。柏崎刈羽原子力発電所にしても過去の地
震のデータから「これだけ頑健に建設すれば大丈夫だ」と考えて建設したのだろうが、そん
な浅はかな考えは早晩自然災害の前ではガラガラと音を立てて崩れていくにものなのだ。
そもそもいつ大地震が発生するかわからないこの国に危険な核燃料を取り扱う原子力発
電所を建設して稼動させている国の施策自体が問題なのだ。原子力に代わる発電方法を
研究・開発し、原子力に依らない発電所の建設を急ぐべきではないのだろうか。それが国
家に課せられた「国民の健康と安全を守る責務」だと思う。これだけ科学技術や生活水準
が向上した今さら、電気のない生活はもはや考えられない。しかし、これだけは言える。放
射能で殺されるよりは電気のない生活の方がずっとましなのである。

228「何でも携帯電話任せでよいのか」(7月17日)*************************************
 神奈川県厚木市にある神奈川工科大学では、学生の授業への出欠確認を携帯電話で
行なっているという。今や大学生で携帯電話を所有していない人は皆無だし、携帯電話な
ら忘れることも他人に貸すことも有り得ないから、欠席している学生の分まで代わりに返事
して出席を認定してもらおうという「代返」も不可能になり、フェアになったと学生・教員双方
から好評だという。こういうシステムにすれば学生の所在確認も容易にできる。大学生に
は不要だろうが、たとえば児童・生徒に携帯電話を所持させて校門を通過した時刻を入力
させ保護者に通知すれば、子どもの所在も容易に知ることができる。自宅から学校までが
遠くて児童・生徒が電車で通学しているのならば、改札機を通過した時点でも所在地の情
報を入力できる。将来は信号機や電信柱にも端末を埋め込んで、より詳細な所在地情報
を知ることもできるだろう。そこまで実現すれば登下校中や外出先での子どもを狙う犯罪
の抑止力として大いに機能するに違いない。
 しかし、何でもかんでも携帯電話に任せるのは感心しない。最近は電車やバスを待つと
きも、目的地の到着まで車内で過ごすときも、ずっと携帯電話の画面を見て操作している
人が著しく増えた。メールを送受信しているのか、ゲームに興じているのか、それともイン
ターネットに接続して知りたい情報を入手しているのか。それは定かではないが、とにかく
少しでも時間さえあれば携帯電話を操作している。まるで携帯電話がないと生きているこ
とすらできないかのような有様だ。レストランに夫婦やカップルで入店して注文したメニュー
が食卓に並ぶのを待っている間、会話もせず各自が携帯電話の画面に見入っている風景
も珍しくなくなった。これではコミュニケーション能力が失われ、他人の心情を推察すること
ができなくなるのも自明である。
 「今月の行事予定」や「期末試験の日程表」など、クラスの担任教員が生徒に周知すべ
き掲示物を貼りだすと生徒は砂糖に群がる蟻のように殺到する。そこまでは今も昔も同じ
だが、昔は貼り出した掲示物を見ては小さな生徒手帳にせっせとメモしたものだ。それが
今では一斉に携帯電話で掲示物を撮影している。確かにそのほうが便利だ。時間も節約
できるし、紙も筆記用具も消費せずに情報を知ることができる。保存すれば掲示内容をい
つでも見ることができるし、将来不要になればその時点で削除すれば良い。もっとカメラの
解像度が良くなって、携帯電話で撮影した画像を手軽に印刷機に接続できるようになれば、
授業中に教員が黒板に書かれた内容をノートに書き写す生徒もいなくなるに違いない。教
員はチョークの粉塵で袖を真っ白にして黒板いっぱいに書くが、生徒はやおら携帯電話を
取り出して「カシャ」と一瞬にして「書き写し」てしまう。遠からぬうちにそんな時代が到来す
るような気がする。
 文明の利器を駆使していることには違いないが、その結果、文字を書く機会が確実に減
ってしまっていることは確かだ。そうでなくても年賀状や暑中見舞いなどの礼状や起案文書
などの書類は、手書きの時代から定型文を少々いじるだけで作成できるパソコンのソフト
に任せるのが当たり前になってしまっている。大学の卒業論文や就職試験の出願書類も
電子メールでの作成・送信が常識になっている。だから現代の日本人はせっかく小・中学
校で漢字を覚えても、大人になればなるほど書く機会は減っていくのである。その証拠に、
大人の大部分は「読めるが正確には書けない漢字」が増えつつある。携帯電話やパソコン
という「機械」が本人に代わって漢字変換をしてくれるのだから、本人は漢字を覚えている
必要性がなくなってしまうのである。久しい以前に中曽根康弘首相が日米両国民の識字率
を比較し、アメリカ人のそれが低いと公言し物議をかもしたことがあったが、これからはもう
アメリカ人の識字率を笑えなくなるだろう。
 最近では知人・友人の電話番号はおろか、自分の家の電話番号すら知らない人が少な
くないという。昔なら考えられないことだ。しかし電話番号にしろ住所にしろ携帯電話という
「機械」に記憶させているのだから、その機械を所有している主が覚えなくなるのも必然の
結果であろう。挙句の果てには住所も生年月日も氏名も、携帯電話を見ないことには言え
なくなる時代になってしまうのではないだろうか。それではあたかも認知症の患者と一緒で
はないか。全く情けない限りだ。

    (塾長コメント: 菅ちゃんは、「もしかしたら算盤が電卓にとって代わった結果、日本人の計算
             能力が落ちたという現象があったのでしょうか?」と上記の文章に添えて心配し
             ていますが、多少影響はあるにしても、それは主原因ではないと私は考えます。
             むしろ計算能力を鍛えなければいけない小学校の時期に、学習についていけな
             い児童を減らすためかどうか分からないが、学ぶべき内容、時間を削減してきた
             ことに大きな原因があると思います。小数点以下2桁の小数計算をやっていない
             ので円周率は3として計算するなんていうのは記憶に新しいところです。計算能
             力の低下は文部行政のミスから誘発された当然の帰結と考えられます。もっとも
             それに乗じて益々勉強しなくなった児童・生徒側にも課題はありますが...。
              最近、生徒の板書写しが非常に時間がかかるのも普段書き慣れていないから
             でしょうか?要点だけをメモれば直ぐ済むと思うのですが、時間がかかる子ほど
             黒板の一言一句すべてを、黒板での書かれた位置まで正確に写そうとしていま
             す。まさに黒板のコピーをとるような状態です。ですから、流れに関係ないことも
             書いてあって、後で読み返しても意味不明になること必定です。計算能力も心配
             ですが、これらの書写能力の低下も心配ですね。)

227「選挙の開票作業に不正はないのか?」(7月10日)********************************
 いよいよ参議院議員選挙が近づいてきた。統一地方選挙でも国会議員でもそうだが、選
挙の時期になると新聞各社は有権者に世論調査を行なうのが常だ。「あなたの支持する政
党は何ですか」「あなたは現内閣を支持しますか」といった質問をし、その結果を年齢別・男
女別などに分類して調査結果を報じている。それを見ると、たまたま政権与党である自民党
に逆風が吹いていて、自民党やその内閣に対して支持率が急落していることも少なくない。
しかし、そんな苦境に立たされていても選挙が終れば、どういうわけか与党はやはり自民党
なのだ。「今の内閣や与党をあなたは支持しますか?」の問いに「支持する」が35%しかな
かった場合、投票終了後の開票結果もそうならなければおかしいはずだ。ところが現実は
与党の圧勝だったりして、驚くほど違うことが少なくない。新聞社の報じる「内閣支持率」や
「あなたの支持政党」が全く開票結果に直結していないのだ。
 今月12日に告示される参議院議員選挙でも、恐らくそれは変わらないだろう。延べ5000
万件とも推定される「消えた年金」問題で多くの国民を不安に陥れ、各種の控除や定率減
税の廃止などによる税負担増で国民の反感を買っている。小泉前首相が「将来の日本の
ために今、痛みに耐えよう」と呼びかけて構造改革をはじめとする痛みを伴う改革に着手し
てから、もういったい何年が経過したのだろうか。「骨太の方針」だか何だか知らないが、そ
ういうことをやればやるほど国民が苦しい思いを強いられていくだけのような気がしてならな
い。バブルの崩壊による不良債権の処理はもうとっくに終ったはずなのに、依然として国民
が好景気を実感できる状況には至っていない。否、政府は「いざなぎを超える史上最長の
好景気だ」と豪語している。だが、契約社員やフリーターは何百万人も残存していて格差社
会は全く是正されていないし、年間3万人以上もの国民が自殺している状況も相変わらず
である。そんなひどい世の中が続いているにもかかわらず、選挙をすれば与党が過半数を
獲得し自民党が引き続き政権を握ることになるのだろう。なぜ、そうなるのか。それがまっ
たくもって不可解だ。
 職場で同僚と話していてもそうである。誰もが自民党政権の施政に対して歓迎していない。
「自民党はホンマに碌な党やないけど、たまにはええ事やってくれはるなぁ」という声すら聞
かれない。もっとも「その同僚は私の意見にわざと同調して心とは違うことを言っているだけ
だ」と言われてしまえばそれまでだ。しかし、もし本心で物を言っているとするならば、職場
の同僚の90%近くは現在の内閣や与党を評価も支持もしていないはずだ。逆に内閣や与
党を「支持する」あるいは「高く評価している」という意見の持ち主には、過去にお目にかか
ったためしがない。それでも選挙をすると「あの人はもう2度と当選しないだろう」と思われる
人が再選されたり、「今度は過半数も確保できないだろう」と思われる党が楽勝だったりす
る。なぜ、そうなるのか。
 ここで大胆に推理させてもらうが、このからくりは投票終了直後から行なわれる開票作業
にあるのではなかろうか。つまり、選挙管理委員会の行なう開票作業が適正に行なわれて
いないのではないかという推理だ。たとえば自民党の得票数を実際の1.5倍にする一方で、
民主党や共産党など野党各党の得票数は0.5倍にするなどして実際の得票とは異なる数
を「得票数」にして公表しているのではなかろうか。そうでもしなければ世論調査で35%しか
支持されていない政党や内閣が選挙に勝てるはずがない。以前、広く市民の声を聴くべき
場であるタウンミーティングの人選や一般人からの質問内容が完全に政府与党の「やらせ」
だったというとんでもない事実があった。それと同じで選挙結果も「やらせ」なのではなかろ
うか。このように推理したくなるのは、開票作業が密室で行なわれているという事実による。
有権者は勿論のこと当該選挙に立候補した本人やその親族ですら開票作業場所への立ち
入りは一切禁止されている。つまり、我々は有権者の記した文字を一票一票自分の目で確
認することは全くできない。だから、選挙管理委員会が政府与党と癒着した関係になってい
れば、いくらでも不正工作ができるはずだ。開票したら与党の得票はやはり新聞社の世論
調査と同じく35%にしか達していなかった。このままでは政権を手放さなければならなくな
る。だから1.5倍にして52.5%の議席を獲得したことにして報道機関に公表しておこう。
そんな不正が行なわれているような気がしてならない。
 もし、そんな選挙が過去何十年にも亘って連綿と続けられていたのだとしたら、過去の選
挙結果も根底から覆されることになるし、この国の議会制民主主義とは有名無実なもので
しかなかったことになる。そんな空恐ろしいことは私も考えたくもないのだが、汚職で逮捕さ
れるような政治家が事件後に当選したりする現状を見るにつけ、開票作業に疑義を感じず
にはいられないのが正直なところだ。みなさんは、開票結果に疑いを持ったことはないのだ
ろうか?

    (塾長コメント: 投票率が100%なら報道の通りの結果になるでしょう...。ただ批判的な人
             ほど選挙に行かないということもあって、投票率が低いときに固定票を持ってい
             る党が有利になっているのだと思います。今回の投票日を7月29日という夏休
             み中に設定したのも選挙に危機意識を持つ自民党の戦略かもしれませんね!
             以前浮動票が大きく動いて政権が変わったときがあります。皆さんが投票所に
             いかないと世の中は変わらないのだということを自覚しなければいけませんね。)

226「夏と冬、どちらが好き?」(7月 1日)********************************************
 日本列島は梅雨入りしたとはいうものの実質的には空梅雨で、関東地方から西では真
夏とほぼ変わらぬ日差しが差し込んでいる。いよいよ暦は7月に入り、今年も夏がやって
きた。夏が好きで夏の来るのを楽しみにしている人も多いと思うが、私は「夏と冬どちらが
好きか?」と聞かれたら即座に「冬」と答える派だ。夏は何一つ良いことがない。
 第1に、年々夏の気温が高くなっていることだ。これは明らかに地球温暖化の影響であ
る。昔は夜になれば外に出て夕涼みを楽しむことができたが、今は夜になっても気温が
少しも下がらない。熱中症で死ぬ人も毎年増えている。それも、日なたではなく自宅の部
屋の中にいて死亡する人が出る有様だ。結局、快適に過ごすには冷房を終日つけっぱ
なしにするしかないのだが、一日中冷気に当たっているのは決して身体に良いことではな
い。それに光熱費がかさむのも問題だ。
 第2に、暑さでみんなが汗をかいているため、なにかと不快な思いをすることが多くなる
ことだ。特に、朝夕の通勤電車の車内はたまったものではない。車内は汗の臭気が充満
しているので、非常に不快である。汗の臭いを取るために香水をつける女性も多くなるが、
今度はその香水が非常にきつい臭いだったりすることも少なくない。みんなが汗をかくこ
とによる不快感は臭気ばかりではない。身動きが取れないような満員電車の中では、汗
をかいた隣の人の皮膚や衣類が自分の身体にぴったりと接して、濡れてもいないのにじ
とじとと濡れた感触がする。これも決して気持ちの良いものではない。
 第3に、外に出るとたちまち日焼けすることである。これは真夏でなくとも5月上旬頃か
ら紫外線が強くなるから要注意だ。昨今では体育祭を秋に行なわず、5月からや6月に
かけて行なう学校が増えたが、一日グランドに立っているだけですぐに日焼けしてしまう。
だから私は学校の職員でありながら体育祭の当日には出勤しないようにしている。体育
祭はそれで何とか逃れることができるが、真夏の外出はどうにもならない。勿論海や山に
は絶対に行かないが、普通に出勤する場合でもどうしても薄着せざるを得ないから、日光
を浴びる面積がおのずと広くなってしまい、日焼けする恐れが高くなる。日焼けは医学的
には放射性皮膚炎といい火傷と同じである。これは皮膚がんの原因にもなりうるので決し
てバカにはできない。だから、日焼け止めの商品が販売されているのだが、汗をかいて日
焼け止めが流されるたびに一日に何度も塗り直さなければならないのも面倒だ。
 第4に、夏季は他の季節よりも睡眠不足になりやすいことだ。暑い夜は寝苦しい。昼間
汗をかくから風呂には毎日入らざるを得ないが、風呂上りは身体が暖まっているからなか
なか寝られない。また昆虫や小動物で睡眠を妨げられるのも問題だ。たとえば蚊に刺され
て身体が痒くなったり、一度眠れても耳元に蚊が飛ぶためにその羽音で起こされたりする。
蚊は金鳥の蚊取り器具で対応できるのだが、あれも問題だ。確かに蚊を駆除する効果は
あるのだろうが、人間も同じ室内で呼吸をしているのだから、ああいう化学製品から出た
空気を一晩中吸わされることになる。それも身体に良いことではあるまい。睡眠不足は蚊
だけではない。早朝や深夜を問わず蝉が鳴くからうるさくてかなわない。鳥も朝早くから鳴
き出す。また、日の出の時刻が比較的早いから、朝早くから部屋に日光が差し込み、それ
で部屋の温度が高くなって起こされてしまうこともある。結局、寝入る時刻が遅くなり、寝入
っても浅い睡眠になり、朝は早くから起こされ、トータルとして睡眠不足のまま朝を迎えるこ
とになる。
 第5に、概して食欲が落ちて胃腸の機能が弱りがちになることだ。肥満が気になる人は
それを痩せる絶好の機会と前向きに考えて過ごすのだろうが、ただでさえ痩せている私に
とっては深刻な問題になる。まず、何といっても夏は食中毒のシーズンでもあるから、生物
(なまもの)も迂闊には食べられない。そうでなくても夏は台所の近辺をごきぶりがうろうろ
しているから、衛生面でも決して好ましいものではない。また、暑いからといってかき氷や
アイスクリームなど冷たい物ばかり食べることになりがちだが、それも胃腸に悪い。そんな
事情で食事には結構気を遣わなければならないのも、夏の欠点だ。夜寝るときも暑いから
といって寝具を取って寝ていると(寝るときは寝具をかけているのだが、就寝中にいつの間
にか跳ね除けていることも多い)お腹が冷やされて翌朝下痢することになる。
 そういうことで個人的には夏より冬が過ごしやすくて好きだ。冬の欠点はインフルエンザと
ノロウイルスが大流行しやすいことだが、それを除けば何の問題もない。雪原では紫外線
の反射率が高いからゲレンデへ行けばたちまち日焼けするが、それはスキーをしに行かな
ければ済むことである。普通に過ごしている限りは日焼けの心配もないし、カキなど魚介類
の生食をしなければ食中毒の心配も要らない。夜も長いから就寝時刻までの時間をゆっく
り過ごせるし、よく寝られる。虫も出ないから快適だ。

    (塾長コメント: いやぁ〜菅ちゃん!究極の選択ですね。私はどちらも嫌いです。私としては、
             「秋」(10月〜11月)がもっとも過ごしやすい季節かな...。)

225「赤ちゃんポストの功罪」(6月24日)*********************************************
 熊本県熊本市にある慈恵病院で、育児が困難な親が匿名で乳児を託すことができるよう
に新設した「赤ちゃんポスト」が社会問題にまでなっている。この「赤ちゃんポスト」が開設さ
れたのは今年の5月7日の正午。すると数時間も経たないうちに3歳の男児が預けられた。
この子は自分の親の名前も答え、「父親と一緒に来て『かくれんぼしよう』と親に提案された」
と、自分がここに連れられて来られた経緯も話していた。このことが全国のニュースで一斉
に報じられ、「赤ちゃんポスト」の存在が広く知れ渡ってしまったのか、今月12日の夜に生
後2ヶ月しかない男の赤ちゃんが、そして15日には3人目の赤ちゃんがこのポストに入れら
れた。開設しわずか1ヶ月余りにして早くも3人である。
 慈恵病院の職員は勿論のこと、関係者は一様に驚きを隠せないようだが、私に言わせれ
ばこうなるだろうことは最初から目に見えている。昔は「性は神聖なものだ」と言われていた
が、今は神聖どころか快楽以外の何物でもなくなっている。今や、芸能人が自身の「できち
ゃった結婚」を恥ずかしがるわけでも悪びれる様子もなく堂々と公表するようになってしまっ
た時代なのである。女子高校生の40%が性体験を有し、学校や家族に内緒で妊娠して自
宅や学校のトイレで赤ちゃんを産む時代になってしまっているのである。そして、出産はし
たものの育児ノイローゼになったり、虐待を始めたりする親が少なくない。挙句の果ては泣
き声がうるさいからという理由で赤ちゃんを殺したり、駅のコインロッカーなどに捨ててしまっ
ている。いかに無責任極まりない親が増えているかがわかるだろう。現行法では赤ちゃん
をコインロッカーに放置すれば罪になるが、罪に問われることなく匿名で自分の産んだ子を
捨てることができるようになれば、これは無責任な親にとって好都合なのは自明である。今
回設置された「赤ちゃんポスト」はまさに彼らにとってうってつけのシステムだったのである。
今後彼らは性行為もやりたい放題できるし、高額な中絶費用を払わずに好きなだけ妊娠し、
子どもを生んだらポストに放り込めば良いと考えるようになる。だいたい名前からして人権
問題だ。「赤ちゃん」はまぎれもなく人間であって、郵便物ではない。「赤ちゃんポスト」とは
まさに赤ちゃんを郵便物扱いしていることになる。
 児童虐待の問題に詳しい佐藤喜宣杏林大学医学部教授によると、「年間で30人の乳児
が殺されている」という。殺されはしていないものの虐待されている乳幼児はその何倍にも
及ぶかわからないだろう。だから「虐待される子どもの痛みを感じ社会全体で助けなけれ
ば」と訴えている。その考え方には共感できるが、だからといって赤ちゃんポストをというの
はあまりにも発想が短絡的だ。そんなものを認めれば無責任に性交し妊娠する親が増え
る一方である。ではどうすればよいか。やはり国民に対する性教育のあり方を根本から改
めなければならない。但し学校のみにその責を押し付けるべきではない。学校では保健体
育の授業などでそれなりにきちんとした性教育がなされているからだ。問題は氾濫しまくっ
ているインターネットや漫画・雑誌・DVDなどの映像物である。わいせつな画像はもちろん
のこと、少しでも性的な表現がある作品を徹底的に国家権力で規制し、視聴者の目に決し
て触れることがないようにしなければならない。ラブホテルなど性行為ができる施設をはじ
め、各種の性風俗店も全面的に廃止させるべきだろう。さらに、婚前交渉も禁止する法律
も作るべきだ。だいたい「できちゃった結婚」自体、性を冒涜している行為である。未熟児を
早産した場合を除き、婚姻届を出してから9ヶ月未満の出産があった場合は直ちに警察に
拘留され調書を取られるぐらいにしなければなるまい。そして、「できちゃった結婚」は恥ず
べきこと・みっともないことという価値観を社会全体で醸成すべきだろう。
 余談だが、現在、「成人」と扱われる年齢を20歳から18歳に引き下げる議論がある。こ
れが実現すると18歳から有権者となるわけだが、私は反対である。否、有権者を18歳以
上の国民とすること自体は反対しないが、「成人」と見做す年齢を引き下げると、両性の合
意のみで結婚できる年齢も現行法より男女ともそれぞれ2年ずつ引き下げられるから、ま
すます性の低年齢化が加速してしまう。だから反対するのだ。「14歳の母」がドラマになっ
て久しいが、今後は中学生や高校生の妊娠・出産が珍しくなくなる恐れがある。それでも
彼らが全うに養育できるのならよいが、現在の乳幼児に対する虐待の実態を見る限り、と
ても全うに養育するとは思えない。むしろ、「できちゃった結婚」は勿論のこと、虐待や捨て
子の問題が増えるばかりだと思う。18歳を成人にすると、タバコやアルコールを始める年
齢もますます低くなるだろう。結局、短所が山のように生じるばかりで、長所は何一つない。

224「無謀な行為は自己責任とする社会にせよ」(6月19日)*****************************
 先月JR東日本の山手線神田駅に続き、またまた電車のドアに人が挟まれる事件が起き
た。今度は東京都庁のある新宿から神奈川県西部の輸送を担う小田急線である。事件が
起きたのは13日の午前10時37分。場所は神奈川県秦野市南矢名にある東海大学前駅
下りホームである。新宿発箱根湯本行き急行(10両編成)の、先頭から8両目に駆け込み
乗車を敢行した一人の乗客が電車のドアに手指を挟まれた。車掌はホームの前方を映し
出すモニターを確認したものの、乗客がドアに挟まれていることを発見できずに、運転士に
発車合図を送った。そのため、電車はいつものように発車してしまった。たまたまホームに
いた乗客が異常に気づき車掌に急報したため、運転士は非常ブレーキをかけた。電車は
40メートルほど走行して停車したが、手指を挟まれた乗客はこの走行中にホームと車両と
の隙間から1.2メートル下の線路へ転落したため、胸部を骨折し重傷だという。
 マスコミ各社はその日の昼のニュースから一斉にこの事件を報道した。私も勤務を終え
て夜遅い時刻に報道番組を見て事故の詳細を知った。しかし、マスコミの視点は相変わら
ずだ。どこのテレビ局でも小田急電鉄の非を責める姿勢に終始している。その理由は次の
3点だ。
 1・乗客の手指を挟んだにも拘らず、なぜドアのセンサーが異常を感知しなかったのか。
   あるいは乗客の手指程度の厚さ(実測15mm)では、もともと異常を感知できないシ
   ステムなのか。仮にそうだとしたら、そんな列車を走らせていること自体に問題があ
   るのではないか。
 2・ドアに人が挟まれているにも拘らず、なぜ車掌は運転士に発車の合図を送ったのか。
   それも異常は10両編成の8両目、つまり車掌の乗務した車両から2両先という、比
   較的近い距離で起きている。しかし、なぜ気づかなかったのか。当該列車の車掌は
   ホームの状況を映し出しているモニターをきちんと見て、全てのドアが閉まっている
   ことを確認していたのか。
 3・事故現場の東海大学前駅は名称の通り、東海大学湘南校舎の最寄り駅になってい
   る。そのため同大学の学生は勿論のこと、神奈川県立秦野高等学校の生徒も加わ
   り、付近にある各駅と比較すると非常に大勢の乗降客がある。それにもかかわらず、
   現場の下り線路は進行方向に向かって右に急カーブしているため、線路の左側に面
   しているホームからの見通しは非常に悪いばかりか、場所によってはホームと列車と
   の空隙も相当に広く非常に危険な状態であった。そういう認識が果たして小田急電鉄
   にあったのか。あったとしたら、改善へ向けてどんな取り組みをしてきたのか。

 確かに小田急電鉄の乗客に対する危機管理に問題があった事実は否めない。しかし、
100%小田急電鉄が悪いと断罪する報道姿勢にはとても賛成できない。なぜなら被害者
は発車間際に駆け込み乗車をしたのである。乗客こそ悪いという批評がなぜどこからも出
ないのか。それが私には解せない。
 我が国の報道姿勢は何でもかんでも弱者(事故や犯罪の場合は被害者)の味方になる。
たとえば学校で被害者が死亡する事件が起きれば、マスコミは必ず被害に遭った生徒の
味方になり、現場の教員や学校の設置者(公立学校なら地方公共団体)の管理責任を問
い質す姿勢になる。そういう姿勢に徹すれば大衆にそっぽを向かれずに視聴率(新聞なら
購読部数)を稼げるということなのだろう。もちろん事件の過半数は加害者が一方的に悪
いのだろうが、中には弱者や被害者が悪者の場合だってあるのだ。殺人事件が起きると
殺した犯人を憎み被害者には憐憫の感情を寄せるのが普通だが、場合によっては「これ
では恨まれて殺されるのは当然だ」というケースだってある。常に犯人が悪人で被害者が
善人とは限らない。今回の小田急電鉄のドア挟み事故も然りだ。駆け込み乗車を敢行し
たのは小学生でもなければ幼児でもない。成人、それも57歳という思慮分別があってしか
るべき年齢である。大都市では乗降客が多いから、どの駅でも列車の発車時刻が近づく
たびに「駆け込み乗車は非常に危険ですので絶対におやめください」と口が酸っぱくなるほ
ど乗客に訴えている。そうした駅係員や乗務員の指示に従わずに駆け込み乗車を敢行し
たのだから、それはいわば自殺行為であり、私に言わせれば自業自得だ。小田急電鉄は
事故が起きたことを公表するとともに、謝罪の記事を自社のホームページに掲載したり各
駅の改札口に掲示物を出した。だが駆け込み乗車をする行為自体がそもそも無謀なのだ
から、その結果たとえ乗客が重症を負おうが死亡しようが小田急電鉄がお詫びする義務
はないと思う。
 これと同様なことは交通事故についても共通して言うことができる。常に弱者たる歩行者
が正しくて強者であるドライバーが悪いとは限らない。赤信号に対する行動を観察するとむ
しろ歩行者の方がはるかにマナーが悪い。我が国の社会では弱者である歩行者を必要以
上にかばうから、クルマと接触する事故が起きると何でもかんでもドライバーが「前方(場合
によっては後方)不注意」とみなされ、業務上過失傷害(被害者が死亡した場合は過失致
死)を問われてしまう。しかし、歩行者が赤信号を無視して道路を渡った場合は、前方不注
意も何もない。渡る側が100%悪いに決まっている。高速道路を逆走するオートバイを撥
ねた場合もそうだ。もっとそれぞれの側の責任の範囲を明確にし、自己責任に帰するべき
ものは「自己責任」とみなす姿勢を持たないと、各人の公衆道徳も向上しないし社会の為
にもならない。
 ある国では、歩道の完備された道路で歩行者が歩道を歩かず車道を歩行した場合は、
その結果クルマに轢かれてもドライバーは免責となる。それは車道はあくまでも車両が通
行する場所であって歩行者が通行する場所ではないという、明確な境界線が引かれてい
るからだ。つまり車道を歩いたらその結果何が起きても自己責任に帰するというわけであ
る。したがってドライバーに損害賠償してもらう権利も行使できないし、生命保険を申請し
ても通常の金額は支払われない。我が国もそういう風土を醸成すべきではなかろうか。

223「恋愛はアイドル歌手に許されないことか」(6月12日)*******************************
 モーニング娘。の藤本美貴さんが脱退した。モーニング娘。加入前はソロでデビューして
活躍、その後第6期メンバーとともにモーニング娘。の一員となり、先月6日に吉澤ひとみさ
んが卒業してからは第5代目のリーダーに任命されていた。しかし、就任後わずか26日と
いう史上最短での脱退となってしまった。本人は所属するハロープロジェクトのホームペー
ジにおいて下記のコメントを公表した。
 いつも応援してくれるファンの皆さんへ
  「私はモーニング娘。のリーダーとして他のメンバーを引っぱっていかなくてはならない
 立場にありながら、モーニング娘。としての約束事を破るようなことになってしまい、重く
 責任を感じています。私のとった行動で、メンバー全員に迷惑をかけることになってしま
 ったことはとても申し訳なく、そのままモーニング娘。のリーダーとして活動を続けること
 は、自分の中では決して出来ることではありませんでした。自分自身へのケジメとしてモ
 ーニング娘。を辞めることにしなりました。
  これまで応援してくれたファンの皆さんには申し訳ない気持でいっぱいです。本当にご
 めんなさい。これからは『藤本美貴』として頑張っていきますので、よろしくお願いします。」

                                          (以上、原文のまま)
 この文章だけを読むと、まるで重大な犯罪行為でもしたかのような印象すら与えかねな
い。暴力団員と取引して覚せい剤や麻薬を使用していたとか、酔っ払い運転で人身事故
を起こしたとか、もう情状酌量の余地もないような行為をしたときに出すような内容のコメ
ントである。しかし、藤本さんがしたことは法律に反することでもなければ道徳に反するこ
とでもない。男性と交際したことだけである。それも相手はお笑いコンビ「品川庄司」の庄
司智春さんである。2人は若手芸人アイドルの合同コンパで知り合い、3ヶ月前から交際
を始めていたという。藤本さんが庄司さんと一緒に都内某所の岩盤浴に入店する姿をは
じめとするデートの現場を写真週刊誌『フライデー』に撮影され、「熱愛発覚」と報じられた
のである。2005年4月の矢口真里さんに続き、これと同様のケースでモーニング娘。に
所属していたメンバーが脱退をしたのが、これで2人目となった。
 ここで言いたいのは、一芸能人が異性と交際するという行為が、果たして世間から非難
を浴びなければならない「不祥事」なのかということだ。謝罪のコメントを出して責任を取ら
なければならないような「重大な罪」なのかということだ。矢口さんにしても今回の藤本さん
にしても、次の2点が共通している。
 1・本人も交際相手も成人であること。
 2・交際相手の男性に特段の問題があるわけではないこと。
 3・交際が理由でコンサートなどの「本業」をサボるといった迷惑行為をしたわけではない
  こと。
 1は両性の合意だけで結婚が認められる年齢であることを意味する。2は交際相手の庄
司智春さんの人物についてだが、彼は妻子ある男性ではないし、過去に女性問題で騒動
を起こした人物でもない。犯罪歴もないし事件を起こして現在係争中の身でもない。つまり
社会的に何ら問題がないということだ。3はあくまでも勤務以外のプライベートな時間の範
囲内での交際であるということだ。本業をすっぽかしてデートを楽しんでいたというのなら、
これはメンバーやファンに多大なるご迷惑をかけたことを謝罪すべきだろう。だが、藤本さ
んにそのような行為があったという事実はない。したがって私に言わせればこそこそと交際
する必要もなく、ましてや交際が発覚し報道されたからていって公に謝罪して責任を取る必
要はさらさらないということだ。もっとも芸能界自体が恋愛や結婚を許さない世界だというの
なら話は別だ。だが、他の事務所に所属する芸能人はどうなのか。アイドルにしろ歌手にし
ろタレントにしろ、交際もすれば結婚もするし、人によっては離婚もしているし再婚もしてい
るではないか。それが理由で所属事務所から追放されているわけでもないし、芸能活動を
辞めさせられているわけではないのである。
 モーニング娘。にしても同じことが言える。異性との交際を理由にメンバーを脱退させら
れるのだとしたら、モーニング娘。に所属している限りは永久に異性との交際もできないし、
ましてや結婚もできないということになってしまう。いくら「モーニング娘。」としての自覚や団
体行動を取るべき「約束事」があるにしても、健全な男女交際まで禁じるのはいかがなもの
か。オーディションの際に「同性愛者であること」を条件に募集しているのならともかく、普通
の中学生や高校生などを全国から募集してモーニング娘。のメンバーの選考をしている以
上、交際=脱退処分というのは極端に言えば人権問題にもなるのではなかろうか。そうい
うことを考えると2年前の矢口さんにしても熱愛が発覚したからといってメンバーを脱退する
こともなかったし、ましてや謝罪するべきことではなかったのでないかと思う。脱退の処分を
下すのは加護亜衣さんの喫煙問題のように、あくまでも法を犯す行為があった場合に限る
べきだろう。モーニング娘。のオーディションに合格した当時は未成年でも、メンバーは日々
成長するわけだし、いずれは成人する。ということは一人の女性としていつかは結婚もする
だろうし出産もするということだ。メンバーを預かる事務所も我々一般人も、彼らがモーニン
グ娘。のメンバーであるという以前に、一人の女性であるという事実を忘れてはならない。

    (塾長コメント: アイドルは一般の人々に「夢」を与える仕事。そして「モーニング娘。」のキャラ
             クターイメージがあって、それに反する行為だったからじゃないですかね?素人
             的に考えて...。)

222「年金納付記録逸失問題」(6月 3日)********************************************
 納めたのに納めていたことになっていない――こんなばかげた話が国の機関で起きてい
ることがわかった。またしても舞台は社会保険庁。年金未納者の放置問題に続き、今度は
納付記録の逸失問題である。実際のところ何万件あるのかわからない状態で、支払ったは
ずの年金の記録がないために将来自分が年金を受給できない恐れも出ている。こんなこと
があって良いのだろうか。断じて許されるものではない。
 現場には苦情の電話や納付記録の確認を目的とした問い合わせが殺到しているという。
将来年金をもらう側からすれば死活問題だから、社会保険庁に対する不安や憤りが高ま
るのは当然だ。しかし、今回の納付記録の逸失問題を現場だけの責にしてはならない。こ
れが私の意見だ。むしろ、現場の実情を考えると起こるべくして起きたことだと言える。と
いうのは、人件費の削減を推進した結果、どこでも最小限度の職員で膨大な事務を処理
していて、その多くがサービス残業を強いられ個々の職員は疲労困憊状態になっているか
らだ。なぜそう言えるかというと、私の勤務する県立高校の事務職員もそうだからだ。かつ
ては高校という県の出先機関でも職員は7人もいて賑やかなものだったが、今ではわずか
に4人。それも一人は非常勤職員だ。これでは膨大な事務を所定の勤務時間内に処理す
ることができなくなるのは当然だ。だから私が学校を退勤する午後7時(じつはこれも超過
勤務)を過ぎても、事務職員はいつもまだ残って仕事をしている。こういう日々が続けば誰
だって疲労も蓄積するし、職務に対する注意力も散漫になる。だからどんな事故や不祥事
が起こってもおかしくない。
 社会保険庁も人件費を削減せず日頃の業務に従事させていれば、きっとこんなことには
ならなかっただろう。人件費を支払えないというのなら、職員の人数を減らさずに給与その
ものを減額すべきである。たとえば2人雇用し1人に月給40万ずつ支給するのなら、3人
雇用して1人に27万ずつにすればよい。それでも職員の超過勤務状況を解消できなけれ
ば4人雇用して1人に20万ずつ支給すればよい。とにかく全ての職員が正規の勤務時間
内で全ての業務をこなせるようにすることこそ先決ではないか。それでも人間のやること
である以上はミスが生じるのは不可避といえる。ましてや、いつ過労死してもおかしくない
ような状況での勤務を強いられているのでは、一つたりともミスのないように職務を遂行し
ろと注文する方が間違っている。以上の理由で、今回の納付記録逸失問題に対する責任
の所在は現場の末端職員ではなく職員を採用し勤務を管理する立場の人間にこそあると
いえる。「人件費の節減」だの「経営の合理化」というと聞こえは良いが、そういうことをや
ればやるほど勤務環境は悪化し、事故も不祥事も増える一方だということを声を大にして
言いたい。

    (塾長コメント: 私も心配なので社会保険庁に問い合わせました!登録が済んでいて安心し
             ました。今回のそもそもの原因は市町村管理から国管理にしたことによるとこ
             ろが大きいと思います。コンピュータ入力も失策ですね。入力ミスは起こりえる
             ことで点検もしなかったのでしょうか?こんなことが教育現場で起こったら懲戒
             処分ものなのにね!市町村に紙やマイクロフィルムの台帳が残っていれば誤り
             は正せそうですが、もしなかったら悲惨です!)

221「免許の更新で教師の質は高まるのか?」(5月27日)*******************************
 安倍総理が就任当初の施政方針演説で最重要課題と位置づけた教育問題について、そ
の制度面を根底から改革すべく提出した教育関連3法案が今月18日に衆議院で可決され
た。その骨子は既に新聞などで報じられている通りであるのでここでは繰り返さないが、今
回は改正の目玉でもある教員免許更新制度の導入について論じてみたい。日々刻々と変
化する教育情勢に対応する力を培うことと、学級崩壊を招くような不適格な教師を排除する
ことで教師の資質の向上を図ることが目的だというが、果たしてこの新制度の導入で達成
することができるのだろうか。
 第1に、講習を受けさせて有効期限を更新させる制度自体に対する意義が見出せない。
世の中に「免許状」と名のつくものは数多くあるのに、なぜ教員免許だけ10年ごとの更新
が必要とされるのか。それが疑問だ。長年教育現場を離れていた教員免許状所持者に対
してのみ技量・能力の向上を図るのなら意義があるだろう。しかし、現場にあって日々児童
・生徒を指導し最新の教育実情を知悉している現職の教員が講習を受けなければならない
のはどういう理由なのか。この点、自動車の運転免許は加齢その他後天的な事情で運転
の技量や能力(たとえば視力)の減退がありうること、そのために交通の安全性が損なわれ
最悪の場合には人命を失う恐れがあるので、たとえ毎日ハンドルを握っている者であっても
定期的に更新する意義が認められよう。しかし、教員の場合はどうか。現場で勤務すること
でその技量や能力が減退する性質のものではない。ましてや技量や能力の減退により、安
全性が損なわれて児童・生徒の人命が失われることはない。百歩譲って「ある」とすれば、
たとえばノイローゼなど心身の健康上の問題だろう。だが、それは当該教員を休職させ治
療を受けさせれば済むことだ。教員に更新制度を導入するくらいなら、技量・能力の減退で
人命を失う恐れがはるかに高い免許状こそ速やかに更新制度を導入すべきだろう。たとえ
ば患者の生死を与る医師の免許状はなぜ更新制度を導入しないのか。学会で数多くの論
文を発表し厚生労働省の諮問機関である委員会の座長を務めるような教授クラスの外科
医でも執刀の下手な者がいることは歴然とした事実である。
 第2に、更新させるための講習などは現実問題として不可能で、結局形骸化したものにな
るだろうことが、やる前から予測できるからである。国公私立合わせると現職の教職員だけ
でも全国で100万人は優に超えている。そのうえ、いわゆる「ペーパー免許」の人がこれに
加わる。すなわち、大学で教職課程を履修して免許を取得したものの現在は他の職業に従
事している者だ。教員免許を持ってはいるが教員ではない人の方がはるかに多いのだから、
講習を受けなければならない人間が果たしてどれだけの数になるのか計り知れない。定年
退職者の再任用教員や臨時任用教員・非常勤講師などを含めて総人数300万と仮定して
も年間で30万人の教職員に講習を受けさせなければならないことになる。講習に必要な講
師の人数と時間数、そして出席する受講者の数を考えると、どこかの大ホールか大学の講
堂など大勢を収容できる場所に受講者を集めてマイクを持った大学講師の話を聴くだけと
いったものになるのが関の山だ。そんな聴講が教員にとって有意義な講習となるのだろう
か。そして現状以上に資質の向上を図ることができるのだろうか。私にはとてもそうは思え
ない。おざなりなものに堕してしまうだろうことは自明だから、県民の信用を失墜させるよう
な不祥事はこれからも起こるだろうし、学級崩壊といった教育現場の問題も残存するに違
いない。
 第3に、その講習に必要な予算は年間30億と試算されているのに、予算をどこから拠出
するのかが明確にされていない点だ。しかも最初から試算して提示した金額ではなく衆議
院での審議の途中で初めて明らかになったことである。受益者負担という発想で国公立の
学校の授業料を上げるのか。それとも現職の教職員の給与を天引きして捻出するのか。
それとも別枠で特別予算を組むのか。安倍総理の答弁は不明確なままだ。
 日々刻々と変化する教育情勢に対応できる能力というのなら、現在でも行なわれている
校内研修等の充実を図るべきだろう。そもそも教員には充分な研究と修養の機会を与え
なければならないことが法律に規定されている。しかし、現実は授業のための教材研究以
外の雑務に追われ、「充分な研修の機会」などは絵に描いた餅でしかない。一人の教員が
担当する総授業時間数を削減し、さらには教科指導以外の雑務を大幅に軽減させ、研修
を受ける機会を増やすのが筋だ。また、不適格な教員を現場から排除するのが目的だと
いうのなら、法案に規定されている更新年限では大問題になる。一度更新してしまえばそ
の後たとえ不適格と判断されても10年間は免許が有効だということになる制度では、不
適格な教員に指導を受ける児童・生徒こそいい迷惑だからだ。さらにはこの「不適格な教
員の排除」に関しては、何をもって「不適格」と認定するのかという指標の問題も孕んでい
る。以上の理由で教員免許状の更新制度については釈然としない。教育の問題を自身の
内閣の最重要課題と位置づけて戦後教育の制度を根本から改革しようという意気込みの
割には、あまりにも発想が貧困である。

    (塾長コメント: 教育現場では、成果主義やら免許の更新制やら息苦しくなりそうな締め付け
             がスゴイですね!富士通で始まった成果主義って日本の風土では成功したの
             かしら?教育を良くしようとして始まった教育再生会議も、その方向性はますま
             す教育現場を混乱させ悪い方向に行ってしまいそうですね。現場を信頼して支
             援してくれればいいのに、発想が全く逆なんですよね。大学でも直ぐ結果が出
             る研究ばかりに走らざるを得ず、長期的な海のものとも山のものとも分からない
             研究はやりづらくなってしまいます。困った世の中になってしまったものだ!)

220「保険不払い問題に対抗しよう」(5月20日)***************************************
 医療保険の不払い問題が大きな社会問題と化している。明治安田生命保険の不払いが
発覚してからもう2年が経過したが、不払いは他社にも数多くありいまだに解決していない。
今回はこの問題に対して保険会社に対して契約する我々がどのようにして対処すればよい
かを私なりに提案したい。
 第1に、宣伝文句から作り出されたイメージだけで納得しないことである。保険会社はとに
かく自社の商品のメリットをイメージで売り込んでくる。だから宣伝されている事柄に対して
は無条件に保険が適用できるものと思い込まされてしまいがちだ。しかし、これは大きな誤
解であり、後で禍根を残すもとになる。たとえば最近になって盛んに宣伝している3大疾病
特約について触れてみよう。日本人の病死は上位から順に、がん・心筋梗塞・脳血管疾患
である。そこでこれらの病気を患った場合に入院費や治療費が下りるという商品が3大疾
病特約である。しかし、どんな場合でも必ず保険が適用できるわけではない。どこの保険会
社でも特約適用の条件として、「60日以上労働制限が必要と認定された場合に限る」とい
う文言があるのが普通だ。だから心筋梗塞で入院治療を受けても2ヶ月未満で社会復帰し
てしまうと特約部分の保険は給付されないことになる。そして実際に心筋梗塞の場合、よほ
どの重症例でない限りは1ヶ月程度の療養で済む。だから大部分の人が特約の恩恵には
与れないのが現実だ。しかし、テレビのコマーシャルでは「60日以上労働制限が必要と認
定された場合に限ります」という条件までは宣伝しない。とにかく、「がん・心筋梗塞・脳血管
疾患にかかっても金銭面は100%安心」というイメージだけを抱かせるべく宣伝しているか
ら、治療を受けたらいかなる場合でも保険が下りるものと思い込まされてしまう。
 第2に、契約する前に約款を取り寄せてセールスマンの前で全文読むことである。そして
少しでもわからないことがあったら直ちに説明を求め、わからない点が解明できない限りは
絶対に契約しないことである。保険会社はある意味、日本語のプロである。私も国語という
教科を高校生に指導して生計を立てているからプロには変わりがないが、国語の教員は勿
論のこと、放送業界のアナウンサー・さらには新聞や雑誌社に勤める校正者以上に、保険
会社の国語力はプロである。契約する我々には容易に理解されないようにわかりにくい文
章にし、かつ誤解を誘発するような文言を何百ページにもわたって記載できるのは、保険
会社の他には見当たらないからだ。おそらく契約者の誰一人として約款の全文を読んで理
解できた人はいないのではなかろうか。しかし、約款は後になればなるほど非常に大切な
ものとなるのである。理由は、災害や事故・疾病などが発生していざ保険を利用しようとい
う段になると、保険会社側は約款の条文を持ち出して給付を巧妙に断ってくるのが常だか
らだ。つまり、「あなたの場合はこの条件に該当しませんので適用できません」となるわけ
だ。いざというときにこのような結果になって涙をのむことにならないためにも、自分がどう
いう内容の商品に契約をするのかをまず知悉すべきである。契約して支払いを開始するの
は、契約の中身を熟知してからである。何に対して何の目的で支払うのかもわからないの
に、対価を支払うべきではない。そうしないと悪徳業者の思うツボになり契約した人がカモ
にされるだけである。
 第3に、テレビで盛んに宣伝している保険会社ほど眉に唾してかかるべきである。わずか
15秒とはいえ、全国ネットで中継されるキー局でコマーシャルを流すのはかなりの宣伝費
がかかる。ましてや1日に何度も、毎日あちこちの局で宣伝していたらそれだけで莫大な額
になる。ここで考えてもらいたいことは、その宣伝費はどこから拠出されているのかというこ
とだ。会社設立の資本金を別にすれば、契約者から取った月々の保険料しかないのである。
つまり、本来は保険の適用を認めるべき人々に渡るはずのお金が、そのまま宣伝費になっ
てしまっているのである。そういう会社は契約者から申請があっても当然不払いや払い渋り
といった行為に出る。ましてや本当に保険適用になるケースでも申請されない限りはずっと
黙っている。「こういう場合は申請できますよ」という良心的なアナウンスは全くしない。でき
る限り宣伝して周知させ、商品を売るだけ売って金集めに奔走し、あとは知らん顔となるの
が常だ。
 このように、保険会社の不払いに対抗するには、契約する我々も、それなりのことをしな
ければならない。特に、これだけ情報開示や知る権利が人権として確立しつつある現代社
会で、意図的に難解にした約款の文章は問題である。約款を理解していなかったために、
わずかな条件の差で保険の適用外にされて泣き寝入りを余儀なくされている人が少なくな
いからだ。また、契約者が知らず知らずのうちに告知義務違反をしているケースもある。契
約前にセールスマンの誘導尋問に流されて適当に回答し契約をしたはいいものの、後日告
知義務違反を問われて保険適用外にされてしまう人もいる。いずれにしてもわからぬことを
放置して安易に契約を結ばない――これが一番である。

    (塾長コメント: 我が家でもいくつか保険に入っていますが、確かに約款を詳しく読んだことはな
             いですね!宣伝のパンフレットで理解するのみです。もっともこれまで保険金を請
             求したことがないので保険会社の対応がどのようなものかよく知りません。最近
             あの手この手を使って現在の保険料を引き上げようという傾向が見られます。こ
             れには全く無視ですね!契約当初の給付条件を確かなものとし、その条件を終
             身適用して欲しいです...。)

219「三半規管の強靭な人が羨ましい」(5月13日)*************************************
 大阪府吹田市にある遊園地「エキスポランド」で、ジェットコースター「風神雷神U」が脱線
し乗客1名が死亡、19名が負傷するという大事故が起きてしまった。同園では毎年2月の
定期検査にあわせてジェットコースターの部品の分解検査をすることなっていたが、今年は
それを連休明けに先送りしていたという。事故翌日の各紙の社説は一斉にその事実を糾
弾し、安全管理の徹底を強く訴えている。この点に関しては私も同感だ。事故防止に対す
る取り組みが最大限になされていれば、今回の悲劇は起こらなかったであろうと推断され
るからだ。しかし、新聞の記事を読んでもっと私が驚かされたことがある。それは、次のよ
うな証言が新聞に載ったからである。
  友人2人と現場から50mほど離れたレストランにいた京都市伏見区の女子短大生(19)
 は、部品のようなこぶし大の塊が落下するのを見た。直後、車両が急停車し、一帯は騒
 然となった。わずか15分前に乗車したばかり。最初に乗り込んだ午前中は特に異常を
 感じなかったが、2回目は「乗り心地が悪い」と思った。ガタガタという音が大きく聞こえ、
 揺れも増していた。「時間がずれていたら、自分も巻き込まれていた。」とショックを隠さ
 ない。

 新聞の報道によると事故を起こした「風神雷神U」は「絶叫度120%!史上最強を誇る
スリルマシン」という宣伝文句で92年に営業開始した乗り物だとのことだ。乗客は上半身
を固定された状態で立ったままの姿勢で乗る。ジェットコースターの乗車時間は2分20秒。
走行距離は1kmだから、出発から到着までの平均速度は25.7km/hだ。25km/h
程度では大して速そうな感じがしないが最高速度は75km/hにも達する。そして2分20
秒の乗車中、乗客は何度も繰り返される急激な上昇・降下と旋回を体験する。そのスリル
はそれまでにあった他の乗り物とは比較にならないほどのものだったらしく、開業当初から
爆発的な人気を呼び、連日長蛇の列だったという。私が言いたいのは、よくそんな乗り物
にみんな乗っていられるものだということだ。乗車後に体調不良を訴えた人は過去にいな
かったのだろうか?私はそれが不思議でならない。
 私は極めて乗り物に弱い。毎日の通勤電車でさえ、進行方向に向いて外の景色を見て
いないと必ず酔うほどだ。満席で立って乗る場合は他の乗客が乗り終えた後に乗り込み、
ドアにぴったり寄りかかるようにして窓から外、それも進行方向の景色を見ていないとダメ
だ。よく電車の車内で新聞や週刊誌を読んだり携帯電話やノートパソコンを操作している
人がいるが、ああいうことはとてもできない。旅に出るとき必ず一人で行く理由もじつはこ
こにあるのだ。人と一緒だと相手の目を見て会話をすることになり、つねに窓の外の景色
を見ることができなくなるからだ。また雨の日や冬の日は外気との温度差や湿度の上昇
で窓ガラスが曇るから、普段以上に酔いやすくなる。夜間も外の景色を見づらくなるため
酔いやすい。電車でさえこの有様だから電車以上に急激な加減速やカーブがあるクルマ
はなおさらである。よく「人の運転するクルマは酔うが、自分で運転していれば酔わない」
と言われるが、私は自分で自転車を運転していても酔うときがある。それと、非常に高速
で走る乗り物には酔う。だから電車でも新幹線には弱い。あまりにも速すぎるから、外の
景色に対して目がついていかないのである。そのせいか、テレビのフィギアスケートの中
継も見ているとすぐに酔う。また、出発したら到着まである程度の長時間を拘束される乗
り物にも弱い。万一乗車中に酔っても絶対に降りられないからである。だから船舶や航空
機、高速道路を走行する路線バスにも乗れない。列車で、それも各駅停車でのんびりと
時間をかけた旅行しかしない理由もじつはここにある。そんな私なので、子どものときから
遊園地にだけは決して行かなかった。決して親が連れて行ってくれなかったのではない。
私自身が行きたいという気にならなかったのだ。だから私が初めて行ったのは30歳のと
きである。そのときも自分が乗ったのは観覧車だけだ。他の乗り物には一つも乗らなかっ
た。乗り物酔いすることが予測できたからである。ましてや「風神雷神U」のようなジェット
コースターに乗ったら、たとえ2分20秒の乗車でも失神してしまい、到着しても自力で降り
られないだろう。だから、平気な顔をして遊園地の乗り物を楽しめる人が羨ましくてならな
い。
 新聞社に証言した京都市伏見区の女子短大生は、事故の15分前に乗ったときの走行
状況を1度目のそれと比較している。事故の発生は午後1時少し前だから、エキスポランド
の開園時刻を午前10時と考えると、この女子短大生はわずか2時間30分の間に2度も
乗ったことになる。そして2度目の乗車後まもなくレストランに入店したことになる。レストラ
ンに行くぐらいだから、それなりに食欲があったのだろう。つまり全く酔っていないことにな
る。エキスポランドが「絶叫度120%」と豪語するほどの乗り物に2度も乗って、しかもその
直後にレストランに入り何か食べようというのだから、私に言わせればもう敬服に値する頑
健さだとしか表現できない。
 ちなみに、乗り物に酔いやすい人は内耳の三半規管に問題があるからだという。「絶叫
度120%」の乗り物に気持ちよく乗れるようになれれば言うことはないが、少なくともクルマ
でファミリーレストランに出かけても料理をおいしく食べることができ、食後すぐにクルマで
帰宅しても気分が悪くならない程度の、強靭な三半規管の持ち主にはなりたい。ファミリー
レストランの駐車場に入ったクルマから元気良く降りて店に入ってくる子どもを見るたびに、
私はそう思うのだ。

218「全米あげて取り組むべき社会とは」(5月 6日)************************************
 先月、アメリカで銃の乱射事件が相次いだ。4月16日にはバージニア工科大学で、29日
にはミズリー州にあるショッピングモールで犯人が銃を乱射し、多数の死傷者が出た。前者
の犯人は自殺、後者は警察による射殺によりいずれも死亡したため事件そのものは短時
間で解決したものの、このような銃の惨事が今も昔も続いていることには変わりがない。我
が国にはその事件のすべてが報道されているわけではないからわからないが、全米では
平均して毎日30人が銃で殺されているのである。これは年間では1万人を越えることにな
る。日本の交通事故死よりも多いのだ。もし我が国でこれだけひどい状況ならば、政府も直
ちに銃を規制する法律を制定するだろう。政治家が動かなくても世論が黙ってはいまい。し
かしアメリカではそうはならないのだ。市民にも政治家にも銃を規制することに対して反対す
る声が少なくないからだ。
 32人もの犠牲者を出したバージニア工科大学でも、かねてから銃の所持を認めるべきだ
という声が上がっていた。職員や学生に厳密な身分照会や指紋登録を課した上で銃の所持
を認める法案を州下院に諮ったという。だが、その法案は昨年否決された。大学は「銃がな
くても安全が保てる」と主張し、学内への持込みを全面的に禁止したのである。しかし、皮肉
にも事件はこのように銃を禁止した学校で相次いでいる。犯人側からすれば相手は銃を持
っていないのだから自分が銃で撃たれることはないという安心感があるはずだ。逆に銃の所
持を公認している学校では、それが犯罪の抑止力として機能しているという。現に97年に起
きたミシシッピー州のパール高校と02年に起きたバージニア州のアパラチアン法科大学院
では、犯人に対して銃で抵抗したため被害が最小限に済んだという事実がそれを裏付けて
いる。つまり今回の事件でも銃があれば惨事を防ぐことができたというわけだ。米銃所有協
会は犯罪抑止力や護身を目的に銃を所持して使う意義を強調している。これだけ銃があふ
れた社会で特定の区域だけ全面禁止にしても、かえってそこが狙われるようになりますます
危険だという理屈だ。
 幸い我が国では銃の所持は原則として法律で認められていない。銃の所持や使用が許さ
れているのは自衛隊・機動隊・警察といった公権力の他はクレーや鳥獣を射撃する人に限
られている。後者は一般市民が持つことになるが、相当に面倒な手続きを経ないと銃の所
持許可証を持つことはできないことになっている。しかし合法的ではない方法で銃を製造・
所持している人ならいくらでもいる。だからこそ伊藤一長長崎市長も銃殺されたのだ。そう
考えると法律で禁じられている我が国といえども、銃を完全になくすことは不可能であること
がわかる。警察や公安当局が国内に建てられたすべての建造物を毎日一斉に家宅捜索を
していれば話は別だが、そんなことが現実的ではないことは自明だからだ。日本ですらこの
有様だから、現に大勢の国民が銃を所持しているアメリカで銃をなくすことなどなおさら不可
能な話だ。アメリカでも今回の惨事を機に銃を規制すべきだという声が高まっているが、仮
に全米で銃を規制する法律が制定されたとしてもそれで撲滅できるとは思えない。大部分の
市民が手放したとしても隠して所持し続ける人はいるだろうし、一度は手放しても不法に製
造・所持する人はいるからだ。
 要するに、犯罪者が存在する以上は銃の犠牲になる人は後を絶たないのである。逆に全
国民が善良であればたとえ銃がいくら出回っていても犠牲者は出ないはずである。「人を殺
そう」という考えを持ち、なおかつ実行に移す人がいるから事件は起こるのだ。鶏が先か卵
が先かという議論があるが、銃と犯罪の関係に関して言うならば明らかに犯罪が先だ。犯罪
のない社会を実現できれば護身を目的に銃を所持する必要性もなくなる。したがって、法律
で強制されなくても自ずと銃のない社会を築くことができる。逆に犯罪が減らなければ自分
の身は銃で守るしかないと誰もが考える。だから、銃のない社会など実現できるはずがない。
そういう意味で銃を規制する法律を作る前に、犯罪のない社会を構築するのが急務といえ
よう。非常に難しいことだが、全米をあげて国民の教育に取り組んでもらいたいものである。

217「どの時代の作品から「現代文」か」(4月29日)*************************************
 今日は「昭和の日」だが、この日はもともと昭和天皇の誕生日で、元号が平成になるまで
は「天皇誕生日」という名称の祝日であった。昨年までは「みどりの日」であったが、今年か
ら「昭和の日」と呼ぶようになった。「みどりの日」は5月4日に移った。(改正祝日法が平成
17年5月に成立し、平成19年1月より施行された。)
 昭和天皇が崩御して早くも19年が経過し、今や中学校を卒業してすぐに入学した高校生
の大部分は平成生まれである。芸能界に目を向けても、最近は平成生まれの新人の活躍
が目立つ。ドラマ「14歳の母」の主演を務めた志田未来さんなど、まさにその典型だろう。
このように時代が昭和から平成になって久しくなったのに、いまだに変化していないものが
ある。それは、高校の国語における「現代文」と「古文」との時代境界である。
 国語科では明治時代以後の文学作品を現代文とし、江戸時代以前を古典(古文・漢文)
の授業で扱うことになっている。したがって明治元年になる1867年がその境界になってい
るわけだが、これは私が高校生であった当時と全く変わっていない。しかし、この間、国語
の教科書に採録される作品は著しく変化した。芥川龍之介『羅生門』・夏目漱石『こころ』・
中島敦『山月記』といった定番の教材もある一方、吉本ばなな・俵万智など戦後生まれの
作家・歌人の作品も採録されるようになった。いずれは綿矢りさのように平成になってから
発表された作品も普通に採録されるようになるのだろう。これは評論の分野でもそうである。
二昔前では小林秀雄・唐木順三・亀井勝一郎の文章が当たり前のように教科書に載ってい
たが、それが大岡信・山崎正和・村上陽一郎・別役実らの文章に取って代わった。しかし、
1867年を境に「現代文」とする規定そのものは変わっていない。だから、 の『舞姫』
も「現代文」の教科書に載っており、高校3年生の授業で扱うことになっている。あの「石炭
をばはや積み果てつ。」で始まる、どうみても「古文」としか思えない小説だ。原文を読んだ
だけでは絶対にわからないから、どこの高校でも語釈をつけて現代語訳しながら作品を講
読している。生徒からみたら『竹取物語』『平家物語』と同じような「古典文学作品」としか映
らないだろう。
 『舞姫』が発表されたのは1890年(明治23年)だ。今からもう117年も前である。そうい
う作品を「現代文」に含めるのは、もう無理があるように思う。現代文という以上は、あくま
でも「現代」の「文学作品」でなければならない。どこまでを「現代」とみなすかは個々人の
価値観の分かれるところだが、少なくとも117年前は「現代」とは言えない。たとえ現代語
訳をせずに読める作品だとしてもである。だから、1906年に発表された夏目漱石の『坊ち
ゃん』も同じ事が言える。こちらは文語体で書かれていないから現代語訳などしなくても一
応は理解できる。私自身も中学生のとき夏休みの課題図書に入っていたので読んだ。しか
し、文章中には「蚊帳」「幾尋」「奸物」など現代の中学生や高校生には注釈なり説明をしな
いとわからない語が少なくない。
 そう考えると「現代文」と胸を張れるものは、戦後に書かれた作品に限るべきだろう。その
戦後でさえも、もう60年以上が経過しているのである。1世代30年だから終戦直後の時代
だと2世代前ということになる。つまり今の生徒の祖父母が育った時代だ。その頃の作品で
著名なものは原民喜『夏の花』・太宰治『人間失格』・梅崎春生『桜島』・大岡昇平『野火』な
どである。これでも今の生徒にはなじみのない語彙が作品中に使われている。そう考える
と、明治・大正は勿論のこと昭和でも戦前の文学はもう「古典」に含めて良いのではなかろ
うか。

    (塾長コメント: 数学にも「現代代数学」という書籍が存在する以上、現代数学なるものが存在
             するのでしょうかね?普段あまり意識しないのですが、集合論の基礎の上にたつ
             公理的な数学を言うのかな?少なくとも高校や大学初年級で学ぶ数学は古典的
             数学でしょうね!)

216「学校完全5日制度は本当に是か?」(4月22日)***********************************
 土曜日の授業が行なわれなくなってだいぶ久しくなった。公立の小中学校と高校では、学
校完全5日制度が導入され、今ではそれが当たり前になっている。しかし、本当にそれで良
かったのかというと懐疑的にならざるを得ない。昔と比べて何がどう変わったのか、不利益
となったものを生徒・教職員の双方の立場から挙げて検討しよう。
 生徒にとって最大の不利益は、授業時間が確保できなくなったことだろう。特に難関大学
への進学率が高い高校では、それが顕著になる。私が以前務めた進学校では、すべての
曜日に国語の授業があるのが当然だった。第1学年の必修科目である国語T(現在の「国
語総合」に相当する)でさえ6単位(1週間で50分の授業が6コマ)あった。国語Tは、明治
時代以後の文学作品を講読する現国の授業と、江戸時代以前の文学作品と漢文学を講読
する古典の授業とに分かれ、通年で3単位ずつ学習の機会が与えられた。祝祭日その他の
理由でその週の授業が1回失われることがあっても、最低週2回は確保できたのである。第
2学年の必修科目である国語Uでも同様に6単位確保されていたし、第3学年の文系クラス
に至っては、現代文と古典がそれぞれ4単位、国語表現などの選択科目も含めると国語だ
けで10単位以上も授業を受ける機会が与えられていた。ところが、現在はどうか。第1学年
の必修科目である国語総合でも標準で4単位しかない。これを現国と古典とで二分すると2
単位ずつになってしまう。2単位ということは何らかの理由でその週に一日授業のない日が
発生すると、結果として週1回の授業しかできなくなるということだ。下手すると、その週には
全く授業がないということにもなりかねない。古典は日本の古典文学と漢文学とを扱うが、だ
いたい6:4の比率になるから、漢文の授業に関して言うならば週1時間すら確保できていな
いことになる。そのため、昔なら講読できた作品も時間的な理由で扱えなくなる。昨今生徒
の国語力の低下が叫ばれているが、これだけ単位数が削減されたのだからそれは当然の
帰結といえよう。だから私立の進学校ではそんな愚は犯していない。公立学校で学校5日制
が導入されてもこれまでどおり土曜日も授業を継続し、第1・2学年の国語でも6単位を確保
している。
 不利益を被るのは児童・生徒たけではない。勤務日が週に半日削減された結果、教職員
の日々の業務にも余裕がなくなっている。学年会議や委員会など各種の会議が平日の放
課後に集中したため、充分に教材研究をすることができなくなった。ましてや放課後の補習
授業や個別指導などは、やりたくても時間を捻出できない。その結果、必然的に「教育」の
質の低下を招いている。土曜日が勤務日であったかつては、確かに丸々一日休める曜日
は日曜日しかなかったが、週の中央になる水曜日の午後は1時間早く放課後になっていた
し、土曜日の午後はゆとりがあったから、職員室でのんびり過ごすことができた。また、夏
季休業期間中に土曜日の勤務を割り振るシステムだったから、年次休暇とは別に休暇を
取ることもできた。ところが、今ではそれもできなくなってしまった。夏季休業期間中も平日
は8時間の勤務時間として拘束される。だからといって土曜日の勤務が全くなくなったわけ
ではない。部活動の指導監督や公式戦の引率などの仕事があるから、授業がなくても学
校に出勤している教員は少なくない。そのためか、ここ数年の職員室は一年中戦場のよう
な忙しさになっていて、私を含めてどの職員ものんびり過ごす時間をもてない。うかうかして
いると昼食すら食べ損なうかもしれないほどの忙しさだ。
 このように考えると、学校5日制度が本当に児童・生徒や教職員の利益になっているのか
は疑問だ。表向きは週休二日制という世間の流れに従って土曜日を休みとしたのだが、本
当のところは単に各学校の光熱費を半日分削減したいだけだったのではないかとさえ思え
てくる。「古き良きローマ」ではないが、いつの時代でも「昔の方が良かった」という声を聞く。
だが、それは教育の現場でも言えるような気がしてならない。

    (塾長コメント: 公立学校で完全週5日制になったのは2002年だから始まってまだ6年目で
             ある。始まった当初の理念は、生徒達を家庭や地域に帰そう、部活動なども無
             しにして、生徒達の自主的な取り組みを支援していこうというものだったはず。
             始まって1・2年は土曜日午前中部活禁止というところが多かったと思うが、今
             では土日連続で全日部活に明け暮れるというところがほとんどだ。土日に生徒
             達を支援するシステムも整わず、部活に入っていない生徒達は全日無為に過ご
             すかアルバイトに明け暮れるかのどちらかだろう。もちろん、予備校に通ってしっ
             かり勉強をしている方もいるかもしれないが、日本全体でみればごく少数だろう。
             要は、社会全体が学校5日制の趣旨を全うに理解し、実施していないという点が
             問題なのだと思う。学校現場の対応も旧態依然だから弊害が顕著になってくるの
             は当然だ。)

215「天下りをなくすには」(4月15日)************************************************
 昨年12月に政府は、中央省庁で課長・企画官級以上の再就職状況をまとめた。それに
よると営利企業が170人、公益法人が434人、独立行政法人が90人だ。退職者の総数
が1200人程度だというから、過半数は何らかの法人に天下りしていることになる。政府は
営利企業への天下りを原則として退職後2年間は禁じる法律を制定した。だが、その影響
で非営利で公益事業を行なう法人への天下りが全体の3割を超え、民間企業への天下り
を規制した法律の隠れ蓑になってしまっているのが実態だ。
 そこで、渡辺公務員制度担当相の天下り規制法案では、規制の対象に公益法人や独立
行政法人も新たに含めることにした。ところが中央省庁が反発したため、「公益法人」「独
立行政法人」が原案から削除されてしまったままになっているのが現状だ。反発した理由
は「公益法人や独立行政法人は、行政の関与がなければ業務の遂行に支障を来たす」と
いうのだが、どうみても天下りを全面的に禁止されないような抜け道を確保したいための大
義名分としか映らない。今までさんざん恩恵に与ってきた利権を奪い取られたくないという
欲望がみえみえなのである。中央省庁はもともと天下りを規制・撤廃する意志などないの
である。だから国家公務員の天下りがかくも長い間問題視されているのに、いっこうに改善
の兆しが見えないのだ。しかし、それではいつまでたっても官業の癒着は根絶できない。ど
うすれば天下りがなくなるのか。単刀直入に言えば次の3点に集約される。
 1・省庁の職員の定年を一般企業の社員と同様に引き上げる。
 2・省庁から他へ再就職した場合は当該年度の新入社員と同一の待遇とする。
 3・省庁を辞めた人間がかつて在職した省庁にコンタクトを取ることを禁じる法律を制定
  する。
 1.は最初に採用された省庁に骨を埋めさせるため案である。そもそも省庁で課長級以
上に昇進した職員が50代(早い人は40代後半)で当該省庁を去り何らかの企業へ天下っ
ていくのを「普通のこと」とするというシステム自体がおかしい。ましてや省庁が天下り先を
斡旋するなど言語道断だ。新聞報道によると省庁を去った人間はまず公益法人に再就職
し、原則禁止とされている期間である2年を過ぎてから民間企業へ天下って退職金を二重
取りする人が多いという。全くとんでもない話である。不祥事による懲戒免職や依願退職が
ない限りは、65歳なり70歳まで当該省庁の職員として雇用し、他へ転職させないようにす
べきであろう。
 2.は何らかの理由で省庁を退職した場合の人間に対する措置である。元省庁の職員と
いえども「職業選択の自由」は万人平等の人権として保障しなければならないから、省庁を
辞めた人間がどこへ再就職しようとそれは自由だ。しかし、その場合は当該年度に入社し
た職員と同じ扱いにすべきだろう。再就職した日から何らかの役職が与えられて、自分が
かつて在職した省庁に働きかけるなどはもってのほかである。あくまでも平社員として雇用
し、労働時間や賃金・労働内容もすべて他の新入社員と同一とするのであれば、どこへ再
就職しようが問題はあるまい。何らかの役職に就くのは、他の新入社員と切磋琢磨して本
人の不断の努力で功績をあげて昇進した場合に限るべきだ。
 3.の案は、2.により再就職した者がかつて本人が在職した省庁へ連絡を取るのを禁ず
る法律である。省庁の職員と会うことは勿論のこと、たとえ電話一本かけても、メール一通
出しても、その瞬間に犯罪になるぐらいの厳しさが必要であろう。職員の執務する建物に
入ったら直ちに不法侵入として現行犯逮捕しても良い。そのぐらいの措置を講じなければ
「官」と「業」とのしがらみは取り去れるものではない。
 とにかく「天下り」という言葉が死語になるような状況を作らなければ、いつまでたっても
改善はできない。現状では省庁の職員は関連企業に天下るのが当然と考えているし、企
業側も天下りの職員を通じて他社には得られない権益を受けるのが当然だと考えている。
こんな有様だからいつまでたっても官業間の癒着による事件が後を絶たないのであり、不
祥事を連発するたびに国民の税金の一部である政務調査費を無駄に費やすことになるの
である。

214「吹奏楽部の演奏会を聴いて思うこと」(4月 8日)**********************************
 春季休業期間中に自分の勤める高校の吹奏楽部が催す定期演奏会に行った。これまで
に勤めた高校にも吹奏楽部はあったし、年に1度や2度の演奏会をしているのだが、自分
の教員人生を振り返ってみると意外なほど聴いていない。聴くにしても文化祭でしか機会が
なかったし、それさえも忙しさにかまけて聞き逃してしまいがちだった。だから校外の、それ
もちゃんとしたホールで聴く定期演奏会は初めての体験だった。
 私は開場時刻の15分前に着いたのだが、雨にもかかわらず既にホールの外壁に沿って
何百人もの長い行列ができていた。館内に入ってみるとほとんどの席が埋まっている。在
校生や教職員など私の知った顔ばかりかと思ったが、そんなことはなかった。むしろ少なす
ぎるくらいである。もちろん在校生のご家族や卒業生、また今春に入学する中学生などが大
勢いらっしゃったのだろうが、私にとっては当然見知らぬ方々になるので、客席の雰囲気は
普通の市民交響楽団が催すクラシックコンサートとあまり変わらない。
 さて、演奏が始まったが、さすがに贅沢に建築されたホールだけに音響は抜群である。文
化祭で聴いた曲目と同じものもあったが、楽器の音色に関しては同じ演奏とは思えぬほど
の差が現れる。それも当然だ。文化祭は、音響に関しては何の対策も取られていない学校
の体育館で行なわれるからだ。しかし何よりも感動するのは音響とか演奏の巧拙ではない。
この素晴らしいホールで何百人もの聴衆を魅了させているのが自分の学校の生徒であるこ
とだ。プロの交響楽団の調べも素晴らしいことには違いないが、高い入場料を払って聴くの
だからそれはある意味では当然といえよう。しかし、自分の知っている人、それも自分が日
頃指導している生徒が奏でているのだから感動もひとしおだ。放課後職員室にいても吹奏
楽部が練習している音はそれとなく漏れ聞こえてはいたが、それがこんなに素晴らしい演奏
に仕上がるとは思ってもいなかった。吹奏楽部は約100名にも及ぶメンバーがひとつになっ
て芸術を創りあげる「団体競技」だ。日々の授業や学校行事に追われながらも、限られた時
間内に練習時間をできるだけ確保し、厳しい練習に耐えて部員全員で一つの楽曲を完成さ
せるのは、並大抵のことではない。
 そして、いつも思うのは大舞台で堂々と自分の技量を披露する度胸の素晴らしさも強調し
たい。部員は何百人もの聴衆を前に緊張しているはずだ。日頃いかに練習を重ねても当日
の演奏でその成果が100%発揮できるとは限らない。否、むしろ出し切れないことの方が
多いはずだ。ときには演奏中でさえも「ああ、さっきの8小節は失敗した」という後悔が頭を
よぎるだろう。だが、ある小節で思い通りの演奏ができなかったからといって、再度チャレン
ジするわけにはいかない。ひとたび指揮者のタクトが振られて曲が始まってしまった以上は、
たとえどんなに緊張しても失敗もやり直しもごまかしも許されない、厳しい場に部員は置か
れているのである。これがどんなに大変なことかは、大人が冠婚葬祭などの場で挨拶する
場面と比較すればわかるだろう。結婚式などで「友人代表」としてたかだか数分間祝辞の
挨拶をするだけなのに、それでも緊張したり失敗したりするものだ。それを考えると人生経
験がはるかに乏しい高校生にもかかわらず、2時間以上もの長丁場を乗り切るのはじつに
素晴らしいことなのだと思わずにはいられない。そういう度量だけは何年も教壇に立ってい
る自分にはないものだなとつくづく思った。

213「地方の駅こそバリアフリー化を」(4月 1日)***************************************
 全国各地を旅行して感じるのは、地方の都市はバリアフリー化が立ち遅れていることだ。
たとえば今春旅行した津山駅(岡山県津山市)でも、前回の旅で通った三次駅(広島県三
次市)でも、改札口から各ホームへの移動は階段しかない。また、ホームの高さも問題で
ある。かつて蒸気機関車が客車を牽引していた時代と全く同じ高さのままなので、列車に
乗るには階段を上がるのと同じことになる。おまけに車両にも乗降口にはステップが設け
られているから、結局2段の階段を昇降するのと同じことになるのだ。これでは、車椅子で
の乗降は非常に厳しいだろう。それでも駅係員が常時介助してくれるのなら良いが、地方
の駅には駅員が全くいないところも少なくない。いる場合でも委託された者がパートタイム
勤務で、切符の発券と集札業務だけを請け負っているといった形態だ。列車も、私が『日
記とお知らせ』コーナーでたびたび綴っているように合理化でワンマン運転になっているか
ら、車掌が乗務していない。ということは車椅子利用の方が単身で移動するのはほぼ絶望
的だということだ。
 これに対して都市部ではほぼ全ての駅で改札階とホームとを結ぶエレベータと改札階と
駅舎の外とを結ぶエレベータが設置され、車椅子の方はエレベータの押しボタンを操作す
るだけでホームに移動できるようになっている。また駅員も複数名が常時勤務しているか
ら、列車の乗降口に渡り板をかけてホームから容易に乗り込めるように配慮がなされてい
る。路線バスでもそうだ。車内に段差がないノンステップバスが主流となり、バスの床面そ
のものも旧式のそれと比べて低くなっている。バスには車体から地面に向けてスロープが
格納されているから、人手を借りずに乗り降りができる。
 しかし、このようなバリアフリー化を推進しなければならないのは、むしろ都市部ではなく
地方なのだ。地方では乗降客の中に占める交通弱者の割合が圧倒的に高いからである。
また駅係員や車掌がいないのだから、車椅子の人を手助けしてくれるのは乗客の善意に
頼るしかない。もし自分しかその駅で下車しなかったとしたら、もうどうしようもないのである。
国鉄が民営化されてから20年が経過した。人件費が会社の業績悪化を招くからという理
由で係員や乗務員を削減したのは仕方がない。しかし、その結果車椅子の利用者が移動
ができなくなるのでは、公共交通機関としての使命を果たしているとは言えない。地方の駅
こそホームと列車の床面を揃える工事や改札からホームへのエレベータの設置を推進し、
少しでも利用しやすくするよう配慮すべきである。

212「タミフルから学ぶべきこと」(3月25日)*******************************************
 インフルエンザの治療薬である「タミフル」を服用した患者が異常な行動をするケースが
相次いでいる問題で、これまでその因果関係について否定的であった厚生労働省が今月
22日、初めてそれまでの見解を全面的に撤回した。タミフルはスイスの製薬会社ロシュか
ら発売されたインフエンザA型とB型の治療薬である。これを日本の中外製薬が輸入し我
が国では2001年2月から販売していた。タミフルを服用した10代の患者が転落死したこ
とを受けて、厚生労働省では10代の患者には原則として投与しないように指示した。しか
し10代ではない患者でも異常行動があることや、死亡には至らないものの転落事故が多
数発生していたことがわかった。このため販売開始後に発生した全ての副作用について議
論し、タミフルと異常行動との因果関係も再評価することになったのである。
 問題はこの薬が2001年から販売されており、これまでに1800件もの副作用報告があ
るということだ。その中にはタミフルの服用後に今回の転落死とは違った形で死亡した例
もある。たとえば栃木県足利市の2歳男児は服用後にわめき暴れ、それから3時間ほど昼
寝をしたら既に死亡した。京都市の39歳男性も服用して3時間後に眠ったまま死亡してい
た。どちらも2005年に起きているのだが、当時は医療関係者や製薬会社は勿論のこと、
マスコミもこの奇怪な死については取り上げなかった。だから、この副作用死は誰にも知ら
されないまま2年もの歳月が過ぎたことになる。NPO法人医療ビジランスセンターの理事長
を務める浜氏の調査によると、タミフルの服用後に起きたこの2人の患者の例と同様の突
然死は38人にも及ぶとのことだ。
 今回のタミフルに限ったことではないが、薬害に対する我が国の対応は非常に遅い。本
来なら想定外の副作用が一人でも生じた段階で国は投与を全面的に禁止させ問題の薬剤
を強制的に回収すべきなのに、そのような対応は決して取らない。1800件もの副作用が
報告されていたにもかかわらず、今まではその因果関係を調べもせずに否定的な見解を
出し、異常行動が相次いだ今年になってからもその見解を改めることはなく、「患者を一人
にしないように」という助言で終わらせている。第一、問題の薬剤を販売させておきながら、
こういう勧告をすること自体が問題だ。患者を看病する家族は患者のためにやらなければ
いけない仕事が山のようにある。患者のために食事も用意しなければならないし、患者が
汗をかいたら衣服や寝具を取り替えて洗濯しなければならない。患者が異常行動を起こさ
ないようにするには1秒たりとも患者から目をそらさずに監視していなければならないのだ
が、そんなことが不可能であることぐらい容易に想像がつかないのだろうか。
 諸悪の根源は副作用が生じたときの考え方にある。ある薬剤を投与した結果、製薬会社
や医療側が予期していない副作用が発生した場合、それが1人や2人といった少数では「そ
の人固有の特異体質だろう。」で済まされてしまう。だからたとえ副作用で死亡したとしても
患者の遺族が泣き寝入りをさせられ、製薬会社も医療側も免責されるのが常だ。では大多
数の患者に副作用が生じた場合なら問題にされるかというと、これが必ずしもそうではない。
抗がん剤などは副作用の発生率がほぼ100%であるが、それが製薬会社の想定範囲内
のものである場合は、医療側も無視するからだ。だからたとえば患者が「下痢がひどいね
ん。」と訴えても、製薬会社が発行する医師向けの添付文書(全ての薬剤について製薬会
社が作成することを法律で義務づけてある)に「本剤には服用後×時間以内に激しい下痢
が生じます。」とあれば、医師は「もともと副作用として激しい下痢が発生する薬ですから。」
という一言で患者の訴えを退けてしまう。だからたとえ下痢による脱水症状で死亡したとし
ても、「死ぬほどの副作用になるのは、やはりその人の特異体質だろう。」で片付けられて
しまう。こうして副作用で犠牲者が何人か出たしとても、それが全国各地から報告されない
限りは無視される。だから、その薬剤は何年にもわたって発売され続ける。その間に重篤
な副作用が相次いで報告されてようやく政府が重い腰を上げて調査に乗り出すのだ。そし
て「有害であるから今後は販売・投与を全面的に禁止する」という結論が下されたとしても、
その頃には既に十数年以上は経過して製薬会社は何億円もの売り上げを計上しており、
当該薬剤の研究開発費のモトは充分に取っていることが多い。
 こういう有様であるから、国の患者に対する薬害の認定はさらに遅くなる。1931年に最
初の患者が発生した水俣病ですら、半世紀以上も過ぎた今になってから新たに認定される
患者が出ている始末である。それまでにどれだけの患者が「病気になるのは本人の健康
管理が悪いだけだ。」という一言で、あっさり片付けられたまま死亡させられていたことか。
今回のタミフルも似たようなものである。この件では、元厚生労働省の課長がタミフルの輸
入販売元である中外製薬に天下りしていたことや、同製薬会社から奨学寄附金を受けてい
る教授が厚生労働省研究班の主任研究者を務めていた事実も明るみに出た。これでは、
「国と中外製薬との間に癒着があり、何が何でもタミフルを売ろうとしていた姿勢しかなかっ
たのではなかろうか。」と疑われても仕方があるまい。まして国や都道府県が新型インフル
エンザに対応できるようタミフルの備蓄を推進しているのだから何をかいわんやである。
 孔子が『論語』で「古(いにしえ)より皆死有り。」と述べているように、「死」は我々生きとし
生けるものにとっては不可避である。だから、癌だろうがインフルエンザだろうが、病気を患
って死ぬのは致し方ない。しかし、治療しようとして服用した薬剤で死ぬのは理不尽である。
ましてや10代の患者がインフルエンザで死亡する確率は非常に低いのだから、治療薬で
死ぬのはなおさら理不尽だ。今後は一人でも副作用が生じたら即刻全面的に投与を禁止
にさせるくらいの強い姿勢を厚生労働省に求めたい。そして中央薬事審議会も簡単には認
可しない姿勢で新薬の承認会議に臨むべきである。それには厚生労働省と製薬会社との
癒着を完全に断つことが前提条件である。いくら効果があっても犠牲者が出るような薬剤
では価値がない。国民が安心して服用できる薬剤を提供することこそ国家の責務であろう。

211「成績不振者でも進級させるべきか」(3月19日)************************************
 毎年この時期になると、どこの高校でも在校生の成績会議がもたれる。現在1年・2年の
生徒は4月からそれぞれ1つ上の学年に進級するのだが、高校ではその認定可否をこの
時期に職員会議で諮るのである。問題はその認定要件だ。入学時に生徒に配布する生徒
手帳や保護者に配布する書類には、正当な事由なき出席不良の場合、もしくは成績不振
の場合には進級や卒業を認めない旨が記載されている。
 前者は授業の欠席が当該年度に行なわれた全授業回数の1/3または単位数×35の
1/3を越えた場合と定められている場合が多い。なお、上記文中の「正当な事由」に該当
するものは次の5点だ。
 1・部活動や生徒会活動など学校が主催または関与する他の教育活動に参加する場合
   →公欠扱いになる。
 2・学校の教育活動や通学途上における事故による負傷や疾病
   →公傷扱いになる。
 3・法定伝染病に罹患した場合
   →出席停止扱いになる。
 4・近親者に不幸が生じたことによる法事の場合
   →忌引き扱いになる
 5・災害が生じて通学不能となった場合
   →公欠に準じた扱いになる
 後者すなわち成績不振の場合は、10段階評価で「1」ないし「2」(5段階評価では「1」)、
つまりいわゆる赤点を取った場合である。私が高校生であった当時は、各学期とも中間試
験と期末試験の和で平均点の50%に満たない得点をとった場合が赤点の対象となった。
たとえば中間・期末と100点満点の試験を行なったときの平均点が60点と66点なら和は
126点になるから半分の63点未満が赤点ということになる。その程度の成績しか取れな
いということは、教員の指導したことを理解できていないのであるから、上の学年に進級し
ても授業についていくのは困難だと見做されたのである。ところが現代は違う。私立高校で
はともかく公立高校では成績不振を理由に生徒を原級留置にすることが珍しくなった。否、
「なくなった」と表現しても過言ではないだろう。だから、極端な話、たとえテストの答案用紙
に氏名だけ記入して毎回0点をとったとしても、進級が認められてしまうのである。なぜそう
なってしまったのか。
 以下は私見だが、少子化の時代にあって高校側が生徒を必要以上に大切にする風潮が
強くなったこと、また生徒や保護者の権利意識ばかりが強大化したために高校が留年者や
退学者を出すことに対して世間の目が厳しくなったことが最大の要因である。だから、昔な
ら容赦なく留年なり退学をさせていたが、今ではそれができなくなっているのである。本題
に関して言うと、世論が次の1・2に記した考え方に変わってしまったことを指摘したい。
 1・入学試験の判定
 高校では全志願者に対して入学試験を行なうが、そこで合格と判定したということは、そ
の生徒は当該校における学習指導についていけるだけの学力があると学校が認めた証拠
である。したがって、入学させた以上は在籍期間中に何が起こっても教員は卒業まで責任
を持って指導にあたるべきである。成績不振を理由に留年させたり退学させたりするのは
教育者のするべきことではない。
 2・入学後の教師の指導
 成績不振者になりそうな生徒が出る恐れがあるか否かは、常日頃の授業において生徒
の状況を把握していれば、試験をする前に知ることができるはずである。そして事前に予
見できているのであれば、当該生徒に対して充分な指導をすることで赤点を未然に防ぐこ
とができる。日頃の授業で成績不振者を発見できない、あるいは発見しても指導していな
い、さらには指導したがやはり成績不振を解消できなかったというのであれば、その生徒
に問題がある以前に、その生徒を指導している教員の資質を問題にしなければならない
のではないのか。
 こういう考え方が常識になりつつあるから、学校側としては強硬な態度に出ることができ
ない。留年にした結果、万一保護者がマスコミなどに訴えて学校側に説明責任を求められ
ると、相当な証拠を用意していない限りは学校側の主張が認められないからである。だか
ら、今日では出席不良による留年はあっても成績不振による留年はなくなっている。
 しかし、この考え方は現実的ではないと言わざるを得ない。入学試験にしても、現在の公
立高校の志願倍率は非常に低くなった。5倍も10倍もあるのならそれなりに厳しい基準を
設定して優れた生徒のみを選抜できるが、多くの高校では1.1〜1.5倍程度の倍率しか
ないから出願者の大部分は合格できることになる。今や不合格になる受験生の方が圧倒
的に多いという高校入試は皆無になった。それどころか、中には定員割れをしている高校
すらある。そういう学校では受験者の全員を合格させている。否、正確に言えば全員を合
格させざるを得ないのだ。たとえ当日の入試の成績が悪い受験生がいても、もともと定員
割れしているのだから、よほどのことでもない限りはそれを理由に不合格にはできない。だ
から、中には入試での面接の時点で「こういう生徒はきっと卒業までもたないだろうな」と予
見できる場合があるが、それでも不合格にはできないのだ。
 こうして晴れて合格して生徒は入学するわけだが、その彼らの全員が高いモチベーション
を保って高校生活を送るわけではない。当然のことだが、生活態度が怠惰になる生徒もい
る。真面目だが特定の教科は著しく不得意でその授業にはついていけない生徒もいる。ク
ラスや部活動で友人をつくることができずに不登校気味になる生徒もいる。だから試験をす
る前から教員は「これは成績が悪くなりそうだ」と予見できるのだが、そういう生徒に限って
教員が指導しても応じないことが多い。補習や追試験などありとあらゆる救済措置を講じる
ために生徒を呼び出すのだが、全然学校に来ない、あるいは来ても一切課題をやろうとし
ない生徒が少なくない。そのような状況で、それでも留年になるような成績しか取れないの
は教員に責任があると一概に断定するのはいかがなものか。
 どんな成績をとっても進級や卒業ができるという現状はむしろ、何もやろうとしない生徒を
増やしているという悪影響を与えている。大学を推薦入試で受験するつもりでいる生徒は
一所懸命に取り組むが、そういう生徒ばかりではない。卒業後の進路も考えず「とにかく高
校を卒業さえできればいいや」という目標意識の低い生徒も少なくない。彼らはどんな成績
を取っても留年にはならないことを知ると、もう頑張ろうとはしなくなる。「先輩の××君でも
卒業できたんだから、俺もだいじょうぶだろう」とたかをくくるようになる。だから遅刻や早退
も増えるし、出席していても授業を受ける態度が悪くなる。それを教員がいくら強く指導して
も留年や退学になることは絶対にないと信じているから、指導にも応じなくなる。さらには、
そういう姿を他の生徒も見ているから在籍している生徒全体の士気を下げることにもなりか
ねない。
 やはり各高校は昔のように「一定以上の成果を出さなければ進級や卒業ができない」とい
う毅然たる態度を示したほうが良いと思う。誰だって留年はしたくないから、たとえば平均点
の50%以上という基準があれば、最低限そこまでは何とかして点を取ろうと努力するはず
だ。そうすれば生徒も緊張感を持って学校生活に臨むようになるし、現状よりは目標意識と
向上心を持って取り組むようになるのではなかろうか。

210「数学も素質の有無があるのでは」(3月11日)*************************************
 2月28日分の『日記とお知らせ』に私は「短時間では解けない数学の入試」を書いたが、
その塾長コメントを見て私は愕然とさせられた。それは、先月行なわれた神奈川県公立高
校後期選抜試験問題の数学で問5(イ)の値を求める際に、「16×2×nーn2」という式を
立てれば3分もかからずに解けると書いてあったことである。私が言いたいのは、なぜ、か
くもあっさりとこのような数式を思いつけるのかということだ。
 問題文を読んだ後に「何を求めればよいのか?」ということまでは、ある程度以上の国語
力さえ備わっていれば私のような数学が苦手な文系人間でもわかる。だが、そのために「ど
ういう数式を立てれば良いのか?」ということは、決して思いつかない。たとえ時間が無尽蔵
に与えられていても決して思いつかない。だから、もし「式を立てて解を求めるまでの過程を
すべて書け」と要求されたら、これはもう白紙にせざるを得ない。今回の問5(イ)にしても問
題文を一読して反射的に解を求めるための適切な式を思いつくことができる人というのは、
もうこれは作家の文才と同じで天から授かった才能であり、数学的センスのない人、すなわ
ち塾長の言う「数学的なものの見方・考え方・表現・技能」が備わっていない人は、生涯いか
に努力しても得られない、先天的なものなのではないだろうか。私にはそんな気がしてなら
ないのだ。
 なぜこんな話をするのかというと、じつは「先天的に持って生まれた素質」と言えそうなもの
は、国語でもあると思われるからだ。客観的に測定して科学的に実証されたわけではない
ので残念ながら断定はできないのだが、私が日頃指導している高校生でも国語のセンスの
ある人とそうでない人はいる。これは厳然たる事実だ。センスのある人は、たとえば評論文
の読解問題を解くにしても、問題文を一読する際に文中に引かれた傍線部分を見るだけで、
設問の文章を読まなくても「作問者はこの傍線から何を問おうとしているのか?」を本能的に
察することができるものである。そういう生徒は、指示語とそれが指す語句、ある語句を換言
した語句、ある語句と並立・対立関係にある語句、文章全体あるいは各段落ごとに散りばめ
られているキーワード、筆者の結論が書かれた場所、事実を述べた文と筆者の主張を述べ
た文との区別など、分量の多い評論文を素早く読み設問に的確に解答する上で問われるさ
まざまな要求をいとも簡単にクリアする。だから他の生徒が悶々と問題文と格闘している間
に文章の要旨を把握し設問の意図を読み取り、せっせと解答用紙に記入することができる。
したがって他の生徒だと到底最後の問題まで手を付けられずに終わるであろう相当量の出
題をしても、センスのある生徒は時間内に全ての問題に解答している。(解答の正誤は別に
して)これと同じことが随筆・小説・詩歌、さらには古文・漢文についても言えるし、与えられた
時間内にテーマに即した作文を書くことを求められる小論文(科目名で言えば国語表現)で
も、れっきとした差として現れる。
 もちろんそういう国語のセンスの有無がものをいう部分は、いわゆる学校の授業や高校・
大学入試などで問われる国語力全体から見れば、どんなに多く見積もっても20%程度しか
ない。しかも仮にそのセンスがあったにしても、残りの80%の部分においては人並み以上
の努力なしでは決して発揮できない。(つまりどんなに素晴らしい玉であっても磨かなければ
輝くことはないということ。) そして、センスの有無とは無関係な残り80%に関しては、スキ
ルの習得といった後天的な学習と場数を踏むことで、誰もが努力次第で達することができる。
だから実質的には努力している者が高い成績を取ることになるのだが、しかし、センスのな
い人は残念ながらそこまでなのだ。いくら本人が努力しても、80%から上の段階には決して
達し得ない。わかりやすく言えば10段階評価の「8」までは達するのだが、「9」や「10」は取
れないということだ。まるでかつて東西のドイツを隔てていたベルリンの壁のような、厚くて超
克できないものがそこに立ちはだかっているような気がしてならない。悲しい話だが、そうい
うセンスは教えれば身につくものではないので、こればかりは教員の私としてもいかんともし
がたい。絶対音感と同じで、街中を通り過ぎる救急車のサイレンを聞いただけで「シ」と「ソ」
の音が交互に鳴っていることがわからない人には、どんなに音を聞かせて訓練してもわから
ないものである。
 そんな国語のセンスがある一部の人と大多数のない人の違いを考えているうちに、同じこ
とが数学でも言えるのではないだろうかと私は感じるようになった。問題文から解を求める
ための適切な数式をすぐに立てることができる人、短時間でかつ正確に計算できる人、図
形で適切な補助線を引いて設問を解きやすくできる人、平面に描かれた問題の図から展開
図や見取り図さらには立体の図を想像できる人、こういった人はやはり天賦の才能や素質
といったものが、かなりの部分を占めているのではないだろうか。そうでなければ冒頭の設
問からあのような2次方程式は簡単に思いつかないだろう。そう私は思うのだが、果たして
間違っているだろうか?

    (塾長コメント: 数学の問題を解く方法にはいろいろあって、必ずしも数式を立てなければいけ
             ないということもないと思います。私のように数式を立てて考えた人、菅ちゃんの
             ように一つ一つ段階を追って考えた人、・・・といろいろあってもいいし、それが数
             学的なものの見方・考え方、表現・技能であって、そういうことを許すところが数
             学の面白さだと思います。)

209「学校給食費の不払い問題には」(3月 4日)**************************************
 小中学校の給食費の滞納が今や深刻な社会問題になっている。全国の小中学校の児
童・生徒の1%にあたる10万人が滞納しており、その総額は22億円にも達している。クラ
ス担任の教員が当該児童・生徒の保護者に再三再四支払いの通知を出したり家庭訪問
をして支払いの督促したにもかかわらず、一向に応じないために裁判所に申し立てるなど
の法的措置を講じた学校も281校に及んでいる。今月大分県で開かれた日本教職員組
合の教研集会では「給食費も公費で賄うべきだ」という意見が出た。今回はこの件につい
て私見を述べたい。
 一口に「滞納」というが、「支払いたくても経済力がないために支払えない」場合と「支払
う経済力があるにもかかわらず支払おうとしない」場合とに大別できる。前者の場合は速
やかに公費で賄う措置を講じるべきだろう。生活保護を受けている世帯が100万を超え
ている現状を考えると、「給食費を支払いたくても支払えない」家庭は決して少なくない。
しかし、教研集会で出た「給食費も公費で賄うべきだ」という意見には賛成しかねる。理由
は全てがそういう家庭ばかりではないからだ。支払えるにもかかわらず支払おうとしない
親もこれまた少なくない。文科省は今年1月に給食費の滞納に関する初の全国実態調査
を行い、このほどその結果を公表した。それによると「経済的な問題(つまり支払えない)」
が33%であったのに対し、「保護者の規範意識(つまり支払えるのにもかかわらず支払お
うとしない)」が60%であった。後者の方がはるかに多いにもかかわらず、公費で賄うのは
いかがなものか。
 そういう児童・生徒の家庭に行くとガレージにクルマが置いてあったり、家の中には固定
電話やパソコンがあったりするという。そして保護者も子どもも携帯電話を所持している世
帯も珍しくない。つまり、たとえローンであるにせよクルマの代金を支払い、さらには車検・
自動車税・燃料費、携帯電話料金やプロバイダー料金を支払っているわけだ。これらの合
計は、月額3万を下回ることはあるまい。一方給食費は、小学校で3900円、中学校でも
4500円しか徴収していない。一食の値段に換算すると190円もかからないのである。と
いうことはクルマを売り、電話やインターネットを解約すれば充分に捻出できるはずだ。そ
れなのに支払わないのは「クルマや電話よりも給食費は支払う価値のない品目」と考えて
いる証拠であると言わざるを得ない。さらにひどい例だと不動産を持っている家庭すらある
という。「マイホームのローンが重くのしかかっているから給食費などとても支払えない」と
いう理屈だ。全くふざけた話としか言いようがない。そんなものはさっさと売り払って家賃の
安い賃貸住宅に転居すれば良いだけの話である。中には支払いの督促のために家庭訪
問をすると「子どもは『教育を受ける権利がある』のだし、学校は子どもを午後まで拘束す
るのだから、食事も無償で出すのが当然だろう」と食って掛かる保護者もいるという。「子
どもを学校に行かせているのだから『義務教育』の義務は果たしている。しかし給食費を
支払う義務までは『義務教育』には入っていない」と主張して譲らぬ親もいるそうだ。
 支払う経済力があるのに支払おうとしないという行為は無銭飲食、すなわち窃盗や無賃
乗車と同等の、れっきとした犯罪行為である。そんな親には親権を行使する資格はないと
思う。学校もそういう保護者に対しては断固たる態度をとるべきだ。つまり給食の時間が
きてもその子どもには一口も食べさせないのである。当然、子どもは空腹のまま午後の授
業を受けるのは耐えられない。だから「空腹で我慢できないのなら帰れ。家で食べてから
また学校に来い」と指導するのである。何でもそうだが、ある商品やサービスを受けたけ
ればそれに見合う対価を支払うのが社会の常識である。払わない者には一口も食べさせ
ない。これが当然の措置だろう。同様の例は高校の授業料の滞納でも言える。私は定時
制高校にも勤務した経験があるからよくわかるのだが、学費延納願いの手続きすらなく保
護者に連絡しても一向につながらない家庭も珍しくない。授業料をクラス担任の教員が自
腹で立て替えているケースさえあった。支払わないのならその時点で生徒を退学させるべ
きである。学校が「商品やサービスは対価を支払って買うものである」という社会のルール
を厳しく示さないと苦しい家計ながらも真面目に支払っている保護者を侮辱していることに
なり、失礼極まりない。現状のように黙認したりだらだらと滞納をさせたままにしておくなど
は言語道断である。

208「小倉百人一首大会をやって思うこと」(2月25日)**********************************
 今年も私の授業クラスで小倉百人一首大会を行なった。前年の12月に実施要綱を配布
し生徒に4人から成るチームを作らせて冬休み期間中に覚えてもらい大会に臨む。チーム
は自由に作らせているから、生徒は仲の良い友達同士でチームを結成している。そして冬
休み前にエントリーを済ませ対戦相手のくじ引きができるようにしておく。その際に「1人で
全首覚えなあかんことはない。4人で分担して覚えれば勝てるからあとはチームワークや」
と言っておく。しかし実際に始めてみると、これが同じ高校の同級生かと思うほどの差が出
る。40枚以上も取ってしまう生徒がいる一方で、1枚も取れない生徒もいるからだ。私がこ
の企画を始めた頃はそれが不思議でならなかった。しかし何回かやるうちに、その原因は
高校入学前の生徒の環境にあることがわかった。チームワークの有無では決してなかった
のである。
 小倉百人一首については中学校でかなり力を入れているところとそうでないところがあり、
学校間の格差が非常に大きい。力を入れている中学では小倉百人一首大会を毎年の学
校行事にしており、早くから教員が事前指導をして全校生徒を体育館に集めて競技をさせ
ている。そういう中学校を出身した生徒は卒業までに3度大会を経験したことになるから当
然和歌も覚えているし競技の要領も心得ている。しかし力を入れていない学校では全く取
り組んでいないから、生徒は和歌も覚えていない。そればかりかそもそも小倉百人一首と
はどういうものかも知らない。そういう状況だからチームの中に百人一首の経験者が含ま
れているか否かで競技成績の行方が大きく左右されてしまう。もっともこれはどこの学校で
も行なっている球技大会でも同じことが言えるだろう。たとえばA・Bの2チームがバレーボ
ールの対戦をするとき、Aチームだけにバレーボール部の生徒が含まれていれば、Bチー
ムが不利になるのも当然だ。
 そういう実情を考えると、本当は経験者だけの対戦カード、初心者だけの対戦カードとい
うように実力別に分けて競技させてやりたい。現状では一方のチームにずば抜けて強い生
徒がメンバーに入っていると、他方のチームはほとんど札を取れずに競技が終わってしま
う。それでは競技に臨んでいる生徒もおもしろくないだろう。各人の競技経験に応じたメン
バー構成にして対戦相手を決める際に実力別のカードにすれば、もっと白熱した競技にな
るのではないだろうか。最近そう感じるようになってきた。しかしこれを実現させるのはなか
なか難しい。生徒一人ひとりの出身中学校における小倉百人一首に対する取り組み状況
の実態を調査・把握することはとてもできないし、仮にできたとしても同じ中学を出身した者
どうしでも個人間の実力には差があるからだ。また貴重な時間を割いてまで小倉百人一首
の筆記試験をすることもできない。何か絶妙な案はないものだろうか。

207「労働者の環境は悪くなるばかり」(2月18日)***************************************
 厚生労働省の諮問機関に労働政策審議会というものがある。その分科会に所属する奥
谷禮子委員がとんでもない発言をした。その内容は下記の4点だ。
  ア・過労死するのは自己管理の問題。経営者は過労死するまで働けとは言わない。
  イ・祝日はいっさいなくすべきである。
  ウ・労働基準監督署は不要である。
  エ・労働者を甘やかしすぎている。
 この発言は某週刊誌のインタビューで出て、衆院予算委員会で民主党の川内博史議員
が、これを取り上げ「あまりの暴言だ」と批判した。先月島根県内で開かれた講演会で「女
性は子どもを産む機械」という発言をしたため批判の矢面に立たされている柳沢厚生労働
大臣も、この奥谷委員の発言を「私どもの考えではない」として防戦している。
 発言はどれも産業革命直後のイギリスの価値観そのもので、基本的人権が確立した近
代国家においては非常識なものばかりだ。アにしても「経営者は過労死するまで働けとは
言わない」という裏づけとなる証拠などどこにもない。全国に散在するすべての企業の経営
者の証言を集めてきたわけでもないのに、よくそんなことを断言できるものだ。労働者に与
える仕事に一定のノルマや期限を与えているのも経営者である。それに応えようとして働い
た結果過労死を余儀なくされているのである。だからこそ訴訟になるのであって、本当に本
人の自己管理責任だけに帰するものならば裁判所も門前払いするはずだ。イも何を考えて
いるのかわからない。祝日がなくなればいわゆる土・日・月の3連休も一切なくなる。「労働
者は定年退職するまで会社に縛り付けられるべきであるから休日は要らない」とでも言わ
んばかりの発言だ。ウにしても労働者に人権など要らないと言わんばかりの暴言である。
労働基準監督署がなくなれば、労働者に対して法律上問題のある雇用をしても立ち入り検
査がなくなるし勧告もされなくなるということである。だから経営者は現状以上に恣意的な労
働環境を作ることができ、労働者はますます厳しく惨めな思いを強いられる。会社に12時
間以上仕事させられているのに、昼食時間も休憩時間も取り上げられてしまうかも知れな
い。それで過労死したり病気になっても本人の責任と一蹴されてしまうのだから、犬死にも
いいところである。エも問題外の発言だ。そもそも労使の関係は対等のはずである。それ
が、基本的人権が保障された近代国家における常識的な考え方である。しかし実際は「対
等の労使関係」は形骸化されていて圧倒的に経営者の権力が強い。だから労働者は苦境
から抜け出せずにいるのに、そんな現状でもなお「甘やかされている」とでも言うのだろうか。
 我が国は先進国でも突出した「残業大国」である。しかし、誰も好き好んで残業をしている
人など一人としていない。首都圏などの大都市ではただでさえ通勤時間が長いのだ。誰も
が明るい時間に退社して余暇を楽しみたいはずである。しかし会社の業務は増えているの
に人員は削減されたため、一人が受け持つ仕事の量は格段に増えてしまった。そのため
正規の勤務時間内には到底仕事が終わらない。だから残業を余儀なくされているのである。
今では毎晩のように終電の時刻ぎりぎりまで会社に残って仕事をさせられている社員も珍し
くない。これ以上睡眠時間を削ることができないほど残業を強いられる生活で、テレビを見
たり趣味に興じる余裕どころか、お風呂にも満足に入る時間すら取れないという人もいるの
である。それでも残業に見合う報酬が支給されていれば我慢もできよう。しかし大部分はタ
ダ働きだ。たとえ残業手当が支給されるにしても雀の涙でしかない。それどころか経営者側
には「残業しないと仕事を片付けられないのは能力がない証拠」と断定し残業を批判する考
えすらある。しかし労働者の立場としては、成果主義の現代社会にあっては、とにかく一定
の成績を上げなければ会社に残ることはできない。万が一残れなくなると新たな職を探さな
ければならなくなる。しかし、それまでと同等以上報酬が得られる職場への再就職はまず不
可能だろう。だから残業だろうが休日出勤だろうが何でもして会社に自分の存在価値をアピ
ールし続けなければならない。その結果自分の能力以上の成果を求められ、ある者はノイ
ローゼやうつ病を患って会社を辞めさせられ、ある者は自殺を図り、またある者は過労死す
る。これが現代の我が国の労働者の現実だ。
 政府の諮問機関の委員に名を連ねるような人は、恐らくそんな労働者とは無縁の生活を
享受しているのであろう。だから労働者の立場に立った発言ができないのである。最近は
過労死した労働者の遺族が会社を相手取り訴訟を起こし勝訴するようになったが、今回の
一連の発言はそんな時代の流れとは逆行する内容と言わざるを得ない。いったい労働者を
何だと思っているのか。そういえば柳沢厚生労働大臣の「女性は子どもを産む機械」という
発言もそうである。養鶏業界に例えれば政治家は業界の主導者であり国民は養鶏場のニ
ワトリであるとしか考えていないのだろう。養鶏場では真夜中でも煌々と照明をつけてニワ
トリに眠らせる時間を与えずに卵を産ませているのであるが、柳沢厚生労働大臣の立場か
らすれば「女性はニワトリだからどんどん卵を産ませるべきだ」という理屈になる。しかし出
産を望んでいるのに子どもができない女性も少なくないのである。柳沢厚生労働大臣から
すれば、そういう人などは「卵を産まないニワトリだから存在する価値がない」のだろう。こ
の発言で彼女らをどれだけ傷ついたことか、恐らく大臣には想像できまい。奥谷禮子の発
言にしてもそうである。根底には柳沢厚生労働大臣の発言と共通するものが流れている。
「労働者はニワトリなのだから、祝日も労働基準監督署も廃止してどんどん働かせるべき
だ。それで過労死しても経営者が責任を感じる必要はさらさらない」という理屈だからであ
る。まさに、労働者に一切の権利など要らないと言わんばかりの発言内容であるが、戦後
60年が経過した今になってもなお19世紀の資本家と大同小異の考え方をしている人が
いるのかと思うと空恐ろしい。こんな人が政府の諮問機関の委員を務めているようでは、
現状でもお寒い我が国の労働環境は今後さらに悪化する一途である。

206「愚民政策の道具でしかないテレビ」(2月11日)************************************
 1996年10月以来520回もの放送回数を重ねた、関西テレビ制作の老舗番組「発掘!
あるある大事典」が11年目にして打ち切られることになった。既に報じられている通り、取
材事実を捏造して放映していたことが発覚したからである。その発端となったのは納豆の
ダイエット効果を紹介した回で実験結果を捏造していた事実が明るみに出たのである。し
かし捏造はそれだけではなかった。昨年2月19日放送の「味噌汁によるダイエット」を取り
上げたときは、テキサス工科大学のキム・サンウー助教授の発言を捻じ曲げて紹介してい
た。また1998年10月25日に放送されたレタスの催眠作用を取り上げた番組では、今回
の納豆と同様に実験結果を改ざんして放送していた。このことから、「発掘!あるある大事
典」の番組制作では捏造が常態化していたのではないかというえ疑惑がもたれたのである。
 なぜ捏造してまでと思うかも知れない。しかし、その理由はいたって簡単だ。民法各局は
どこも利益優先の商業主義に走っているからである。つまり視聴率至上主義で番組を制作
しているということである。業界には視聴率の高い番組が「良い番組」で低いものは「悪い」
と判断されがちな風潮がある。内容の良し悪しではなくとにかく視聴率なのだ。視聴率が高
ければ「人気番組」として評価され何年にも亘って放送される。逆に悪ければ売れない雑誌
の廃刊と同様に放送は打ち切られる。だから視聴率を稼ぎ他局に負けない番組を制作しよ
うと躍起になる。そのためにはありきたりの内容では他局に勝てない。特に老舗番組はそう
である。放送回数を重ねるにつれマンネリになりがちであるから、新たに放送が始まった番
組に負けない内容にしないと視聴率はたちまち他局に奪われて下落してしまう。だから「発
掘!あるある大事典」のような情報を提供する番組なら、視聴者を「あっ!」と驚かすような
内容にしなければならない。そこで今までの常識を覆すような情報や奇をてらった新説を流
すことを考えるようになる。それが今回槍玉に挙げられた「納豆ダイエット」や「味噌汁ダイエ
ット」なのではなかろうか。
 また、これは推測だがこの背景には当該業界からの放送依頼もあったのではなかろうか。
たとえば納豆のメーカーがテレビ局へ番組で納豆の効用を誇大に取り上げるよう放送の依
頼をする。そこで納豆の効用を説く番組を制作するわけだが、「納豆は大豆なので身体に
良い」というような従来からある情報では放送しても意味がない。そこで女性が飛びつきそ
うなダイエットを取り上げてこれと結びつける。その際、ただ司会者がその効用を説いても
何の説得力もない。そこで有識者を登場させてその人に証言させる手法を取ることになる。
しかし証言をそのまま紹介したのではあまり説得力がないこともあるだろう。そこで取材した
相手の発言の中から、番組を制作する上で都合の良い言葉だけを取捨選択して放送する。
また取材の対象者が外国人の場合は当然日本語に通訳しなければならないが、そのとき
は内容を改ざんし都合の良い和訳を作文する。そして放送の際には、原語が聞こえないよ
うに日本語の音声を上からかぶせ、さらに字幕スーパーを取材相手の口元に掲出して通
訳した日本語を歪曲していてもそれが視聴者にばれないよう巧妙に細工する。こうして都
合の良い事柄だけを取り上げて意図的に編集するのは、もはやこの業界の常套手段なの
である。これは何も「発掘!あるある大事典」に限ったことではない。多かれ少なかれどの
番組でも日常的に行なわれているとみて良いだろう。視聴者はそんな番組制作の捏造過
程は知らないから、流された情報を鵜呑みにする。だから今回の納豆でもそうだったが、
番組放送の翌日から納豆の売れ行きが急に良くなるのである。そして番組を制作した会
社や放映したテレビ局に対し納豆のメーカーがその謝礼として金品を贈る。所詮商業主義
に踊らされた放送業界はこんなところではなかろうか。
 こうしてわれわれ国民には科学的根拠も証拠も何一つない情報を流されたり意図的に情
報を操作されている。特に国民の耳目を集める健康関連の情報はそうだろう。かつて、さん
ざん騒がれた太陽石・サルノコシカケ・紅茶キノコ・梅干・クロレラなどは勿論のこと、ここ数
年もてはやされたヨーグルト・プロポリス・水晶・磁気ネックレスなどもみんなその類ではない
だろうか。まったくわれわれ国民は何を知らされているのか知れたものではない。テレビが
この世に登場してからもう半世紀にもなるが、今やまさに愚民政策の道具と化している。

    (塾長コメント: 「あるある」はよく見ていました!とても残念ですね...。)

205「英語のリスニングテストにICプレーヤーは不要」(2月 4日)*************************
 今年も1月20日・21日の2日間にわたって大学入試センター試験が行われた。毎年こ
の試験は何かとトラブルが起きやすい。今も昔も変わらぬトラブルは積雪による交通機関
の乱れで、こればかりは時節柄致し方あるまい。入試そのものを夏にして、秋季入学制度
にでもすれば話は別だが、そうもいくまい。降雪の有無にかかわらずはじめから試験開始
時間を午後にして遅刻者をなるべく出さないようにするくらいしか手立てはないだろう。しか
し人為的なトラブルは当局の努力や創意工夫で改善すべきだ。その筆頭に挙げられるの
は何といっても英語のリスニリング試験である。
 英語のリスニングテストでは昨年からICプレーヤーを使用する方式が導入されたが、導
入した前回の試験では「音声が聞き取りにくい」「再生しても音声が出ない」といった不具合
が各地の会場で続出し大混乱した。リスニング試験を中断し後刻再試験を受けることにな
った受験生は457人に及んだ。今回はその反省を生かすべく機械の改良などを試みたよ
うだが、今年もまた機械の不具合が出て再試験をするなどのトラブルが発生し、一度中断
したあと再開試験を受けた受験生は381人にも及んだ。大学入試センターの事業部長は
今回のトラブルについて謝罪はしたものの試験の方法は現行のままとするという方針を表
明した。
 問題のICプレーヤーだが、それを使わなければリスニング試験はできないというわけで
は決してない。現にそんな機械が導入される前からリスニングテストは、これまで何度も行
われてきたし、それで特段の問題は発生していなかった。私の勤める神奈川県立公立高
校の入試では今もなお校内の一斉放送によるリスニング試験が行われている。それで受
験生に何の不都合や不利益も生じていないのだから、センター試験もわざわざICプレーヤ
ーを使う必要はないと思う。それに機械を用意するだけムダな経費をかけている事実も看
過できない。今年センター試験で英語を受験した者は49万7508人であった。つまりICプ
レーヤーをそれだけ製造して配布したのであるが、もちろんタダでは製造できまい。当然セ
ンター試験の受験料の一部になっているのだから、ただでさえ出費がかさみがちな受験生
の家計にさらなる負担をかけていることになる。それで不具合が発生して受験生に時間を
浪費させ心理的な負担をかけているのだから、愚の骨頂だ。早急に一斉放送による従来
の方式に戻すべきである。

    (塾長コメント: ICプレーヤーの現物を見ましたが、本当に「こんなんで大丈夫?」という代物
             ですね!40人規模の教室なら一つのスピーカーで十分かも知れませんが、そ
             れでも結構気をつかいますね。前と後ろの聞こえ具合とかスピーカーの音割れ
             試験官の歩くときの床の音、教室外から聞こえてくる音の問題等、公平さを考
             えたら解決しなければならない問題です。そもそもセンター試験の英語の試験
             にリスニング試験が本当に必要なのでしょうか?答えが番号なのでいい加減に
             答えても正解になるような問題をやる意味がないような...。)

204「何を食べさせられているのかわからない」(1月28日)******************************
 ペコちゃんの愛称で親しまれている大手菓子メーカー「不二家」が消費期限を過ぎた牛乳
を使用した商品を製造・出荷していたことが発覚した。また、大阪の泉佐野の工場ではシュ
ークリームの賞味期限表示を社内規定よりも1日長く表示する不正をしていたことも明らか
になった。この工場は埼玉工場と商品を相互に供給していたが、双方の工場長が不正表
示を指示し本社もこれを了承していたという。不祥事は他にもまだ発覚した。昨年10月に
は北海道旭川市内のスーパーで販売されたチョコレート菓子の入った箱の中に蛾の幼虫
が混入していたことがわかり、不二家もその事実を確認した。このチョコレート菓子は神奈
川県の平塚工場で製造されたものだが、不二家はこの工場で出荷された同製品の自主回
収をしなかった。また、札幌工場では昨年6月に製造したシュークリームの細菌検査がいい
加減に行われていたことも発覚した。細菌数を数えられるまでの段階まで検査をせずに途
中で打ち切ったり、国が定めた検査マニュアルとは違う手順で検査を実施していたのであ
る。さらに、12年前の95年にはこれもまた大阪の泉佐野工場で製造した洋菓子を食べた
9人が食中毒症状を訴えたことも今頃になって明るみに出ている。恐らく不二家のトップは
自社で製造した商品は食べないのだろう。どうせ洋菓子だし食べるのは子どもである。自
分が食べるわけではないから、細菌が繁殖していようが期限切れの原料が使われていよ
うが関係ない。食べて死者が続出するようではまずいが、何人かがおなかをこわす程度な
ら構わない。そんな発想しかないのだろう。姉歯元一級建築士の耐震偽装マンションでもそ
うだったが、自分が住むわけではないから大地震が起きてどうなろうと自分の知ったことで
はないのだ。結局は自分のことしか考えていないのである。
 三菱ふそうといい、パロマのガスといい、今回の不二家といい、公共工事をめぐる談合と
いい、企業の不祥事はじつに後を絶たない。しかしそれは行政の処分が甘いからだ。不正
が明るみに出ると一応立ち入り検査などが行われるが、当時の責任者が謝罪会見を開い
て辞任し人事を刷新すれば、もう社内では「これで社会に対する謝罪は済んだ」という雰囲
気になってしまう。処罰にしても甘いことこのうえない。問題の商品をリコールして何日か営
業停止処分を受けただけで企業の生産活動が再開される。だから、また忘れた頃に再び
不正を働くようになるのだ。不正を働くときも駐車違反と同じで「バレなければ良いのだ」と
いう考えしかないのだろう。運悪く発覚しても「一時的におとなしくしていれば良い。喉元過
ぎれば熱さを忘れるのだから」といった考えなのだろう。だから、不祥事が後を絶たないの
である。何の予告もなく抜き打ちの立ち入り検査を毎週のように行い、不祥事が発覚した
ら問答無用で会社そのものを国家権力で解散させ、会社の所有する資産はすべて強制的
に国家が没収するくらいの措置を講じるべきだ。その程度のことをしなければ企業の不正
を予防する効果は生じない。
 それにしても今回の不二家の不祥事にはあきれた。消費期限を過ぎた原材料を使って
製造するという行為が今までバレもせず続いていたのだから、本当にわれわれ消費者は
何を食べさせられているか知れたものではない。他のものはともかく食品は口に入るもの
であり、直接人体の健康を害する恐れがあるのだから、最も神経を遣わなければならない
はずである。そういう意味では今回の不二家の不祥事は耐震偽装よりも悪質だといえる。
耐震偽装の物件に居住しても大地震が起きない限り問題は生じないからだ。それに大地
震は何十年に一度あるかないかの確率でしかない。しかし細菌検査をしていない商品や、
消費期限の過ぎた原材料が使われた製品を口に入れれば、食べて数時間も経たないうち
に病気になる恐れがあるのである。食品を扱う業者なのにそんなわかりきったことすら考え
もしないのだろうか。こんな不正が長年バレもせず続いているようだと健康に良いとされる
「有機栽培」や「無農薬野菜」と表示された商品なども信用はおけまい。なぜなら私たちはそ
の作物を栽培する過程を一部始終見てきたわけではないからだ。だから農薬を使っていて
も「無農薬」と表示しようと思えばできるのである。しかし私たちは「無農薬」と書かれていれ
ばそれを信じるしかない。どんなに有害な農薬を散布されていても「無農薬」と表示されてい
る限りそう信じるしかないのだ。品質保持期限もそうである。その商品に含まれている香料
や塩分などの含有量もそうである。消費者は製造過程を見ていないのだから、表示された
数字を信じて買うしかないのである。その表示が虚偽だとしたら、われわれは何を信じて食
べれば良いのだろう。

    (塾長コメント: 賞味期限切れの牛乳や納豆など平気で食べていますが、商品として出荷する
             以上今度の不二家の件は見過ごせないですね。ただ賞味期限が過ぎたから全
             部廃棄処分というのは、どこかの国のコンビニのお弁当みたいで、飢餓に苦しむ
             人々から石が飛んできそうですね。消費期限を少し長めにおいて安く販売し、買
             う人は自己責任で購入するというのは駄目なんですかね?私などは、賞味期限
             切れでも半額とかだったら買ってしまいたい派なんですが...?
              菅ちゃんは、「何を信じて食べれば良いのだろう。」と嘆いておられますが、この
             日本で信じて食べていいものはほとんどないでしょう!いろいろな紛い物が流通
             しているし、結局は自給自足かな...?)

203「変な日本語」(1月21日)******************************************************
 こういうタイトルで書かれた文章は、「キモい」「うざい」のようにマスコミが発信して若者に
広まった言葉を取り上げて「日本語がおかしくなっている」という結論にもっていくのが常だ
が、今回私が書こうとするのはそういう内容ではない。老若男女を問わず誰もが身近に話
し、国語審議会も文科省も公認し、どこの辞書にも当たり前に掲載されている語でさえも、
「変な」と言いたくなる語が存在することを指摘しようというわけである。
 「負けず嫌いだ」という言葉がある。これは、人一倍負けることを極端に嫌がる性質をさす
言葉である。読者のみなさんも何気なく普段から使っていると思うが、これを元の単語に分
解してみるとじつは矛盾する点があることがわかる。
  負け・・・カ行下一段活用の動詞「負ける」の未然形
  ず・・・・・打消の助動詞「ず」の連用形
  嫌いだ・・形容動詞「嫌いだ」の終止形

 問題は「負けず」だ。たとえば対戦相手が決まったチームのキャプテンが試合前の抱負を
語るとき、「相手は県を代表する強豪ですが、気合だけは負けずに闘いたいと思います。」
と言えば、「負けず」は「負けない」という意味だということがわかる。となると「負けず嫌い」
は「負けないことが嫌い」、つまり「勝つことを嫌がる」という意味になってしまう。したがって
この言葉は「負け嫌い」でなければならないのである。どうしても「ず」を入れるのであれば
「勝てず嫌い」でなければならない。そうしないと、食べもせずに嫌いだと決め付けることを
意味する「食わず嫌い」という語を品詞分解して両者を比較したときに整合性がなくなって
しまう。
 この類の言葉は他にもまだある。たとえば「転ばぬ先の杖」もそうだ。これも元の単語に
分解してみよう。
  転ば・・・バ行四段活用の動詞「転ぶ」の未然形
  ぬ・・・・・打消の助動詞「ず」の連体形
  先・・・・普通名詞
  の・・・・格助詞
  杖・・・・普通名詞

意味を言うとき「転ばないうちに、用心して予めつく杖」と言ってしまえば打消の助動詞「ぬ」
があっても不自然には感じられないであろうが、「先」には「うち」つまり「Aが発生した時点
からBが発生する時点までの間」という概念はない。じつは「先」とは「前」という意味である。
英語で言えば”before”だ。つまりAが発生する時点から前の時間をさすので、この言葉は
「転ぶ前に、用心して予めつく杖」でなければならない。ということは「転ばぬ先の杖」ではな
く「転ぶ先の杖」でなければ意味が通らないのである。
 「変だ」とまでは言わないが、たとえば次の文例はどうだろう。
  A・そんなことは絶対許さん。
  B・今にも泣き出さんばかりの表情だ。

どちらにも動詞の後に「ん」がある。しかし意味はまるで違うのだ。日頃はそのようなことは
意識せずに使っているだろうが、それぞれの文を単語ごとに分解すれば違いはすぐにわか
る。
【Aの文】
  そんな・・・連体詞
  こと・・・・・形式名詞
  は・・・・・・係助詞
  絶対・・・副詞
  許さ・・・サ行五段活用動詞「許す」の未然形
  ん・・・・打消の助動詞「ず」の連体形「ぬ」が「ん」に変化したもの

【Bの文】
  今・・・・・・・普通名詞
  に・・・・・・・格助詞
  も・・・・・・・・係助詞
  泣き出さ・・・サ行五段活用動詞「泣き出す」の未然形
  ん・・・・・・・推量の助動詞「む」の連体形「む」が撥音便化したもの
  ばかり・・・・副助詞
  の・・・・・・・格助詞
  表情・・・・普通名詞
  だ・・・・・・断定の助動詞

「ん」を含んだ文節だけで見ると、Aは「許さない」という意味であるのに対し、Bは「泣き出し
そう」という意味になるのである。(「泣き出さない」という意味ではない点に注目)この「ん」
の歴史をたどれば次の通りである。平安時代以前にはそもそも「ん」という仮名自体が存在
しなかった。いつから登場したのかというと鎌倉時代中期以後になってからである。助動詞
の「む」「むず」「らむ」「けむ」と助詞「なむ」の「む」が「ん」と表記されるようになったのが最
初である。一方、打消の助動詞「ず」の連体形「ぬ」の方は、奈良時代から長らくそのままで
表記上の変化はなかった。これが「ん」と表記されるのは江戸時代後期以後である。したが
って結論を言ってしまえばABどちらの文の「ん」も誤りではない。だが、わかりやすくないこ
とだけは確かだ。これでは両者の「ん」の違いが判然としないし誤解を招く。日本人はともか
く日本語を学ぶ外国人にとっては非常にわかりにくいのではなかろうか。
 職業柄日頃から古典文法に触れていると、日本語には意味の矛盾する単語や不自然な
単語が多々あることに気づく。こういう言葉はやはり国語審議会が文科省に答申し、道理
に適ったもの・少しでもわかりやすいものに改める方向に努めるべきだろう。

202「空調設備は誰のため?」(1月14日)********************************************
 関東地方の南部では先月まではわりと暖冬を思わせるような日もあったが、このところす
っかり冬らしくなりオーバーコートが欠かせない気温にまで下がってきた。そんな季節にいつ
も感じるのが商業施設の暖房の使い方だ。百貨店やスーパーマーケットなどの大規模小売
店では過剰なほどの暖房を利かせている。こちらは戸外を歩いているから当然オーバーコ
ートを着たまま店内に入る。あの寒い戸外から一歩店内に入った瞬間はとても心地良いも
のだ。しかし、買い物のためにしばらく店内をうろうろしているうちに暑くなってくることが多い。
そのとき従業員の着衣を見ると、ワイシャツ1枚だったりひどいと真冬でも半袖シャツだった
りする。つまりこの暖房はワイシャツや半袖シャツ1枚しか着ていない従業員にとって心地
よい温度に設定されているのである。だからオーバーコートを着たまま店内に長い時間いれ
ば暑くなるのは当然なのである。
 だが、そこまで設定温度を高くする利点はあるのだろうか。私はないと思う。客は暑いと感
じた瞬間からじっくり商品を吟味する気が失せて購買意欲がなくなるものだ。客が不快に感
じるまでに温度を高くするのはエネルギーの無駄遣いでしかない。これほど地球温暖化が叫
ばれ、さまざまな場面で地球環境に優しくするための取り組みをしている現代の時勢に逆行
する。戸外で寒い思いをした客のために店舗の出入り口付近は現状と同じく高い温度に設
定しておく必要があるだろう。しかし他はそこそこの温度で良いはずだ。何も全館を過剰な温
度に設定して暖める必要はない。どうしても温まりたい人はそこでしばらく過ごしてから目的
の売り場へ行けば良いではないか。従業員にしてもそうである。冬なら冬らしく長袖のシャツ
に上着を着れば良い。それで接客しても客が失礼に感じることはないはずだ。コンビニエン
スストアなど売場面積の狭い商業施設では仕方がないが、出入り口に踊り場とも言うべき空
間があるような店舗では、そこだけを過剰に暖めておけば良い。暖房にしろ冷房にしろ、空
調施設は従業員のためにあるのではない。それぞれの季節における客の実情に即した使い
方をするべきである。

201「年賀状を出す相手をどう決める?」(2007年1月 7日)*****************************
 新年にふさわしく今回は年賀状の話題にしたい。毎年11月1日になると郵便局で年賀状
の発売が始まる。受け取った相手にだけ書いて出すという方針の人もいるようだが、私の
場合は年末年始を関西で過ごすため、神奈川県に戻ってから年賀状を書いて出したので
は先方に届くのが大幅に遅れてしまう。だから、頂くことが予想される相手に対しては年内
に書いて出している。そのためには購入する枚数を決めなければならない。そこで、次の1
〜4に該当する人数をはじき出すことから始める。
 1・当該年度のおつきあいの有無にかかわらず毎年必ず賀状を交換する人
 2・昨年度に引き続き今年度も何らかのおつきあいのあった人
 3・昨年度まではおつきあいがあったが今年度は特に何もなかった人
 4・昨年度までは何もなかったが、今年度から何らかのおつきあいが生じた人
 1はほぼ一定している。私の場合でいうと、西宮に住んでいたときの学生時代の旧友など
がこれにあたる。また、教育実習でお世話になった母校の指導教諭もそうだ。さらには昔の
教え子でも毎年書いて出してくれる者も少なくない。ただ、昨今は携帯電話やパソコンの普
及に伴い、メールでの挨拶に切り替える人も若者を中心に増えている。「あれ、今年は年賀
状来ぇへんなぁ」と思っていると、パソコンの受信メールボックスに届いていることもあるから
だ。2は昔も現在もおつきあいのある友人・知人がこれにあたる。これもほぼ人数は一定し
ている。3は年ごとに人数が変わる。具体的には亡くなった場合や人事異動の結果、おつき
あいや利害関係が消滅してしまった人である。後者に関しては私は4月以降におつきあい
や利害関係が消滅した人に対しては年賀状を出さないことにしている。だが、これについて
は「年度」ではなく「年」単位で考える人もいるようだ。「年」でみれば一応1月1日〜3月31日
まではおつきあいがあったことになるから、それを考えて出すのであろう。ただ、誰がそう考
えているかはわからないから、年賀状を購入する枚数を考えるときに「読み」が難しい。4は
3の逆である。今年度から新たにおつきあいが生じた勤務先の同僚が主になるが、昨今は
個人情報保護のために職員住所録を配布しない学校が増えたため、職員間で年賀状をや
りとりしない傾向にある。また夏季・冬季・春季休業期間中における教員の勤務内規が変わ
り、昔のように休業期間中の自宅研修が認められなくなった。したがって正月も4日から出
勤し、そこで新年の挨拶を交わすので、いちいち年賀状を書いて出す必要もないだろうとい
う考えが一般的になってきた。
 このような状況判断のもとで11月中旬には書き12月上旬には出すのだが、関西から戻
って郵便受けを見ると「え!この人から年賀状来てしもた!」というのが少なからずある。昔
はおつきあいがあっても今となっては何もないのにもかかわらず、年賀状を存命通知代わ
りに出す人もいるのである。受け取った以上は無視もできないのであわてて買いに行って
書いて出すのだが、これはけっこう気ぜわしい。もっと困るのは受け取った年賀状を前にし
て自分が年賀状を出したか否かを忘れてしまったときだ。ひょっとしたら私が出したから先
方も出してくれたのかも知れない。しかし私が年賀状を書いたのは2ヶ月近く前であるし、パ
ソコンのメールと違って「送信メールボックス」があるわけではないから誰に出して誰に出さ
なかったかを全員は覚えていない。もし私が出していなかったら失礼になるから、この場合
もあわてて書いて出すのだが、後日「何で2枚も書いて送ってくるねん?」と突っ込まれるこ
ともあったりする。
 というわけで年賀状を誰に出して誰に出すのをやめにするかを判断するのは意外と難し
いものである。私の経験で言うと出さなかった相手からは一枚も受け取らなかったという正
月は一度も経験していない。みなさんの経験はいかがだろうか。

    (塾長コメント: いやぁ〜、「11月中旬には書き12月上旬には出す」とはエライですね!私なん
             かは年賀状を出したのは12月29日でした...。ボストンやシンガポールなどの
             海外の知人、以前お世話になった方々、現在の職場以外でおつきあいがある方々
             を中心に出しました。「普段滅多に会えない人に!」が基本コンセプトで原則として
             職場の方には出さないようにしています。あと、mixiメールも含めてメールでのご
             挨拶も何通か出したかな。以前は、プリントゴッコを使って結構力を入れて年賀状
             を作っていました。これが大変で...。最近は、全てパソコンで作成しているので、
             年賀状さえあれば1通書くのに15秒ほどあれば十分ですね!最後に一筆を添え
             て自分らしさを出していますが...。年賀状を誰に出したかは全てパソコンで管理
             しているので菅ちゃんのようなことは起こりません。菅ちゃんも年賀状作成ソフトを
             使ってみてはいかがですか?でも、年賀状っていいですね!普段会えない方々の
             近況が伺えて...。)